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2020年6月20日 (土)

日本海海戦

新型コロナによる移動制限で売り上げが激減した観光業界を支援しようと、旅費の一部を政府が負担する「GoToトラベル」というキャンペーンが行われるらしい。大いに進めてもらいたいものだ。具体的なことがわかれば、私もあやかりたい。

旅と言えば、昨年末に対馬を訪れ、建立されていた記念碑でロシア水兵が対馬の北東の海岸に漂着していることを知りブログに書いた。1904年(明治37年)2月8日に始まった日露戦争において、1905年5月27日、東郷平八郎率いる日本海軍連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が激突した日本海海戦は、対馬沖、対馬海峡が主戦場であった。それまでは日本海と漠然と受け止め深く考えもしなかった。旅にはこういう効用もある。

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なぜ日露戦争が起こったのかについて、簡潔に書くのは私の力量では難しい。ズルズル関連づけていけば、日清戦争はもとより、幕末のロシア艦船の日本侵入事件にまでさかのぼらねばならない。日露戦争全体については児島嚢氏の大著に詳しい。

ここでは、帝政ロシアが拡大政策を続け、満州を支配下におき、三国干渉で遼東半島の権益を得、さらに朝鮮半島にまで触手をのばそうとして日本の不満を高め不安に陥れたことによる、と記しておこう。日本は、非戦、開戦で国論が二分していたが、結局、旅順港口のロシア艦船への海軍の攻撃を端緒として開戦に踏み切る。陸軍は朝鮮の仁川から上陸して北上していった。ここから有名な苦難の旅順要塞攻撃、要衝である二〇三高地の確保につながる。日本海海戦の1年半近く前のことである。

日本海海戦に関する一般向けの書としては『海の史劇』(吉村昭 新潮社)が傑出しているのではなかろうか。小説仕立てではあるが、膨大な資料を蒐集して執筆する吉村昭らしく、かなり事実に沿っているように思える。

『海の史劇』は、バルチック艦隊のロシア出航から書き起こし、地中海からアフリカ西海岸、喜望峰を回って、マダガスカル、インド洋、ベトナムなどを経由して、スエズ運河を利用した後発艦隊と合流しながら、半年以上かけて日本近海に赴く苦難の過程を詳しく描写している。

当時世界一と言われたバルチック艦隊を迎え撃つ連合艦隊は、艦船の数に劣り、主砲の射程距離も劣っていた。普通に考えれば勝ち目はない。もし撃滅されてしまえば、制海権を失い、大陸に展開した陸軍への物資、弾薬、人員などの補給路が断たれてしまう。今の我々は大勝利という結果を知っているから、さほど感じないが、実のところ、これは国家の興亡をかけた闘いだったわけである。そのぐらいロシアは強国であり横暴であった。

ではなぜ勝利したか。ひとつには情報である。諜報員を使ってバルチック艦隊の動きを細かく把握しようとしていた。ウラジオストックを目指していたことはつかんでいたが、最短である対馬海峡のルートか、太平洋を回って津軽海峡あるいは宗谷海峡のルートを取るのかについてはわからなかった。ウラジオストックに入り、そこの艦船と合流し、態勢を整えられたら、ますます勝ち目はなくなる。どうしてもそれは阻止しなければならない。日本近海で『信濃丸』が最初に発見し、『和泉』が併走して行方を追うことで、東郷平八郎が想定していた通り、対馬海峡に入ることを確認している。

その前に、黄海での海戦でロシア太平洋艦隊を取り逃がして旅順港への引き籠りを許してしまうという苦い体験があった。その際の科学的分析で、敵の主砲の射程距離は日本を凌駕していても、距離8000mでの砲撃は命中率が低いことを掴んでいる。艦船の速度では勝っており、短距離での砲撃力は日本に利があると見ていた。だから、世に丁字戦法と呼ばれている、敵前8000mで進路をふさぐかのような大回頭というリスクをあえてし、その後6500mの距離に縮まったところで集中砲撃を開始したのである。これによってバルチック艦隊は壊滅する。

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参謀秋山真之など、優れた人材を擁したことも大きかったであろう。敵を知り己を知り、緻密な戦術と柔軟な対応、第二次世界大戦での日本軍の失態を描いた『失敗の本質』をまさに逆にしたような感がある。それでも当時の日本の国力は青息吐息だったという。吉村昭の手による、小村寿太郎全権による講和条約締結について書かれた『ポーツマスの旗』も名著だと思う。

吉村昭は『海の史劇』のあとがきで、「講和条約締結後に起こった日本国内の民衆運動は、日本人が戦争と平和について未成熟な意識しかもたぬ集団であることをしめし、その意識が改善されぬままに後の歴史を形作っていったように思う」と指摘している。

ただただ戦勝に沸く国民と、国を守ることを第一義におき冷厳に国力を自覚していたその時の政府首脳との間には大きな隔たりがあった。“その時の政府首脳”が、驕りと国民への媚びにより“その時の政府首脳”でなくなったことに日本の最大の悲劇が始まる。

さて、この当時は各国から観戦武官が戦場に同行するという仕組みがあり、日本艦隊には、艦船譲渡の縁でアルゼンチンのドメック・ガルシア大佐が同行していた。彼は、兵の士気が高く、規律があり、砲撃の精度を向上させるための猛訓練に励んでいたことを激賞している。彼の観戦記は長らく秘密文書とされていたが、今は日本語に翻訳されている。

東郷平八郎は京都の赤松小三郎の塾での門下生であり、洋学、砲術に通じた赤松小三郎から理論などを学んだはずだ。事後に、恩師を偲び感謝と冥福を捧げていたという。また、横須賀の海軍ドックがあればこそ艦船の整備を十全に行うことができたわけで、その創設の最大の貢献者である悲劇の幕臣小栗忠順の遺族に深い感謝の意を捧げたといわれている。

本稿で掲載した図はWikipediaによる。

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