日記・コラム・つぶやき

2020年4月21日 (火)

『ポツンと一軒家』

『ポツンと一軒家』というテレビ番組はまことに面白い。最近は日曜日をまたいでどこかに出かけるということはまずないので、放映の時はいつも見ている。

父母や祖父母、先祖、故郷への郷愁か、そういう生活を自ら選んだか、人里離れたところに住む理由はさまざまだろうけど、登場する皆さんはたいがい明るく屈託がない。取材を試みた大部分はボツになるらしいから、選択されたものだろうし、ある程度の演出もあるのだろうけど、少なくともドラマのような嘘っぽさはない。それでいてドラマのような人生模様が描き出されている。

かく言う私も父親は「ポツンと一軒家」の出身で、私はそこで生まれたらしい。何軒かの集落ではあったようだが、よくあるように、不便さに耐えかねてか、仕事かで出ていった、というパターンである。

かすかな記憶を頼りに、もう何もないその地の近くまで行ってみた。番組ふうにグーグルで表すと下図のようになる。真ん中あたりの茂みが家のあったところだ。この地区には、70歳代の女性がたった一人で暮らしているそうだ。そのうちそこに取材が来るかも知れない。

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崖沿いの斜面の細い道をグルグルと、そのかたが住んでいるところまではさほど問題なく車で行ける。ところが、そこから先はわずかに轍(わだち)がある程度で、写真の先にあるはずの住居跡には徒歩ですら危なくて行けない。

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それにしても、こんなところでどうやって暮らしていたのか。峠なら交通の要衝として宿場という手もあろうが、とてもそんな場所ではない。農業か林業だろうけど、生活の糧にできそうな広い畑地はなさそうだし、田んぼも無理だろう。特産品も聞いたことがない。木の切り出しも容易ではない。

亡父はここから学校に歩いて通い、寄宿舎を利用して、旧制中学から、今の教育学部、当時の師範学校に進んでいる。本当は帝大に行きたかったと口ぐせのように言っていた。両親を早く亡くし、姉弟も早逝したため、山林の一部を売って学費にし、自家用車まで保有したと聞いた。当時は木材に価値があったのかも知れない。その後もしばらくここに家があって、バイクで勤めに出ていたらしい。親不孝にして生前は考えたこともなかったが、今思うに、たいした頑張りではある。亡き母もよくこんなところに嫁いできたものだ。番組に惹かれるのもそういうことが関係あるのかも知れない。

『ポツンと一軒家』では、人々が神社を大切にしていることが伺える。私のルーツの山の稜線のかろうじて歩いていける端っこにも祠があり、もうお詣りする人も手入れする人もおらず、朽ち果てて崩壊寸前の姿になっている。昔時は、村人達が、豊穣を願い、厄災のないことを祈ったのだろう。

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実のところ、この地の山林に私名義のものがまだある。書類上で相続しただけのことで、正確な場所も境界も知らず、全く実感はない。時々電力会社関係から「木を切ってもいいか」という打診があるぐらいだ。山荘でも建てて仙人のような生活に回帰すれば少しは受け継いだ山林を管理できるかも知れないが、そんなことは私にはとうていできない。もちろん子供達にとっては遠く離れた全く縁がない場所である。

このままでは、今まさしく社会問題化している所有者不明の土地にいずれなることは間違いない。そこで、役所に行ったり、森林組合に相談したりした。山林は環境には重要でも個人にとっては実価値がなく、聞いたところによれば、同じ悩みを抱えている人が非常に多いらしい。

相談はしたものの、その後音沙汰なく、仕方がないとあきらめていた時に、「無償供与という形でよければ、今後をお引き受けします」との連絡が森林組合からあった。先で社会に迷惑をかけてはかえって先祖に申し訳けないので、それでお願いすることにした。ダイヤモンドも金も石油も出ないが、結構立派な木はある。保安林としての意義も大きいし、遠い将来に何かのお役に立ってくれたら嬉しいと思う。

このようないきさつがあるだけに、『ポツンと一軒家』のかたがたの心意気にはうたれる。私がそうであるように、後ろめたさと、「できるものなら自分もそうしてみたい」という憧れもちょっぴり抱きつつ、多くの人がこの番組を見ているのではないだろうか。

2020年4月11日 (土)

高齢者の日常に潜むリスク

新型コロナウィルスは、「日常におしよせた非日常の巨大なリスク」だ。「まさかこんなことが起こるとは」というのが多くの人の思いだろう。

さて、新型コロナはさておいて、今回は、リスクはリスクでも、「高齢者の日常に潜むリスク」の一端について触れてみたい。いつもは書などを引用するのだが、これについては自分の言葉で語ることができる。

というのは、私の今の業務のひとつとして、年間7000件以上にも及ぶ救急隊の搬送記録すべてに目を通しているからだ。必要に応じてその後の診療記録も参照している。

これで非常に目につくのが高齢者の転倒だ。つまずいた、階段を踏み外した、脚立から落ちた、急なめまい、エスカレーター、飲酒、などなど、原因はさまざまである。脳神経疾患、心疾患などによる場合もある。ただ単に転んだというだけでは救急車は呼ばないから、搬送されるのはおそらく氷山の一角だろう。

とある論文によれば、高齢者の転倒の一割が骨折を伴うという。多いのが大腿骨の頭というか頸のところが折れる大腿骨頸部骨折だ。高齢者が転倒して動けなくなり太もものつけねを痛がる場合はまずこれを疑う。手首の骨や上腕骨を骨折する場合もある。

転倒して頭を打撲して出血してしまうというのもよく見る。頭皮は血流が多いので出血が派手に見えるが通常はたいした量ではない。ただ、周りの人がびっくりして救急車を呼ぶわけだ。バスの乗降や歩径路のブロックが危ない。運が悪いと、頭部の打撲で急性硬膜下出血や外傷性くも膜下出血を起こしたりする。また、すぐに発症するわけではないが、慢性硬膜下出血の原因になったりすることもある。

慢性硬膜下出血(血腫)は、受傷後3ヶ月以内ぐらいに血液を混じた液体が緩徐に溜まって脳を圧迫し、性格変化や認知機能障害をきたす。緩徐に発症することが多いため、認知症として見過ごされてしまうこともある。頭部CTを撮れば一発で診断でき、局所麻酔で穿頭洗浄術という比較的簡単な手術で症状が劇的に改善するが、見落とされると死につながりかねない。決して稀ではなく、患者にとっても医師にとっても重要な疾患である。

クラスター、オーバーシュート、ロックダウン、だのという今流行りのカタカナ用語で高齢者の転倒を表現すれば、ロコモティブシンドロームという。そういう難しい言い方をせずとも、ヨロヨロ、ヨタヨタと、高齢者は転びやすい、と受け止めておけばいい。下図は日本臨床整形外科学会のホームページに掲載されていたもの。

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では、どう対応していけばいいかというと、これが難しい。搬送記録に目を通しているのも、それ自体が目的ではなく、そこから社会や医療体制に還元できる何かを引き出そうとしているわけだ。いつかは誰にも死が訪れるわけで、それは避けえない。だから、端的には、要介護になる時期をできるだけ先送りして、要介護の期間をどれだけ短縮できるか、ということが重要だ。そのためにはまずは実態を知らねばならない。

転倒は骨折のリスクで、骨折は明らかに要介護のリスクだ。ある程度の回復は得ても、高齢者ほど失われた貴重な日時の損失は取り戻しにくく、廃用性萎縮が起こり易い。バリアフリー化、手すりの設置などは本当に重要な対応だとつくづく思う。

リスクは何気ない日常に潜んでいる。高齢者になれば長年慣れ親しんだ自宅の階段も注意せねばならない。ちょっと電球交換を、という脚立、これは非常に危ない。足元がおぼつかない人は、エスカレーターではなく、面倒でもエレベーターを使った方が安全だ。ほんのささいな一歩がタイミングよく踏み出せないから転ぶ。こういったことをあげていけばきりがないぐらいだ。

転倒して骨折などの災難にあった個々の人は、全体はわからない。自分は運が悪かったと思いがちだ。でも決してそうではない。救急隊の搬送記録は実態をかなり反映している。ここでは、特に高齢者において、日常に多くのリスクが潜んでいますよ、とまずは伝えておきたい。

2020年3月24日 (火)

西川渉氏への追悼

西川渉(にしかわわたる)と聞いても、多くの人はどういう人なのか全く分からないだろう。だが、航空業界、とりわけヘリコプター業界の役員クラスの人であれば絶対にその名を知っている業界の超有名人だ。

その西川渉さんが2020年2月16日に逝去された。氏のブログ『航空の現代』は「お気に入り」において欠かさず読んでいたのだが、更新がなくなり、体調が悪いのだろうかと思いつつ、そのままになっていた。久しぶりにアクセスして訃報を知った。一日のアクセスカウントが3000ぐらいあったそうだから相当に広く愛されたブログだ。

大腸がんを患い、手術を受け闘病しておられたし、1936年生まれで83歳ぐらいなので、仕方がないとも思う。しかし、それでも残念だ。

西川渉さんは、今では全国50ヶ所以上に基地がある日本のドクターヘリ事業の最も強力な推進者の一人である。業界に身をおき数々の役職を歴任した人でもあったが、何よりも特筆すべきはその高質な評論であろう。内外の航空関連誌に丹念に目を通し、現状の分析だけでなく、最先端を、そして歴史を、わかりやすく読みやすく解説し、時には厳しい批判、あるいは賛辞をも送っておられた。また、空の安全を常に気にかけ、結果的に最後の掲載となった2019年1月31日付けの記事は『<山岳飛行>その安全を確保するには』と題されたものであった。

1996年から続けられた記事はあまりにも膨大で、そのどれもが含蓄が深く、かいつまんで紹介することはとてもできない。それらから私がどれだけ学ばせて頂いたかわからない。「航空の現代」で検索すれば今でも一部を読むことができるので、是非に訪れてみて欲しい。

氏のように柔らかい筆致で流麗な文章を書くことは私にはとうていできないが、その都度、その都度に、写真や絵を折り込む手法は私も真似もどきをしている。前回の稿の地球がマスクをしている姿も西川氏のブログから拝借したものだ。「引用してもよい」と書いておられるのも有難かった。

航空分野だけでなく、野次馬之介、小言航兵衛などとシャレたニックネームで書評や時事についてユーモアのセンスあふれる記事も書いておられた。どこからどう持ってきたものか、戯画の数々はまことに面白い。下掲は、非効率でなる外国の政府の病院では患者も働かされると揶揄したもの。

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鳴り物入りで航空機の市場に参入するはずだった三菱重工業の国産ジェット機、MRJ、今はスペース・ジェットと名付けられているが、未だに商用機として承認が得られていない。西川氏は、開発集団を「学歴のある馬鹿」として、次のように批判している。少なくとも現時点ではその通りである。

航空機の開発には好奇心に富んだ独創性と冒険心が必要で、入学試験や入社試験の成績だけを追い求めてきたような連中に出来るはずがない。馬之介から見れば、いずれ絵に描いたワラの餅に終わるに違いない。

批判はしても航空機への愛情あふれる西川氏は、本当は国産MRJの成功を待ち望んでいたはずだ。翼の上にエンジンを置くという独創性と冒険性を実現させたホンダ・ジェットの成功には、病床にあってさぞ快哉を叫ばれたことだろう。

航空業界はがんじがらめの規制があり、頭のいい高学歴のエリートが馬鹿なことをしていると政治家や官庁を批判したものもあるが、実は西川渉氏自身も東京大学理学部の卒業生総代、つまり主席卒業である。御尊父も九州大学医学部卒の精神科医で、紀行文などもものしていた逸材だったようだが、そういうエリート臭は全くなかった。ただ、容貌は端正で、友人の医師が、“お公家さんみたいですね”と語っていた。私は本物のお公家さんを見たことはないが、そういうイメージ、という点では確かにそうで、うまいことを言う、といたく感心したものだ。

実は西川渉氏には何度もお会いしている。長崎で開かれた航空医学関連の勉強会では西川氏の講演の前座を務めさせて頂いた。私は格違いと開き直って好きなように喋らせて頂いたのだが、「現役の医師にこんな迫力ある話をされた後ではやりにくくて仕方がない、逃げ出したい思いだ」と苦笑しながら前ふりをして、素晴らしい話をされた。我が人生の数少ない光栄な思い出である。

在りし日の西川渉さんを偲んで、HPにあった写真を掲げておく。合掌。

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2020年3月17日 (火)

新型コロナ雑感

ここのところ報道は新型コロナ一色だ。いい加減ウンザリもするが、仕方がない。3月16日時点での報道では、世界で16万6千人が罹患し、死者が6千人を超えたという。これだと一人ひとりがマスクをするよりも地球にマスクをさせた方が早い。下図はSARSの時の戯画。

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それにしてもイタリアはどうしたことだろう。2万5千人ぐらい感染し、死亡者は1800人以上だそうだ。日本も偉そうなことは言えぬまでも、イタリアは日本など問題にならないぐらいに被害がひどい。対策をしてこなかったのかと思いきや、少し遅ればせながらも、それなりに厳しい対応をしている。一説には高齢化があると言われるが、それは日本も同じことだ。なぜなのか。

イギリスは、端的に言えば、完全防御にはサジを投げ、できるだけ軽く罹患して多くの人が免疫を持つことを期待しているそうだ。普通は、思ってもそんなことはなかなか口にできないものだが、アドバイザーが真剣にそう考えているのか、あるいはあの首相のキャラならではの言葉かも知れない。もちろん厳しい批判を受けているが、私は、これには一理はあると思っている。1918年頃に流行し、全世界で5000万人が死亡したというスペイン風邪(インフルエンザ)の時は、類似ウィルスに免疫があった人が助かったという話もある。ただ、決め手となる治療薬がなく、重症化のメカニズムが分かっていないので、軽く罹患して免疫をつけるという器用なことができるかどうか。

日本では、複数の20代の若い人が人工呼吸管理を受け、幸いに快復しつつあると報道されている。患者はもちろんだが、現場のスタッフがどれだけ重圧だったか同情に堪えない。重篤化や死に至るのは高齢者が多いとしても、若いから大丈夫ということにはならないようだ。

最近になってサイトカインという言葉がメディアに出るようになったが、前回の稿で触れたように、過剰反応でこれが悪いことをしている可能性はある。ただ、現場で対峙している身からすれば、「可能性がある」「かも知れない」というのは意味がない。評論家ならぬ身には、するかしないかの「決断」が最重要で、自らの経験では、そういう瀬戸際では“みんな黙って俺を見ている”状態であった。

それはともかく、ここまで社会に不安が拡がると、安部首相を責めようがどうしようが、多大な負の社会的影響は避けられない。現に、ホテルや旅館などの旅客業、航空業界、エンターティンメント業界、芸術系の業界は既に苦境に陥っているという。何とも気の毒なことだが、自分だけが傍観者でいることはできない。いずれ負の影響が回ってくる。私に関しては予定していた公演が2つ中止となり、もうひとつも少々怪しい。しかし、本格的に負となればそんな可愛い被害ではとうてい済まない。

暴論をはけば、1億2千万の人口から見れば、罹患者はごく一部だ。それに、対策がなされていないわけではない。不安を煽りすぎだ。PCRに関して口を出す素人の論など、全く気にせず切り捨てていい。メディアにも、芸能人のくだらぬ言を無節操に取り上げるなと言いたい。百家争鳴の今、専門家なる人の意見も金科玉条にする必要はない。

今まさに叩かれている“アクティブシニア”ならではかも知れないが、私に関してはあまり委縮せず、自らが罹患しない限り、生活のスタイルを変えるつもりはない。無駄遣いはしないし、そんな余裕もないが、レジャーであれ何であれ、やりたいことはやるつもりだし、買いたいものは買えれば買う。

私は経済には全く疎いが、それぞれがそこそこお金を遣っていかなければもちつもたれつの社会は維持できないと確信している。過剰な不安感と委縮こそが不況の原点だ。

2020年3月 6日 (金)

多様性の不思議

この地球上の生物は本当に多様だ。ヒト(人)をとってみれば、骨や器官などは解剖学的に同じであっても、人種の違いがあるし、同じ人種であっても、背が高い、低い、痩せている、太っている、と容貌が異なる。機能的にも、速く走れる、歌が上手い、数学がやたら得意などなど、違いというか才能をあげていけばきりがない。何十億人といても全く同一はない。

ヘビが好きな人はあまりいないと思うが、この地球上で最もうまく環境に適応してたくましく生き抜いてきた種のひとつがヘビである。その種類は3000にものぼるという。「蛇足ながら」とつけ加えるのは、ヘビに足を描いて台無しにしたという故事にならって、余計なことかと迷いつつ、知識をひけらかす時の決まり文句だ。だが、ヘビはもともとトカゲから進化したようで、内部にかすかに足の痕跡が見られるという。ヘビの種類も数も多いのは我々一般人にはあまり有難い話ではないが、生物学的には興味深く貴重な存在らしい。そのせいかどうか、ヘビが好きでたまらないという奇特な人もいる。

鳥はというと、1万種ぐらいある。インコなど、ペットとして大人気だ。フクロウも、飼い方は難しくてもうまくいけばよく慣れて癒してくれるらしい。鳥は一般的には空を飛ぶわけだが、ペンギンやダチョウ、あるいはクイナのように、飛ぶことをやめた鳥達もいる。

動物の多様性は語ればきりがないが、単純なはずの単細胞である細菌も実は種類が非常に多い。一部の種は体内で人間と共生している。いわゆる常在菌は通常は悪いことはせず、むしろ、層というか叢を形成してたちの悪い菌の進入を防いでいる。抗生物質を濫用すると、この常在菌叢をやっつけてしまい、かえって防御能力を低下させてしまう。普段は存在しているだけで悪いことをしない細菌が突然のようにひどい感染を引き起こすということもある。なぜそうなるのか誰もわからない。

ウィルスはというと、生物とみなすかどうかも判然としていないが、その種類は多くある。殻に包まれ、増殖に必要なエッセンスだけを持っているものの、独自での増殖はできず、生物に入り込んで増殖する。今は新型コロナウィルスが世界を揺り動かしているが、ウィルスは太陽周囲の炎の形、つまりコロナ型が多く、形態的には、今流行っているものが特別というわけではない。ただ、これも多様性というか、性質が異なっていて、我々を悩ませているわけだ。下図は太陽のコロナと新型コロナウィルス。

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紛らわしいが、インフルエンザ菌は細菌であり、それによって起こった感染をインフルエンザとは言わない。一般に言うインフルエンザの原因はインフルエンザウィルスによる。

新型コロナに対して、本来は免疫力を弱めるため感染症には禁忌のはずのステロイドの吸入薬が効果的だったという話がある。それだと、増殖したウィルスが悪いことをするというだけでなく、生体の過剰反応が重篤化の原因になっているかも知れない。情報が非常に多いようで、実のある情報というのは意外に少ない。今はまさに“群盲象を撫ず”状態だろう。その中でも、このステロイドについての記事には目が止まった。十分あり得る話だからだ。

生体の免疫系は非常に複雑で、ひとつのシステムとして、危機に応じてあまた多くのサイトカインという物質を出している。これが暴走すると自己組織を破壊してひどいことになる。ステロイドはこれを抑制する。

まさに蛇足だが、ECMOという言葉も出ている。これを治療と誤解するむきも多いかも知れないが、これは人工呼吸器を使っても血液の酸素濃度が致命的に低くなった患者に対して、脱血し酸素化して送血する機械で血液の酸素化を一時的に助ける、いわば瀬戸際に追い込まれた患者の命をつなぐ装置である。色々な問題があってせいぜい数日程度しか使えない。治療というわけではなく、その間に患者が回復しなければどうやっても救命は難しい。もうひとつ蛇足を書けば、感染症の専門医が多くメディアに登場しているが、最後の最後に患者の生死と対峙するのは決して彼らではなく、救急や集中治療の専門医である。日本の死亡者が比較的少ないのは多分ここにある。

それにしても、と思う。どうしてこれほどの多様性があるのだろうか。元をただせば現代の科学からすれば全て電子を代表とする素粒子だ。なのにそこから原子ができ分子ができ組織や臓器ができ個体ができと、とんでもない多様性、途方もなく複雑なシステムができている。人知は砂粒のひとつにもならないだろう。考えていけば、不思議過ぎて思考停止に陥り、辿り着くのは“神”しかない。

神にすがっているとは言えないので、白衣やスクラブを着て経験と知見範囲でもっともらしいことを言いながら、心の中では祈るような思いでいたことを、昨今の報道を見ながらホロ苦く思い出す。患者さんのために、医療従事者のために、そして社会のために、なんとか早く収束して欲しいと心から願わずにはいられない。

2020年2月21日 (金)

北方領土と樺太

2月19日の読売新聞に、「誠実さを欠くロシアの姿勢」と題した社説が掲載されていた。北方領土とは、択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島の領域を指す。1956年に日ソ共同宣言が出され、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島が返還されるということが明記されている。社説はこれに基づいた論だ。

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よく北方四島ということが言われる。これは、色丹、歯舞に加えて、択捉、国後ともに長く日本が実効支配し多数居住していた地であり、日本の敗戦をみてとったソ連が、過去にほとんど関わったことがない地域に武力侵攻し、そのまま領土として支配下においている。こういうことは認められないというのが日本政府の立場であるが、ソ連がロシアになってもそれを拒む態度に何の変化もない。それどころか、社説によれば、憲法でもって確定化しようと画策しているらしい。

北方領土についてはよく報道されているので、とりあえずここではおいておき、では、少なくとも第二次世界大戦の終結までは日本が実効支配していた樺太はどうなのか、ということについて考えてみたい。

樺太は北海道の北に位置し、南北に1000㎞ぐらいある細長い島である。総面積は北海道とほぼ同じくらいだから、相当に大きい。かつては大陸から突き出した半島だと考えられていたが、間宮林蔵が探査で海峡の存在を明らかにし、島であることを証明した。

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その間宮林蔵の生涯、特に苦心惨憺した樺太探査を詳しく描いた『間宮林蔵』(吉村昭 講談社文庫)はまことに面白く、読んで興奮を覚える。小説仕立てなので脚色も創作もあるだろうが、たんねんに資料を蒐集して執筆する吉村昭氏の手法からして、大筋は誤っていないと思う。間宮海峡をはさんだ大陸の沿岸はロシア領土だが、当時は清の領有であったことをこの書で知った。清の弱体化とロシアの侵略による産物である。

その樺太への日本の関与は江戸時代からなので、歴史としては長い。先住民としてアイヌ民族らがいたではないか、というのは全く正論で、これはその通りだ。その意味では北海道も同じである。だから地名もアイヌ語のあて字が多い。

ただ、国家とか国境とかの概念はアイヌ民族にはなく、当時のこととて、相互の交流も団結にも乏しく、叛乱を起こしたものの、集団的な力を発揮できないままに日本に支配されてしまったというのが現実だろう。文化や伝承の保護運動がありそれらは尊重されねばならないが、人種的に近いこともあって今はほとんど同化している。

ロシアは樺太にちょくちょくちょっかいを出したものの、19世紀後半までロシア人の居留はなく、江戸幕府は守備によく頑張ったと言えるだろう。大きな転機となったのは明治8年の樺太・千島交換条約の締結だ。明治6年まで西郷隆盛の留守政府で外務卿として活躍した副島種臣は樺太の領有を主張していたが、例の明治6年政変で西郷隆盛とともに下野し、樺太放棄論の当時開拓次官だった黒田清隆の主張が通り、樺太はロシア、千島列島は日本、という構図ができたわけである。遺恨を残す「おにぎりと柿の種の交換」ではあった。

黒田清隆は大日本帝国憲法発布の際の内閣総理大臣であるが、私はこの人物はどうも好きになれない。むしろ、近代日本の失態人事のひとつだと思っている。留守政府首班の西郷隆盛は、ロシアの侵攻をかなり警戒していて、その際、先決として朝鮮との修好を急いだのかも知れない。

その樺太は、1905年の日露戦争後のポーツマス条約で、北半分がロシアで、南半分が日本の領土となり、1945年の敗戦に至るまで続いている。だから、厳寒の地ながら、豊富な資源もあいまって敗戦当時に約40万の日本人が居住していたわけである。この地で戦前は日本人として労働に従事していた朝鮮族は今も多く残留しているようだ。

ソ連の侵攻とアメリカの命令で日本は樺太を放棄せざるを得なかったが、南半分の帰属については曖昧なところがある。日本の敗戦後、アメリカは沖縄、奄美、小笠原を統治下においていたが、民間人を移住させたわけでもないのに沖縄と小笠原を長く返還しなかった。ましてや領土が近接するロシアは、樺太を制度化と移民で完全に実効支配しており、かつての豊原にはユジノサハリンスクとして多くのロシア人が居住している。大変残念、遺憾ながら、樺太についてはこういう状況にある。

そんなことを知ってどうする、と言われそうだが、かつて日本の領土だった地が惨めに略奪されてしまった歴史は知らねばならないと思う。失敗に終わったというだけのことで、日本もシベリア出兵や満州侵略など、逆のことをやっている。ともあれ、樺太は簒奪、固定化の典型であるが、実はそのことを大正時代に予見していた人がいる。改めて書いてみたい。

2020年2月 7日 (金)

音痴の音楽の楽しみ

自分は音痴だ、音楽は全くダメだ、と思い込んだのは中学生の時だった。その最大の理由はその時の音楽の女性教師が大嫌いだったからだと思う。曲をパートパートに分けて、それを音符で説明するという手法、曲全体を通して聴くのは最後にちょっとある程度、というのがなじまず、授業にも全く身が入らなかった。それを察知してかどうか、叱られたことがさらに輪をかけた。

教師を嫌う一方、その時は音楽というのはそういうものなのかと思っていた。その後の男性教師は音楽を楽しませてくれたものの、当初に受けた授業によって、音楽に対する嫌悪感がしみついて離れなかった。だから今でも“音痴”と自虐している。実際そうなのかも知れないが、カラオケは人並みに楽しめているので全くということでもないだろう。

自分のことを棚にあげて言うのもなんだが、やはりあの音楽教師は間違っている。オタマジャクシより何よりも、音を楽しませることからはじめるべきだ。

そんな私でも、高校時代はどういうわけか、タンゴの旋律が好きになり、音楽はダメなのだけど、と内心卑屈になって、あまり人にも言わず、レコードをちょくちょく聴いていた。タンゴの煌びやかな旋律、特に、アルゼンチンの娼婦街から発祥したという南米のタンゴを洗練し、オーケストラ編成で流麗に演奏するコンチネンタルタンゴが大好きで、社会人になってからアルフレッドハウゼ楽団やマランド楽団のコンサートに何度も足を運んだ。創設者のアルフレッド・ハウゼ氏は2005年に亡くなっているが、確か彼の直接の指揮では2回ぐらいコンサートに行っている。にこやかで友好的なかただった。

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氏が亡くなってよりしばらく足が遠のいていたが、彼が遺したアルフレッドハウゼ楽団は今も来日しており、近く聴きに行く予定にしている。評論家のような、楽器のパートがどうのこうの、アレンジがどうのこうの、というのはサッパリ分からない。評論家然としようとしたら、きっとあの時の嫌悪感がよみがえってくるだろう。単純に音を楽しむことが音楽の要諦で、まずはそれでいいのではないかと思っている。もちろん、何か楽器を奏でることができたらもっと楽しめるだろう。“音痴”だからと忌諱してきたことが今にして悔やまれる。

今年も地元で開催されたニューイヤーコンサートに行った。大編成のオーケストラでなじみやすいウィンナーワルツなどが低料金で聴けるわけで、これに行かない手はない。『美しき青きドナウ』は曲目の定番だが、アンコール曲の定番は『ラデツキー行進曲』だ。これは世界共通のようで、この曲では演奏と客席の手拍子で館内が一体となる。と言っても、めったやたらに手拍子をすればいいというものではなくて、やはりタイミングと強弱がある。オーケストラの音を台無しにしてはいけない。その点、YouTubeで見る限り、『ラデツキー行進曲』での故マリス・ヤンソンス氏の客席への指揮は素晴らしい。あれなら私でも間違えることはない。

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You Tubeと言えば、最近よく聴いているのが辻井伸行さんのピアノだ。これはとても人間技とは思えない。映像がなかったら、目が見えない人が弾いているというのは想像すらつかないだろう。指揮者に手を引かれて、少し不随意運動がありおぼつかない足取りで登場する時の姿と、あの華麗な演奏はとうてい結びつかない。

ここまでくるには、天与の才に加えて、よき指導を受け、「血の滲むような」という凡庸な表現ではとても追いつかないほどの猛練習を重ねてきたに違いない。それにしても凄い。

2月末にはミュージカル『ノートルダムの鐘』を観にいく予定だ。やはり生の音、生の舞台はいい。チケットが入手できたら辻井伸行さんのコンサートにも行ってみたい。

難聴を患う私の場合は、音が楽しめるかどうか、あたかも聴力低下と競争しているようだ。でも、ことこの競争にだけは負けたくないという気がしている。

2020年1月20日 (月)

思い出すハイチのこと

『ナショナルジオグラフィック日本版』のクレジットのついた2020年1月19日付けの「ハイチ 震災復興に失敗した国」と題されたネットニュースを読んだ。「大地震から10年、復興進まず希望の見えないハイチの惨状」との副題がついている。

ハイチと言っても、多くの人にはほとんどなじみのない国だろう。カリブ海に浮かぶ細長い島で、ドミニカ共和国と陸続きで隣あっており、ハイチは土地が痩せ、ドミニカは肥沃だという。近くには同じ島国のキューバとジャマイカがある。

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先住民は、持ち込まれた感染症などでほとんど死に絶え、奴隷として移住させられたアフリカ系の人達の子孫がほとんどの人口(約400万人)を占める。その歴史は複雑でとても小ブログで語れるようなものではない。外部からの侵略に加え、内乱につぐ内乱、政治の不安定、そして地震やハリケーンなど激甚な自然災害で発展が阻害されてきた。

不思議なことに、その独立は1804年だから、いわゆる植民地国としてはトップクラスの早い時期に得ている。現地で知遇をえたベルギー人の薬剤師が、「今はこんな状態だが、独立は我がベルギーよりも早い」と苦笑していた。

ナショナルジオグラフィック日本版の記事には、「2010年1月12日にハイチを襲った大地震で、31万6000人が亡くなり、150万人が負傷し、150万人が家を失った」とある。記事では、未だにテント暮らしを余儀なくされる一家の苦境に触れ、「武装集団、経済破綻、とどまるところを知らない腐敗、民衆の不満と、不穏な要素がこれ以上ないほど揃っている」と書かれている。

私がハイチを訪れたのは大地震の前で、今からもう30年ぐらい前のこと。外国で最も印象に残っている国がハイチとスーダンなので、意識していないものの、私はあまり観光地志向ではないのだろう。悪路につぐ悪路で電気も通わない山岳地、美しい海岸、山頂にあった城跡など、ハイチについて語りたいことは多くあるが、それらはここではおき、いくつか触れておきたい。

ひとつは、シスター須藤こと、須藤昭子先生だ。カトリックのシスターとして、そしてまた関西医大卒の医師として、ハイチに根をおろした活動を長くされていた。「ようこそいらっしゃいました。何もないですけど」と、心づくしのカレーをふるまって頂いたのを思い出す。

粗末なベッドの病棟では、横臥している中学生ぐらいの男児の前にひざまずき、その手をとり、何か語りかけておられた。我々には、「この子は結核にひどく侵されていて、もう助からないんですよ」「限りあるお金は可能性のある患者を優先せざるを得ないのです」と、日常にある苛酷な現実を教えて下さった。

まさに「こんなところに日本人」という人気番組を地でいくような人との出会いである。もちろん斯界では超有名で、「ハイチのマザーテレサ」とも言われているが、恥ずかしながらその時は知らなかった。高齢のため今は日本に帰国しておられ、御健在であれば90歳を過ぎていると思う。

首都ポルトープランスで驚いたのは、壁にぶつかった事故車がそのままに放置してあったことだ。これを2台見た。大破した車両は部品以外には価値がなく、費用もかかるので、そのままになっている。行政はほぼ崩壊しているので、誰もあてにしないし、実際、何もやってくれないそうだ。

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おそらく欧米人対象なのだろう。山岳地を越えた北側の海岸には瀟洒なリゾートホテルがあり、トロピカルムード満点であった。その一方、そこの村で衝撃的な光景を見た。

それは、ハンセン病で指を失った老人に、少しでも自立できるように篭作りを指導している姿であり、知的障害があり、性的虐待を受けエイズに侵された少女の髪を優しく撫ですいている姿であった。世話をしている方も食うや食わずの状況である。

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この人たちはどうしてこのような崇高な精神が持てるのだろう、としばし考え込んでしまった。今もこの時の感動は忘れられない。

ナショジオの記事を見て、もう二度と行くことはないであろう日本からはるか遠くの国にしばし思いを馳せ、柄にもなく感傷的になってしまった。一日も早く人々に安らぎの日々が訪れんことを願ってやまない。

2020年1月 1日 (水)

新年のご挨拶

 

新年明けまして

 

おめでとうございます

 

令和ニ年 元旦

 

年を経るごとに無事に新年を迎えることができるありがたさをしみじみ感じるようになりました。生ある者の必定として、いずれ迎えることができなくなるわけですが、それまで、何か心を駆り立てるものを持ち続けていたいと願っています。

下掲の写真は、もう十年以上も前のこと、フロリダ州のオーランドで開催されたビジネスジェット機の展示会で自分で撮影したものです。その時は、患者搬送用の飛行機ばかり見ていました。翼の上にエンジンがついたホンダジェットは、画期的ではあっても、これでは患者搬送はとても無理だと、この写真しか撮っていませんでした。

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今にして、ビジネス機としてコンパクトで機体価格も安く、高速で高高度が飛べ、燃費がよく、優れた機体だと思っています。あれから時が経ち、厳しい規制のある日本での飛行も許可されました。限られた施設で特殊治療を受ける患者さんの移動、移植医療のスタッフの移動、臓器搬送など、有効な活用は多くありそうです。

「正夢」にははるか遠い路ですが、「初夢」以上には現実感のある話が持ち上がり、心を躍らせています。

私に関して、空を使った医療関連の事業としては、ドクターヘリを実現にこぎつけただけで、飛行機は、財源の面と需要の掘り起こしという点であえなく頓挫してしまいました。

「空をつかって広い日本を狭く使おう!」とは、かつて謳っていたキャッチフレーズです。再び掲げて、ビジネスジェットへの試乗経験が多く、少しは航空の知識がある医療関係者として、今年は脳に汗をかく作業を試みてみたいと期しています。

自己満足的に書き続けているブログですが、折りに触れて、立ち寄って下されば嬉しく思っています。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

2019年12月22日 (日)

対馬に行ってみた

昨今の韓国の反日運動とやらで、訪問客が激減したという対馬、それだけ韓国からの来訪者が多かったということだ。今は国内からの観光客を期待しているという。

私一人が行ったところで何の役にも立たないが、気持ちだけでもと、初めて訪れてみた。飛行機は私が大好きなボンバルディアのダッシュ8のQ400で、ターボプロップ特有の軽快な音を響かせ、福岡空港から30分弱、あっという間に着く。

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対馬は九州と朝鮮半島との間に斜めに横たわる。地図で見るといかにも小さいように思えるが、車で走って見ると意外に大きい。縦80㎞、横20㎞ぐらいはあり、端から端まで車でただ走るだけでも3時間ぐらいかかるのではないだろうか。今は島全体が対馬市で、中心部は南側の厳原(いづはら)で、北(上対馬)にある町が比田勝だ。人口は約3万人。

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島は、上3分の2、下3分の1程度に分かれる感じでゲジゲジのリアス式海岸と湾でくびれており、あたかも首の皮一枚でつながっているようだ。その皮一枚のところ、最も細いところに明治時代に運河が開削されており、万関橋という名の橋がかかっている。厳密には上と下はもう陸地ではつながっていないわけだ。写真は万関橋と運河。

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島には入江が多く、海沿いのそこかしこに小集落が点在している。島全体がほとんど山で、平地はほとんどない。したがって沢も多いわけで、昔は南と北、さらには集落相互の行き来は、海路以外には非常に難しかったのではないかと思う。車道はよく整備されているものの、地形を反映してトンネルが非常に多い。随所に貴重な固有種ツシマヤマネコの保護を呼びかける看板があった。

圧巻の風景は、烏帽子岳の展望台から見た島のくびれにあたる浅茅(あそう)湾だ。湾内に複雑に岬が突き出し、緑の小島が点々と浮かんでいる。あいにくのどんよりとした曇り日だったが、晴れた日は絶景だろう。夕陽も綺麗なはずだ。湾と小島では松島が日本三景で有名だが、浅茅湾の景勝は勝るとも劣らない。シーカヤックなどマリンスポーツにも最適の地らしい。

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来てみて気づかされたのだが、対馬の東沖合は、かの東郷平八郎率いる日本海軍とロシアのバルチック艦隊との激戦地であった。明治38年5月のことである。闘いは日本海でも行われているので日本海海戦と通称されており、ついそれと思わないが、外国では対馬沖海戦と表現されているようだ。日田勝の西泊には143人のロシア兵が漂着し、住民による手厚い介護を受けたという。日本、ロシア双方の記念碑がおかれている。
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茂木浜にもロシア兵が漂着し、同じく手厚い介護を受けている。ここには、自沈したロシア艦から回収された砲身が展示され、碑が建立されている。
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ロシアと言えば、江戸時代末、1861年にロシア艦が浅茅湾の芋崎に侵入して居座った事件がある。当時外国奉行であった小栗忠順が派遣され交渉にあたったが、これはうまくいかず、結局イギリスの軍艦の力を借りて退去させている。小栗ファンとしてこの地まで行ってみようとしたのだが、車で行けるところから徒歩40分ということで、それでは帰りの予約便に全く間に合わず、断念した。
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対馬は国境の島、国交の島で、朝鮮海峡と対馬海峡を隔てる要衝であるだけに、太古の昔から色々なことが起こっている。対馬が朝鮮との窓口であった近代では雨森芳洲がよく取り上げられる。

私は、1990年5月25日、盧泰愚元大韓民国大統領の、「議員のみなさま、晴れた日に釜山の海岸から水平線上に対馬の島が見えます。日本からもまた、釜山の灯が見えるでしょう。歴史が記録される以前、そのはるかな昔から今日に至るまで、両国の人々はこの狭い海峡を渡り最も近い隣人として交流してまいりました」と格調高く謳いあげた日本の国会演説には大きく感動した。

それを機に、『雨森芳洲 ~元禄享保の国際人~』(上垣外憲一 中公新書)を読んで彼のことを知った。朝鮮語、中国語に通じ、信義に基づいて朝鮮との友好を深めたという。顕彰した碑も厳原におかれているが、荒れた空き地の片隅にあまり整備されていないままになっており、これは少し残念である。

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人口減を受けて全体的に寂寥ではあるものの、対馬は観光地として国内からでも充分に魅力ある地だと思う。日本人として感謝すべき防人の島でもあり、特にこういう時は、日本国内から大いに訪問すべきだろう。私も再訪を計画している。見所も多く、じっくり探せば、浅茅湾や上対馬沿岸には絶景のスポットがあるに違いない。

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