日記・コラム・つぶやき

2019年8月 1日 (木)

西郷隆盛 その38 留守政府の崩壊

明治6年の対朝鮮政策において、西郷隆盛は武力を行使してでも日本の主張を認めさせるという、いわゆる征韓論者であったというのが巷間言われてきたことであった。それに対して、外国を視察してきた岩倉、大久保らは、今は国内対策が最優先であって、対外戦争などしている時ではないと反対し、結局、岩倉、大久保らの内治派が勝利したというものである。

“論に敗れた”西郷隆盛は政府を辞し、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助ら主要人物も辞任した。つまりこれが留守政府の崩壊である。

この騒動は錦絵で大仰に描かれている。錦絵というのはいわば庶民の政治の娯楽化であって、中には資料的価値が高いものもあるようだが、多くは “見てきたようなウソを描き”である。西郷隆盛が口髭を生やしていたという話は聞いたことがない。 

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私見として、結論的に断言しておきたい。西郷隆盛が征韓論を唱え、そしてそれに敗れた、というのは真っ赤な嘘である。おそらく、岩倉、大久保らの政権闘争の勝利組の歪曲であろう。

留守政府の崩壊は政権闘争にほかならない。西郷らに政権闘争という意識があったかというと、どうもそれはなかったようだ。だから策謀を用いた大久保らが一方的に勝利したのである。

洋行組が帰国してみれば、改革はどんどん進められており、大久保利通の腹心たる山縣有朋も井上馨も汚職事件で拘引寸前になっていた。大久保にとっては、自らが命をはって江戸幕府からの政権交代を遂げたのに、それがそっくりそのまま留守政府に奪われたかのような思いがしたのではないだろうか。帰国後しばらくおとなしくしていた大久保利通は、成果もあげられなかった洋行による長期不在を悔やみ、激しい敵愾心にかられ、政権奪還の策を練っていたに違いない。

ここで利用されたのが征韓論問題である。実は征韓ではなく、西郷隆盛の朝鮮への使節派遣なのだが、これは留守政府で既に決定されており、岩倉具視の帰国を待って正式に決裁の段取りであった。これが策謀によってひっくり返されたのである。怒った西郷は決定当日の明治6年10月23日に辞表を提出し、他の主だった参議も続いて辞職した。

非常にひらたく書けば、これが「明治6年政変」である。だが、理解しようとすれば、多くの「なぜ」が持ち上がる。そもそも征韓論とは何か。大久保利通の策謀とは何か。なぜこの政権交代がそれほど大きなことなのか、などなど。

韓国問題は今現在も世相喧しい。明治初年の朝鮮問題はどうかというと、少なくとも今よりはるかに筋の通った主張を朝鮮がしていたと私は思っている。次稿で征韓論について触れたい。

2019年5月21日 (火)

原発事故被災地の今

久しぶりに原発事故被災地の福島県相双地域を訪れる機会があった。かつて、大熊町での医療プロジェクトに関わり、震災前はここに足繁く通っていた。日照時間が長く、温暖で風光明媚な地であったが、それだけに悲惨な災害には声も出ない思いであった。立ち入ることすらできなくなり、ましてやプロジェクトの継続などできるはずもなく、私も立場を降り、すっかり足が遠のいていた。

大地震、大津波に加えて原発事故が起こったのは2011年3月11日だから、あの日から8年以上が経過した。筆舌に尽くし難い惨禍を経験したかたがたにとっては、もう8年なのか、まだ8年なのか、どちらにしても生涯決して癒えることはない傷跡だろう。

放射線量が高い帰還困難区域は次第に縮小されてきたとはいえ、まだまだ海沿いから山あいの地域にまで設定されている。あちこちに設置されているモニタリングポストだと0.2~2.27μSv/hと表示されていたが、帰還困難区域では年間50mSvを超えるという。大熊町はいまだ帰還困難区域である。図は福島県の発表資料より。

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帰途に通った国道114号線沿いには、帰還できないまま放置せざるを得なかった家屋があり、本当に胸が痛む。どれほど懐かしの我が家に帰りたいことだろうか。

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それでも、燭光はある。ひとつは、宮城県からいわき市までほぼ直線の高速道路が開通したことだ。浜通りの縦の移動はかつて随分時間を要したが、時間的には大幅な短縮となった。常磐線も、あと少しの区間を除いて開通している。双葉町のやまあいや富岡町には新しい家屋が多く建てられつつあった。帰還者はまだ多くはないようだが、この地区に流入する事業者が多くなれば、商業地としての活性化にはつながる。それは少しずつではあっても、帰還事業につながるだろう。

教育、医療、インフラの整備は帰還事業の要となるわけだが、医療に関して、今回見学させて頂いた新設の双葉医療センターは救急疾患にも対応できるようにヘリポートを併設しコンパクトによく整備されていた。これにより、必要に応じて、基幹病院のある福島市、郡山市、いわき市とも医療用ヘリコプターで迅速な移動が図れる。

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双葉医療センターは県の付属施設として設けられ、私が長年にわたって尊敬してやまない非常に優れた医師がリーダーとして配置されていた。災害時にいち早く現地に赴いたひとりである。大変ではあろうけれども、期待を負うにこれ以上の人材はいない。彼の心意気にうたれる。

自然災害、人為災害と、起こった悲劇はどれほど嘆いても嘆き足りない。まさに痛恨の極みである。被災されたかたがたにとっては遅々たるものかも知れない。しかし、復興に向けて確かな力強い歩みが進められていることが今回の訪問で感じられ、非常に嬉しい思いであった。また再訪し、そのダイナミズムに触れていきたいと願っている。

2019年5月 5日 (日)

西郷隆盛 その32 岩倉使節団

岩倉使節団というのは、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年9月頃まで、外国船を利用してアメリカ、ヨーロッパを歴訪した使節団のことである。岩倉具視を特命全権大使として、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳が副使である。留学生も含め、日本人は総勢107人で、その中には新札の肖像に採用される当時8歳の津田梅子もいた。下掲は有名な岩倉使節団中枢の記念写真。中心にいる岩倉具視は、この洋行中に進言を受けて、断髪し洋装に改めている。

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そもそもは10ヶ月程度の予定だったようだが、大幅に延びて1年9ヶ月にもなっている。“そもそも”を言えば、そもそもは大隈重信が数人を連れて海外訪問を画策していたのが、政権中枢の思惑で我も彼もと、いつの間にかどんどん膨らんでしまい、あげく大隈重信ははずされ、準備不足のままやけに重たい使節が出立したというのが真相のようだ。

その行程は、佐賀藩出身の久米邦武によって『米欧回覧実記』として詳細かつ膨大で優れた報告書が残されている。一行は各地で歓待を受け、各国の人々と交流し実地見聞をなした。多くの留学生も同船させて派遣している。非常に意義深い使節であったことは間違いないが、これだけの人物を揃え、巨額を費やしたにしては、政治外交的な意義は少なかった。

日本は、幕府が開国をしてよりは、猛烈な勢いで西欧文明を取り入れており、使節は何度も派遣している。外国を訪問した、あるいは留学をした日本人もいて、外国の情報は既に多く日本に入っていたのである。幕末の1867年にはパリ万博にも日本から出店している。外交官以外にも、お雇い外国人なども日本に多くいた。なお、大隈重信に洋行を勧めたのは宣教師として日本に派遣されていたフルベッキである。

『異形の維新史』(野口武彦 草思社文庫)には、次のような記述がある。
  だいたい維新政府ができてまだ四年、新しい国家の青写真
 もまだ作られ切っていない多事多難な時期に、政府枢要の地
 位にある人士が内政をおっぽり出して海外へ向かうというの
 もかなりメチャクチャな話である。

これは全くその通りだ。課題山積の時期にわざわざ大物を揃えて訪問する意味は全くと言っていいほどなかったのである。

交渉期限が迫る条約改正の下準備が目的のひとつとしてあげられていたが、ワシントンでのあまりの歓待ぶりに、下準備ではなく条約改正をと欲を出して交渉しようとしたのも大きなつまずきである。その時に国書の不備を指摘され、大久保利通と伊藤博文が慌ててまたアメリカを東から西に横断し船でわざわざ帰国している。ところが、本交渉は無理だと留守政府に拒否され、形だけの書を得て立ち戻ったものの、その時には交渉の場すらなく、予定になかった3ヶ月以上を空しくして使節団はアメリカを去ることになる。全くの大失態で、大久保と伊藤はさぞかし屈辱感と徒労感を味わったことだろう。

関税の問題もあり、外国が日本で治外法権を有しているというのは確かに大きな問題ではあった。しかし、条約の締結や改正、相互に利害がからみあう外交折衝、というのは今も昔もやっかいな作業であり、当時にあってはなおさら、刑法も整備されておらず、ようやく海外と交流を持ち始めた東洋の、多分に野蛮性のある後進的な島国が諸外国と対等に外交をするというのは全く無理な相談であった。

要人たちが不在の間、政治中枢を担っていたのが西郷隆盛を事実上の首班とするいわゆる「留守政府」である。改革をやってはならないと、留守政府に念が押されていたとされているが、伊藤痴遊の『明治裏面史』には、釘を刺したことに対して、西郷隆盛が怒りをあらわにして「国家の大問題と認むることは、すみやかに処理していく責任がある」とのべたと記されている。西郷の肚は「必要なことはやる」と決まっていたのであろう。そうでなければあれほどのことができるはずはない。

あれほどのこととは何か。西郷隆盛を筆頭参議としたこの留守政府がやった盛大な改革について、次稿以降で記すことにする。

2019年4月24日 (水)

みどりの黒髪

以前から「みどりの黒髪」という表現がずっと気になっていた。『惜別の歌』には、「君がみどりの黒髪」と唄われている。「みどりの風におくれげが」と歌い出す『三百六十五夜』もある。

曲名そのままの『緑の地平線』などなど、「緑」か「みどり」か、ともかくよく用いられている。『思い出のグリーングラス』という世界的にヒットした曲もイメージとしては「緑」がモチーフになっている。本当はちょっと悲しい話のようだが。

黒髪や風を「みどり」と表現するのはすごい感性だと思っていたが、実はこの「みどり」には「若々しい」「みずみずしい」という意味が込められているそうだ。その意味で使う時は「みどり」で、色で使う時は「緑」かも知れないが、我々は感性として特に分けているわけではない。ちなみに、つい先日4月20日の読売新聞の編集手帳には、258gで生まれ3374gまで成長した緑児(みどりご)の退院を祝う一文の中で「緑の黒髪」に触れ、「黒なのに緑にしてしまう美意識には脱帽する」と綴られている。この編集手帳子は文芸に造詣が深いといつも感心している。

こう書くと、どう取り繕っても私の懐メロ好きがバレバレなのだが、実際その通りだから仕方がない。よくYouTubeでサーフィンして楽しんでいる。

そうしたら、すごくチャーミングで歌の上手な台湾の蔡幸娟(ツァイ・シンチュアン)という歌手を知った。日本の歌も多くカバーしているようで、大津美子さんの『ここに幸あり』があった。『幸福在這裡』と表現するらしい。
https://www.youtube.com/watch?v=WB7lmA8PAGE

言葉はサッパリ分からないが、若い時の姿とはいえ、“緑の黒髪”の蔡幸娟さんは実に魅力的で、見惚れ聞き惚れてしまう。他にも『愛人』があって、これはそのままなので分かる。『四個願望』は、ちあきなおみさんのヒット曲『四つのお願い』だ。日本語で歌っているものもあった。こちらも上手だ。お隣さんと違って好日的な台湾にはいっそうの親近感を抱く。

そんなこんなでずるずるサーフィンしていたら、なんと舟木一夫さんのヒット曲『修学旅行』の北朝鮮版がアップされていた。この国のことだから例の大仰な歌いっぷりで嫌気がさすかと思いきや、どうしてどうして、これがまともで上手な歌唱。
https://www.youtube.com/watch?v=WvS2Zy87NTw

他にも日本の曲が歌われていた。少しなまりはあっても上手な歌唱でカバーしているためか、全く問題なく聴ける。

北朝鮮と言えば今の時代にかくあるかというほどの人権侵害国で、この国へは嫌悪感しかないし、さすがに友好的な気分にはなれないが、庶民レベルにおいては本来異なることはない。ただし、この国には修学旅行はないだろう。

北朝鮮はそもそも飢餓の構図にある。2018年は、台風19号の、実際は下掲の予報図より少し南にずれたが、それでも、かなり被害を受けているはずだ。

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かつての段々畑政策とやらで木々の伐採で山の濃い緑が失われ、保水力がなくなり、土砂が流出し、河川の浚渫も築堤もできていないので、洪水にも、そしてその裏返しの干ばつにも脆弱である。2019年は間違いなく飢餓が悪化する。歌を聞いていっそう胸が痛む。

日本も近・現代において対外的に色々なことがあった。他国のことをとやかく言えないほどの大きな負の面もあった。それでもともかく、今は国際交流の先進国だ。

近代における国際的交流の大規模な嚆矢としてはやはり岩倉使節団のことがあげられるだろう。柔らかいのか硬いのかよくわからない話になってしまったが、今回ちょっと肩の力を抜いたところで、次回はそのことに触れてみたい。

2019年4月17日 (水)

西郷隆盛 その31 赤松小三郎2

赤松小三郎は、その構想を口上書として幕府に、また松平春嶽に、そして、それらを若干修正して島津久光にも届けている。『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(関良基 作品社)によれば、島津久光宛のものは赤松の直筆として今も残っており、引用としてはこの島津版がもっとも適切としている。

その気で見れば、原典が乏しいとはいえ意外に論考資料があり、前稿で紹介した書、上掲の書、さらには、上田市の郷土史家から『赤松小三郎先生』という冊子が大正6年に発刊されている。『「朝敵」と呼ばれようとも 維新に抗した殉国の志士』(星亮一編 現代書館)の中でも取り上げられている。古典的な労作である『大日本憲政史』(大津淳一郎)でも、幕末において憲法構想をした一人として名前が挙げられている。

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詳細な引用をして論じるのは私の力量を超え、したとしても、時間がかかり膨大な量となって誰も読みたくなくなるに違いない。端的には、『憲法構想』(江村栄一 岩波書店)で、江村栄一氏が赤松小三郎についての解説で記しているところの「イギリス立憲制にかなり似ている」「英学の理解に基づく平等性をみることができる」ということで十分だろう。ここでは、これらの資料からの私の理解として、その内容の要点を若干記すことにする。

赤松小三郎は、朝廷と幕府の合議政体を唱えており、天皇を最上位に位置付けている。そして、将軍、公家、諸大名、旗本などから、道理が明らかで、実務能力があり、情勢に通じた人を6人選任し、うち1人を大閣老とするとしている。これは天皇の補佐機関で、ひたらくは首相と各大臣である。

これに選挙で選ばれた人で構成される上下二局に分かれた議政局を設け、これを国権の最高機関だと位置づける。ここでの決め事に対して、もし天皇が反対しても、再議して議決すればそれが優先されると記している。これこそは“王に悪事をなさしめない”立憲思想の根幹にほかならない。

「門閥貴賤ニ拘わらす」「国中人才を育」「人民平等」という言葉があり、それが国を治める基礎だとのべている。軍は「国之貧富ニ応して御算定之事」「兵は数寡くして」とあるから、不相応な軍備を戒めているわけである。さらに、まずは「お雇い外国人」を勧めており、衣服や食事についても触れている。

京都では塾を持ち、分け隔てなく教え、「諸藩の士争ひて其門に就き」とあるから相当な人気だったのだろう。講義に同席というわけでもなかったようだが、会津、福井、薩摩藩士にその教え子が多くいる。日本海海戦で名を馳せた薩摩の東郷平八郎もそのひとりで、明治39年に追慕で上田に墓参しているという。余談ながら、この東郷平八郎が遺族のもとに訪れ謝意を表したのが、同じく非業の死を遂げたかの小栗忠順である。

口上書の日付は慶応3年5月とあるから、いわゆる明治維新の1年以上前、1867年6月頃で、大政奉還の4ヶ月前、鳥羽伏見の戦いの半年前である。島津久光が兵を率いて上洛し、四候会議が行われるなど、京に不穏な空気が渦まいていた頃だ。この年の11月に坂本龍馬が暗殺されている。

赤松小三郎が西郷隆盛と会ったのは慶応3年7月か8月のことだ。この時に「幕薩一和」を説き、「少しは成可申見込に候」と兄への手紙に書いている。西郷は武力討幕側になっているが、赤松小三郎の思想や構想に多分に共感していたわけである。戊辰戦争に妙に腰くだけなのは西郷の複雑な心境を表しているような気もする。西郷は少なくとも赤松に会った頃までは「幕薩一和」だったはずだ。考えが変わったとすれば、幕府と徳川慶喜への強い失望、豪胆で押し通す大久保利通への義理立てだろう。

さて、京都で名を挙げた赤松小三郎に上田藩から帰藩命令が再三出ている。幕臣への誘いもあり、薩摩の小松帯刀からも引き留められたものの、いよいよやむなく京都を離れ上田に帰郷することとなった。

老中まで出しているいわば親幕の上田藩の赤松小三郎に、薩摩の動きを幕府に知らせるのではないかとの疑念を抱き、以前からその身辺を探らせていたのが大久保利通だと言われている。

慶応3年9月3日(1867年9月30日)、赤松小三郎は白昼の京都の路上で斬殺される。実行犯は、残存していた日記や証言者の言などからほぼ確定されていて、西郷隆盛の腹心であった桐野利秋である。

赤松の暗殺が桐野の独断であったか、上からの指示であったかは定かでない。西郷隆盛はこの時は大坂にいて、京には不在であった。暗殺の前夜、送宴として赤松を誘い出したのは大久保利通のようである。なお、桐野と同じく西郷の腹心であった篠原国幹は赤松小三郎の死を知って非常に悼んでいたという。島津久光はその死を惜しみ異例とも言える莫大な弔慰金を供出している。

私は、猜疑心が強く、陰の行動を辞さない大久保利通の指示で、粗野な桐野利秋が実行した、と自分では断じている。西郷隆盛は決してこのようなことをする人ではない。当時として貴重だったはずの翻訳書も多く出している赤松小三郎が不当に埋もれてしまったのも、多分に大久保利通のなせる業であろう。

ともあれ、幕末の激動の時代に、おそらくは日本近代史上屈指の、赤松小三郎というとんでもない逸材・偉人がいた、そのことは大いに誇り、もっと語られていいのではないだろうか。機を得て、上田市を訪問してみたいと思っている。

2019年3月29日 (金)

西郷隆盛 その30 赤松小三郎1

勝海舟
おまえさんは、学問の話になると、子どものように目を輝かせるねえ。少しも昔と変わっちゃいないんだ

赤松小三郎
多分、そうでしょう。私は、蘭学であれ、英学であれ、学ぶことが好きなんです。それが世のため、人のために役立つならば、いうことはありません

これは『龍馬の影』(江宮隆之 河出書房新社)の一節である。小説なのでこれは創作だろう。しかし、赤松小三郎の生涯を見ると、また、唯一残っている彼の写真を見ると、さらに勝海舟の面倒見のよさを思ってみれば、多分このような会話があったであろうと私も感じる。下掲は赤松小三郎。

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作者の江宮隆之氏はWikipediaには「主に史実に即した伝記的な歴史小説を手掛ける」と紹介されており、ノンフィクションの作品も多くあるようだ。『龍馬の影』は、龍馬よりもさらに進歩的で卓越した構想を得ていながら、龍馬の影に埋もれ、世に知られることがなかった赤松小三郎を描いた素晴らしい作品である。江宮氏は龍馬をして「埋火のような小三郎の生涯に対して、燃え盛る炎のような生涯であった」と表現している。

赤松小三郎は、武士身分ながら、いわゆる軽輩の貧しい家の二男として1831年に信州の上田に生まれている。幼少の時から和算に優れた才を発揮し、算学を活用しての凧づくりの名手だったという。後年赤松家に養子に入るまでは芦田清次郎という名前であった。

学問を志し18歳で江戸に出奔し、内田弥太郎(五観)の数学塾で学んでいる。内田弥太郎は関孝和の流れをくむ当代一流の数学者であり、「微分」「積分」の名づけ親だと記されている。高野長英を通じて間接的にシーボルトの蘭学も修めていた。日本で最初にパンを作ったという伊豆韮山の代官江川英龍に依頼されて江戸湾の測量も担ったようだ。明治5年の太陽暦への改暦も彼が手掛けている。

赤松小三郎は算学だけに飽き足らず、おそらくはその間に聞き知った砲術と蘭学を学ぶために師の紹介を得て、下曽根金三郎という洋学者の門を叩いた。ここでも猛勉強をしてオランダ語を学んでいる。数学の基礎があるだけに砲術への理解が早かったことは想像に難くない。

事実かどうかは不明だが、小説では、その間に、この頃浦賀に来航したペリーの黒船を見学に行っている。そして上田藩主で江戸幕府老中の松平忠固に謁見し黒船について報告して励ましを受けたことになっている。以前にも記したように、この松平忠固こそは開国主義者で、日米修好通商条約を結ぶにあたって朝廷の許諾が不要と主張した、先見の明のあった硬骨の人である。

小三郎はその後赤松家へ養子入りのため上田に戻り、そしてまた再度江戸にのぼる。内田弥太郎、下曽根金三郎からさらに学ぶとともに、今度は勝海舟の門下生になっている。これが縁で、長崎の海軍伝習所で非正規の形で学ぶ機会を得る。

航海術、砲術とあわせ、長崎でオランダ語にさらに磨きがかかる。その頃、英語の必要性を感じ、江戸に戻ってからイギリス騎兵大尉の知遇を得て、横浜に居住している彼の下に足しげく通い、持ち前の才と努力であっという間に英語をも習得したようだ。教科書は軍事や政治に関する原書だから、当然にしてその方面の知識も他の者の追従を許さぬぐらいに身につけたわけである。その後、翻訳も手掛けるようになり、京都で自らの塾を持ち、薩摩の島津久光からも高く評価される。

と書いてくると、「それはそうとして、西郷隆盛の話はどこに行った」とまた尋ねられそうだ。実は、西郷隆盛はこの赤松小三郎と京都で親しく懇談しているのである。福島の関連で触れておくと、NHKの大河ドラマ『八重の桜』の主人公新島八重の兄である山本覚馬とも親交を有し、おそらくは強い影響を与えたはずだ。

当時にあってオランダ語と英語を自在にあやつる異色の逸材、赤松小三郎がどのような考えを持つに至ったか、それは明確に文書として残されているので、改めて紹介したい。驚くべき内容である。

2019年3月16日 (土)

西郷隆盛その28 新政府

以前にも記したように、幕末・維新においては、同時並行的に色々なことが複雑に起こっているので、私の能力では、流れで書けば重要なことが欠落し、時系列で書こうとすれば、全体の流れがうまく書けない。情けなくもあるが、それだけややこしくもある。

 

新政府は、大政奉還を受けて、慶応3129日(196813日)、王政復古が宣言された時の政府中枢として、総裁、議定、参与がおかれた。多くは皇族と公家で、有力大名として徳川慶勝、松平春嶽、山内容堂、島津茂久、浅野茂勲が議定として入っている。これでは頭が重すぎて小回りは効かず、公家ながら行動力のあった参与の岩倉具視、数日後に参与となった大久保利通、後藤象二郎らがあれこれ采配していったのではないかと思われる。

 

このまま行けば血を多く流さずに済んだわけだが、そうはいかない。鳥羽伏見の戦いが起こったのは、慶応413日(1868127日)で、そのことについては以前に記した。

 

いわゆる「五箇条の御誓文」は慶応4314日(196846日)である。「廣ク會議ヲ興シ萬機公論」「官武一途庶民ニ至ル迄」など、立派ではあるが、現実を理想に引っ張る力としては作用しても、その内容がすぐに具現できるわけではない。まずはこの最大の意義は、プライド高き公家が、武家を見下していた悪しき因習に楔を打ち込んだことにあると私は理解している。以前の表現でいけば、朝廷の空間の解体である。

 

大久保利通の意向と思われるが、この後すぐに天皇が大坂に行幸している。本シリーズで多く参考にさせて頂いた佐々木克氏の『幕末史』(ちくま新書)には、大坂で大久保利通が初めて天皇と面会して状況を報告したとあり、これをして「無位無官の藩士が天皇と対面した未曽有の大事件である」と表現されている。

 

その後、総裁職が廃止され、輔相職が創設されて、三条実美(さねとみ)と岩倉具視(ともみ)のツートップになったと佐々木氏の書に解説されている。三条は善良な人だったようだが決断力に欠け、政治体制についてはやはり岩倉具視-大久保利通や木戸孝允のラインを中心に策定されていったのではないだろうか。政治体制についてはその後も変転している。下掲は三条実美(Wikipediaより)。
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なお、幕府の直轄領は新政府が掌中におさめたわけだが、諸藩の領地はそのままであった。タテマエとしては徳川幕府が諸藩に与えていたわけで、それを返上させたのが明治2617日(1969725日)の版籍奉還である。榎本武揚の降伏により函館戦争、いわゆる五稜郭の戦いが終結、戊辰戦争が終わったのが明治2518日(1969627日)だから、新政府の武力勝利をもって間髪入れずにこの版籍奉還をやったわけである。版籍奉還と同時に、公家と大名諸侯は華族と位置づけられた。大久保利通と木戸孝允もその後に華族となったが、公爵とか伯爵などを定めた華族令が制定されたのは明治17年であり、初期のそれは多分に懐柔とお手盛りのようなものだろう。ややこしい階級制度のあった武士を士族と一括して呼称したのもこの時である。

 

版籍奉還といっても、江戸時代は諸藩による地方分権だったから、いきなり秩序を崩壊させるわけにはいかない。とりあえず諸侯は藩知事として任命し、禄を変えてそれぞれの藩は存続させている。版籍奉還には抵抗がありそうなものだが、どこも財政難に苦しみ、藩の維持が重荷になっていた面もあったようで不思議なことにさほどのことはなかった。その後の藩の息の根を止める廃藩置県はさすがに大仕事で、これはクーデターに近い。

 

なお、以前にも書いたように、「藩」は通常に用いられた言葉ではなく、正式にはこの版籍奉還後、廃藩置県(明治4714日:1871829日)までのわずかな期間に使われただけである。「幕府」も公式に使われていたわけではないようだ。ただ、いちいち注釈をつけることはできないので、いささか居心地の悪さを感じつつ、通りのよい言葉はそのまま使っている。

 

居心地が悪いと言えば、元号もそうである。明治と改元されたのは慶応498日(19681023日)だが、溯って改元されているので、慶応411日(1968125日)が明治元年11日となる。しかも、明治元年は閏月として4月が2回、計13ヶ月あるのでややこしい。維新から150年を経過した今、まさに元号が変わろうとしているが、元号表記と西暦表記は相性が悪い。ましてや旧暦には泣かされる。

 

さてその後、明治278日(1869815日)には太政官制が改められ、右大臣三条実美、大納言岩倉具視、参議に大久保利通、前原一誠、副島種臣が就任している。さらに、粗なものは昔にあったとはいえ、民部、大蔵、兵部、刑部、宮内、外務の卿を長官とする各省がおかれて改めて形ができてきた。官僚化していた徳川政権の幕臣はここで結構雇用されている。特に、例外的に低身分からの登用も多かった実務に長けた勘定方はなくてはならない存在であった。

 

こう書いてくると、西郷隆盛はどこに行ったのか、と問われそうだ。実はこの頃は新政府と離れ、隠遁として帰薩していた。だが、本意か不本意か、隠遁ままならず、請われて薩摩藩の体制立て直しなどに携わっていた。ところが、各藩の兵を合わせて新政府直轄の御親兵とするために岩倉と大久保の説得で新政府に呼び戻され、明治42月に上京して兵の取りまとめを行っていく。そして明治4625日(1871811日)に参議に就任する。日本を中央集権国家とする廃藩置県の断行のために西郷が必要とされたのである。

 

こういった幕末・維新の一連のことを見ると、権力奪取のため、綿密な段取りをつけ、勅を活用し、最後は持ち前の胆力で大胆に実行するという大久保利通の手腕はたいしたものだと感じる。

2019年3月 8日 (金)

超未熟児が無事成長!

268gでこの世に生を受けた新生児が無事自力でミルクを飲めるまでに成長したと報道されていた。これは凄い。慶応大学付属病院の未熟児チームの実力とその尽力に心から敬意を表したい。
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http://dimi.gger.jp/archives/small-baby-jp-2019-03-01.html

 

世界記録級だとされているが、これがどれだけのことなのか、一般人にはなかなかピンとこないだろう。私が関わったことがあるのは1000gだが、それでも、こんなに小さいのかと愕然とした思いが鮮烈に残っている。3㎏の普通の赤ちゃんでも小さく感じるが、1000gでその3分の1だ。268gというとさらにまたその3分の1以下である。

 

268gという大きさは、比べるいい例えがなかなか思いつかない。不適切、不謹慎ではあるが、わかりやすいのでお許し頂きたい。

 

全国各地で店舗が展開されているので行ったことのある人は多いだろう。『いきなりステーキ』では、肉の美味しさを味わってもらうには300g以上がいいと勧められている。私はグルメではないので本当にそうかどうかは知らないが、たまに行った時はお勧めにしたがって300gにしている。そう、重さはそれ以下なのである。肺などの軽い臓器があるので大きさの正確なところはわからないが、体の6割以上は水分なので、大体同じか、わずか大きい程度であろう。

 

カンガルーやパンダは“小さく産んで大きく育てる”を実践している。しかし、こと人間にはそういう仕組みはない。「卵で産みたい」と面白いことを言った女優さんがいたが、残念ながら人間にはそれもできない相談だ。神の摂理がそのようになっている。母親がいかに努力しても、1000gでも、ましてや300g以下だと、医療技術での対応が必要で、自然には絶対に生きていけない。

 

まず、肺の発達が未熟なので自力で十分な呼吸ができない。気管挿管と言って、喉から気管に管を入れて、その管を通して人工呼吸をすることになる。268gのベビーへのこの操作は未熟児に習熟している医師であっても、非常に神経を使い、難しい。酸素濃度の微妙な調整も必要だ。

 

栄養投与も特殊なはずだ。腕や下肢での点滴確保は神技の域だろう。だから少なくとも当初は臍帯の血管を使ったはずだ。投与の量にも厳密な調整が必要である。体温調節ができない、特に低体温には弱いのでおいそれとクベースから出すこともできない。

 

それらだけでも超がつくほどの高度な技術が必要だが、最大の難関は感染症対策だ。免疫力が非常に弱いので、感染症で命を落としてしまう。そうならぬようにいかに努力しても、そもそも人間は細菌と絶妙なバランスで共存しており、無菌状態はあり得ないため、絶対はなく、神頼みの心境でやったはずだ。神様が味方してくれたと表現しても、それを否定できる医師はいまい。それでもなお、重ね、凄いことだ。

 

“ちょっぴり医療”とうたいながら、しばらく、ちょっぴりも書いていなかった。いささか忸怩たる思いがあったが、今回、この業界に長く身をおいた者として印象をちょっぴり書いたので、ひと安心。またシリーズの幕末・維新ものに戻ろう。

2019年2月25日 (月)

電気系統のインフラ

一部の奇特な人を除いては、我々は完全に電気に依存している。理屈はわからなくとも、スイッチを入れれば灯りがともり各種家電機器が作動する。それは日常のことで、当たり前だというのが身にしみついている。

 

したがって、台風や地震、事故、故障などで停電になると、大変困る。自然災害はなんとなく仕方ないと思え、不自由さに腹を立てながら、ただただ早く復旧することを願う。だが、事故や故障、さらには自然災害でも長く続くと、「電力会社は何をモタモタしているのか」という声が高まる。それでも日本は停電が少なく復旧も早い方だ。年金世代の男性と違って、自虐はしなくていい。

 

原子力発電、火力発電、水力発電、自然エネルギー発電がどうのこうのと、発電のことばかりに目が向いてしまうが、実は、発電をのぞいても、電力事業というのは非常に高度で巧妙な仕組みでできている。後進国で停電が多いのは、発電というよりも、配電がうまくできていない、あるいは維持できないからで、先進国で停電が少ないのは、その高度な配電技術にある。

 

かつてスーダンの病院を見学した際、病院の外壁をらせん状にグルっと取り巻くような外回廊があるのに驚いた。停電でエレベーターがしばしば動かなくなるので、そのための対策だと聞いた。確かに、エレベーターが止まれば動けない患者の階の移動は困難になる。自慢するほどのことでもないが、よき知恵である。

 

大きな病院は一系統が途絶しても大丈夫なように、必ず二系統以上から電力の供給を受けている。内部には停電があっても電力供給の途絶が起こらないように重要な電気機器にはUPSと呼ばれる高価な無停電装置が働くようにしていることが多い。その間に非常用発電装置を働かせ、停電時においても重要な機器については3日間ぐらい作動できるようにしているわけだ。

 

太陽光発電は別として、発電は発電機のタービンを回すことで行っている。電気は、送電の際のロスが少なくなるよう数万から数十万ボルトの高圧に変換され、100ボルトとして一般家庭に配電されるまで変電所などで何段階にもわたって降圧される。直交流の変換装置や周波数調整装置もある。意識して見れば、結構あちこちに大小の変電所があることに気がつくだろう。電柱にも最終的な降圧配電のためのトランスがのっている。

 

複雑な電気系統のインフラの維持は大変だと思う。それをおいて、配電で極めて重要な要素のひとつは絶縁碍子(がいし)だ。誰もが見たことのある、例の楕円形や螺旋形の白い塊である。高度な絶縁性と強度、耐久性が必要で、しかもあまり重くては使えない。材料として長く磁器が用いられてきた。
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これがしっかりしていないと、漏電が起り、電力の多大なロスを生じるため、高圧にすることもできない。地味な存在ながら、言ってみれば、電気の裏方さん、縁の下の力持ちだ。日本では西郷隆盛が生きた時代、明治2年頃に電信用に導入され、その後に国産も可能となり、改良を重ねて今に至っている。

 

昨今、北朝鮮の電力事情の悪さがよく伝えられる。その原因の一つは、良質の碍子が思うように使えないことにある。送配電の際のロスが非常に多いわけだ。仮に発電所をいくら整備しても、送電、配電の際に漏電が多く起れば、ザルである。

 

私はお隣さんの半島が静かになってくれることを心から願っているが、電気ひとつとっても、単純な統一などできるはずがない。写真はアメリカのNASAが公開した衛星写真。南北格差は一目瞭然だ。それでも韓国はさまざまに苦しんでいる。
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タモリさんは碍子マニアだそうだから、「ブラタモリ」のおかげで碍子にも少しは陽がさしたかも知れない。裏方たる碍子にも、また、日夜不断にメンテナンスに従事している人にも、改めて感謝したいと、なぜかふと思い、綴ってみた。

2019年2月15日 (金)

プチじいさんの自虐

退職した団塊の世代が多いからだろうか、巷には高齢男性の自虐が溢れている。私はいわゆる団塊の世代より少し下で、まだかろうじて勤務をしているが、お役に立っているのかどうか、はなはだ怪しく、年金生活カウントダウンで、今となってはもう団塊の世代とは誤差範囲だろう。自虐、他虐を目にする度に身につまされる。

 

「高齢者」という言葉には抵抗を覚えるが、定義の上では65歳以上だそうだから、それだと私は高齢者を軽々クリアしているわけで、“爺さん”というか、“プチじいさん”として、自虐のひとつも口にしたくなる。元部下からのメールに、「今はもうゴルフに夢中の生ける屍のようなものだ」と返信しておいたら、後日会った時に大笑いしていた。

 

最近に目にしたのは「お地蔵さん現象」という表現だ。何のことやらと思ったら、パソコンの前に座ってずっとネットを見たり検索をしたりしていることを言うらしい。これにはドキッとする。「濡れ落ち葉」だとか、「夫在宅ストレス症候群」、はたまた「粗大ゴミ」だとかがあるので、それならまだ自室で引きこもりを決めこんだ方がいいと思うのだけど、それだと今度は「お地蔵さん」だと。
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https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190214-00193864-diamond-soci

 

そんな哀れなシニアが集う場は意外に多くある。私に関しては、サウナやゴルフ練習場、ゴルフ場、時たまに行くカラオケぐらいのものだが、碁会所や将棋会館、図書館、カメラなどの文化サークル、音楽教室、ウォーキングなども結構賑わっているのではないかと思う。パチンコやボートレースなどのギャンブルもあるかも知れない。旅行という楽しみもある。

 

シニアというか、年金世代になれば、遣えるお金も限られてくるし、その範囲で長年家計を支えてきた者が楽しむ分には大いに結構で、その権利もありそれが健全だと思う。誰しも必ず衰えるわけで、ただ長生きさせるというのは全く大きなお世話だ。働き盛りの時は思うようにできず、先も限りがあり、私は今が“ゴルフ適齢期”だと開き直っている。そういうシニアは間違いなく多くいる。

 

酒を楽しむ人もいるが、それ自体はよしとして、これは度が過ぎると周囲に大迷惑をかけてしまい、自らも階段などで転倒して大怪我をしたりする。業務のひとつとして、年間6000件を超える救急隊の傷病者搬送記録に全て目を通しているが、60歳代、70歳代での酒の害は恐ろしいほど多くある。世間にはあまり知られていないものの、全世界では酒の害で年間300万人が命を落としているようで、WHO(世界保健機構)は各国に警告を出している。私は体質的に酒を全く受けつけず、つねづね“人生損をした”と嘆いているが、こういうのを見ると少しホッとする。

 

歳を取ると小さい字が読みにくくなる。私にも十分その徴候はあるものの、幸いにまだ文庫本が読める。近くのイオンの中に結構大きな本屋さんがあり、週に二、三度新書コーナーに行くのを楽しみにしている。アマゾンでも買えるが、これだとどうしてもハズレが出る。手に取って著者や中身を確認して買った本はまずハズレはないと、これは自虐ならぬ活字好きならではのささやかな自負。もっとも、もっぱら安価な文庫本だからハズレでもあまり怪我はない。

 

先日、久しぶりに鹿児島を訪れる機会があった。城山に行く時に、西郷隆盛が最期に籠っていたといういわゆる西郷洞窟の横を通った。会食の際に超高名な鹿児島の知人が西南戦争をして、「あれほどの人がどうしてあんな馬鹿なことをしたのですかね」とつぶやくように言っておられた。私が「それは謎ですが、同時蜂起してくれる人が多くいると思っていたのでしょう」と答えると、「そんなところかも知れませんね」と。

 

西郷隆盛というか幕末維新のシリーズ、大河ドラマは終わってしまったが、折角に続けてきたので、自虐にばかり浸らず、シニアの楽しみとしてもう少し書き進めていきたい。今回の稿は息抜きまで。

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