日記・コラム・つぶやき

2018年6月14日 (木)

西郷隆盛その13 動乱の真っ只中への復帰

前稿に記したように、沖永良部島への島流しから赦免されて復帰するのが元治元年2月(18643月)である。1年半以上も沖永良部島に閉じ込められていたわけだが、その間にも色々な大きな事が起こっていた。

 

生麦事件

文久2821日(1962914日)、江戸から引き上げる島津久光の行列をイギリス人が横切り、殺傷された事件。薩摩は開き直りを続け、慌てた幕府が尻ぬぐいをするはめとなる。それでもおさまりはつかなかった。

 

京都守護職の新設

京都の治安悪化に伴い、旧来の京都所司代と京都奉行所だけでは対応できないとして、幕政改革の一環として、文久2年閏8月1日1862年9月24日)に京都守護職が設けられ、会津藩の松平容保(かたもり)就いた。
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莫大な費用を要し火中の栗を拾うようなもので、家臣も反対しており、決して自ら好んだものではなかったようだ。余談ながら、これが後年の会津藩関係者による坂本龍馬暗殺につながる。

 

長州藩による外国船砲撃事件

そもそも長州は開国を維持して国力をつけるという長井雅楽(ながいうた)の「航海遠略策」(1861年)を藩論としていた。長井雅楽は藩命を受けてこれを幕府に上申し、高く評価され、長州は外様大名でありながら幕府中枢に重きをなすようになる。

ところが長州は攘夷の志士が力を持つことによって藩論を転換してしまう。攘夷論者に敵視された面もあったのだろう、開国論者の長井は切腹を命じられ、文久326日(1863324日)に世を去る。幕末維新の激動の中で命を落としたがゆえに埋もれてしまったものの、まことに惜しい人物であった。

藩論を転換した長州は、文久35月(18636月)下関海峡の外国艦に砲撃を加えるという事件を起こす。これはわざわざ上洛した将軍家茂が孝明天皇に約束した攘夷を長州が率先してやったような面もある。ただ、江戸幕府は武力では外国に対処できないことをよく知っており、面従腹背の苦し紛れの攘夷を言ったに過ぎない。

孝明天皇自身は単純かつ頑なに「何とか外国を追い払え」ということであって、武力行使で外国と戦争になることは全く望んでいなかった様子がある。江戸幕府が凛とした統治能力を失う中で、孝明天皇のわかりにくく非現実的な意思が結果として百家争鳴を惹起し、国内を振り回してしまった感がある。長州が混乱にさらに輪をかけた。

長州は、この砲撃事件と海峡封鎖により直後と翌年の二度にわたり諸外国から手痛い報復を受けることになる。一歩間違えば、要衝である関門(馬関)海峡と下関一帯は租借地にされた可能性がある。そうならなかったのは、イギリスも日本に多く軍を割く余力がなく本国にも過干渉への警戒論があり、アメリカは南北戦争の痛手からようやく立ち直ったところで、また、フランスは江戸幕府に取り入ることに執心していたからである。

 

薩英戦争

薩摩の本音は攘夷ではなかったが、それでも、湾内に進入して生麦事件の決着を迫るイギリス艦に砲撃を加え、いわゆる薩英戦争(文久372日‐74日:186381517日)を起している。斉彬の水雷は役に立たなかったようだが、彼の富国強兵の効あってか、英側に大損害を与えている。

「薩摩あなどり難し」と見られたものの、自らも沿岸部が灰塵に帰すなど甚大な被害を蒙った。生麦事件について、実行者は特定していたようだが、不明として突っぱねて処罰はせず、幕府から借りて賠償金を支払って決着している(返済はしていない)。

 

「八月十八日の政変」

これは文久38月に(18639月)長州が京都御所の外塀である堺町御門の警備の任を解かれ、京から放逐された事件である。下記は境町御門の地図。
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簡単に書けばそうなのだが、これは語るに非常にやっかいな代物である。会津と薩摩が手を組んで長州を追い出したという単純な構図ではない。

この政変の根幹は、孝明天皇と三条実美(さねとみ)ら一部公家との確執であって、その公家を巻き込んで「勅」や「偽勅」で「天皇に大和に行幸して頂いてそこで攘夷の軍議を開く」といういささか無謀な無理筋で主導権を取ろうと動いたのが朝廷に取り入っていた久留米藩士真木和泉と長州藩である。

長州によって処分されようとしたのは長州に非協力的であった小倉藩である。そんなことは幕政秩序からしても許されないと多くの藩が受け止め、朝廷では今上陛下の曽祖父にあたる朝彦親王も三条実美らに強く反発し、結局真木や長州が放逐され、三条実美らも京を追放されてしまう(七卿落ち)。ただし、堺町御門の警備から降りるというのは当初は勧告程度で、正式に入京禁止などで処分されるのは文久3829日のことである。

会津の秋月悌次郎や薩摩の高崎佐太郎が策を練ったり動いたりしているが、彼らが独自にできるはずもなく、松平容保は策士ではなく、島津久光はこの時は薩摩に帰っており、薩英戦争で足元に火がついていたわけで、こまごまとした指示ができたはずはない。

最終的には、三条実美に不信を募らせ、真木和泉や長州に反感を抱くようになった天皇の意志と、親王をはじめとした朝廷内の反三条の動き、そして京都守護職の会津藩と薩摩を含めそれに協力する藩によってなされた政変である。その後長州は四面楚歌となり、博打的に京に打って出た闘いにも敗れ、存亡の危機に瀕することになる。それが維新の雄とされるわけだから、歴史はわからない、というか、面白い。

 

島津久光の参与就任

京の混乱に対しては、島津久光は朝廷の正常化を望み、必要があれば兵を率いて上洛するという意志は示したようだが、文久38月は薩英戦争の余燼でそれどころではなかったであろう。その後に要請を受けて卒兵して上洛するが、長州処分で強硬論を唱え、年末には長州藩から薩摩藩の船が砲撃を受け沈没するということも起こっている。

上洛した島津久光は、公武合体として朝議への武家の参加を提唱している。国父として薩摩の実権を握っているものの、公式には何の立場もなかった彼に官位の従四位下左近衛少将が与えられ、参与として、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、松平容保と、錚々たる名士に並んで朝議に加わることができたのである。

ところが、一橋慶喜としっくり行かず、参与会議はわずか3ヶ月あまりで空中分解してしまう。一時は孝明天皇の宸翰(手紙)の草稿を作るぐらいに信頼を得ていた久光だが、さすがにこの時は苦境に陥ったのではないだろうか。

その後、一橋慶喜、会津藩、桑名藩(藩主は容保の実弟)の、歴史家の造語であるいわゆる「一会桑」が一つの政治勢力となる。朝廷と江戸幕府、薩摩や長州などの外様の雄藩の関係だけでも十分ややこしいところに、京都を場とする新たな政治勢力ができたわけだ。しかも、その内部は決して一枚岩ではなく、非現実的な攘夷や横浜鎖港問題などで一橋慶喜の変転に翻弄されることになる。

 

特に文久3年は攘夷を巡って大荒れであったが、沖永良部島に幽閉されていた西郷は関わりようもなく、薩摩に戻ったのは翌文久4年の初頭である。すぐに京にいた久光に呼び出され、「軍賦役(ぐんぶやく)兼諸藩応接係」を命じられる。これは薩摩の軍司令官兼外交官のようなもので、見込まれて託されたのか、“貧乏くじ”を引かされたのか、私にはよく分からない。

 

西郷はそれまで、闘いの経験も、指揮官としての経験も、藩を代表しての外交経験も、皆無であった。しかも、情勢には“浦島太郎”である。孝明天皇の覚えめでたくなった策士一橋慶喜が京を牛耳り、長州への始末が難題となるのが目に見えていた時期でもあった。

2018年5月29日 (火)

病院のパン屋さん

テレビの番組で一斤というか一本が6000円以上もする食パンが紹介されていた。高級食材に慣れている超セレブの皆様はいざ知らず、セブンイレブンの4ケ一袋100円かそこらのマーガリン入りブドウパンが好きな私など、「食パンがそんなに高いんかい!」とびっくりしてしまう。なんでも、材料からしてこだわりにこだわって丁寧に作るとか。そりゃそうだろう。フランスから週に3ケしか届かないパンもあるようだ。

 

そういう別世界の話はさておいて、パンの話と言えば、大原綜合病院新病院の玄関に入ったところにあるパン屋さんの評判がいいらしい。「これ、美味しいんですよ」と理事長から進められて食べてみて、「ホント、美味しいですね」と。これじゃ夕飯が食べれなくなると思いつつ、出されたふかふかのアンパンを結局2つも食べてしまった。

 

新病院の設計に関わらせて頂いたので、図面は数かぎりなく見たはずだが、「はて、パン屋さんをおいたかなぁ」と首をひねる。そういえば、と思い出したのがカフェ。福島医大にもあるし、最近の病院は待合いの近くにカフェをおいているので、そうしようという話になった。そのスペースがいつの間にかカフェ兼のパン屋さんになっていたわけだ。
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セクハラ、パワハラ、アカハラなど、昨今は何でもかんでもハラスメントになってしまう。匂いのハラスメント、いわゆるスメハラというのもある。昔は消毒液の臭いがシンボルだったが、今の病院は臭いには神経質になっている。タバコの臭いが死ぬほど嫌い、という人は多い。それもあってほとんどの病院は敷地内禁煙だ。本来ならいい香りのはずの香水も、苦手な人もいる。匂いには“慣れ”があるので、自分ではわからなくなっても他人にはよくわかるということがある。そういえば遠い昔、「どうしてシャツに香水の匂いがついているのか?」と追及されてえらく弱ったことがあった。閑話休題。

 

疾病によっては匂いに敏感な患者さんもいるので、コーヒーの香りはどうなのか、ということも設計の際に議論になった記憶がある。結局、「いや、決して刺激臭ではないし、コーヒーは和みのいい香りでよいのではないか」、という結論になった。

 

新しい大原綜合病院の玄関に入ると、食欲をそそるような、焼き立てのパンのほのかにいい香りが漂ってくる。設計に関わりながら、全く想定していなかった者が今さら言うのもなんだが、これは実にいいと思う。患者さんや見舞客、職員も癒されるのではないだろうか。そういう病院が最近は増えている。

 

日本でパンを最初に製造したのは伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門英龍と言われている。1840年頃らしい。「代官がパンを作ったんかい」と突っ込みが入りそうだが、代官というのはそもそも幕府の領地、すなわち幕領の民政を担う役人で、多くは将軍に拝謁できる旗本だから、結構な高級官僚だ。江戸幕府に倣って諸藩も地方管轄の代官をおいていた。偉い立場ではあったが、それでいて、何でもかんでもやらされる中間管理職のようなところもあった。米と違って炊かなくていいパンが注目されたそうで、多分指示が下りたのだろう。

 

代官は、時代劇に出てくるような悪もいるにはいたが、ほとんどは職務に忠実で真面目だったらしい。訴えられたり、濡れ衣を着せられて罷免されることもあったようだ。任地には出張で赴く程度で、多くは江戸在住なのだが、英龍は韮山の私邸でパンを試作している。

 

大久保利通は西洋化を進めるにあたって自ら朝はパン食にしたという。福島名物薄皮饅頭の最初は1852年とあるから、小麦から作るわけで、もしかしたらあの薄皮はパンにヒントを得たのかも知れない。薩摩藩もイギリス人を“西洋風料理”で饗応した。慣れぬことにてさして美味しくはなかったにせよ、気持ちは伝わっている。パンにまつわっては面白い話がたくさん出てきそうだが、ここでは、大原綜合病院のパン屋さんは試食の価値はありますよ、と伝えるに止めておこう。

2018年5月22日 (火)

西郷隆盛 その12 沖永良部島での生活と赦免

当初は徳之島だったのが、さらに厳しい処分であるより以南の沖永良部島に流されたことは前回に記した。西郷に兄事し行動を共にしていた村田新八(18361877)は、古くは平安時代に僧俊寛が流されたという伝説のある喜界島に流されている。事実かどうかは定かでないが、俊寛は“島流し”の象徴として演劇や絵などで取り上げられている。
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森に深く覆われた奄美大島は南部に加計呂麻島など、いくつかの島がある。奄美の中心部である名瀬市は現在では医療機関もかなり整備されているが、群島を擁する大きな島だけに、どういう医療整備をしていけばいいのかということは今も難題だ。

 

奄美群島は沖縄と同様に、1945年の日本の敗戦後アメリカの統治下におかれ、返還されたのは1952年から1953年にかけてである。歴史的、文化的に沖縄との結びつきが強く、戦後に奄美大島から沖縄本島に移住した人も多くいる。

 

喜界島は奄美大島の海を隔てた東側に位置し、人口は約7000人。目と鼻の先なのだが、飛行機を使うには短すぎるし(実際は使われている 飛行時間10分)、比較的平べったい島で風が強く、船だと荒れる海で特に西側は着岸が容易でなく、すぐ欠航になってしまうという厳しさが今もある。今は奄美にドクターヘリが導入されており、喜界島はじめとして島嶼地域にとっては福音になったであろう。

 

喜界島は珊瑚が隆起してできた島なので保水性がなく、川らしい川もなく、水の確保が容易でないため、地下に巨大なダムが建設されている。見学した際、地上からはわからないその規模にびっくり仰天した。
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地下ダムから水を汲み上げ、農業用水や生活水として活用している。かつて3日間滞在したことがあるが、島に特に不便はなく快適であった。ただ、今はそうでも、昔時の生活はさぞ大変だっただろうと思う。

 

この喜界島には喜界徳洲会病院があって、島の人はこの病院で初めてエレベーターを見たという。徳洲会は色々言われているが、徳之島出身の徳田虎雄氏が主導して島の医療整備に尽くしたことは大きく称えられるべきだ。私は喜界徳洲会病院を初めて見た時は、よくぞこの島に、と深く感銘した。徳洲会病院は南西諸島に多く設立されており、沖縄本島を基地とする所有の小型飛行機を活用してそれぞれの病院を結んでいる。

 

さて、西郷隆盛は沖永良部島で罪人扱いとして苦しんだものの、土持政照(18341903)という島役人に助けられ、待遇も改善されなんとか命をつなぐことができた。政照が彼の父親から面倒を見るように依頼されたという話もある。土持家の先祖は薩摩の名家で、政照は沖永良部島に度々赴任したという父親と島の娘との間に生まれたいわば島に根ざした人である。

 

西郷は、酒で失態をおかし島に流された学者の川口雪蓬(18191890)とも親交を持つ。川口雪蓬はのちに西郷家に寄寓し、執事的に西郷家、そして子供達の面倒をよく見てくれたという。

 

こういうのを知ると、本人の徳望もあったのかも知れないが、西郷は運のよい人だ、と感じる。沖永良部島では読書もよくしたようで、学者のような生活を送っていると手紙に記している。

 

西郷が沖永良部島にいた時は、攘夷と開国を巡ってテロが渦巻き、長州は不穏な動きを見せ、薩摩も、生麦事件、そして薩英戦争が起こっている。幸か不幸か、島にいたおかげでそういった騒乱には巻き込まれていない。熱血漢で行動的なだけにその場にいればただでは済まなかったかも知れない。それでもやはりまた血が騒いだのか、赦免を待ち望み、誰かがそれを邪魔しているのではないかという猜疑心をも抱いていたようだ。その一方、隠遁して奄美大島で家族と暮らしたい願望もあったようで、いささか複雑ではある。

 

西郷が赦免となり迎えの船が来たのは18643月(元治元年221日)で、鹿児島への帰途、奄美大島に立ち寄り、わずかな期間、愛加那と子供達と過ごす。愛加那にとってはこれが西郷との今生の別れとなった。喜界島では村田新八を同船させている。なお、久光に西郷の赦免を願い出たのは側近の家臣だが、彼らに働きかけた一人に後年に福島や栃木で県令として強圧的な態度でならし、田中正造らを弾圧した薩摩藩士三島通庸(みしまみちつね)がいる。

 

ともあれ、1864年、自ら望んでか望まずしてか、当初は風土病と体力の衰えで歩くこともおぼつかない状況の中で、動乱の真っ只なかに再び身をおくことになる。なお、明治維新のキーパーソンの一人とも言える堪能な日本語を操るイギリス人外交官アーネスト・サトウと西郷が初めて出会うのは186511月である。この時には島津左仲と名のっていたようで、「小さいが炯々とした黒い目玉の、たくましい大男が寝台の上に横になっていた」とサトウは記している(『一外交官の見た明治維新 上』 坂田精一訳 岩波文庫)。サトウが二度目に会うのは1866年になってからで、有名な「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべる時の微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」と表現したのはこの時である。

2018年5月10日 (木)

西郷隆盛 その11 再度の島流し

以前の稿で記したように、3年にもわたる奄美大島での生活を経て、18623月(文久2212日)、いよいよ念願叶い、懐かしの薩摩城下に戻る。別れに際しては西郷も滂沱の涙を流し、以後も可能な支援はしたようだが、現地妻の愛加那と長男菊次郎、そしてまだお腹の中にいた子(のちの菊草)にとっては全く酷な話であった。

 

愛加那が西郷に会えたのはその後わずか2回だけである。そもそも名家の娘だったという愛加那は、西郷に引き取られた子供達と別れ、どのような思いで西郷の生きざまを見、その死を知り、どのような思いで生きたのだろうか。西南戦争から20年以上のちの1902年、愛加那は島で生涯を終える。享年66。官僚として、また京都市長として活躍した、西郷の面影を色濃く残していると思える菊次郎が支えだったのかも知れない。二人の画像はWikipediaから。
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西郷は島から戻って、国父と称され実権を有し、卒兵して東行を考えていた島津久光に拝謁する。この時に、久光に対して、“ジゴロ(地五郎)”(田舎者)だからいきなり京や江戸に行ってもうまくいかない、と言ったとか言わなかったかとの話がある。他の人に語ったのが伝わった、という話もある。嫡男であるため江戸生まれで江戸育ちの斉彬と違って、庶子の島津久光はそれまで薩摩から出たことがなかったわけで、多分西郷はそのように考えていたのであろう。かつて斉彬の命を受けて江戸と京を行き来していた自負もあったのかも知れない。

 

当然のごとく久光は相当に立腹したに違いない。隠遁しようと思っていたためか、西郷の態度も横柄だったらしい。ただ、スパッと辞するところは確かにあったにせよ、だいたいにして西郷の「隠遁」だとか「一命を賭して」という類の言葉はそのまま受け取らない方がいい。この時も一旦出仕を辞めたものの、説得にあって結局隠遁はしていない。

 

ともかく同行することになって、まず西郷が肥後の様子を伺うなどして先行し、下関で久光一行を待つという段取りであった。ところが、先着した下関で、久光の卒兵を幕府の武力打倒と誤解した薩摩藩士に不穏な動きがあるとの報せを聞き、大坂行きの船に飛び乗ってしまう。一封を書き残したと後の手紙には記しているが、大久保利通が握り潰したという話もある。実際、伏見で暴発をおさえたとも言われているが、ともあれ、ここは自制すべきところなのに、西郷にはこういう軽率さがある。そもそも久光は西郷を上洛に同行させるつもりはなく、下関から薩摩に返すつもりだったとも言われている。カンカンになった久光から命にそむいた「大咎め」として、1862522日(文久2410日)に大坂で捕縛され、今度は罪人として、まず徳之島、そして沖永良部島に島流しとなる。

 

島津久光がなぜ「御大策」として兵を率いて上洛、あるいは江戸に赴こうとしていたかだが、これは武力で幕府を打倒しようという意図では全くなかった。朝廷を奉り、公武合体を図るつもりで一橋慶喜を将軍後見職にし、福井の松平慶永を政治総裁職につけ、自らも江戸幕府への参政を意図したもので、斉彬も同様のことを考えていた。維新の原動力の一つは、対外政策で幕府が不甲斐なく見えることから芽生えた外様大名の幕政への参画意識である。

 

西郷のことを語っていると、島津久光がいかにも愚公のように感じられるが、決してそうではなく、この時も、薩摩と親しい近衛家の支持をとりつけて都合のいい勅を引き出し、公家の大原重徳(しげとみ)の護衛の大義名分で幕府の許諾を得た上で江戸に赴いている。なお、京では、薩摩藩出身者を含む過激派浪士が集結して公家や京都所司代の誅殺を計画していたことに対しては、朝廷の命を受け久光は断固たる処断を行っている。これがいわゆる寺田屋事件である。

 

久光がどこまで関与していたかはわからないが、藩主茂久の参勤猶予や久光の江戸参府の口実引き出しのために側近の堀仲左衛門や大久保利通が薩摩藩邸に意図的に火災を起こすなど、乱暴なことも含め、したたかに事前準備をしている。おそらく西郷はそういった背景は知らなかっただろう。こういう謀略的なことでは大久保利通には全く敵わない。

 

島津久光は企図した通りに慶喜と参勤交代緩和論者の松平慶永を推し上げ、長年続いた参勤交代の緩和を得ることに成功する。最も遠い距離を移動せねばならず莫大な出費を強いられる薩摩にとってこれは大きな福音になったはずだ。この時に懐刀とも言える小松帯刀も同行させている。イギリス人外交官のアーネスト・サトウはこの小松帯刀をして、最も印象に残る人物、と評している。知性と紳士的態度において、おそらく西郷は小松には適わない。だからあえて西郷を同行させる必要はなかったのである。何事につけ用意周到な大久保利通が必要と思ったのかも知れない。

 

井伊直弼亡きあとの幕府は“お人好し”的な感がある。後年、幕府は参勤交代の復旧を図るが、時既に遅し、その緩和は幕府の命取りの一つとなってしまった。江戸幕府は緻密な統治機構を発達させる一方、力の抬頭に対しては過酷とも言える抑制をかけていたわけで、その一つが参勤交代であった。島津久光は意図せずして幕府崩壊への痛打を浴びせたことになる。

 

意気ようようと江戸から引き上げる際に久光一行は横浜で大事件を起こしてしまう。行列の前を横切ったというイギリス人リチャードソンが殺害され他2人も負傷するといういわゆる生麦事件である。1862914日(文久2821日)のことであった。この事件で薩摩はあくまで開き直りを続け、幕府が尻ぬぐいをするはめとなるが、結局、薩英戦争の火種となっている。

 

さて、沖永良部島に流された西郷隆盛は罪人として狭い座敷牢に閉じ込められ、苛酷な環境で痩せ衰え、一時は生死のはざまをさまよったと言われている。上から指示があったのかも知れないが、ともかく地元にいた有力者に救われ、読書三昧の日々を送ることになる。

2018年4月27日 (金)

アートアクアリウム

旧知からどういうわけか十数年振りに連絡があり、それでは久しぶりにお会いしましょう、となった。それはいいのだが、「アートアクアリウムに行くので折角だから一緒しましょう」とお誘い。

 

「アートアクアリウムって何? コンピューターグラフィックか何かを使った仮想水族館?」と私。「いいえ、金魚のアート」。「き、きんぎょかい! 金魚には興味ないなぁ。。。」と私はいささか及び腰。そうはいっても、とにかく声かけしてくれたのでしぶしぶおつきあいしてみた。

 

そういういきさつではあったが、実際に見てみると、これがなかなかの大仕掛けでまさにアートの世界であった。ホームページで見てみると、かなりの人気らしい。

http://artaquarium.jp/

 

デンと構え趣向をこらした大きな水槽にまさに寿司づめの金魚達。ライトアップの色が変化し、なかなかの迫力だ。
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 色とりどりにライトアップされた小分けの水槽での展示もある。
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寿司づめにならぬ程度にほどよく金魚を入れた水槽もある。
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 頬っぺたが膨らんだ見たこともない金魚もいる。
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こちらは帽子をかぶった金魚。鯉だって高いのは何百万円もするのがいるらしいから、こちらもお金で買えば結構高いのかも知れない。
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和風なのか中華風なのかよく分からないが、そんな装飾に、墨絵風に黒い金魚のシルエットを活かしたものもある。下にあるのはタマテ箱をイメージしたものらしい。

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説明文を読むと、金魚のもとは鮒(フナ)で、その鮒は突然変異をきたしやすい性質を持ち、それを利用して何世代にもわたって根気強く品種改良をしながら育成してきたものらしい。鮒が元ネタだとは想像もつかないが、何もせずに飼っていると不思議なことに世代を継承するうちにいずれもとの地味な鮒に戻るそうだ。本家は中国だったが、かつて文化大革命で金持ちの嗜好品とみなされて廃絶の危機に頻し、日本から逆輸入したということもあったという。

 

そういえば、と思い出したのが金魚の飼育が趣味という変わり種の研修医。彼の話によれば、その飼育はなかなか大変で、手間暇がかかるとのこと。臨床研修センター事務局が飼っていた金魚の世話をこまめにしていた。

 

アートアクアリウムのような大規模な場合、アートにする以前に、その飼育管理はさぞ大変だろうと思う。複数の専門業者が関わっていて、必要な金魚を揃えるらしい。展示期間中の金魚の体調管理にも相当に気づかいするに違いない。その割に入場券は千円と割安で、金魚グッズも販売している。当初しぶっていた私が言うのも何だが、機会あらば是非にと皆様にお薦めしておきたい。

2018年4月20日 (金)

西郷隆盛 その10 島流し

185812月、西郷隆盛は月照との入水事件で蘇生したのち、死んだことにされ、菊池源吾と改名の上、18592月に奄美大島に流される。これはおそらくは薩摩の温情措置で、微禄を与えられての島送りである。

 

蘇生したのだから、よかったと言えばよかったわけだが、片方は亡くなっているわけで、入水というのは御法度的で武士としてはまことに不細工な失態である。しかも相方は幕府の追っ手が迫っている人であり、一橋慶喜擁立工作をしつつ反井伊直弼で義挙をも画策していた西郷自身も捕縛の可能性があり、当時のこととて、切腹を命じられても仕方のないところだ。

 

なぜ温情措置がとられたのだろうか。月照への負い目が薩摩にあったとしている書もある。島津斉彬の実父の島津斉興(なりおき)が斉彬なきあとの藩主茂久(もちひさ、後年の忠義)、の後見役として存命しており、彼の指示という話もある。斉興は江戸から帰薩の途中、大坂で西郷に会っており、禁裏の警護の名目で少し兵を残して欲しいといういささか意味不明の彼の懇願を受け入れているので、関係は悪くなかったようだ。なお、斉興は185910月に死去している。

 

『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(川道麟太郎 ちくま新書)には、江戸に向かっていた家老の新納駿河(にいろするが)が、家老首座の島津豊後に「秘密の取り計らいをして、変名の上、島送りにして、いずれその節、表向きは溺死の筋にしてはいかがか」と手紙に書いていることが紹介されている。おそらくその線で事実上のトップが判断したのであろう。

 

奄美大島というと、鹿児島空港からターボプロップ機で1時間程度、今に生きる我々はいかにも鹿児島のすぐ先のように思ってしまうが、実際は400㎞近く離れており、フェリーだと10時間以上を要する。かつてヘリコプターで鹿児島から種子島を経由して奄美方面に移動した経験では、屋久島を過ぎては高度の低いヘリだと前後に島が全く見えないところもあり、時速200㎞でも少々ウンザリする距離ではあった。その昔はこの海域で遭難も多かったのではないだろうか。温情措置と表現したが、移動は容易ではなく、実際のところ相当に厳しい措置だったとは思う。西郷が乗った船も潮待ちなどでかなりの日数を費やしている。

 

奄美大島は深い森林に覆われた随分と大きな島で、南東の海岸に面した切り立った崖からいくつもの滝が流れ出ていたことが印象に残っている。随分前のことにて委細は忘れたが、写真は奄美大島の一部だと思う。綺麗にかかった虹にあわててシャッターを切った。
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西郷が住んだのは奄美大島の北側の湾沿いにある龍郷というところである。上掲の書によれば、ここで同じ歳で知己の薩摩藩士重野安繹(しげのやすつぐ)と再会し、彼に、「まことに天下の人に対しても言い訳がつかない」と歯をかみ涙して語っていたという。重野安繹は知人の不祥事に連座して奄美大島に流されていたが、後年、その実証的な歴史研究が高く評価され、東京帝国大学教授に就いている。

 

西郷は当初は奄美大島の生活になじめず随分苦しんだものの、次第に慣れ、島妻(あんご)か島刀自(しまとじ)か、ともかく現地妻(愛加那として知られている)を娶り、菊次郎と、島を去ったあとに生まれた菊草の、一男一女をもうけている。命に未練のない人と語られることが多いし、本人も手紙でそのように書いているが、決してそうではなく、結構しぶとく生きた人ではないかと私は見ている。

 

島では、苛酷な生活を強いられている島民に同情を寄せ、代官と衝突することもあったようだ。奄美の地で、親しくしていた橋本佐内が処刑されたことに涙し、井伊直弼暗殺、しかも有村次左衛門が首級を挙げたとの報を聞き、歓喜したという。

 

届く便りなどでまた血が騒ぎ、帰還を切に待ち望んでいた様子がある一方、島での生活を愛しんでいたようにも思える。186112月に召還の報せが届いた時には、丁度新居で生活を始めようとしていた矢先のことで、嬉しさの反面、当時においては帰還時の島妻の同伴は御法度で、複雑な胸中であっただろう。結果的か意図的か、あるいは性癖なのかはわからないが、青年期以降の西郷隆盛の活動には、引っ込んだり表に出たりと、なにがしか周期性があるように思える。

 

西郷の召還は大久保利通らが島津久光に請願し、かつて斉彬のもとで主席家老を務めていた島津下総(しもうさ)の力添えによったもののようだ。そして18621月に帰還する。ほぼ3年間奄美大島で過ごしたことになる。すぐに斉彬、そして有村次左衛門に墓参したと言われている。また、大久保利通とともに、家老の小松帯刀を訪れている。これは藩主の後見役として事実上実権を擁していた島津久光への謁見の下準備だったらしいが、折角の段取りなのに、その本番でまた失態をやらかす。西郷隆盛という人は決してスマートな生き方をした人ではない。軽率なところもあり、短期間で、今度は罪人扱いでさらに遠い徳之島、沖永良部島に流されるはめとなる。

2018年4月12日 (木)

西郷隆盛 その9 僧月照との入水事件

一橋慶喜擁立派の粛清、反幕府尊皇攘夷派の捕縛など、「安政の大獄」の幕府の情報網の中で、西郷が親しく交流していた勤王僧月照の名前があがり、追っ手が迫る。島津斉彬の命を受け僧月照らと慶喜擁立を図った西郷自身も危うかったわけだが、ともかく京都にいては危ないと、僧月照を薩摩に逃がしてかくまうことを画策する。
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ここで整理しておくと、井伊直弼が大老に就いたのが、185864日、日米修好通商条約が調印されたのが同年729日、一橋慶喜擁立派の処分など「安政の大獄」が始まったのが同年813日、徳川家定が亡くなったのが同年814日である。この頃はどの年もそうだったように、安政5年も激動であった。

 

島津斉彬が鹿児島で急死したのが1858824日だ。朝廷の護衛の大義名分で大軍を率いて上洛しようとしていた矢先のことで、西郷はその準備のために京都に滞在していた。心酔していた斉彬の死に西郷は落胆し殉死しようとしたのを月照に諫められたという。

 

井伊直弼の指示で酒井忠義が京都所司代として着任し、志士の捕縛が始まったのが同年10月頃からで、1013日にはのちに獄死する梅田雲浜が捕縛される。月照が京から逃れるのが同年1016日である。まさに間一髪の逃避行であった。橋本左内や吉田松陰が捕らえられて処刑されるのは翌1859年の末頃だ。井伊直弼が暗殺されたのが1860324日で、それにより安政の大獄が収束する。

 

試験を受けるわけではないので覚える必要はないが、短期に色々なことが相前後して起こっているので、順を追うためには日付が必要となる。ところが、歴史書は旧暦表記だったり西暦表記だったりで、非常にわかりにくい。Wikipediaは概して併記されているが、そうでないこともある。以前にも書いたように、西暦、すなわち太陽暦になったのは明治6年なので、それ以前の日記などの一次資料の日付は元号の旧暦である。

 

このブログでは、できるかぎり西暦におきかえて記すようにしているが、間違いを書かないかとヒヤヒヤする。幕末は、安政、万延、文久、慶応と続くわけだが、元号表記は原資料に忠実だとしても、旧暦と西暦の月日のズレ、しかもそれは一定ではなく、時には年のズレを変換しなければならないので、混在はまずく、西暦で統一して考えた方がいいと思う。なお、安政5年は概ね1858年である。

 

さて月照だが、下関まで西郷が同行し、受け入れ準備のために西郷は先行して帰薩する。その後は「わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」の歌で有名な福岡の尊皇攘夷の過激志士である平野国臣が同行して苦労の末にようやく18581211日に月照を薩摩入りさせる。

 

しかし、斉彬なき後の薩摩は手配中の人物を匿って幕府とことを構える肚はなく、西郷の奔走も空しく、月照の隠匿を拒否し、月照を宮崎方面に送って事実上殺害する命を西郷に下す。苦悩した西郷は、18581220日、宮崎に向かう船から月照とともに竜ヶ水沖合の錦江湾に身を投げ、入水自殺を図る。同船していた平野国臣が救助にあたったが、月照は亡くなり西郷は蘇生する。

 

なんだかできすぎた話のようにも思えるが、私が見た範囲のどの書にも大同小異のことが記されている。西郷が冬の海で低体温症になっていたとしたら月照より15歳若い彼が復温によって蘇生したことは医学的に十分にあり得る。しかし、なぜ西郷はそこまでしなければならなかったのだろうか。意を同じくして親しく交流していたというだけでこんなことをしていたのでは、あの時代、命がいくつあっても足らない。

 

確たる解が私にあるわけではないが、多分そうだろう、というのが『月照』(友松圓諦 吉川弘文館)に記されている。それは、朝廷にあって事実上の最高位である左大臣の近衛忠熈からそのことでわざわざ呼び出しを受け、月照の庇護を西郷が依頼されたということだ。近衛忠熈だけでなく今上陛下の母方の曽祖父にあたる青蓮院宮(のちの中川宮)にとっても月照は大切な人だったようだ。

 

近衛忠熈の正室は薩摩藩主の島津斉宣(なりのぶ)の娘の郁姫。島津斉宣の長男が斉興(なりおき)で、斉興の長男で郁姫の甥にあたるのがかの島津斉彬(なりあきら)である。斉彬の養女篤姫の徳川家定へのお輿入れの際は、形の上で近衛忠熈の養女になっている。つまり、斉彬急死からあまり間がない時期に、斉彬自身も大恩ある彼の義理の叔父近衛忠熈から月照の保護を直々に頼まれたのである。

 

これでは月照を殺害し自らは生き残るということができようはずがない。もちろん僧職の斬殺は西郷にとって論外である。入水事件はまさに困極まってのことであったのだろう。以後、西郷の手紙には「土中の死骨」という自虐が出てくるので、 終生にわたって“死に損ない”がつきまとっていたようだ。

 

なお、月照は大阪の医家の子息として今の善通寺市に生まれたという。出家し若くして京都の清水寺の僧坊である成就院の住職となっている。歴史のある寺とはいえ、当時の清水寺はかなり荒れていて、改革を試みたものの、うまくいかず挫折している。『月照』の著者の友松圓諦師は、仏教の堕落を正そうとした僧職としても歌人としても、国を思う心でも、月照を高く評価している。

 

月照の弟信海は成就院を継いでいたものの、翌年の1859年に捕縛され獄死している。月照に仕えた近藤正慎は捕らえられ拷問を受けても一切白状せず、獄中で舌をかみ切り壁に頭を打ちつけて亡くなったという。遺族への清水寺の配慮で営業権が与えられ、「舌切茶屋」として今も営業している。近藤正慎は俳優の近藤正臣さんの曽祖父にあたるそうだ。月照に仕えその死後も長く供養した大槻重助の「忠僕茶屋」は今に続いている。ひどい時代にあって心温まる話である。

2018年4月 4日 (水)

桜吹雪

今年は少し早かったのだろうか、満開だった桜が散り始めた。桜並木を通るとピンクの小さな花びらがひらひらと舞い落ちてくる。絢爛たる満開の桜も、風靡なる桜吹雪も、一年のうちほんのわずかな期間というのが桜を桜たらしめている。
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「サクラサク」「サクラチル」というのはいささか古典的な合否電報の決まり言葉だったが、今はどうなっているのだろう。すっかりメールに置き換わっているのかも知れない。

 

50年近く前のこと、受験会場の下見に行った際、合否電報請負の小遣い稼ぎの大学生が客引きをしていた。「君は県外?」と私も声をかけられ、「そうです」と答え、「なら僕が責任をもって報せてあげるから、どう?」と。そこで、「でも、ケンガイはケンガイでも、合格“圏外”なんです」と応じたら、それまで緊張の面持ちだった周囲の受験生の空気がほぐれて大爆笑。その大学生に「君は合格する!」と妙な褒められかたをされたのを懐かしく思い出す。

 

桜吹雪と言えば、テレビの大人気ドラマだった「遠山の金さん」の代名詞のような感もある。派手な桜の彫り物を曝して、「この桜吹雪、散らせるものなら散らしてみろぃ!」と啖呵を切っての立ち回りは確かに痛快だ。実はこの人お奉行様。
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ただ、これでは今の時代、サウナにも行けないしゴルフ場の風呂にも入れない。それに、散るからこそ桜吹雪なのだけど、とチャチャのひとつも入れたくなる。とはいえ、筋書きが分かっているからこそ安心して観ることができるというのがひとつの持ち味で、あれこれ言うのはヤボというものだろう。今はもう再放送だけになったようで、いささか寂しくはある。

 

テレビは脚色としても、金さんこと、遠山金四郎景元は実在の人物で(1793-1855)、父親は人気ポストであった長崎奉行を務めた遠山景晋(かげみち)。景元は放蕩の時期があったようだが、勘定奉行、北町奉行、南町奉行などを歴任しているわけだから、今で言うエリート家系のキャリア官僚、それも次官か局長クラス、もっと上かも知れない。武家の間でも江戸時代はこういう家格、門閥によって縛られる身分社会だったわけだ。ただし、遠山家は旗本とはいえ、さほどの家格ではなかったようだし、こと勘定奉行に関しては、例外を多く出している。

 

ちなみに、この時の将軍が徳川家慶(いえよし)で、優れ者の阿部正弘を老中に就け、島津斉彬の藩主就任を図ったようだ。父親は徳川家斉で、将軍職から引退してよりも強い発言権を保持していたらしい。徳川家慶の代までは将軍職はほどよく機能していたわけだが、その家慶の嫡男である家定が全く適任でなかったことに江戸幕府の大きなつまづきのひとつがあった。家慶が将軍在位のまま亡くなったのは1853727日で、ペリー来航から1ヶ月も経っていない時であった。継嗣は家定である。阿部正弘は185786日に30代の若さで急死する。これも江戸幕府には痛手だったと思われる。

 

将軍は大体にして将軍家すなわち尾張徳川家から出る。後継のない場合は、紀州徳川家、水戸徳川家から養子を迎える。これが徳川御三家である。御三卿は、徳川家から分家した田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家で、決まった領地を支配する大名というよりも徳川家の家族としての扱いだったようで、世継ぎがない場合に御三家に養子を提供する役割も担ったという。わざわざ養子にするのは、門閥の大義名分を重視したからである。結果、原則的であろうとして変則的になった面もある。

 

将軍継嗣が、誰が賢いから、という抽象的な話になってしまうと、必ず跡目争いで揉めてしまう。だから、あくまで血筋が近い大義名分の通る者というのが原則である。以前に触れた王の継承に似ている。江戸時代には憲法も“将軍典範”もないから、多分に慣行でなされてきたようだ。およそ任に堪えそうもない家定が将軍になったのもその原則にのっとったからである。井伊直弼が家定の継嗣として聡明でなる一橋慶喜ではなく若年の慶福(家茂)としたのも同様である。

 

オーナー企業の社長人事などもそうだが、血縁主義が続くと必ずどこかで弱体化が起こる。江戸幕府がそれで長く続いたのは奇跡に思えるが、むしろ、もはや徳川吉宗のようなカリスマ将軍を必要としないほどに統治機構が発達していたと見るべきだろう。それでも、外国のノックで朝廷との二重構造の脆弱性が曝け出されたわけだ。

 

それはさておき、西郷隆盛が初めて江戸に赴いたのは1854年なので、前年のペリー来航による大騒ぎ、そしてペリーが再来しての日米和親条約締結の頃であった。まさか知己ではあるまいが、出家していた晩年の遠山の金さんと江戸で一緒だったことになる。

2018年3月29日 (木)

プロとアマ

プロとアマについて時にあれこれ考えてみることがある。手っ取り早いところでWikipediaを見るとプロについて下記のようになっている。

1.「認定プロ」のこと。統括する団体が認定した人。

プロゴルファーやプロボクサーなど。多くの団体

では賞金支給の対象になる。

2.専門家のこと。ある分野について、専門的知識・技

術を有している人。

3.そのことに対して厳しい姿勢で臨み、かつ、第三者が

それを認める行為を実行している人。

4.複数のグレードがある場合、高機能、高耐久性として

上位バージョンや装飾を廃した下位バージョンとしてつ

けられる。

 

なるほど、そういうことか、と思う。4.は機械類やソフトのことだろうか。

 

プロとアマの差が歴然としているものとして将棋と相撲がよくあげられる。

 

藤井聡太さんのように、将棋において、中学生、若干15歳がまさしくプロの高段者を打ち負かすというのはにわかには信じ難いが、疑いようもなく事実としてある。一般的には、棋院認定のプロ棋士になるだけでも半端ではなく狭き門らしい。プロになったとしてもそこから厳しい闘いを勝ち抜いていかなければトッププロにはなれない。藤井聡太さんはそういうのを超越して瞬間移動したみたいだ。

 

相撲も、アマの横綱だった人が入門してすぐに横綱になったという話は聞かないので、相当に差はあるのだろう。殴る蹴るがなく、また、血生臭さもなく、絵になり勝負がわかりやすいだけに取り組みを楽しみにしているシニアは多い。何がどうあったか私にはわからないが、ゴタゴタを早くすっきりさせて欲しいものだ。

 

ゴルフをしない人はピンとこないかも知れない。テレビのプロのトーナメントで、460ヤードのミドルホールでティーショットをスプーンで打ちセカンドは9番アイアンでベタピンにつけてバーディー、というのに驚く。こういうのはヘボには想像すらできない全く別次元の世界だ。アベレージゴルファーではまぐれにも絶対にない。彼我の差のはてなきを思い知る。
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本の世界では、「文筆だけで生活していける」というのがプロとアマの境界線だろうけれども、書物の印税だけで生活できる人というのはほんのひと握りだ。印税は概して本代の1割程度なので、11000円の本が仮に1万冊売れたとして印税は100万円ぐらい。大きな額に思えるが年収としてみればさほどのことはない。売れっ子作家でなければ1回目の印刷は3000部程度で、多くはそれで終わる。何十万部も売れるというのは夢のまた夢である。たとえそうなったとしても、税金を取られるし、継続しなければ生活のあてにはできない。『作家の収支』(森博嗣 幻冬舎)という書があって、著者は工学部助教授から小説家になったとのことだが、それぞれそれなりに売れて、280冊ぐらい出したと紹介している。作家でリッチになるにはアイデアだけでなくそのぐらいの数は必要なのだろう。

 

歴史書は研究者の学績のひとつとして書かれることが多い。疑問がなくもないが、まあプロの作品と言っていいだろう。助教や大学院生は論文が主で本を出す機会はなかなか得られない。これは推測だが、記事によっては非常に詳しかったりして玉石混交なのでWikipediaは結構そういう立場の人が書いているのではないかと思う。

 

西郷隆盛というメジャーの研究では新資料や新解釈はなかなか出せない。若手研究者はいきおいマイナーな人を対象にして原典から詳細にあたって研究結果を論文にする。幕末・維新は複雑なため、全てを深く掘り下げるのは不可能で、一般人向けに時代の全容を語るということはあまり得意ではなくなる。その意味でのプロはなかなか出ない。その分、視点を異にしたものが多くなり、これはこれで私には有難い。

 

司馬遼太郎や海音寺潮五郎、『西郷どん』の林真理子さんなどのプロの小説家は、膨大な資料を渉猟して事実を掴み、そして事実と事実の間のわからないところは創作でつないで都合よくストーリーを組み立てる。だから面白くはあるが、海音寺潮五郎は郷土研究者の面があるとしても、あくまで小説なのだからそのまま事実として受け止めぬよう注意せねばならない。もっとも、大河ドラマは篤実な研究者で“薩摩”の原口泉さんが時代考証をやっているので、大筋での嘘はないだろう。勝海舟は小柄だったが、大男の遠藤憲一さんが演じるようで、これはテレビならではの愛嬌か。迫力はありそうだ。

 

西郷隆盛は、手紙などを収載した全集もあり、大久保利通日記などの資料が製本発刊されており、原典というか一次資料にあたりやすく、研究書も多くある。公文書館などで苦労してマイクロフィルムのくずし文字を解読していく必要はない。親しみのある超有名人で、しかも謎が多いので、学績を重ねる必要のないアマチュアは取りつきやすい。だからとてもアマとは思えないぐらいに詳しく調べてよくまとめられた書もある。内容的にプロとアマの線引きは難しい。

 

西郷隆盛という人は、世間のイメージと違って決して戦争のプロではない、陰謀策謀のプロでもない、政策論のプロとも言い難い。しかし、明治4年から6年にかけて日本近代化の礎を作ったプロのリーダーだと思う。何とも不思議な人だ。

2018年3月21日 (水)

西郷隆盛 その8 安政の大獄

「安政の大獄」は、勅許なしに米修好通商条約を締結(1858729日)した責任者である井伊直弼が、1858年から1859年にかけて、それに反発する志士達を片端から捕らえ、処刑などの厳罰を下した事件である。条約締結の優れた実務者であった岩瀬忠震を罷免し井上清直を左遷しているので、正常な精神状態だったのか疑問に思えるほどだ。

 

この事件にはもう一つの面があって、それは将軍継承(継嗣)問題である。将軍家定には実子がいなかったため、井伊直弼は徳川御三家から将軍家定と血縁の近い紀州徳川家のまだ幼年の慶福を推したが、英明の誉れ高い一橋慶喜を推す勢力もあり、その闘争に勝利した井伊直弼が、一橋慶喜を推した勢力に対して粛清したことである。水戸の徳川斉昭や福井の松平春嶽などの大物大名まで処罰している。島津斉彬への処罰も考えてはいたらしいが、さすがに周囲から諫められたようだ。

 

正室を迎えるなど、一橋家と縁の深い島津斉彬は軍事も辞さずの覚悟で一橋慶喜を推す。斉彬は朝廷を通じて「慶喜擁立に有利な勅語」を得ることで慶喜擁立を図ろうとして西郷隆盛に指示し、彼もそれに従って篤姫を通じて大奥の支持を取り付け、朝廷と親しい僧月照と相談を重ねている。ようやくにして得た勅語は、井伊直弼により慶福(家茂)擁立に都合のいいように改竄されたという。その辺りのことは、近刊の『命もいらず名もいらず 西郷隆盛』(北康利 WAC)でわかりやすく解説されている。

 

そんな最中、鹿児島に滞在していた斉彬が1858824日に急死する。これは西郷隆盛にとって大きな衝撃であった。

 

幕末、といっても、これも明らかに後付けの言葉であり、「幕府は危ないのではないか」「徳川を倒さねば」と思った人は多かったろうが、当時に“幕末”と表現した人がいるはずはない。現代に生きる我々は結果を知って歴史を見るので平気でこういう言葉が使えるが、騒乱の真っただ中にいた人は、結果などわからない。反幕の人達も徳川幕府擁護の人達も、信条や忠義に基づいた“命を賭けた闘い”だった。井伊直弼もまた幕府の存続のためにそれをした人である。しかも彼自身は強い尊皇精神を有していた。だからギリギリまで勅許にこだわったのである。

 

結果的に倒幕になったのは最後の最後であって、徳川家をどうするか、外様大名をどこまで参画させるか、などの内容の異同はともかく、反幕府の人達にほぼ共通してあったのは「天皇を中心としての幕政改革」である。攘夷も、あくまで幕府が(も)攘夷をすべきという論だが、反幕府でも内心が攘夷だったわけではない人もいる。いくら尊皇でも、朝廷が政務を担え攘夷もできると思っていた人はまずいない。この点は誤解しやすいので注意が必要である。

 

今の時代から見て、「この人は優れていたのではないか」と思えるような人が殺されたり、自死に追いやられたり、日の目を見ることがないままに終わったりというのは枚挙にいとまがない。「安政の大獄」もそういう人材を多く失った、あるいは貶められた事件である。僧月照の命も狙われ、かくまおうとした西郷も危うくなる。次稿で触れる。

 

井伊直弼自身もまた、1860324日、桜田門外で水戸浪士、薩摩を脱藩して彼らに加わった有村次左衛門らの襲撃により、時期外れの降り積む雪を真紅に染めて自らの命を落とす。
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 井伊直弼の死によって「安政の大獄」は収束したものの、国内はさらなる大混乱に陥っていく。テロも頻発し、これはもう“グチャグチャ”としか表現しようがないような事態だ。一筋縄では理解できない、というよりも、どうみても一筋縄からはほど遠い。孝明天皇からして、幕府依存というか、親幕府でありながら、強硬な攘夷というのだから、矛盾している。開国を進めながら攘夷を約束するという幕府の苦し紛れの二枚舌を誘発したようなものだ。攘夷を主張しながら生き残った人達は新政府発足までのどこかで開国を受け入れているはずだ。朝廷も分裂している。グチャグチャと切り捨ててしまえば思考停止に陥るので、私でときほぐせるところは先で書いていく。

 

西郷隆盛はというと、動乱からしばし離れた生活を送っている。まず“死に損ない”の身で1859年から奄美大島送りになり、赦されて1862年に2ヶ月ばかり帰還したものの、島津久光の怒りをかい、まず徳之島、そして沖永良部島に遠島になり、1864年まで通算5年にもわたって離島生活をしていたからである。

 

そんな人がなぜ維新の英傑とされ、今なお敬慕されているのか、そういう謎解きで歴史を見ていくのも面白さのひとつである。

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