日記・コラム・つぶやき

2019年4月17日 (水)

西郷隆盛 その31 赤松小三郎2

赤松小三郎は、その構想を口上書として幕府に、また松平春嶽に、そして、それらを若干修正して島津久光にも届けている。『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(関良基 作品社)によれば、島津久光宛のものは赤松の直筆として今も残っており、引用としてはこの島津版がもっとも適切としている。

その気で見れば、原典が乏しいとはいえ意外に論考資料があり、前稿で紹介した書、上掲の書、さらには、上田市の郷土史家から『赤松小三郎先生』という冊子が大正6年に発刊されている。『「朝敵」と呼ばれようとも 維新に抗した殉国の志士』(星亮一編 現代書館)の中でも取り上げられている。古典的な労作である『大日本憲政史』(大津淳一郎)でも、幕末において憲法構想をした一人として名前が挙げられている。

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詳細な引用をして論じるのは私の力量を超え、したとしても、時間がかかり膨大な量となって誰も読みたくなくなるに違いない。端的には、『憲法構想』(江村栄一 岩波書店)で、江村栄一氏が赤松小三郎についての解説で記しているところの「イギリス立憲制にかなり似ている」「英学の理解に基づく平等性をみることができる」ということで十分だろう。ここでは、これらの資料からの私の理解として、その内容の要点を若干記すことにする。

赤松小三郎は、朝廷と幕府の合議政体を唱えており、天皇を最上位に位置付けている。そして、将軍、公家、諸大名、旗本などから、道理が明らかで、実務能力があり、情勢に通じた人を6人選任し、うち1人を大閣老とするとしている。これは天皇の補佐機関で、ひたらくは首相と各大臣である。

これに選挙で選ばれた人で構成される上下二局に分かれた議政局を設け、これを国権の最高機関だと位置づける。ここでの決め事に対して、もし天皇が反対しても、再議して議決すればそれが優先されると記している。これこそは“王に悪事をなさしめない”立憲思想の根幹にほかならない。

「門閥貴賤ニ拘わらす」「国中人才を育」「人民平等」という言葉があり、それが国を治める基礎だとのべている。軍は「国之貧富ニ応して御算定之事」「兵は数寡くして」とあるから、不相応な軍備を戒めているわけである。さらに、まずは「お雇い外国人」を勧めており、衣服や食事についても触れている。

京都では塾を持ち、分け隔てなく教え、「諸藩の士争ひて其門に就き」とあるから相当な人気だったのだろう。講義に同席というわけでもなかったようだが、会津、福井、薩摩藩士にその教え子が多くいる。日本海海戦で名を馳せた薩摩の東郷平八郎もそのひとりで、明治39年に追慕で上田に墓参しているという。余談ながら、この東郷平八郎が遺族のもとに訪れ謝意を表したのが、同じく非業の死を遂げたかの小栗忠順である。

口上書の日付は慶応3年5月とあるから、いわゆる明治維新の1年以上前、1867年6月頃で、大政奉還の4ヶ月前、鳥羽伏見の戦いの半年前である。島津久光が兵を率いて上洛し、四候会議が行われるなど、京に不穏な空気が渦まいていた頃だ。この年の11月に坂本龍馬が暗殺されている。

赤松小三郎が西郷隆盛と会ったのは慶応3年7月か8月のことだ。この時に「幕薩一和」を説き、「少しは成可申見込に候」と兄への手紙に書いている。西郷は武力討幕側になっているが、赤松小三郎の思想や構想に多分に共感していたわけである。戊辰戦争に妙に腰くだけなのは西郷の複雑な心境を表しているような気もする。西郷は少なくとも赤松に会った頃までは「幕薩一和」だったはずだ。考えが変わったとすれば、幕府と徳川慶喜への強い失望、豪胆で押し通す大久保利通への義理立てだろう。

さて、京都で名を挙げた赤松小三郎に上田藩から帰藩命令が再三出ている。幕臣への誘いもあり、薩摩の小松帯刀からも引き留められたものの、いよいよやむなく京都を離れ上田に帰郷することとなった。

老中まで出しているいわば親幕の上田藩の赤松小三郎に、薩摩の動きを幕府に知らせるのではないかとの疑念を抱き、以前からその身辺を探らせていたのが大久保利通だと言われている。

慶応3年9月3日(1867年9月30日)、赤松小三郎は白昼の京都の路上で斬殺される。実行犯は、残存していた日記や証言者の言などからほぼ確定されていて、西郷隆盛の腹心であった桐野利秋である。

赤松の暗殺が桐野の独断であったか、上からの指示であったかは定かでない。西郷隆盛はこの時は大坂にいて、京には不在であった。暗殺の前夜、送宴として赤松を誘い出したのは大久保利通のようである。なお、桐野と同じく西郷の腹心であった篠原国幹は赤松小三郎の死を知って非常に悼んでいたという。島津久光はその死を惜しみ異例とも言える莫大な弔慰金を供出している。

私は、猜疑心が強く、陰の行動を辞さない大久保利通の指示で、粗野な桐野利秋が実行した、と自分では断じている。西郷隆盛は決してこのようなことをする人ではない。当時として貴重だったはずの翻訳書も多く出している赤松小三郎が不当に埋もれてしまったのも、多分に大久保利通のなせる業であろう。

ともあれ、幕末の激動の時代に、おそらくは日本近代史上屈指の、赤松小三郎というとんでもない逸材・偉人がいた、そのことは大いに誇り、もっと語られていいのではないだろうか。機を得て、上田市を訪問してみたいと思っている。

2019年3月29日 (金)

西郷隆盛 その30 赤松小三郎1

勝海舟
おまえさんは、学問の話になると、子どものように目を輝かせるねえ。少しも昔と変わっちゃいないんだ

赤松小三郎
多分、そうでしょう。私は、蘭学であれ、英学であれ、学ぶことが好きなんです。それが世のため、人のために役立つならば、いうことはありません

これは『龍馬の影』(江宮隆之 河出書房新社)の一節である。小説なのでこれは創作だろう。しかし、赤松小三郎の生涯を見ると、また、唯一残っている彼の写真を見ると、さらに勝海舟の面倒見のよさを思ってみれば、多分このような会話があったであろうと私も感じる。下掲は赤松小三郎。

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作者の江宮隆之氏はWikipediaには「主に史実に即した伝記的な歴史小説を手掛ける」と紹介されており、ノンフィクションの作品も多くあるようだ。『龍馬の影』は、龍馬よりもさらに進歩的で卓越した構想を得ていながら、龍馬の影に埋もれ、世に知られることがなかった赤松小三郎を描いた素晴らしい作品である。江宮氏は龍馬をして「埋火のような小三郎の生涯に対して、燃え盛る炎のような生涯であった」と表現している。

赤松小三郎は、武士身分ながら、いわゆる軽輩の貧しい家の二男として1831年に信州の上田に生まれている。幼少の時から和算に優れた才を発揮し、算学を活用しての凧づくりの名手だったという。後年赤松家に養子に入るまでは芦田清次郎という名前であった。

学問を志し18歳で江戸に出奔し、内田弥太郎(五観)の数学塾で学んでいる。内田弥太郎は関孝和の流れをくむ当代一流の数学者であり、「微分」「積分」の名づけ親だと記されている。高野長英を通じて間接的にシーボルトの蘭学も修めていた。日本で最初にパンを作ったという伊豆韮山の代官江川英龍に依頼されて江戸湾の測量も担ったようだ。明治5年の太陽暦への改暦も彼が手掛けている。

赤松小三郎は算学だけに飽き足らず、おそらくはその間に聞き知った砲術と蘭学を学ぶために師の紹介を得て、下曽根金三郎という洋学者の門を叩いた。ここでも猛勉強をしてオランダ語を学んでいる。数学の基礎があるだけに砲術への理解が早かったことは想像に難くない。

事実かどうかは不明だが、小説では、その間に、この頃浦賀に来航したペリーの黒船を見学に行っている。そして上田藩主で江戸幕府老中の松平忠固に謁見し黒船について報告して励ましを受けたことになっている。以前にも記したように、この松平忠固こそは開国主義者で、日米修好通商条約を結ぶにあたって朝廷の許諾が不要と主張した、先見の明のあった硬骨の人である。

小三郎はその後赤松家へ養子入りのため上田に戻り、そしてまた再度江戸にのぼる。内田弥太郎、下曽根金三郎からさらに学ぶとともに、今度は勝海舟の門下生になっている。これが縁で、長崎の海軍伝習所で非正規の形で学ぶ機会を得る。

航海術、砲術とあわせ、長崎でオランダ語にさらに磨きがかかる。その頃、英語の必要性を感じ、江戸に戻ってからイギリス騎兵大尉の知遇を得て、横浜に居住している彼の下に足しげく通い、持ち前の才と努力であっという間に英語をも習得したようだ。教科書は軍事や政治に関する原書だから、当然にしてその方面の知識も他の者の追従を許さぬぐらいに身につけたわけである。その後、翻訳も手掛けるようになり、京都で自らの塾を持ち、薩摩の島津久光からも高く評価される。

と書いてくると、「それはそうとして、西郷隆盛の話はどこに行った」とまた尋ねられそうだ。実は、西郷隆盛はこの赤松小三郎と京都で親しく懇談しているのである。福島の関連で触れておくと、NHKの大河ドラマ『八重の桜』の主人公新島八重の兄である山本覚馬とも親交を有し、おそらくは強い影響を与えたはずだ。

当時にあってオランダ語と英語を自在にあやつる異色の逸材、赤松小三郎がどのような考えを持つに至ったか、それは明確に文書として残されているので、改めて紹介したい。驚くべき内容である。

2019年3月16日 (土)

西郷隆盛その28 新政府

以前にも記したように、幕末・維新においては、同時並行的に色々なことが複雑に起こっているので、私の能力では、流れで書けば重要なことが欠落し、時系列で書こうとすれば、全体の流れがうまく書けない。情けなくもあるが、それだけややこしくもある。

 

新政府は、大政奉還を受けて、慶応3129日(196813日)、王政復古が宣言された時の政府中枢として、総裁、議定、参与がおかれた。多くは皇族と公家で、有力大名として徳川慶勝、松平春嶽、山内容堂、島津茂久、浅野茂勲が議定として入っている。これでは頭が重すぎて小回りは効かず、公家ながら行動力のあった参与の岩倉具視、数日後に参与となった大久保利通、後藤象二郎らがあれこれ采配していったのではないかと思われる。

 

このまま行けば血を多く流さずに済んだわけだが、そうはいかない。鳥羽伏見の戦いが起こったのは、慶応413日(1868127日)で、そのことについては以前に記した。

 

いわゆる「五箇条の御誓文」は慶応4314日(196846日)である。「廣ク會議ヲ興シ萬機公論」「官武一途庶民ニ至ル迄」など、立派ではあるが、現実を理想に引っ張る力としては作用しても、その内容がすぐに具現できるわけではない。まずはこの最大の意義は、プライド高き公家が、武家を見下していた悪しき因習に楔を打ち込んだことにあると私は理解している。以前の表現でいけば、朝廷の空間の解体である。

 

大久保利通の意向と思われるが、この後すぐに天皇が大坂に行幸している。本シリーズで多く参考にさせて頂いた佐々木克氏の『幕末史』(ちくま新書)には、大坂で大久保利通が初めて天皇と面会して状況を報告したとあり、これをして「無位無官の藩士が天皇と対面した未曽有の大事件である」と表現されている。

 

その後、総裁職が廃止され、輔相職が創設されて、三条実美(さねとみ)と岩倉具視(ともみ)のツートップになったと佐々木氏の書に解説されている。三条は善良な人だったようだが決断力に欠け、政治体制についてはやはり岩倉具視-大久保利通や木戸孝允のラインを中心に策定されていったのではないだろうか。政治体制についてはその後も変転している。下掲は三条実美(Wikipediaより)。
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なお、幕府の直轄領は新政府が掌中におさめたわけだが、諸藩の領地はそのままであった。タテマエとしては徳川幕府が諸藩に与えていたわけで、それを返上させたのが明治2617日(1969725日)の版籍奉還である。榎本武揚の降伏により函館戦争、いわゆる五稜郭の戦いが終結、戊辰戦争が終わったのが明治2518日(1969627日)だから、新政府の武力勝利をもって間髪入れずにこの版籍奉還をやったわけである。版籍奉還と同時に、公家と大名諸侯は華族と位置づけられた。大久保利通と木戸孝允もその後に華族となったが、公爵とか伯爵などを定めた華族令が制定されたのは明治17年であり、初期のそれは多分に懐柔とお手盛りのようなものだろう。ややこしい階級制度のあった武士を士族と一括して呼称したのもこの時である。

 

版籍奉還といっても、江戸時代は諸藩による地方分権だったから、いきなり秩序を崩壊させるわけにはいかない。とりあえず諸侯は藩知事として任命し、禄を変えてそれぞれの藩は存続させている。版籍奉還には抵抗がありそうなものだが、どこも財政難に苦しみ、藩の維持が重荷になっていた面もあったようで不思議なことにさほどのことはなかった。その後の藩の息の根を止める廃藩置県はさすがに大仕事で、これはクーデターに近い。

 

なお、以前にも書いたように、「藩」は通常に用いられた言葉ではなく、正式にはこの版籍奉還後、廃藩置県(明治4714日:1871829日)までのわずかな期間に使われただけである。「幕府」も公式に使われていたわけではないようだ。ただ、いちいち注釈をつけることはできないので、いささか居心地の悪さを感じつつ、通りのよい言葉はそのまま使っている。

 

居心地が悪いと言えば、元号もそうである。明治と改元されたのは慶応498日(19681023日)だが、溯って改元されているので、慶応411日(1968125日)が明治元年11日となる。しかも、明治元年は閏月として4月が2回、計13ヶ月あるのでややこしい。維新から150年を経過した今、まさに元号が変わろうとしているが、元号表記と西暦表記は相性が悪い。ましてや旧暦には泣かされる。

 

さてその後、明治278日(1869815日)には太政官制が改められ、右大臣三条実美、大納言岩倉具視、参議に大久保利通、前原一誠、副島種臣が就任している。さらに、粗なものは昔にあったとはいえ、民部、大蔵、兵部、刑部、宮内、外務の卿を長官とする各省がおかれて改めて形ができてきた。官僚化していた徳川政権の幕臣はここで結構雇用されている。特に、例外的に低身分からの登用も多かった実務に長けた勘定方はなくてはならない存在であった。

 

こう書いてくると、西郷隆盛はどこに行ったのか、と問われそうだ。実はこの頃は新政府と離れ、隠遁として帰薩していた。だが、本意か不本意か、隠遁ままならず、請われて薩摩藩の体制立て直しなどに携わっていた。ところが、各藩の兵を合わせて新政府直轄の御親兵とするために岩倉と大久保の説得で新政府に呼び戻され、明治42月に上京して兵の取りまとめを行っていく。そして明治4625日(1871811日)に参議に就任する。日本を中央集権国家とする廃藩置県の断行のために西郷が必要とされたのである。

 

こういった幕末・維新の一連のことを見ると、権力奪取のため、綿密な段取りをつけ、勅を活用し、最後は持ち前の胆力で大胆に実行するという大久保利通の手腕はたいしたものだと感じる。

2019年3月 8日 (金)

超未熟児が無事成長!

268gでこの世に生を受けた新生児が無事自力でミルクを飲めるまでに成長したと報道されていた。これは凄い。慶応大学付属病院の未熟児チームの実力とその尽力に心から敬意を表したい。
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http://dimi.gger.jp/archives/small-baby-jp-2019-03-01.html

 

世界記録級だとされているが、これがどれだけのことなのか、一般人にはなかなかピンとこないだろう。私が関わったことがあるのは1000gだが、それでも、こんなに小さいのかと愕然とした思いが鮮烈に残っている。3㎏の普通の赤ちゃんでも小さく感じるが、1000gでその3分の1だ。268gというとさらにまたその3分の1以下である。

 

268gという大きさは、比べるいい例えがなかなか思いつかない。不適切、不謹慎ではあるが、わかりやすいのでお許し頂きたい。

 

全国各地で店舗が展開されているので行ったことのある人は多いだろう。『いきなりステーキ』では、肉の美味しさを味わってもらうには300g以上がいいと勧められている。私はグルメではないので本当にそうかどうかは知らないが、たまに行った時はお勧めにしたがって300gにしている。そう、重さはそれ以下なのである。肺などの軽い臓器があるので大きさの正確なところはわからないが、体の6割以上は水分なので、大体同じか、わずか大きい程度であろう。

 

カンガルーやパンダは“小さく産んで大きく育てる”を実践している。しかし、こと人間にはそういう仕組みはない。「卵で産みたい」と面白いことを言った女優さんがいたが、残念ながら人間にはそれもできない相談だ。神の摂理がそのようになっている。母親がいかに努力しても、1000gでも、ましてや300g以下だと、医療技術での対応が必要で、自然には絶対に生きていけない。

 

まず、肺の発達が未熟なので自力で十分な呼吸ができない。気管挿管と言って、喉から気管に管を入れて、その管を通して人工呼吸をすることになる。268gのベビーへのこの操作は未熟児に習熟している医師であっても、非常に神経を使い、難しい。酸素濃度の微妙な調整も必要だ。

 

栄養投与も特殊なはずだ。腕や下肢での点滴確保は神技の域だろう。だから少なくとも当初は臍帯の血管を使ったはずだ。投与の量にも厳密な調整が必要である。体温調節ができない、特に低体温には弱いのでおいそれとクベースから出すこともできない。

 

それらだけでも超がつくほどの高度な技術が必要だが、最大の難関は感染症対策だ。免疫力が非常に弱いので、感染症で命を落としてしまう。そうならぬようにいかに努力しても、そもそも人間は細菌と絶妙なバランスで共存しており、無菌状態はあり得ないため、絶対はなく、神頼みの心境でやったはずだ。神様が味方してくれたと表現しても、それを否定できる医師はいまい。それでもなお、重ね、凄いことだ。

 

“ちょっぴり医療”とうたいながら、しばらく、ちょっぴりも書いていなかった。いささか忸怩たる思いがあったが、今回、この業界に長く身をおいた者として印象をちょっぴり書いたので、ひと安心。またシリーズの幕末・維新ものに戻ろう。

2019年2月25日 (月)

電気系統のインフラ

一部の奇特な人を除いては、我々は完全に電気に依存している。理屈はわからなくとも、スイッチを入れれば灯りがともり各種家電機器が作動する。それは日常のことで、当たり前だというのが身にしみついている。

 

したがって、台風や地震、事故、故障などで停電になると、大変困る。自然災害はなんとなく仕方ないと思え、不自由さに腹を立てながら、ただただ早く復旧することを願う。だが、事故や故障、さらには自然災害でも長く続くと、「電力会社は何をモタモタしているのか」という声が高まる。それでも日本は停電が少なく復旧も早い方だ。年金世代の男性と違って、自虐はしなくていい。

 

原子力発電、火力発電、水力発電、自然エネルギー発電がどうのこうのと、発電のことばかりに目が向いてしまうが、実は、発電をのぞいても、電力事業というのは非常に高度で巧妙な仕組みでできている。後進国で停電が多いのは、発電というよりも、配電がうまくできていない、あるいは維持できないからで、先進国で停電が少ないのは、その高度な配電技術にある。

 

かつてスーダンの病院を見学した際、病院の外壁をらせん状にグルっと取り巻くような外回廊があるのに驚いた。停電でエレベーターがしばしば動かなくなるので、そのための対策だと聞いた。確かに、エレベーターが止まれば動けない患者の階の移動は困難になる。自慢するほどのことでもないが、よき知恵である。

 

大きな病院は一系統が途絶しても大丈夫なように、必ず二系統以上から電力の供給を受けている。内部には停電があっても電力供給の途絶が起こらないように重要な電気機器にはUPSと呼ばれる高価な無停電装置が働くようにしていることが多い。その間に非常用発電装置を働かせ、停電時においても重要な機器については3日間ぐらい作動できるようにしているわけだ。

 

太陽光発電は別として、発電は発電機のタービンを回すことで行っている。電気は、送電の際のロスが少なくなるよう数万から数十万ボルトの高圧に変換され、100ボルトとして一般家庭に配電されるまで変電所などで何段階にもわたって降圧される。直交流の変換装置や周波数調整装置もある。意識して見れば、結構あちこちに大小の変電所があることに気がつくだろう。電柱にも最終的な降圧配電のためのトランスがのっている。

 

複雑な電気系統のインフラの維持は大変だと思う。それをおいて、配電で極めて重要な要素のひとつは絶縁碍子(がいし)だ。誰もが見たことのある、例の楕円形や螺旋形の白い塊である。高度な絶縁性と強度、耐久性が必要で、しかもあまり重くては使えない。材料として長く磁器が用いられてきた。
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これがしっかりしていないと、漏電が起り、電力の多大なロスを生じるため、高圧にすることもできない。地味な存在ながら、言ってみれば、電気の裏方さん、縁の下の力持ちだ。日本では西郷隆盛が生きた時代、明治2年頃に電信用に導入され、その後に国産も可能となり、改良を重ねて今に至っている。

 

昨今、北朝鮮の電力事情の悪さがよく伝えられる。その原因の一つは、良質の碍子が思うように使えないことにある。送配電の際のロスが非常に多いわけだ。仮に発電所をいくら整備しても、送電、配電の際に漏電が多く起れば、ザルである。

 

私はお隣さんの半島が静かになってくれることを心から願っているが、電気ひとつとっても、単純な統一などできるはずがない。写真はアメリカのNASAが公開した衛星写真。南北格差は一目瞭然だ。それでも韓国はさまざまに苦しんでいる。
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タモリさんは碍子マニアだそうだから、「ブラタモリ」のおかげで碍子にも少しは陽がさしたかも知れない。裏方たる碍子にも、また、日夜不断にメンテナンスに従事している人にも、改めて感謝したいと、なぜかふと思い、綴ってみた。

2019年2月15日 (金)

プチじいさんの自虐

退職した団塊の世代が多いからだろうか、巷には高齢男性の自虐が溢れている。私はいわゆる団塊の世代より少し下で、まだかろうじて勤務をしているが、お役に立っているのかどうか、はなはだ怪しく、年金生活カウントダウンで、今となってはもう団塊の世代とは誤差範囲だろう。自虐、他虐を目にする度に身につまされる。

 

「高齢者」という言葉には抵抗を覚えるが、定義の上では65歳以上だそうだから、それだと私は高齢者を軽々クリアしているわけで、“爺さん”というか、“プチじいさん”として、自虐のひとつも口にしたくなる。元部下からのメールに、「今はもうゴルフに夢中の生ける屍のようなものだ」と返信しておいたら、後日会った時に大笑いしていた。

 

最近に目にしたのは「お地蔵さん現象」という表現だ。何のことやらと思ったら、パソコンの前に座ってずっとネットを見たり検索をしたりしていることを言うらしい。これにはドキッとする。「濡れ落ち葉」だとか、「夫在宅ストレス症候群」、はたまた「粗大ゴミ」だとかがあるので、それならまだ自室で引きこもりを決めこんだ方がいいと思うのだけど、それだと今度は「お地蔵さん」だと。
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https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190214-00193864-diamond-soci

 

そんな哀れなシニアが集う場は意外に多くある。私に関しては、サウナやゴルフ練習場、ゴルフ場、時たまに行くカラオケぐらいのものだが、碁会所や将棋会館、図書館、カメラなどの文化サークル、音楽教室、ウォーキングなども結構賑わっているのではないかと思う。パチンコやボートレースなどのギャンブルもあるかも知れない。旅行という楽しみもある。

 

シニアというか、年金世代になれば、遣えるお金も限られてくるし、その範囲で長年家計を支えてきた者が楽しむ分には大いに結構で、その権利もありそれが健全だと思う。誰しも必ず衰えるわけで、ただ長生きさせるというのは全く大きなお世話だ。働き盛りの時は思うようにできず、先も限りがあり、私は今が“ゴルフ適齢期”だと開き直っている。そういうシニアは間違いなく多くいる。

 

酒を楽しむ人もいるが、それ自体はよしとして、これは度が過ぎると周囲に大迷惑をかけてしまい、自らも階段などで転倒して大怪我をしたりする。業務のひとつとして、年間6000件を超える救急隊の傷病者搬送記録に全て目を通しているが、60歳代、70歳代での酒の害は恐ろしいほど多くある。世間にはあまり知られていないものの、全世界では酒の害で年間300万人が命を落としているようで、WHO(世界保健機構)は各国に警告を出している。私は体質的に酒を全く受けつけず、つねづね“人生損をした”と嘆いているが、こういうのを見ると少しホッとする。

 

歳を取ると小さい字が読みにくくなる。私にも十分その徴候はあるものの、幸いにまだ文庫本が読める。近くのイオンの中に結構大きな本屋さんがあり、週に二、三度新書コーナーに行くのを楽しみにしている。アマゾンでも買えるが、これだとどうしてもハズレが出る。手に取って著者や中身を確認して買った本はまずハズレはないと、これは自虐ならぬ活字好きならではのささやかな自負。もっとも、もっぱら安価な文庫本だからハズレでもあまり怪我はない。

 

先日、久しぶりに鹿児島を訪れる機会があった。城山に行く時に、西郷隆盛が最期に籠っていたといういわゆる西郷洞窟の横を通った。会食の際に超高名な鹿児島の知人が西南戦争をして、「あれほどの人がどうしてあんな馬鹿なことをしたのですかね」とつぶやくように言っておられた。私が「それは謎ですが、同時蜂起してくれる人が多くいると思っていたのでしょう」と答えると、「そんなところかも知れませんね」と。

 

西郷隆盛というか幕末維新のシリーズ、大河ドラマは終わってしまったが、折角に続けてきたので、自虐にばかり浸らず、シニアの楽しみとしてもう少し書き進めていきたい。今回の稿は息抜きまで。

2019年2月 5日 (火)

西郷隆盛 その27 江戸から東京へ 新しい空間の創設その2

『都市空間の明治維新 -江戸から東京への大転換』(松山恵 ちくま新書)という2019110日の日付で発刊された書がある。前稿で「新しい空間の創設」と“偉そうな”ことを書いたが、あまり私の頭にはなかったこのことを触発してくれたのがこの本である。

 

東京を中央集権国家の首都とすることを決めてよりは、「それに適した機能や景観をこの都市が整えるようにさまざまな政策を矢継ぎ早に投じていった」という。そして著者は、「本書は、一定の理念にもとづく政策が施される対象であるとともに、人々が生活を形成する場であり、また、それらが歴史的に共在した結果でもある都市空間を素材に、明治維新と江戸-東京との深いつながりをあらためて描き出すものである」と記している。

 

著者は明治大学文学部の日本史学専攻准教授だが、もともとは東京大学で建築学を専攻したいわゆる“理系女子(リケジョ)”のようだ。歴史は文系である歴史学者によって語られることが多い。建築については素人だけに、その視点が抜けがちなわけである。だから我々はあまり知らない。

 

この書は、ひらたくは、建築学の視点で、江戸から新しい都市東京の創設を分析すればどうなのか、ということで書かれたと言っていいだろう。理系だけに実証的だが、その分、やや読みづらいところはある。

 

大小の見出しをいくつか拾い上げてみると、「政府機関の移転実態」「新政府関係者の賜邸」「煉瓦街計画とは」「謎の新地主をめぐって」「旧幕臣屋敷の争奪」「拝借人から拝領主、そして土地所有者へ」「幹線道路形成の基盤」「社会・文化的基盤としての旧大名藩邸」などなど、いずれも大変興味をそそられる。詳しくは書を読んで頂くほかない。

 

ほぼ明治3年頃と思われるが、江戸城を皇居およびそれに付随する施設、そして太政官としている。だから宮内庁は今も皇居の中にある。皇居を中心にして中央部分を郭内、今の山手線あたりまでを郭外として、郭内に今でいう各政府機関、公家屋敷を割り当て、閣外には、旧大名の屋敷の一部を私邸として残したり、町人の経済活動の場をおいたらしい。

 

大名屋敷は広大で、今の東京大学の本郷キャンパスはもとはと言えば加賀100万石前田家の上屋敷であった。藩邸への入口の一つであった赤門は戦災を免れて今も残っている。慶応大学の三田キャンパスは島原藩の中屋敷跡だというから、とんでもない広さがあったわけである。

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これらが一気に行われたわけではなく、没収によって空間を確保しつつ、試行錯誤を繰り返す中から十年以上をかけて形を生み出していったようだ。試行錯誤と言えば、新政府は度々火事に泣かされた江戸を、煉瓦作りの街に変えようとして、一部着手して結局断念している。江戸幕府が火事の延焼を防ぐために設けた幅広い道路はそのまま幹線道路として用いたり、商店が進出したりしたようだ。今からは信じ難いことだが、養蚕のための桑畑にする試みもなされている。

 

こういった混乱の中、商才に長けた人物が謎めいた形で頭角を現し、広大な土地を支配したということも紹介されている。西郷隆盛が土地の動きに不正が行われていないかと懸念した手紙も残されているようだ。

 

本来なら、水道や排水、建築など、インフラの整備もあわせて行っていかねばならないはずだが、それらをあまり必要としなかったのは、江戸幕府が残した遺産をうまく活用していったからであろう。それだけ質の高い整備を既に行っていたのである。

 

「このようにして、江戸幕府、幕藩体制をつき崩し、日本は東京を中心とした中央集権国家の整備に邁進していくことになるのである」

 

と結べばいかにも体裁はいいが、これでは空疎に過ぎる。そもそもグランドデザインなき新国家の創設は、そんなに生易しいものでも単純なものでもなかった。

 

ここでは、とりあえずおおざっぱに、巨大都市東京の原型が、江戸城をはじめとする江戸幕府の遺産、参勤交代の遺産である諸藩の広大な江戸藩邸、を活用しながら造られていったと受け止めておくのでよいかと思う。私自身の理解もまだその程度である。

2019年1月23日 (水)

西郷隆盛 その26 江戸から東京へ 新しい空間の創設その1

王政復古、戊辰戦争、江戸無血開城、廃藩置県などなど、それらが何年に起こった、何がどうしたこうした、というふうに年表式に簡潔に記述していけば整理しやすいし、我々が習った日本史というのは大体にしてそんなものだったと思う。ただ、それでは躍動感が失せて面白くない。今さら試験を受けるわけではないので、いささかの興奮を覚えながら、歴史を感じていきたいものだ。最近に『応仁の乱』がベストセラーになったりする現象も、覚える歴史ではなく、知る喜びで学ぶ歴史が多くの人に受け入れられてきたからだろう。

 

さて、戊辰戦争が一段落して、形として朝廷を軸とする新政府(太政官政府)は、京都から江戸、つまり新しい名前の東京に遷都する。簡略に記せばそうなのだが、これは大変複雑かつ大変な作業であった。

 

そもそも江戸という地名の発祥はあまり知られていない。江戸に限らず、例えば蝦夷地を北加伊道(太政官布告で北海道)と提案したのが今の三重県出身の松浦武四郎(1818-1888)だと知っている人は少ない。「江戸」も「北海道」も言葉が今の我々にあまりにもなじんでいるので、特に意識することがないわけだ。

 

太田道灌が江戸城築城を開始したのが1457年、徳川家康が江戸に入ったのが1590年と言われている。一般向けの冊子『大江戸の都市力』(洋泉社MOOK)によれば、地名としての江戸が確認できるのが1261年で、地名からとって名字とした江戸は1180年の資料にあると記されている。ということは、その前から「江戸」と呼称されていたわけだ。そもそもこの地域は、河川が多くあり、台地と湖沼、低地と平地の凸凹からなっていたという。居住の痕跡は縄文時代からあるらしい。今では想像もつかないが、日比谷あたりまで海から続く細い入江があった。

 

そうしてみると、水に恵まれているとはいえ、治水技術や橋梁技術、浄水の確保や下水処理方策がなければとうてい人口密集地にはなれない。鎌倉時代にもなされてはいたものの、利根川東遷など、大規模な水路変更、築堤、堰や用水路建設、埋め立てなど、それらを盛大に行って大都市にしたのが江戸時代であると言ってよいだろう。

 

ただ、それを家康が構想したかのように感じるのは多分に神話的伝説である。家康の江戸滞在はのべにして5年かそこらで、しかも当初は秀吉配下の一大名に過ぎなかった。どのみち一気にできるはずはなく、代々の将軍、特に初期の将軍達が勢いをつけ、戦乱のない時代、官僚化あるいは専門家と化した旗本などの幕臣が天下普請として地方大名を動員しながら脈々と整備を重ねてきたわけである。

 

先に掲げた『大江戸の都市力』では、筆者の一人の陣内秀信氏が、「江戸ほど自然の地形を活かした都市づくりをした例は、世界でも珍しいといえます」とのべている。一般書ながらいささか論文的だが、江戸の地形利用についてさらに詳しくは『江戸はこうして造られた』(鈴木理生 ちくま学芸文庫)という大変な労作がある。

 

幕末江戸の居住人口は100万で、その半数が武士、半数が町民だったという。ところが、400万石とも言われた徳川幕府は70万石に減らされ静岡に移封となってしまった。江戸は幕府の直轄領である。各藩の土地はあくまで幕府からあてがわれていたもので、上屋敷、中屋敷、下屋敷、倉などに分かれて広大な面積を有していた。中心部の面積の約7割が幕府や各藩の屋敷で占められていたようだ。それが、幕府の崩壊により、そっくり宙に浮いた、というか、あらかた新政府のものとなってしまったわけだ。ちなみに、残り3割は寺社地や町人地であった。
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幕末は京都が政局の中心になってしまったが、旧秩序でがんじがらめの京都に政権を担う新しい空間を創設することは難しく、大久保利通は大坂に遷都することを考えていたという。ところが、大坂は町人の街で、既得権に縛られて充分な空間が得られない。建設の資金もない。

 

ここに、中心となる城郭があり、周辺に広大な武家地のある江戸が、東の京、すなわち東京と改められ、そこに遷都することが決定されたわけである。京都と東京の二都論ではあったが、遷都の提唱と、「自今江戸ヲ称シテ東京トセン」という詔書が出されるにいたった命名は東征大総督府軍監として江戸開城にも立ち会った佐賀出身の江藤新平である。遷都の最終的な決め手となったのは幕臣だった前島密の建白とも言われている。

 

江藤新平は、後年、切れ者として西郷隆盛の力強いパートナーとなっている。そのことについては先に記すとして、まずは、あまり語られてこなかった東京の新たな空間というのがどういうものであったか、次稿で紹介する。

2019年1月 9日 (水)

西郷隆盛 その25 戊辰戦争その後

戊辰戦争は函館五稜郭の旧幕府軍の敗戦でほぼ終止符が打たれた。それまで、そしてその後には当然のことながら色々ないきさつがある。

 

仙台藩は最終的には降伏したわけだが、そもそも奥羽越後諸藩の同盟は会津藩の赦免を目的としたようなところがあり、会津藩に降伏を説いた仙台藩の優れた重鎮であった但木土佐は事後に江戸で斬首されてしまう。幕府支持で開国派だったものの、当初は必ずしも全面的な反新政府ではなく比較的穏健派であった但木は不本意に反新政府の方向に追い込まれたのではないか。下参謀であった悪名高き世良修蔵の仙台藩士らによる殺害、奥州鎮撫総督を監禁下においたりしたことの報復もあったかも知れない。仙台藩士玉虫左太夫(たまむしさだゆう)も捕縛され切腹を余儀なくされた。福沢諭吉や殺害された小栗忠順と同じくして渡米経験のある貴重な人材であった。晒し首にまでされた米沢の雲井龍雄もさぞ無念であっただろう。藤沢周平の小説『雲奔る』(中公文庫)の主人公である。

 

ちなみに、世良修蔵は、2018年、幼児の不明騒動と奇跡的な無事発見、船舶による大島大橋破壊による断水で、有難いのか有難くないのかよく分からぬ形で一躍全国に有名になった周防大島(屋代島)の出身で、そもそもは武士ではなかった。以前にも記したように、ここは第二次長州戦争で激しい闘いが行われた地だ。世良は第二奇兵隊を率いて戦っている。

 

会津藩はよく知られているように、悲惨な戦いに敗れ、降伏したのち、下北半島に領地が与えられ、斗南(となみ)藩として再興を図ることになった。

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農業に適さない厳寒の地での苦難は『斗南藩』(星亮一 中公新書)に詳しい。『ある明治人の記録』(石光真人編著 中公新書)にも先で陸軍大将となった柴五郎の苦闘が生々しく描かれている。また、折角の努力も廃藩置県によって藩としてはわずかな期間で途絶してしまった。多くは会津に戻ったものの、この地で頑張り、栄達を遂げた人もいる。藩候の松平容保は一命を助けられたが、引き換えに家老の首を差し出すことが求められ、重臣の萱野権兵衛があたら命を散らすこととなった。年長であったため自らかって出たようだが、潔い言葉とは裏腹に、辛かっただろう。

 

戊辰戦争で多くの命が失われたが、実は、幕府側も新政府側も、兵員の半数近くは武士ではなかった。戦争をする場合は、食料や弾薬の補給、いわゆる兵站が欠かせず、前線にこそあまり出なかったにせよ、多くの農民らが駆り出されていたからである。あまり表に出ないだけのことで、彼らも塗炭の思いをしたはずだ。

 

したがって、ことさらに重臣の死をあげつらう必要はない。しかし、ここでどうしても言及しておきたいことがある。

 

それは榎本武揚(えのもとたけあき)だ。本来なら新政府の資産になるべき貴重な軍艦をかっぱらい、北海道に自治領を造ることも企図し、失策を重ねたあげく、函館五稜郭に立てこもってあくまで抗戦した人物である。降伏してよりは、他の例にならえば、三度ぐらい打ち首になっても不思議ではない。しかし、獄から比較的早く釈放され、後年の明治政府において、なんと農商務大臣にまでなっている。黒田清隆が助命に奔走したと言われているが、この場合の最終判断はこの時政府に身をおいていた西郷隆盛であろう。自ら乗り込んだ庄内藩にも彼が寛容の態度で臨んだことはよく知られている。

 

榎本武揚は恭順の説得に耳をかさない確信犯であったが、奥羽越後諸藩は、そこまで追い込まなくとも話し合いの道はあったのではないか、と感じる。それがために多くの貴重な人材が失われたのである。

 

新政府になっても、単に権力者が交代しただけのことであって、苛酷な体質は江戸時代のそれと全く変わっていない。維新の最大の意義はこの政権交代自体にはない、と思うゆえんである。明治になって西郷隆盛の早々の帰薩は、そんな体質が嫌だったからではないだろうか。未完遂に終わったとはいえ、維新を維新たらしめた偉業はもう少し後のことである。

2018年12月30日 (日)

2018年歳末寸感

今年もあとわずかとなってしまった。私にとって2018年は特記するほどのこともなかったが、大病も事故もなく、とりあえず無事に過ごせたことは有難いとしみじみ感じる。

歳末おしつまった時に幕末維新のややこしい話でもなかろうと、今回はさっと書けるつれづれの寸感。

 

手帳

毎年、来年も無事に過ごせるだろうかと思いながら、年末に手帳を更新して予定などを書き入れている。スマホに入れておけばよさそうなものだが、私には手帳の方が使いやすい。その手帳を新幹線に置き忘れた時は蒼くなった。

大騒ぎするほどの予定があるわけではない。が、メモで安心して、頭においていないので、当面の予定の正確な日時がわからなくなってしまう。それに、隠し文字にしたパスワードの数々からゴルフのスコアまでメモしているので、誰かに見られたら大変だ。幸いに駅員が保管してくれていて、着払いで送ってもらって安堵した。

 

ゴーン氏逮捕

手帳の置き忘れは蒼くなったが、こちらは驚いた。高報酬のことはつとによく知られているわけで、何が何だか分からない。容疑があるとしても、そもそも逮捕して長期拘留をする必要があるのだろうか。村木事件の大失態の二の舞にならないか。

堀江貴文氏の時もそうだが、憶万長者の“逮捕”に快哉を叫ぶような風潮がある。これは絶対に誤っている。民間会社であれば、どれだけ高報酬であろうと、それは庶民の知ったことではない。逮捕はあくまで証拠隠滅や逃亡のおそれがある時の必要悪であって、容疑の段階で代用監獄とも言われている苛酷な扱いの留置場に入れるのは慎重にすべきだ。あれほどの有名人が逃げ隠れできるものか。逮捕が先取り刑罰化している現実には大いに異議を唱えたい。

酒に酔って夜に道に寝ていた人をはねたというほとんど不可抗力の交通事故でも運転手が逮捕されているが、逮捕ならではの情報が得られるとは思えない。痴漢容疑の人もそうだ。手が触れたとかで大騒ぎされて冤罪逮捕されたのではたまらない。満員電車で誰とも接触しないというのは不可能だ。世の淑女諸子には、男性はかなり恐怖していることを知っておいてもらいたい。ただし、本物の痴漢や犯罪的なストーカー、傷害や殺人などの容疑者は身柄を拘束してもらわないと、自らを守ることのできない者は枕を高くして眠れない。

 

日韓問題

以前にも触れたように、私はかつて日韓問題の小冊子をまとめる過程で韓国の歴史を学んだことがある。限られた時間の中で、一般にはまず知られていない朴正煕全集にまで目を通した。

その過程で、長い間独立が奪われていたにもかかわらず、また、朝鮮戦争で焦土と化した中から、見事に立ち上がり先進国となったことに深い敬意を抱いていた。その小冊子は、韓国の学者からも、在日韓国人からも高い評価を得て翻訳されて韓国で出版という栄に預かった。考えは今も変わっていないので、その意味では私は親韓派だ。

しかし、さすがに最近は、あきれ、ウンザリしている。韓国には「日本には何をやっても許される」という風潮があるそうだ。哨戒機への駆逐艦レーダーのロックオンはただただ論理のない開き直り。少女像だの徴用工だのの像をやたら立てるのが好きなようだが、あの像にどれほど芸術性があるのだろうか。少なくとも私にはそう思えない。どうであれ、あまりにもしつこく、不快だ。

前科のある日本のナショナリズムへの挑発は、また日本が誤った道に踏み出してしまわないかと、市井の一小市民として不安にかられてしまう。ヘイトで知られるように、日本にも過激グループが存在している。

悪は確かにあった。しかし、ひとつひとつのことがらへの対応はとうていできることではないので、日本は「過去の清算」として双方合意の上で既に莫大な支払いをしている。それを朴正煕元大統領が韓国の発展のために投資したことが「漢江の奇跡」の起動力のひとつになった。国民は少なくとも間接的にはその恩恵に預かったはずで、それが知らされていないとしたら、教育に大きな問題がある。これでは、日本の統治政策は他国の植民地政策とは異なった面もあったという歴史研究の深化は不可能だ。

それでも、そこを曲げて、実態にも議論のある慰安婦問題を、「もう終わりにしましょう」と改めて国家間の合意で念をおしたはずが、大統領が変わってあっさりと反故。北朝鮮という国が韓国でどのように知らされているのかも不思議だ。どちらの国も私にとってはdisgustingだ。

今をさる150年前のこと、明治新政府も、日韓問題というか日朝問題で悩まされた。小冊子で知識が増えたのち、西郷隆盛の“征韓論”なるものはいったい何だったのかと、一般書だけでなく、専門書まで漁ったことがあるので、いずれ紹介する。

 

喪中欠礼

12月になると「喪中欠礼」の挨拶状が多く届く。今年は特に多かった気がする。知己の多くが親や身内を亡くす世代だということもあるかも知れない。かく言う私もそうである。老母は97歳という天寿だったこともあって、「喪に服する」という殊勝な思いもなく、かと言って新年の挨拶というのもどうかと思案しているうちに、結局、「喪中欠礼」も「賀状」も出さないままになってしまった。ここに書いてもあまり意味ないとは思うが、非礼をお詫びしておきたい。

 

現在進行中のことがらへの批判的な論評は本ブログの趣旨ではないのであまり書かないが、今回は少し踏み込み過ぎたかも知れない。時には思いの吐露もお許し頂きたい。

来年が皆様にとってよき年になることを祈りつつ、本年最後の稿とさせて頂く。

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