日記・コラム・つぶやき

2017年8月22日 (火)

「道の駅おびら鰊番屋」で目にしたもの

北海道のルートとして、留萌から稚内の一般道、通称「オロロンライン」を走って見ることにした。山が迫った沿岸道路にてさぞカーブが多いかと思いきや、さしたるカーブもなく走りやすい実に素晴らしい道路であった。

 

留萌市からしばらく走ったところに小平(おびら)町があり、ここには「道の駅おびら鰊番屋」の案内があって、鰊(にしん)、番屋、ヤン衆といった言葉は知ってはいても、詳しくは知らなかったので、休憩もかねて立ち寄ってみた。

 

番屋というのは鰊漁に携わるヤン衆が寝泊まりするところで、また、捕れた鰊を加工するところでもあった。番屋というにはあまりにもおおがかりな旧花田家の木造の建物が今も残されている。
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ここでにしんそばを食べたが、実に美味しかった。ただ、小骨が多く、本来そんなに食べやすい魚ではないので、そばや食材で消費する分には、また、移送を考えれば大量に捕っても仕方ないだろうに、という疑問があった。それが、保存されている番屋の内部を見学して疑問が氷解した。加工した鰊は肥料として極めて良質かつ高価なものであり、船で全国に送られ、元締めは御殿が建つほどに巨大な富を築いたという。

 

どういうわけか鰊は昭和30年代に忽然と姿を消し「あれから鰊はどこに行ったやら」と北原ミレイさんの『石狩挽歌』にも歌われている。その昔は海に棒が立つぐらい鰊の大群が沖合に押し寄せ浜は大賑わいだったようだ。

 

道の駅の道路を隔てた海側には、「平和への祈り」と記された記念碑が建っている。なぜどうしてここに、と不思議であった。
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これも、すぐそばにある「三船遭難慰霊之碑」に記された一文を見て氷解した。既に日本が降伏した後に、樺太からの三隻の引き揚げ船が卑怯かつ無法極まりないソ連の潜水艦に撃沈され、1700人以上もの無辜の民が犠牲になったのである。それがまさにこの沖合、1945822日のことであった。日本は自らの暴走の果てに残虐な相手に無防備をさらけ出すことになったと言ってもいい。「遭難」と表現しているのは日本人の美徳としての節度であろう。
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今回の旅では、舞鶴引揚記念館も訪れてみた。そのことは稿を改めて記したい。

2017年8月17日 (木)

灯台

岬に出かけると灯台、あるいは岬などと大層に言わずとも、単に波止場に出かけると標識灯という感じで、それらをよく眼にする。眼にはしても、「船の航行の役に立っているのだろう」という程度で、さほど意識もしない。それだけ海の風景になじんでいる。

 

ところが、世の中は広いもので、「灯台マニア」がいる。たまたま書店で手にした近刊の『灯台はそそる』(不動まゆう 光文社新書)の著者は灯台が大好きというアマチュアの“灯台女子”だ。好きな人が思いを込めて書いた本は面白いものだが、この書も例外ではなく、知らなかったことが多く、実に楽しく読めた。
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日本における近代的な灯台は幕末に初めて外国人によって作られた。これは、灯台がない日本近海は“危険な暗い海”で、諸外国から灯台の設置を要求され条約によって築かれたという。当時の日本には灯台建築の技術はなく、“お雇い外国人”に依拠するほかなかった。その一人として、横須賀製鉄所建設の指導にあたっていたフランス人技師のフランソワ・レオンス・ヴェルニーも関わったらしい。このヴェルニーこそは悲劇の人小栗忠順と共に横須賀造船所を作った人である。小栗忠順については稿を別にして記したい。

 

灯台については悲しい話も多いようだ。大正時代、積丹半島の神威(カムイ)岬の灯台守の母子が買い出しの際に危ない道を通らざるをえず、波にさらわれて亡くなったという。

 

現代でこそ全自動だが、昔は灯台守が必要とされ、気象観測もあわせ過酷な業務に従事していた。これは「喜びも悲しみも幾歳月」という映画で描かれている。中井貴一の実父で、交通事故で37歳という若さで早逝した佐田啓二が主演している。

 

「日本全国には明治、大正時代に建築した灯台が今でも100基以上現存し、なおも運用されています」と同書に記されている。ところが、海に囲まれているため明治29年に初めて作られて以後多くあったはずの沖縄には古い灯台は残っていないという。その理由はひとえに戦争である。戦禍の中でことごとく破壊されてしまったのである。著者は巻末に「私が愛する灯台10選」を挙げているが、その一つに沖縄の残波岬灯台がある。残波岬のある読谷は米軍が上陸した場所である。沖縄でドクターヘリ事業を手掛けた際に最初に基地を設置したのは残波岬の灯台に近いところで、私にとっても思い出深い。

 

旅ネタに戻して恐縮だが、1ヶ月の長旅の写真を見返してみるに、特に意識したわけでもないのに、灯台がいくつも写っていた。本稿末に一部を紹介しておく。

 

経ヶ岬灯台は丹後半島の先端の断崖絶壁にある。車で行けるところからはちょっとしか見えない。先人の苦労が偲ばれる。
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 下北半島の大間﨑には弁天島という小島があり、そこには大正10年に灯台が設置されている。

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 愛知県の渥美半島の先端にある伊良湖岬灯台と防波堤灯台。

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襟裳岬は船の難所だそうで、襟裳岬灯台は堂々たる威風である。たくましく船の安全を守ってきたのだろう。

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2017年8月 9日 (水)

斗南藩

会津の悲劇は、敗戦、落城、婦女子などの自決、また、上級藩士の子息が中心であった白虎隊の飯森山での集団自決がその象徴として語られることが多い。会津戦争で新政府軍に降伏した会津藩は、いったん廃藩となった後に、斗南(となみ)藩として下北半島などに領地が与えられた。実のところ、これもまた大きな悲劇だったのである。

 

会津藩と称したが、「藩」という呼称は江戸時代にはほとんど用いられておらず、これは明治以降に定着した表記である。また、会津藩士といっても、いわゆる土着ではなく、もとを辿れば多くは信州などからの移入だ。したがって、戦乱の中でともども悲哀を味わったことは確かでも、もともとから居住していた人々と藩士は分けて考えた方がよい。必ずしも善政が行われていたわけではなく、会津藩士に反感を抱いていた住民が多かったとも聞く。もっとも、それは会津に限ったことではなく、江戸時代には支配層レベルにおいて“お取り潰し”や移封、加増が頻繁に行われ、その一方、被支配層たる庶民はそのままで、なかなかややこしい。これは血統についても言えることで、嫡子、庶子、養子が入り乱れている。近代においても、大正天皇ですら母親は皇后ではない。ただし、こういったことは、不倫ひとつで大騒ぎのネタとなる(メディアにさほど倫理感があるとは思えず、単に面白がって報道しているだけという気もするが)現代感覚で推し量るべきではないだろう。

 

さて、それらはともかく、大原綜合病院の平子健理事長に勧められて読んだ『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著 中公新書)は私にとって衝撃的で心に残った書である。それは何かと言えば、のちに陸軍大将にまでなった会津藩士の子息柴五郎が下北半島で味わった辛酸である。火山灰の痩せた土地で農作物もろくに育たず、あばら家で飢えと酷寒に苦しみ、「まことに顧みて乞食の一家なり」「挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」と記している。

 

多くの会津藩士が移住したのは下北半島の田名部(たなぶ)、今のむつ市である。なぜ火山灰なのかちょっと不思議だったのだが、むつ市から直線距離でさほど遠くない霊地恐山に行ってみて、これはまさしく火山そのものだと、疑問が氷解した。この1万年ばかり大噴火していないだけで、恐山の宇曽利山湖は紛れもないカルデラ湖であり、むつ市のどこからでも見える釜臥山は外輪山のひとつである。会津藩士は、この山を磐梯山に見立てて心の支えとし、故郷を懐かしんだという。写真は恐山の宇曽利山湖と釜臥山の遠景。
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恐山の本坊はむつ市の円通寺で、そこには斗南藩の拠点がおかれていた。そして、円通寺から数㎞程度離れた場所(斗南ヶ丘)にかつて会津藩士が定住を図り、井戸を掘り、土塀をあつらえた居宅跡があった。今はわずかに痕跡を残すのみだ。なお、柴五郎の居住地は田名部から西北に離れた山裾である。
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斗南藩の痕跡は今の青森県に散在しているようだが、まさに本州北端の大間にもあった。それは大間在住の会津藩士の末裔たる木村重忠氏が私的に開設している会津斗南藩資料館である。たまたまその看板を目にし、入館してみた。木村氏は「よくぞ来てくれた」とばかり懇切に説明して下さった。そこには旧会津藩主松平容保が書き残した「向陽處」と大書された額がおかれている。太陽に向かう明るい大地で努力すれば必ず報われる時がくる、という意味のようだ。苦労のかいもなく廃藩置県で斗南藩は断絶させられたわけだが、北の大地で悪戦苦闘する会津藩士を鼓舞する意味があったのだろう。

 

その後の会津藩士は、下北半島に定住し、あるいは青森県で名士となった者もいるし、柴五郎のように上京して立身出世をした者もいる。が、多くは慣れない厳しい気候と開墾の困難により、悲嘆と屈辱の中で再び会津に戻らざるを得なかったようだ。

 

江戸幕府の崩壊から明治への移行期、会津藩ならずとも、悲劇は数多くあった。それでも、縁あって手にした『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』を思い起しながら、会津藩士の旧跡にその苦労を偲びなにがなしに感傷を覚えた下北半島行であった。もう少し触れるためには厳冬期に行ってみなければならないだろう。

2017年7月28日 (金)

日本の風景点描

愛車での1ヶ月の長旅を無事終えた。本島をジグザグに縦断し、北海道を一周して常磐道や東名高速を通り、紀州路も走ったので、走行距離は総計7750㎞になった。じっくり写真を撮ったわけではないし、写真技術も全くないけれども、「ああ、これは綺麗だなぁ」と感じる風景も多くあった。今回はそのいくつかを画像で紹介してみたい。

 

京丹後市という名前も知らなかったが、丹後半島をぐるっと回ってみた。道の駅に複数のいかにもそれらしい綺麗な写真とともに、「ここは北海道?沖縄? いえ、京丹後です」というようなキャッチコピーがあって、ユニークで面白い。なかなかに風光明媚な半島だ。浦島太郎伝説発祥の地らしい。
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引揚記念館に立ち寄った際に見た舞鶴湾にかかる舞鶴クレインブリッジ。
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黒部の室堂の「みくりが池」越しに見る日本アルプス。画面左奥にちょっと見えるのが剱岳と思われる。トロリーバス、ロープウェイ、ケーブルカーを乗り継いで汗のひとつもかかずに2000mの高さからの光景が楽しめるのはありがたい。昔の登山家はここまで来るだけでもさぞ大変だっただろう。大町側からではあまりにも急峻なので、多くは富山側から入山したらしい。
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定番の奥入瀬渓流。今でこそ超有名だが、大町桂月という文学者がこの渓流をこよなく愛して名を広めたようだ。恐山でも彼の名前に接した。
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下北半島のかわうちダム湖。なぜか噴水が設置されている。
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根室の春国岱越しに見る夕陽。

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摩周湖。これだけ素材がいいと下手でも綺麗に撮れる。
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襟裳岬。私のお気に入りの一枚。
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フェリーに止まっていたウミネコ。どこにでもいるのであまり有難みはないけれど、美しい鳥だと思う。知床半島にもたくさんいた。ちなみに、カモメは渡り鳥で、その仲間のウミネコは留鳥らしい。北海道の漁師は鰊漁の指標として大切にしていたようだ。
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南紀にもこんな清々しい渓流があった。
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旅には色々な楽しみかたがある。記憶を辿りながら写真を見ていくのもそのひとつだろうと実感する。

2017年7月14日 (金)

見るのはいいが、入っちゃなんねえ

これは網走刑務所のキャッチコピーである。思わずふき出してしまう。といっても本物の内部を見ることはできず、「博物館網走監獄」のことだ。

 

網走というと、重罪者の刑務所があるところ、ということでよく知られている。網走番外地という意味では、最果ての薄汚いところ、というイメージかも知れない。私もそうだったのだが、聞くと見るとでは大違いで、網走は、オホーツク海と湖に囲まれた緑多き綺麗な街だ。いかにも寒そうな気もするが、意外にそうでもなく、道東では最も寒暖の差が少なく、気候的には比較的おだやかなところらしい。それと、今は重罪者だけを収監しているわけではない。

 

博物館があるというのは知っていたので、好奇心で行ってみた。話のネタにちょっと見るつもりだったのだが、さっと見るというのはとてもではないが無理で、広い敷地に、明治時代の建物が移設してあり、その歴史や獄中生活、エピソードなどなど、全部詳しく見ていけば軽く半日は費やしてしまうぐらいの本格的なものだ。刑務所を博物館として残している例は世界的にもほとんどないという。

http://www.kangoku.jp/exhibition_facility_list.html
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収容されている相部屋の様子やなかなか迫力ある入浴の様子も蝋人形でリアルに示されている。こういうところを「ムショ」と呼んでいて、私もてっきり刑務所の略語だと思い込んでいたが、そうではなく、主食が麦64の割合というのが由来らしい。
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入る時も出る時もこの橋を通ったという鏡橋もあり、裏門もそのまま移設されている。高倉健もこれを通ったのだろうか。いや、それは映画の中の話。
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展示してある資料によれば、明治の元老山縣有朋は、「堪へ難キノ労苦ヲ与へ」と記していたようで、実際、囚人に対して人権無視の苛酷な労働が課せられていたようだ。その一つが、網走と北見を結ぶ道路の建設で、労役にあたった1115名中186人が死亡したという。網走に移される前は標茶に収容されていて、そこでは硫黄山の硫黄採掘に使役され、数百人の命が失われている。この硫黄山は摩周湖の近くにあって今は観光スポットになっており、私も訪れてみたが、今でも、黄色く割れた岩肌から硫黄臭のガスが噴き出している。
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ちなみに、明治5年に公布された監獄則には、「獄ハ人ヲ仁愛スル所以ニシテ人ヲ残虐スル者ニ非ス」と緒言に記されている。謀略に近い形で殺された初代司法卿江藤新平と、ほぼ同世代ながら長く権力の座にあった山縣有朋との人権意識は大きく異なっている。

 

もちろん、そういう小難しいことを考える必要はない。昔このような監獄があり、囚人が収監され、こういう生活を送っていた、と知るだけでもいいのではないかと思う。外国人も含め、多くの人がこの博物館を訪れていた。土産店もあり、「出所せんべい」など、なかなかに面白い品揃えがある。これはこれで単純に楽しめるだろう。

2017年7月11日 (火)

お笑い種の“冒険”

あちこちジグザグに走ったり、福島に立ち寄り、また、恒例の北海道でのゴルフに興じたりして、ようやく網走まで着いた。621日に北九州を出発して、710日、宗谷岬で走行距離が丁度5000㎞になった。「思えば遠くに来たもんだ」とも思うが、愛車のスバルインプレッサG4は快調に走ってくれるし、日数をかけて楽しみながら移動している。

 

植村直己の冒険館を再訪したことを書いたが、植村直己はそれだけの能力と気力があったからできたことで、私自身は冒険などできもしないし、する気もない。ところが、桐生を発って新潟を目的地として、足尾銅山、日光、今市、鬼怒川を経由して福島の檜枝岐に抜けたまではよかったが、ナビは会津経由で新潟に行くよう指示していたのに、直線距離はこちらの方が近いと、ナビにさからって奥只見を経由して魚沼に抜ける道を選んだのが大失敗で、お笑い種のささやかな“冒険”になってしまった。

 

檜枝岐(ひのえまた)は、もはや会津とは言えないぐらいの奥地にありながら、尾瀬観光の入り口の一つで、温泉、歌舞伎などで名前をよく聞く有名地なのにまだ行ったことがなく、どんなところか一度行ってみたかった。写真では一部しか見えないが、山奥の狭隘な峡谷のわずかな平地に温泉宿が多くあった。名にしおう豪雪地帯だが、夏場はさぞ賑わうのだろう。
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檜枝岐からいわゆる“樹海ライン”に入る。国道352号線である。少々カーブがあっても、いかほどのことがあろうかと。ところが、いかほどのことがあったのである。

 

あとで調べてみて、Wikipediaには次のように記載されている。

新潟県魚沼市から福島県檜枝岐村までは枝折峠奥只見湖沿い、そして県境付近で急カーブの連続した1 - 1.5車線程度の断崖絶壁に沿った狭隘な道が続き、俗に言う「酷道」の1つに挙げられている。

 

確かにその通りで、行けども行けども、果てしなく続く上がったり下がったりのカーブカーブの連続。「この先、カーブがあります」という意味なきナビの声もかすれてしまいそうだ。人の気配も全くない。行きかう車両もなく、道の真ん中に蛇が鎮座したりしていた。「沢流れ」というらしいが、雪の残る沢からの水が道路にそのまま流れ出ているところも多い。スリップして崖に転落したら一巻の終わりで、この時ほどMモードにシフトした4輪駆動の頼もしさを感じたことはない。

 

檜枝岐に戻ろうにも、もはや深入りし過ぎて夕暮れも迫っている。昼食を摂りそこねていたため空腹にも襲われる。もちろん、自動販売機などあろうはずもない。道路脇の標識に「ようきたのし」と方言で書かれているのが、我がバカさ加減を笑われているようであった。魚沼の小出インターまでまだ44㎞もあると知ってウンザリ。闇に包まれたらどうしようかと恐怖すら覚える。
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ようやくにして奥只見シルバーラインという道に入る。これならもう大丈夫だろうと思いきや、今度はトンネルにつぐトンネル。それでも樹海ラインの最難所はバイパスしてくれているそうだが、ダム建設用だった濡れて暗いトンネルだらけというのは気持ちのいいものではない。最後のトンネルを抜けて、夜のとばりがおりる寸前、ようやくにして大湯温泉という方向指示の看板を見た時は大げさながら、心底ホッとした。福島でこの話をしたら、「えーっ、あそこを通ったんですか。あの道は地元の人は誰も通りませんよ」と。とんだお笑い種であった。

 

我がアホさを取り繕うわけではないが、ひとついい点はあった。それは、奥只見ダム湖である。1分でも惜しい中、どの方向に向いているのか把握する余裕すらなかったが、この美しい景色だけは写真に撮っておこうとシャッターを切った。素晴らしい素材を前にして、写真技術を覚えなければと痛感した。とても一度には書けないが、旅は啓発の連続である。少しずつ紹介していきたい。
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2017年7月 3日 (月)

植村直己冒険館

兵庫県豊岡市にある植村直己冒険館を再訪した。以前に訪れたのは20年も前のことだろうか。今回、冒険館前に設置してあったパネルは記憶がないので、多分その後に作られたものだろう。
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植村直己は、日本人として初めてエベレストの山頂に立ち、五大陸最高峰を登頂している人なので、登山家として超一流であったことは間違いない。アマゾン川の筏での川下りや犬ぞりを使った北極圏の走破などもあり、直前にフォークランド紛争で潰えたものの、南極にもチャレンジしようとしており、冒険家、探検家とも称されている。
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御本人は著述家だとは微塵も思っていなかっただろうが、実のところ、著作も結構ある。私は若い時から植村直己ファンで、手に取れた限りは全部読んだ。おりおりの便りにイラストをそえたものは作品としても一級品だと思う。それだけに、19842月、43歳の誕生日を迎えたばかりの日に、厳冬期のマッキンレーで登頂後に消息を絶ったという報道には長く沈鬱な思いが拭えなかった。もちろん望みはないのだけれども、生あらば、今は76歳である。

 

私流に表現すれば、植村直己は「偉大なるチャレンジャー」だ。探検しようとか、あえて危険な場所に赴こうとか、はたまた歴史を作ろうとか、そういうのは二の次で、「こういうことをやってみたい」が高じてその積み重ねがこの足跡を残したのではないかと感じる。それだけの能力があり、実現に向けての段取りは相当に周到である。エベレストの単独はさすがに無理だったし、チャレンジの費用の捻出やスポンサーの獲得には苦闘を余儀なくされているが、「孤高の人」加藤文太郎に憧れていたということもあって、自分の勝手な思いにできるだけ他の人を巻き込みたくないという思いが単独行を多くしたのではないかと思う。

 

冒険館には植村が登山の時に背負っていた重さのリュックがおいてあり、私も背負ってみた。相当に重く、私では平地ですら数百mも歩けないだろう。登山家にとっては当たり前のことであっても、その凄さの一端を感じる思いであった。

 

植村直己は3000㎞の距離を肌で知るために稚内から鹿児島までほんの小手調べで歩いている。私はと言えば、九州を発って、あちこち立ち寄りながらジグザグに走って弘前にいる今、走行距離は3500㎞になった。これは普通の人にはとても歩けるようなものではない。車で高速道路か舗装道路だから安全走行に徹すればどうということはないはずだが、それでも、事前調査不足にて、これは“悪夢”か、とでもいいたくなるようなお笑い種の“冒険”がひとつあった。次回はそれを紹介したい。

2017年6月24日 (土)

しまなみ海道

以前に「橋作りの技術」として下関と門司との間にかかる関門大橋を題材に書いたことがある。九州に住んでいて山口県と行き来することが多いだけに、この関門大橋の壮大さにはいつも感嘆してしまうのだが、今回、尾道と今治をつなぐ「しまなみ海道」をはじめて走ってみた。

 

時間があったので本当に久しぶりに尾道市街に立ち寄ってみた。街も家並みも昔とは様変わりしているけれども、当たり前のことながら、今も坂が多い。映画『東京物語』の笠智衆さんが縁側で夕涼みをしていても全く違和感がないような古い家もある。自分が瀬戸内育ちだからかも知れないが、やはり何か情緒を感じる。

 

しまなみ海道は “橋づくし”とでも言うような壮観だ。正式には西瀬戸内自動車道と言うらしい。向島は尾道からほんの川ほどの狭い海峡でしか隔てられていないが、それでも橋があるかないかで大違いではある。向島から因島、生口島、大三島、伯方島、大島、そして今治とつないでいるわけだから、すごい事業をしたものだ。(図はWikipediaより)

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写真は因島大橋
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写真は生口大橋
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この橋は姿が異なる。橋作りには色々な工法があるそうで、理由を調べてみたい気もする。ただ、そんなことをしていたら橋にはまって、橋オタクというか、橋マニアになってしまうかも知れない。

 

これは来島大橋 この来島海峡というのは潮流が速く、小島があったりして船の難所らしい。
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来島と言えば、もう若い世代は知らないだろうが、坪内寿夫という来島ドックを再建し、請われて、危機に陥った佐世保重工をも救った立志伝中の人がいる。毀誉褒貶があるにせよ、私はこの人はたいした人だったと今も思っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E5%86%85%E5%AF%BF%E5%A4%AB

 

四国に渡って、帰りは坂出と倉敷を結ぶ瀬戸大橋を通った。正式には南北で10の橋からなる備讃瀬戸大橋というらしいが、これも巨大な橋だ。
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瀬戸内海の橋のことを書いても、内海に小島がたくさん浮かんでいるようなところは東北にはないので、東北地方の人にはなじみがないかも知れない。けれども、もし機会があれば、立ち寄ってみて欲しい。その価値はあると思う。私は逆に、まだあまり知らない東北を知りたいと、これから檜枝岐や下北半島の方も予定している。

2017年6月16日 (金)

思い出のスーダン Part 2

スーダンの首都ハルツームは砂埃の街という様相だ。だが、ここはエチオピア高原から流れてくる青ナイルと、ケニアとタンザニア国境にあるビクトリア湖から流れてくる白ナイルの合流点で、ここから大きなナイル川となってエジプトの方まで途方もない距離を流れていく。日本列島の軽く倍以上の長さになるわけで、そのスケールを実感するのは難しい。

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夕暮れ前、ホテルの周辺を散策してみる。名前でしか知らなかったナイル川が眼前にあり、感慨深い。国立博物館に接した公園は緑が多く静かなところで、親子連れもいて、危険な雰囲気は微塵もない。心地よい風にあたりながら、本当にここはアフリカ、それも、欧米には悪名高きスーダンなのかと思ってしまう。

 

ホテルで見たテレビでCNNが繰り返し報道していたのが日本で起こったテロ、いわゆる地下鉄サリン事件だ。死亡者もいて何千人も負傷したらしい。遠くスーダンから母国のこんな悲惨なニュースに接するとは思いもよらなかった。これではどっちが危ない国かわからない、としみじみ感じたものだ。

 

ハルツームではイブン・シーナ病院を訪問した。出迎えてくれた細面の魅惑的なスーダン人の女医さんが、「ようこそいらっしゃいました」と流暢な日本語でにこやかに挨拶してくれたのにはびっくりした。聞けば、JICA(国際協力機構Japan International Cooperation Agency)の研修で日本に滞在していたらしい。イブン・シーナ病院もJICAの支援で建てられている。

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イブン・シーナ病院は特に泌尿器系の疾患を多く取り扱っているこじんまりとした近代的な病院なのだが、建物の外壁に回廊がある。日本ではあまり見ないが、これは、電力事情が不安定な国だとエレベーターの作動が不安定で、こういう回廊を使って患者の移動をするそうだ。

 

翌日だったか、ハルツームから400㎞離れたゲダレフというエチオピア国境に近い街に行くという。昼過ぎの出発予定が車両の手配の都合で遅れて、夕暮れになってしまった。勘弁してもらいたいと思ったが、今さら逃げ出すわけにもいかない。聞けば、4時間で着くそうだ。高速道路があるわけでもなし、いったいどうしたらそんな時間で着けるのか理解に苦しむ。出発してみると、中国が整備したという道路を猛スピードで突っ走る。確かに早いが、全く生きた心地がしなかった。ただ、途中で休憩した日本で言うドライブインから見上げた夜空には今まで見たこともないほど多くの星がきらめき、これは感動ものであった。

 

翌朝はゲダレフのUNHCR事務所を訪問。なんとここで日本人女性がスタッフとして働いているという。現地スタッフが、「彼女は難民キャンプのパトロールに出かけているので連絡を取ってみる」ということで、無線から聞こえてきたのは若い女性の声で、「せっかくいらして下さったのにお会いできずに申し訳けありません」と。我々は短期訪問だが、彼女は長く滞在するわけで、なんとも逞しい。当の彼女には後年にジュネーヴのUNHCRの本部でお会いする機会があった。国際機関には日本人女性も多いようだ。

 

そういえば、日本人医師川原尚行氏は、ロシナンテスというNPOを設立し、長くスーダンで医療を主体とした支援活動をしている。スーダンの日本大使館の医務官をしていたこともあり、スーダンとの往復回数は日本人として氏がダントツなのではないだろうか。時間のある折にホームページを参照して頂ければ幸いである。

https://www.rocinantes.org/

 

川原氏が活動をはじめたのは私のスーダン訪問よりあとのことだが、直接の知遇を得る機会があり、時にささやかな寄付もしている。それにしても、私のような軟弱な凡俗とは、その行動力、逞しさにおいて、次元が違う。

 

PKOとして自衛隊が活動したのは南スーダンの首都になっているジュバだ。当時は紛争地だったこともあって私は行く機会はなかったが、国際線のジェット機も離発着できる飛行場が整備されていると聞いた。この地には5年以上にわたってのべ3000人を超える自衛隊員が派遣されている。日本から遠く離れた地で、慣れない暑さの中、任務の困難さは半端ではなかったと思う。今年527日に無事に撤収が終了し、私も安堵する思いであった。イブン・シーナ病院がそうであるように、自衛隊が整備した道路も、長く心にとめて頂けるのではないだろうか。

 

末尾に余談を一つ。スーダンにはスーダン航空というのがあって、以前に触れたWHOのイラン人所長は、これを「インシャラー航空」と呼んでいた。インシャラーというのは「神の御心のままに」というアラビア語で、飛行機の時間がいつも遅れ、ドタキャンもあって全くあてにならないのは、誰のせいでもない、「神の御心」だそうだ。本来は敬虔な言葉のようだが、飛行機以外にもよく出てくる。最高の言い訳ではあるだろう。スーダンの人に「そんなにあてにならないのか」と尋ねると、「いや、スーダン航空は定刻だ」と言う。怪訝な顔をしていると、「よく遅れるけれども、時に早く出るから、平均したら定刻だ」と。イラン人も面白いかも知れないが、スーダン人もなかなかに面白い。

 

ゆっくりと外国旅行というのもシニアの楽しみのひとつだろうけれども、私の場合は、国内でまだ行っていない街や場所を訪れてみたいという思いを以前から抱いていた。今にしてようやく愛車での日本列島ジグザグ縦走の旅が叶いそうになった。計画通りに行けば来週に出発するので、次回からは、旅のつれづれをも写真入りで綴ってみたい。

2017年6月 8日 (木)

早起き三両、宵寝は五両

「早起きは三文の得」という諺がある。


西洋にも「The early bird catches the worm.」というのがあるから、洋の東西を問わず、早起きは好ましいことなのだろう。

 

表題の言葉もほぼ同義だが、私は桂米朝さんの落語「持参金」で初めて知った。「そのぐらいのことで三両、五両だのということはないだろうけど、まあまあ、そうしたもんや」とうまくおさめている。「昔の人の言ったことにおろかはない」そうで、時代が変わり科学技術がいかに発達したとしても、人間がそうそう変わるわけではないので、諺にそれなりの重みはあることは確かだ。

 

ちなみに、「持参金」というのはやや下ねたチックな滑稽噺で、米朝版も全編これ大爆笑だ。早起きしたがために借金の催促をされ、「ロクなことあらへん」とのボヤきが本筋の頭におかれている。以前にもちょっと触れたが、現時点でもYouTubeで楽しめる。よくも自分で笑わずに語れるものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=QpjYFJzyuIs

 

長たらしい前置きになってしまった。これはひとえにブログをアップする間隔を空けてしまった後ろめたさと、その言い訳の前フリ。いや、義務で書いているわけでもないし、誰に責められるというわけではないので、後ろめたく思う必要はないのだが、自分で、大体週110日に1つというのを目標にしてきたのが随分空いてしまった。

 

実はこの5月、完全に早寝早起きであった。心がけてということではなく、なぜか午後10時を過ぎたら眠くなり、午後11時前には就寝し、午前5時か6時に起きる、という繰り返しであった。定義上で高齢者になったからいきなり早く目が醒めるというものでもなかろうが、大体が夜更かし型だったので、いつまで続くかはともかく、ライフスタイルの大きな変革ではある。

 

夜に何か書いていると寝つけなくなる傾向があるので、それで翌日睡眠不足で辛くなるよりは早寝の方がいいかも知れない。その分、夜に筆が進まない。早起きがどうかというと、これは落語とは違って三文どころではない得をして結果的には非常によかった。

 

その得が何かと言えば、ゴルフである。ギリギリに起床してバタバタとコースに出かけ、ストレッチもそこそこにスタートしていくというのでは、初めからいいスコアを放棄しているようなものだ。午前6時前に起きればゆったりなので、レンジで50球ぐらい打って、コースではスタート前にパットの練習がしっかりできる。それにしても、早朝の練習場にあんなにたくさん人がいるとは知らなかった。

 

それで、何を得したかというと、40人ぐらいのコンペで優勝し、余勢をかって所属コースの理事長杯でも優勝してしまった。どちらもハンディ戦だったので、ハンディの多い私がさほど自慢できる筋合いでもないのだが、それでも、理事長杯と言えばコースの三大競技の一つで、私にとっては身に余る光栄であった。大きな優勝カップに名前が刻まれて長く残るというのは何とも嬉しい。

 

理事長杯では、カメラが趣味の理事長が参加者の写真を撮ってくれていた。嬉しさついでの余興で、1枚紹介しておこう。運動神経ゼロの私にしてはこの時はまずまずサマになっていたようだ。ついでに付記しておけば、優勝した翌週にネズミ捕りにつかまって長く維持したゴールド免許がパーになり、2点の罰金を払うはめになった。「好事魔多し」というが、皆様もいにしえからの諺をどうぞ大切に。
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