日記・コラム・つぶやき

2019年10月17日 (木)

西郷隆盛 その40 西郷隆盛と征韓論

西郷隆盛が征韓論者でなかったことは私の見解として以前に記した。今回の稿ではその根拠についてのべてみたい。

西郷隆盛が征韓論者というのは長年の通説であった。その通説を真っ向から否定したのが『明治六年政変』の著者、大阪市立大学教授であった故毛利敏彦氏である。西郷隆盛は決して“征韓論者”ではなく、平和交渉の使節として、朝鮮語に堪能で事前調査も行っている腹心の別府普介を同行して赴こうとしていたと。毛利氏は、西郷自身が兵を率いて、という資料的根拠は全く見当たらないと指摘している。

これに対してマルクス主義歴史学者なる人達からは、揶揄、誹謗に近い批判を受けているが、それらは雑音に近いもので取るに足らない。そうではなく、実証的歴史学の見地から西郷隆盛の手紙を仔細に検討し、『西郷「征韓論」の真相―歴史家の虚構をただす』(勉誠出版)という書をも出版して毛利氏を厳しく批判したのが、もともとは関西大学教授として建築学が専門であった川道麟太郎氏である。

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はたしてどちらが正しいのだろうか。

ことをややこしくしているのは、政治が苦手で戦さが得意、なので強気で兵の派遣を唱えていた板垣退助宛の、西郷隆盛の手紙である。ひらたく書けば、「自分が交渉で朝鮮に行けばきっと謀殺されるだろうから、そうなれば兵を出す大義名分が立つので、あとは貴兄に任せる」という内容だ。この板垣宛の手紙が一人歩きして“征韓論者”になってしまったわけだ。岩倉具視、大久保利通、伊藤博文たちが政権奪還の策謀の誤魔化しとして利用した面もあるだろう。後年に日韓併合がなされたわけで、国民的英雄たる西郷隆盛が征韓論者だったとして何の不都合もなかったということもあるかも知れない。

実のところ、川道麟太郎氏も、西郷隆盛が “征韓論者”であったとは断言していない。むしろ、「西郷が真剣に征韓を期していたとは言えまい」と記している。ただ、懐に短銃を用意しようとしていたことから、毛利氏の言うような平和使節でもない、としている。しかし、西郷は結構用心深くて、短銃の保持はその時に始まったことではない。詳しくは触れないが、川道氏の毛利氏批判は、資料の読み方の問題と、平和への希求心がどうだったかという問題で、遣韓使節という点では、私が読解する限りでは大きな違いはない。川道氏の、西郷が死に場所を求めていたという論には私は同意しかねる。僧月照の件で死に損なって以来、西南戦争の終末に至るまで西郷は相当にしぶとく生き抜いている。

ここで、毛利氏からも川道氏からも離れて、ずっと以前、昭和2年(1927年)に出版された全10巻の『大日本憲政史』(大津淳一郎)を引用してみたい。この書は非常に実証的で豊富な資料を駆使していることから、歴史書によく引用されている。この書では西郷隆盛の兵の派遣を唱える板垣退助に対する閣議での発言が次のように記されている(太字引用)。

従来我より廔次使節を彼に派せりと雖も、皆、卑官にして僅に彼の地方官吏と折衝せるに過ぎず。是、彼の我を輕侮する所以にして、今日に至るまで、未だ其の使命を全うすることを得ざりしものは、職として之に由らずんばあらず。故に今日の策は、宜しく先づ兵力を以てすることを止めて、責任ある全權大使を派し、正理公道を以て、彼の政府に説き、之をして反省せしめざる可からず。

そして、三条実美の「兵を率いてはどうか」との言に対して、下記のようにのべている。

大使は、宜しく烏帽子直垂を著し、禮を厚うし道を正して、之に當る可し。今、俄かに兵を率ゐて之に赴くが如きは斷じて不可なり

余、不肖なりと雖ども、願くは全權大使の任に當り、誓て一身を國家に捧げ、以て其の使命をはたさんと欲す

他にも色々書かれているが、ともかくもこれで、派兵論の板垣退助、それは外務卿の任だとして当初難色を示していた副島種臣、らも西郷に賛意を表し、太政大臣三条実美も同意して、つまり全員一致で閣議決定されたわけである。

三条はすぐに西郷隆盛の遣韓使節のことを天皇に奏上し、内諾を得て、そのことを西郷に伝えている。西郷は、「生涯の愉快此事に御座候」と板垣宛の手紙に書いている。ただ、にもかかわらず、三条が「正式には岩倉大使一行の帰国を待って之を行う」としたことが問題を起こす。つまり、岩倉具視、大久保利通らの策謀によりひっくり返され、西郷ら、主だった留守政府の要人の辞職となる。これが「明治六年政変」である。

内村鑑三は、『代表的日本人』(鈴木範久訳 岩波文庫)の中で賞賛を以て西郷隆盛をあげ、朝鮮問題に関して、「西郷をもっとも怒らせたのは、決議の撤回されたことではなく、撤回させたやり方でした」としている。悪童的で口の悪い、それでいて科学力も直観力もあった内村鑑三にしては珍しい記述である。

軍艦で朝鮮の江華島で威嚇行動、交戦を起こしたのは明治8年(1875年)のことである。とっくに下野していた西郷隆盛は腹心の篠原国幹への手紙の中でこのことに触れ、「遺憾千万」「天理において恥ずべき行為」と痛罵している。西郷隆盛が“征韓論者”でなかったことを私が確信したのは、資料に目を通していてこの一節を目にした時のことだ。

それにしても、毛利敏彦氏の論を待つまでもなく、西郷隆盛が征韓論者でなかったことは近代史の歴史家なら絶対に知っているはずの『大日本憲政史』でとっくに指摘されていたのに、なぜ征韓論者が通説になってしまったのか、不思議でならない。

2019年10月 5日 (土)

訃報に思うこと

この歳になると訃報が少しずつ気になってくる。メディアで取り上げられるような有名人には直接の知人はまずいないので、特に悲しみという感情はないが、それでもなにがしかの寂寥感はぬぐえない。

つい最近、オペラ歌手の佐藤しのぶさんが亡くなった。まだ61歳というから、はるか年長の私としては心おだやかではない。

今年、つまり2019年のニューイヤーコンサートで佐藤しのぶさんの歌唱を聴いたばかりだ。もちろん私では巧拙はわからないが、この人がかの有名な佐藤しのぶさんかと直に接してなんとなく光栄感を覚えた。やつれた様子は全く感じず、それからまだ1年も経っていない。8月初頭までコンサート活動をしておられたとのことなので急逝と言っていいだろう。医学的には、生きていることが不思議なくらい死に至る病は多くあるが、それにしても経過が早い。死因は故人の意思とのことで公表されていないが、なんだったのだろう。

私が聴いた九州交響楽団のコンサートは、夫の現田茂夫さんの指揮で、まさに美男美女の、人も羨むセレブのカップルだと、音楽と関係ない妙なところで感心していた。まさか訃報を聞くことになるとは。写真はその時のパンフレットに掲載されていたもの。


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“金ピカ先生”こと、元予備校講師の佐藤忠志さんが人知れず亡くなっていたという。彼は68歳というから私とほぼ同じ年齢だ。かつて、高級外車を乗り回し、派手なスーツに金ピカの腕時計やネックレスなど、まさにヤクザ、今でいう反社スタイルで世間の耳目を集めた。

そのいでたちのせいか、実力があったか、英語の教師として大人気を誇り、タレント活動までして多い時は年収2億円を超えていたらしい。その彼が生活保護下で、灰皿に吸い殻が山のようにたまり、酒浸りのやつれ果てた姿で晩年を送っていたという。なんとも言葉もない。ただ、御本人は自業自得と案外諦観していたようで、あれこれ言うのは大きなお世話かも知れない。

彼の死は孤独死で、死後少し経ってから発見されたわけだが、わが身に引き換えて思えば、孤独死は一向に構わないけれど、死後数日以上、というのは避けたい。周囲に大迷惑をかけてしまう。幸いにして、今現在とりあえず悩む状況にはないが、最近では独居の高齢者用に、トイレのドアの開閉状況で安否を確認してもらうシステムがあって、これはなかなかいいアイデアだ。生あって動けなくなったらさっさと施設にお願いするつもりだが、万一に自立で独居、という状況になれば、こういうのは有難いだろう。監視カメラは御免こうむりたい。

安部譲二さんの訃報もあった。82歳というから、あれだけ“破天荒”とも言える奔放な人生を歩んだ割には長生きだったと言えるかも知れない。この人は本物のヤクザをやっていた人だ。

足を洗って作家としての出世作『塀の中の懲りない面々』は、そういう人たちがいるのかと、非常に面白かった。希少な体験を書き起こす文才に恵まれていたのだろう。味をしめて、以後、刑務所に関する本はちょくちょく読んでいる。

ホリエモンこと堀江貴文氏と大王製紙の元会長の井川意高氏の対談をまとめた『東大から刑務所へ』(幻冬舎新書)という本もあって、大笑いしながら読んだ。東大顔はほとんどなく、刑務所の食事、長野は普通に美味しく、喜連川はまずい、という話題で盛り上がったようだ。本の帯のキャッチフレーズには、「人生で大切なことはすべて塀の中で教わった」とある。まあ、東大で習えないことは確かだが。「不運があっても不幸とはかぎらない」というのは堀江さんの至言だ。

それはともかく、還暦以後の人の訃報は、直接の知己でなければ、何がしかの感傷を覚えても、ショックというほどではない。いつしか必ず死が訪れる。

ただ、全くの他人であっても、事故や犯罪での小児の死はやはりどうもいけない。報道を目にするたびに、溺水など、子供の死を看取った辛い体験が思い起され、堪えがたい思いにかられてしまう。

訃報を見聞きするにつけ、私自身にもその時期がひたひたと忍び寄って来ていることをおぼろげながらに感じる。多分に終活の入口には来ているのだろう。そう思う反面、取り組んできた仕事にきちんとけりをつけておきたい、読書三昧は断ち難い、ブログでアウトプットもしてみたい、歴史研究に本格的に取り組みたい、ゴルフももう少し上達したい、孫は可愛い、と結構欲張りな自分もいる。

訃報を逆に励ましとして、とりあえず今は神が命を与えてくれているのだから、やれるところは精一杯やってみる、楽しむべきは大いに楽しむ。まずはそれだろうと自分を納得させている次第である。

2019年9月26日 (木)

西郷隆盛 その39 なぜ征韓論が起こったのか

なぜ征韓論が起こったのだろうか。以前の稿で、当時の朝鮮は今よりはるかに筋の通った主張をしていたと記した。西郷隆盛の征韓論について踏み込む前に、今回の稿で、それがどういうことなのかということについて触れておきたい。

なお、「朝鮮」という言葉は紀元前からあったとされている。その由来については諸説あって判然としない。我々一般人はとりあえず、「朝が鮮やかなる国」と受け止めておけばいいと思う。これには多分に私情もあって、30年近く前のこと、釜山のホテルから見た朝焼けの鮮やかさ、美しさ、は今も心に強く残っている。

「韓」という言葉も古来より用いられているようだ。その使い分けは私にはよくわからない。「朝鮮」が宗主国であった中国王朝から与えられた名ということで、それを嫌い古来の三韓にならったという説もある。近代で明確に国名として使われたのは1897年の「大韓帝国」だが、1910年の日韓併合で消滅してしまう。我々は現在「韓国」と略称しているが、正式には「大韓民国」である。

近代日本の場合、王朝には実権がなく、実支配していた徳川政権が江戸幕府として長く続き、大きく見れば比較的単純だ。近代の朝鮮半島は李王朝といっても、王朝が実権を握っていただけに、政権を巡ってあまた多くの抗争が行われ、同一の系とも言い難く、非常にややこしい。まずはとりあえず、政権の簒奪が繰り返されつつ、李朝が朝鮮を支配してきた、としておくのでいいだろう。

朝鮮も鎖国政策をしてきたわけだが、日本がペリーに開国を迫られたように、朝鮮も外国から武力による示威を受けている。日本のように慌てふためくはめにならなかったのは、1850年頃から侵入してきたフランス船、イギリス船、アメリカ船をこっぴどく追い払ったからである。

日本とは、江戸時代になってより、朝鮮を宗主国ともしていた対馬を窓口として活発な交易がなされ、特に将軍の代替わりの時などに朝鮮通信使も来訪し、江戸幕府と良好な関係が保たれていた。この対馬において朝鮮外交で非常に重要な役割を担ったのが近江地方出身の雨森芳洲である。1990年5月25日に当時の盧泰愚(ノテウ)大統領が日本の国会で行った演説の中でこのことに触れ、広く知られるようになった。この時の演説は実に素晴らしいもので、私は大きな感動を覚えた。

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江戸幕府は朝鮮通信使に非常に気を遣い、丁重にもてなした。今でも日韓が協力して当時を再現するイベントが残されている。

ここで起こったのが日本の政変、すなわち明治維新で、江戸幕府が突然のように倒され、「明治新政府になりましたよ、どうぞ宜しく」と言われても、「ハイそうですか」とはならない。ましてや、外国船を追い払い、鎖国政策を続ける朝鮮にとって、手のひらを返したように欧化政策を進める日本にはむしろ嫌悪感を抱いたのであろう。この時の朝鮮の王は高宗であったが、実質的な権限は実父の興宣大院君にあり、頑として明治新政府を拒んだ。

もしかしたら奇異に思われるかも知れないが、こういうことは世界史的にはよくあることで、「国家の承認」は非常に難しい問題をはらんでいる。1918年のロシア革命で誕生したボリシェビキ政権(のちのソ連)をアメリカは1933年に至るまで承認していない。日本は承認どころか武力干渉までしている。今現在であげれば、日本と北朝鮮は相互に国家として承認していない。闊達な貿易も交流も行っていながら、台湾を国家として正式に承認しているわけではない。もちろんそれには色々と複雑な事情がある。

とはいえ、釜山の倭館には数百人の日本人が居留しており、既成の交易のこともあって、明治新政府としては何とかこの問題を解決せねばならなかった。「話し合い」での解決が無理なら武力で屈服させてしまえ、という乱暴な意見が“征韓論”である。そもそもは木戸孝允らが唱えていたという。新政府を辞して帰薩していた西郷隆盛は当初はこの件に全く関与していない。

居留邦人の安全が脅かされつつあるとの危惧がさらに高まったのが、明治5年か6年頃で、留守政府の時である。外務卿の副島種臣が、外交は外務省がとりしきる、とした“対馬はずし”に朝鮮がさらに反発を強めたという面もある。

そして、日本の官吏への食糧供給を断ち、日本を「無法の国」と侮蔑した文書が掲示されたという報せが届き、閣議は騒然となる。本来なら対処にあたるべき外務卿副島種臣は中国出張で不在であった。ここに西郷隆盛の朝鮮問題への関わりが始まる。

2019年9月15日 (日)

「嗤う」で思い起すこと

「嗤(わら)う」という言葉を普段我々が使うことはない。普通に「笑う」と記せばこと足りる。「嗤う」はあたかも死語か古語のような感じだが、昨今、韓国の話題につけ、しばしば使われているようだ。

あくまで嫌韓ネトウヨの落書きの話だが、「嫌韓」が「呆韓」になり、「拒韓」「哀韓」、そして「嗤韓(しかん)」という表現も目にする。韓国は“嗤う”対象になっている。まあ、ナッツ姫に水かけ姫、氷姫、果てはたまねぎ男と、なかなかセンスのいいネームミング、多彩で怪しげなキャラクターが続々登場するものではある。

嗤って遊んでいるうちはまだいいが、我々が韓国に対して「嗤う」という状況は、双方にとって決していいことではない。ただ、国と国との正式な約束を平然と踏みにじり、執拗に嫌がらせの限りを尽くす韓国の文在寅政権に対しては、「いいかげんにしろ」というのが一小市民たる私の率直な感情だ。ちなみに、昨年の自衛隊哨戒機のロックオン事件は、哨戒機の元パイロットの知人によれば、直ちに日本側から反撃されてもやむを得ないぐらいの行為だという。

彼らが勝ち誇るように“独島”だと大騒ぎして占領している竹島も、そもそもは李承晩元大統領が無法者的に引き、日本が実効支配していた島が誰も認めていないそのラインの内側にあったというだけのことだ。ラインに沿って日本漁船の拿捕と抑留など、当時の韓国は日本に酷い対応をしている。

さて、「嗤う」は多分に嘲笑を含んだ表現だ。いつから使われるようになったかは知らないが、これを有名にしたひとつは、桐生悠々(1873-1941)が信濃毎日新聞社説で書いた「関東防空大演習を嗤ふ」だろう。木造家屋が密集した首都圏では、空襲を受ければいかに防空大演習をやっていようとも、あっという間に大火災が起こり甚大な被害となることは明らかで、これでは既に負け戦を認めているようなものだと、厳しく批判した。

当時の陸軍はカンカンになったが、東京大空襲という形で事実として、その通りになった。反戦を論じた桐生悠々の言は封じられてしまったが、このような勇気ある気骨のジャーナリストがいたことは記憶されていい。下掲はWikipediaより。

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桐生悠々がその一文をものしたのはまだ日本に一発の爆弾も落ちていない昭和8年(1933)のことであった。要人を殺害し、軍事クーデターを起こそうとした二・二六事件は3年後の昭和11年(1936)である。河合栄治郎(1891-1944)は帝大新聞でこれを厳しく糾弾した。彼もその後言論弾圧を受け、出版法違反として裁判で起訴され、東京大学教授を休職にされてしまう。

昭和14年に日本陸軍はノモンハン事件(“事件”は多分に糊塗的な表現で、実際は日本が仕掛けた戦争)を引き起こす。以前にも触れたが、日本をはるか遠く離れ、昔時の廟はあるにしても、今のモンゴルと中国国境に接している荒涼たる草原でしかないノモンハンには、嗤われてもしかたがない第二次世界大戦の日本軍部の愚かさが凝縮されている。それでもよく戦った日本兵は、日本陸軍中枢、関東軍中枢、そしてソ連軍に空しく殺められたようなものだ。これが批判されなかったのは情報が隠匿されたからである。

私も既に人並みには渡航経験があり、面倒なこともあって、今さら外国に行きたいとは思わない。だが、このノモンハンにはいつの日か訪れ、あまた多くの悲劇を生んだ戦地の象徴として、柄にもなくしばし殊勝な思いにひたってみたいと願っている。ノモンハンについてはいずれまた書いてみたい。

「嗤う」と言えば、アメリカ大統領トランプ氏の言行にもそれを誘うものがある。哲学が感じられない絶大的権力は「嗤う」を超えて恐ろしくもある。ジャーナリストの木村太郎氏は、「好きではないが」とことわりつつ、日本で当初は泡沫候補だとかキワモノ候補だとか言われていたトランプ氏が当選することを早い時期から予見していた。大恥になりかねないリスクを背負っての、先見性のある明言で、これがジャーナリストのあるべき姿だ。氏はこれからをどう予測しているのだろうか。

桐生悠々の時代と違って今の日本には言論の自由がある。「アホノミクス」と嗤おうが、「改憲で戦争への道を進む安部晋三」と誹謗しようが、言う方はリスクを負わない。ただ、これは一般人の話であって、社会に影響を及ぼす言論人となると話は別だ。もちろん拘引だとか封殺するという意味ではない。

日本は「言論への質の検証」という作業が社会にないので、“責任なき言いっぱなし”が横行する。かつて北朝鮮を誉め称えた“知識人”なる人がいかに日韓問題を論評しようが、言うのは自由だが、とりあげる必要もなければ傾聴する必要もない。なのに、現実は臆面もなく登場している。これは実に嘆かわしく嗤うほかない。

歴史的経緯、人権問題への言及がなければいかなる北朝鮮論も意義はない。一般人は床屋談義でもよかろうが、特権的に情報が取得できるメディアや、知識人と言われる人たちは別で、「言論の自由」は「言論への質の検証」とセットであることが必須である。その点からすれば、韓国に関する報道は、断片的、垂れ流し的で、いったい何が真実なのか、彼らがどういう人たちなのか、わからなくなってきている。

日韓問題に限らず、アメリカ、イギリス、イランなど、今の国際政治情勢は本当に混沌としている。しかし、どこかに、先で振り返って、あれは正しかった、という言説があるはずだ。残念ながらそれは私にはわからない。幸いにしてその判断をせねばならない責任ある立場にはいない。

個人的には、せめてもと、現状を考えて見ると同時に、過去を振る、つまり歴史を見ることになる。朝鮮を保護国におき、満州に移民を送り、かいらい政権を擁立することはむしろ日本を危うくすると主張した石橋湛山(1884-1973)にも惹かれるゆえんである。同時代に彼の主張を目にしたら、とんでもないことを言うやつだ、と思ったことだろう。しかし、彼は正しかった。

今の状況下で150年近くも昔の“征韓論”の話でもあるまいと筆が止まってしまった。先で嗤われない冷静な判断は何か、シリーズを続けつつ、しばらくその模索が続きそうだ。

2019年8月 1日 (木)

西郷隆盛 その38 留守政府の崩壊

明治6年の対朝鮮政策において、西郷隆盛は武力を行使してでも日本の主張を認めさせるという、いわゆる征韓論者であったというのが巷間言われてきたことであった。それに対して、外国を視察してきた岩倉、大久保らは、今は国内対策が最優先であって、対外戦争などしている時ではないと反対し、結局、岩倉、大久保らの内治派が勝利したというものである。

“論に敗れた”西郷隆盛は政府を辞し、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助ら主要人物も辞任した。つまりこれが留守政府の崩壊である。

この騒動は錦絵で大仰に描かれている。錦絵というのはいわば庶民の政治の娯楽化であって、中には資料的価値が高いものもあるようだが、多くは “見てきたようなウソを描き”である。西郷隆盛が口髭を生やしていたという話は聞いたことがない。 

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私見として、結論的に断言しておきたい。西郷隆盛が征韓論を唱え、そしてそれに敗れた、というのは真っ赤な嘘である。おそらく、岩倉、大久保らの政権闘争の勝利組の歪曲であろう。

留守政府の崩壊は政権闘争にほかならない。西郷らに政権闘争という意識があったかというと、どうもそれはなかったようだ。だから策謀を用いた大久保らが一方的に勝利したのである。

洋行組が帰国してみれば、改革はどんどん進められており、大久保利通の腹心たる山縣有朋も井上馨も汚職事件で拘引寸前になっていた。大久保にとっては、自らが命をはって江戸幕府からの政権交代を遂げたのに、それがそっくりそのまま留守政府に奪われたかのような思いがしたのではないだろうか。帰国後しばらくおとなしくしていた大久保利通は、成果もあげられなかった洋行による長期不在を悔やみ、激しい敵愾心にかられ、政権奪還の策を練っていたに違いない。

ここで利用されたのが征韓論問題である。実は征韓ではなく、西郷隆盛の朝鮮への使節派遣なのだが、これは留守政府で既に決定されており、岩倉具視の帰国を待って正式に決裁の段取りであった。これが策謀によってひっくり返されたのである。怒った西郷は決定当日の明治6年10月23日に辞表を提出し、他の主だった参議も続いて辞職した。

非常にひらたく書けば、これが「明治6年政変」である。だが、理解しようとすれば、多くの「なぜ」が持ち上がる。そもそも征韓論とは何か。大久保利通の策謀とは何か。なぜこの政権交代がそれほど大きなことなのか、などなど。

韓国問題は今現在も世相喧しい。明治初年の朝鮮問題はどうかというと、少なくとも今よりはるかに筋の通った主張を朝鮮がしていたと私は思っている。次稿で征韓論について触れたい。

2019年5月21日 (火)

原発事故被災地の今

久しぶりに原発事故被災地の福島県相双地域を訪れる機会があった。かつて、大熊町での医療プロジェクトに関わり、震災前はここに足繁く通っていた。日照時間が長く、温暖で風光明媚な地であったが、それだけに悲惨な災害には声も出ない思いであった。立ち入ることすらできなくなり、ましてやプロジェクトの継続などできるはずもなく、私も立場を降り、すっかり足が遠のいていた。

大地震、大津波に加えて原発事故が起こったのは2011年3月11日だから、あの日から8年以上が経過した。筆舌に尽くし難い惨禍を経験したかたがたにとっては、もう8年なのか、まだ8年なのか、どちらにしても生涯決して癒えることはない傷跡だろう。

放射線量が高い帰還困難区域は次第に縮小されてきたとはいえ、まだまだ海沿いから山あいの地域にまで設定されている。あちこちに設置されているモニタリングポストだと0.2~2.27μSv/hと表示されていたが、帰還困難区域では年間50mSvを超えるという。大熊町はいまだ帰還困難区域である。図は福島県の発表資料より。

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帰途に通った国道114号線沿いには、帰還できないまま放置せざるを得なかった家屋があり、本当に胸が痛む。どれほど懐かしの我が家に帰りたいことだろうか。

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それでも、燭光はある。ひとつは、宮城県からいわき市までほぼ直線の高速道路が開通したことだ。浜通りの縦の移動はかつて随分時間を要したが、時間的には大幅な短縮となった。常磐線も、あと少しの区間を除いて開通している。双葉町のやまあいや富岡町には新しい家屋が多く建てられつつあった。帰還者はまだ多くはないようだが、この地区に流入する事業者が多くなれば、商業地としての活性化にはつながる。それは少しずつではあっても、帰還事業につながるだろう。

教育、医療、インフラの整備は帰還事業の要となるわけだが、医療に関して、今回見学させて頂いた新設の双葉医療センターは救急疾患にも対応できるようにヘリポートを併設しコンパクトによく整備されていた。これにより、必要に応じて、基幹病院のある福島市、郡山市、いわき市とも医療用ヘリコプターで迅速な移動が図れる。

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双葉医療センターは県の付属施設として設けられ、私が長年にわたって尊敬してやまない非常に優れた医師がリーダーとして配置されていた。災害時にいち早く現地に赴いたひとりである。大変ではあろうけれども、期待を負うにこれ以上の人材はいない。彼の心意気にうたれる。

自然災害、人為災害と、起こった悲劇はどれほど嘆いても嘆き足りない。まさに痛恨の極みである。被災されたかたがたにとっては遅々たるものかも知れない。しかし、復興に向けて確かな力強い歩みが進められていることが今回の訪問で感じられ、非常に嬉しい思いであった。また再訪し、そのダイナミズムに触れていきたいと願っている。

2019年5月 5日 (日)

西郷隆盛 その32 岩倉使節団

岩倉使節団というのは、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年9月頃まで、外国船を利用してアメリカ、ヨーロッパを歴訪した使節団のことである。岩倉具視を特命全権大使として、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳が副使である。留学生も含め、日本人は総勢107人で、その中には新札の肖像に採用される当時8歳の津田梅子もいた。下掲は有名な岩倉使節団中枢の記念写真。中心にいる岩倉具視は、この洋行中に進言を受けて、断髪し洋装に改めている。

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そもそもは10ヶ月程度の予定だったようだが、大幅に延びて1年9ヶ月にもなっている。“そもそも”を言えば、そもそもは大隈重信が数人を連れて海外訪問を画策していたのが、政権中枢の思惑で我も彼もと、いつの間にかどんどん膨らんでしまい、あげく大隈重信ははずされ、準備不足のままやけに重たい使節が出立したというのが真相のようだ。

その行程は、佐賀藩出身の久米邦武によって『米欧回覧実記』として詳細かつ膨大で優れた報告書が残されている。一行は各地で歓待を受け、各国の人々と交流し実地見聞をなした。多くの留学生も同船させて派遣している。非常に意義深い使節であったことは間違いないが、これだけの人物を揃え、巨額を費やしたにしては、政治外交的な意義は少なかった。

日本は、幕府が開国をしてよりは、猛烈な勢いで西欧文明を取り入れており、使節は何度も派遣している。外国を訪問した、あるいは留学をした日本人もいて、外国の情報は既に多く日本に入っていたのである。幕末の1867年にはパリ万博にも日本から出店している。外交官以外にも、お雇い外国人なども日本に多くいた。なお、大隈重信に洋行を勧めたのは宣教師として日本に派遣されていたフルベッキである。

『異形の維新史』(野口武彦 草思社文庫)には、次のような記述がある。
  だいたい維新政府ができてまだ四年、新しい国家の青写真
 もまだ作られ切っていない多事多難な時期に、政府枢要の地
 位にある人士が内政をおっぽり出して海外へ向かうというの
 もかなりメチャクチャな話である。

これは全くその通りだ。課題山積の時期にわざわざ大物を揃えて訪問する意味は全くと言っていいほどなかったのである。

交渉期限が迫る条約改正の下準備が目的のひとつとしてあげられていたが、ワシントンでのあまりの歓待ぶりに、下準備ではなく条約改正をと欲を出して交渉しようとしたのも大きなつまずきである。その時に国書の不備を指摘され、大久保利通と伊藤博文が慌ててまたアメリカを東から西に横断し船でわざわざ帰国している。ところが、本交渉は無理だと留守政府に拒否され、形だけの書を得て立ち戻ったものの、その時には交渉の場すらなく、予定になかった3ヶ月以上を空しくして使節団はアメリカを去ることになる。全くの大失態で、大久保と伊藤はさぞかし屈辱感と徒労感を味わったことだろう。

関税の問題もあり、外国が日本で治外法権を有しているというのは確かに大きな問題ではあった。しかし、条約の締結や改正、相互に利害がからみあう外交折衝、というのは今も昔もやっかいな作業であり、当時にあってはなおさら、刑法も整備されておらず、ようやく海外と交流を持ち始めた東洋の、多分に野蛮性のある後進的な島国が諸外国と対等に外交をするというのは全く無理な相談であった。

要人たちが不在の間、政治中枢を担っていたのが西郷隆盛を事実上の首班とするいわゆる「留守政府」である。改革をやってはならないと、留守政府に念が押されていたとされているが、伊藤痴遊の『明治裏面史』には、釘を刺したことに対して、西郷隆盛が怒りをあらわにして「国家の大問題と認むることは、すみやかに処理していく責任がある」とのべたと記されている。西郷の肚は「必要なことはやる」と決まっていたのであろう。そうでなければあれほどのことができるはずはない。

あれほどのこととは何か。西郷隆盛を筆頭参議としたこの留守政府がやった盛大な改革について、次稿以降で記すことにする。

2019年4月24日 (水)

みどりの黒髪

以前から「みどりの黒髪」という表現がずっと気になっていた。『惜別の歌』には、「君がみどりの黒髪」と唄われている。「みどりの風におくれげが」と歌い出す『三百六十五夜』もある。

曲名そのままの『緑の地平線』などなど、「緑」か「みどり」か、ともかくよく用いられている。『思い出のグリーングラス』という世界的にヒットした曲もイメージとしては「緑」がモチーフになっている。本当はちょっと悲しい話のようだが。

黒髪や風を「みどり」と表現するのはすごい感性だと思っていたが、実はこの「みどり」には「若々しい」「みずみずしい」という意味が込められているそうだ。その意味で使う時は「みどり」で、色で使う時は「緑」かも知れないが、我々は感性として特に分けているわけではない。ちなみに、つい先日4月20日の読売新聞の編集手帳には、258gで生まれ3374gまで成長した緑児(みどりご)の退院を祝う一文の中で「緑の黒髪」に触れ、「黒なのに緑にしてしまう美意識には脱帽する」と綴られている。この編集手帳子は文芸に造詣が深いといつも感心している。

こう書くと、どう取り繕っても私の懐メロ好きがバレバレなのだが、実際その通りだから仕方がない。よくYouTubeでサーフィンして楽しんでいる。

そうしたら、すごくチャーミングで歌の上手な台湾の蔡幸娟(ツァイ・シンチュアン)という歌手を知った。日本の歌も多くカバーしているようで、大津美子さんの『ここに幸あり』があった。『幸福在這裡』と表現するらしい。
https://www.youtube.com/watch?v=WB7lmA8PAGE

言葉はサッパリ分からないが、若い時の姿とはいえ、“緑の黒髪”の蔡幸娟さんは実に魅力的で、見惚れ聞き惚れてしまう。他にも『愛人』があって、これはそのままなので分かる。『四個願望』は、ちあきなおみさんのヒット曲『四つのお願い』だ。日本語で歌っているものもあった。こちらも上手だ。お隣さんと違って好日的な台湾にはいっそうの親近感を抱く。

そんなこんなでずるずるサーフィンしていたら、なんと舟木一夫さんのヒット曲『修学旅行』の北朝鮮版がアップされていた。この国のことだから例の大仰な歌いっぷりで嫌気がさすかと思いきや、どうしてどうして、これがまともで上手な歌唱。
https://www.youtube.com/watch?v=WvS2Zy87NTw

他にも日本の曲が歌われていた。少しなまりはあっても上手な歌唱でカバーしているためか、全く問題なく聴ける。

北朝鮮と言えば今の時代にかくあるかというほどの人権侵害国で、この国へは嫌悪感しかないし、さすがに友好的な気分にはなれないが、庶民レベルにおいては本来異なることはない。ただし、この国には修学旅行はないだろう。

北朝鮮はそもそも飢餓の構図にある。2018年は、台風19号の、実際は下掲の予報図より少し南にずれたが、それでも、かなり被害を受けているはずだ。

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かつての段々畑政策とやらで木々の伐採で山の濃い緑が失われ、保水力がなくなり、土砂が流出し、河川の浚渫も築堤もできていないので、洪水にも、そしてその裏返しの干ばつにも脆弱である。2019年は間違いなく飢餓が悪化する。歌を聞いていっそう胸が痛む。

日本も近・現代において対外的に色々なことがあった。他国のことをとやかく言えないほどの大きな負の面もあった。それでもともかく、今は国際交流の先進国だ。

近代における国際的交流の大規模な嚆矢としてはやはり岩倉使節団のことがあげられるだろう。柔らかいのか硬いのかよくわからない話になってしまったが、今回ちょっと肩の力を抜いたところで、次回はそのことに触れてみたい。

2019年4月17日 (水)

西郷隆盛 その31 赤松小三郎2

赤松小三郎は、その構想を口上書として幕府に、また松平春嶽に、そして、それらを若干修正して島津久光にも届けている。『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(関良基 作品社)によれば、島津久光宛のものは赤松の直筆として今も残っており、引用としてはこの島津版がもっとも適切としている。

その気で見れば、原典が乏しいとはいえ意外に論考資料があり、前稿で紹介した書、上掲の書、さらには、上田市の郷土史家から『赤松小三郎先生』という冊子が大正6年に発刊されている。『「朝敵」と呼ばれようとも 維新に抗した殉国の志士』(星亮一編 現代書館)の中でも取り上げられている。古典的な労作である『大日本憲政史』(大津淳一郎)でも、幕末において憲法構想をした一人として名前が挙げられている。

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詳細な引用をして論じるのは私の力量を超え、したとしても、時間がかかり膨大な量となって誰も読みたくなくなるに違いない。端的には、『憲法構想』(江村栄一 岩波書店)で、江村栄一氏が赤松小三郎についての解説で記しているところの「イギリス立憲制にかなり似ている」「英学の理解に基づく平等性をみることができる」ということで十分だろう。ここでは、これらの資料からの私の理解として、その内容の要点を若干記すことにする。

赤松小三郎は、朝廷と幕府の合議政体を唱えており、天皇を最上位に位置付けている。そして、将軍、公家、諸大名、旗本などから、道理が明らかで、実務能力があり、情勢に通じた人を6人選任し、うち1人を大閣老とするとしている。これは天皇の補佐機関で、ひたらくは首相と各大臣である。

これに選挙で選ばれた人で構成される上下二局に分かれた議政局を設け、これを国権の最高機関だと位置づける。ここでの決め事に対して、もし天皇が反対しても、再議して議決すればそれが優先されると記している。これこそは“王に悪事をなさしめない”立憲思想の根幹にほかならない。

「門閥貴賤ニ拘わらす」「国中人才を育」「人民平等」という言葉があり、それが国を治める基礎だとのべている。軍は「国之貧富ニ応して御算定之事」「兵は数寡くして」とあるから、不相応な軍備を戒めているわけである。さらに、まずは「お雇い外国人」を勧めており、衣服や食事についても触れている。

京都では塾を持ち、分け隔てなく教え、「諸藩の士争ひて其門に就き」とあるから相当な人気だったのだろう。講義に同席というわけでもなかったようだが、会津、福井、薩摩藩士にその教え子が多くいる。日本海海戦で名を馳せた薩摩の東郷平八郎もそのひとりで、明治39年に追慕で上田に墓参しているという。余談ながら、この東郷平八郎が遺族のもとに訪れ謝意を表したのが、同じく非業の死を遂げたかの小栗忠順である。

口上書の日付は慶応3年5月とあるから、いわゆる明治維新の1年以上前、1867年6月頃で、大政奉還の4ヶ月前、鳥羽伏見の戦いの半年前である。島津久光が兵を率いて上洛し、四候会議が行われるなど、京に不穏な空気が渦まいていた頃だ。この年の11月に坂本龍馬が暗殺されている。

赤松小三郎が西郷隆盛と会ったのは慶応3年7月か8月のことだ。この時に「幕薩一和」を説き、「少しは成可申見込に候」と兄への手紙に書いている。西郷は武力討幕側になっているが、赤松小三郎の思想や構想に多分に共感していたわけである。戊辰戦争に妙に腰くだけなのは西郷の複雑な心境を表しているような気もする。西郷は少なくとも赤松に会った頃までは「幕薩一和」だったはずだ。考えが変わったとすれば、幕府と徳川慶喜への強い失望、豪胆で押し通す大久保利通への義理立てだろう。

さて、京都で名を挙げた赤松小三郎に上田藩から帰藩命令が再三出ている。幕臣への誘いもあり、薩摩の小松帯刀からも引き留められたものの、いよいよやむなく京都を離れ上田に帰郷することとなった。

老中まで出しているいわば親幕の上田藩の赤松小三郎に、薩摩の動きを幕府に知らせるのではないかとの疑念を抱き、以前からその身辺を探らせていたのが大久保利通だと言われている。

慶応3年9月3日(1867年9月30日)、赤松小三郎は白昼の京都の路上で斬殺される。実行犯は、残存していた日記や証言者の言などからほぼ確定されていて、西郷隆盛の腹心であった桐野利秋である。

赤松の暗殺が桐野の独断であったか、上からの指示であったかは定かでない。西郷隆盛はこの時は大坂にいて、京には不在であった。暗殺の前夜、送宴として赤松を誘い出したのは大久保利通のようである。なお、桐野と同じく西郷の腹心であった篠原国幹は赤松小三郎の死を知って非常に悼んでいたという。島津久光はその死を惜しみ異例とも言える莫大な弔慰金を供出している。

私は、猜疑心が強く、陰の行動を辞さない大久保利通の指示で、粗野な桐野利秋が実行した、と自分では断じている。西郷隆盛は決してこのようなことをする人ではない。当時として貴重だったはずの翻訳書も多く出している赤松小三郎が不当に埋もれてしまったのも、多分に大久保利通のなせる業であろう。

ともあれ、幕末の激動の時代に、おそらくは日本近代史上屈指の、赤松小三郎というとんでもない逸材・偉人がいた、そのことは大いに誇り、もっと語られていいのではないだろうか。機を得て、上田市を訪問してみたいと思っている。

2019年3月29日 (金)

西郷隆盛 その30 赤松小三郎1

勝海舟
おまえさんは、学問の話になると、子どものように目を輝かせるねえ。少しも昔と変わっちゃいないんだ

赤松小三郎
多分、そうでしょう。私は、蘭学であれ、英学であれ、学ぶことが好きなんです。それが世のため、人のために役立つならば、いうことはありません

これは『龍馬の影』(江宮隆之 河出書房新社)の一節である。小説なのでこれは創作だろう。しかし、赤松小三郎の生涯を見ると、また、唯一残っている彼の写真を見ると、さらに勝海舟の面倒見のよさを思ってみれば、多分このような会話があったであろうと私も感じる。下掲は赤松小三郎。

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作者の江宮隆之氏はWikipediaには「主に史実に即した伝記的な歴史小説を手掛ける」と紹介されており、ノンフィクションの作品も多くあるようだ。『龍馬の影』は、龍馬よりもさらに進歩的で卓越した構想を得ていながら、龍馬の影に埋もれ、世に知られることがなかった赤松小三郎を描いた素晴らしい作品である。江宮氏は龍馬をして「埋火のような小三郎の生涯に対して、燃え盛る炎のような生涯であった」と表現している。

赤松小三郎は、武士身分ながら、いわゆる軽輩の貧しい家の二男として1831年に信州の上田に生まれている。幼少の時から和算に優れた才を発揮し、算学を活用しての凧づくりの名手だったという。後年赤松家に養子に入るまでは芦田清次郎という名前であった。

学問を志し18歳で江戸に出奔し、内田弥太郎(五観)の数学塾で学んでいる。内田弥太郎は関孝和の流れをくむ当代一流の数学者であり、「微分」「積分」の名づけ親だと記されている。高野長英を通じて間接的にシーボルトの蘭学も修めていた。日本で最初にパンを作ったという伊豆韮山の代官江川英龍に依頼されて江戸湾の測量も担ったようだ。明治5年の太陽暦への改暦も彼が手掛けている。

赤松小三郎は算学だけに飽き足らず、おそらくはその間に聞き知った砲術と蘭学を学ぶために師の紹介を得て、下曽根金三郎という洋学者の門を叩いた。ここでも猛勉強をしてオランダ語を学んでいる。数学の基礎があるだけに砲術への理解が早かったことは想像に難くない。

事実かどうかは不明だが、小説では、その間に、この頃浦賀に来航したペリーの黒船を見学に行っている。そして上田藩主で江戸幕府老中の松平忠固に謁見し黒船について報告して励ましを受けたことになっている。以前にも記したように、この松平忠固こそは開国主義者で、日米修好通商条約を結ぶにあたって朝廷の許諾が不要と主張した、先見の明のあった硬骨の人である。

小三郎はその後赤松家へ養子入りのため上田に戻り、そしてまた再度江戸にのぼる。内田弥太郎、下曽根金三郎からさらに学ぶとともに、今度は勝海舟の門下生になっている。これが縁で、長崎の海軍伝習所で非正規の形で学ぶ機会を得る。

航海術、砲術とあわせ、長崎でオランダ語にさらに磨きがかかる。その頃、英語の必要性を感じ、江戸に戻ってからイギリス騎兵大尉の知遇を得て、横浜に居住している彼の下に足しげく通い、持ち前の才と努力であっという間に英語をも習得したようだ。教科書は軍事や政治に関する原書だから、当然にしてその方面の知識も他の者の追従を許さぬぐらいに身につけたわけである。その後、翻訳も手掛けるようになり、京都で自らの塾を持ち、薩摩の島津久光からも高く評価される。

と書いてくると、「それはそうとして、西郷隆盛の話はどこに行った」とまた尋ねられそうだ。実は、西郷隆盛はこの赤松小三郎と京都で親しく懇談しているのである。福島の関連で触れておくと、NHKの大河ドラマ『八重の桜』の主人公新島八重の兄である山本覚馬とも親交を有し、おそらくは強い影響を与えたはずだ。

当時にあってオランダ語と英語を自在にあやつる異色の逸材、赤松小三郎がどのような考えを持つに至ったか、それは明確に文書として残されているので、改めて紹介したい。驚くべき内容である。

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