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2019年8月21日 (水)

たまに読む小説

私の流儀は安い文庫本の乱読だ。途中でほったらかしにしたり、積んでおくだけだったり、という本も多い。ねっころがって読むので、枕元にはいつも50冊以上が積まれている。

好みはノンフィクション系で、小説はあまり読まない。しかし、新田次郎(1912-1980)と吉村昭(1927-2006)は例外で、かなり読んできた。主題に対して綿密な取材をしているからか、まことに面白い。もちろん小説なので、創作部分や虚構は当然と受け止め、必要に応じてWikipediaや他の書物を参照するようにしている。彼らの作品は概して事実に基づいているように思える。

吉村昭で比較的最近に読んだのは、ターヘル・アナトミアの翻訳を巡っての前野良沢と杉田玄白の関係を描いた『冬の鷹』、さすがにどの島がモデルなのか定かではないが、難破船を“お船様”と喜んで略奪などをする島の小村を描いた『破船』、尊皇攘夷を掲げて幕末に筑波から京都を目指した水戸の天狗党の動きを追った『天狗争乱』、日本が戦争にひた走る昭和十年代かけて300人以上もの甚大な犠牲者を出しながら完成にこぎつけた黒部第三ダム建設の『高熱隧道』、大正時代に起こった苫前での羆(ひぐま)による襲撃事件の『羆嵐』。どうしてこのように上手に描けるのだろうか。どの書も一気に読める。

『高熱隧道』では、黒部の山奥での工事自体が非常に難しいことに加え、高熱の湧水でトンネルの掘削が困難を極め、また、泡雪崩で、慎重に安全な場所を選んだはずの人夫の宿舎の3階以上が丸ごと宙に吹き飛ばされるということが起こっている。泡雪崩(ほうなだれ)というのはなじみのない言葉だが、Wikipediaには、「爆風が発生すると誤解されることが多いが、実際は、雪煙が空気と雪粒の混合体であるがゆえ生じる力による。この誤解は『高熱隧道』の記述によって広まったとされている」とあるから、雪粒の中の空気が爆発するかのような吉村昭の記述は正確さに欠いているのかも知れない。ただ、科学的考察ができない読者にとっては大きく見れば誤差範囲だ。普通の雪崩でも十分怖いと思うが、泡雪崩には信じ難いほどの破壊力があるらしい。

なお、小説は触れていないが、黒部第三ダム建設にも、おそらくかなりの数の朝鮮人人夫が危険と高給との抱き合わせで雇用されているはずだ。そういうことは炭鉱などで常態化していた。差別だとか強制という一方的な決めつけには疑問があるが、彼らが日本の統治下で厳しい経済状態に追い込まれていた面は確かで、日本は自省をも込めて理解を深めていかねばならないだろう。

さて、『羆嵐』(くまあらし)では、狂暴な羆を経験豊富な銀四郎が最後に仕留めるのだが、そのやりかたは現役の羆狩りの名手の言と一致している。下からではなく、上から羆にアプローチしなければならないらしい。こういうことにもこだわって執筆しているのだろう。先般に『羆嵐』のもととなった羆の事件をNHKが劇画的に放映していたが、小説の描写の方が迫力を感じる。

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島崎藤村の『夜明け前』は幕末の中山道の妻籠宿(つまごじゅく)が舞台となっている。ここを水戸の天狗党が通る。差別をテーマとした『破戒』のついでにと思ったものの、『夜明け前』は小さな字で1頁2段組、800頁近くもある大作で、さすがに読むのに骨が折れた。ちなみに、吉村昭の『天狗争乱』でも天狗党が妻籠の宿を通る時の彼らの規律と秩序ある状況が描写されているのだが、ほぼ似通っており、かなり事実に近いのだろう。最終的にこの天狗党は慕い頼ったはずの一橋慶喜に冷たく見放され300人以上が斬首されるという悲劇的結末を迎えることとなる。

小説と言えば、住井すゑ(1902-1997)の『橋のない川』は、全編これ露骨な差別用語オンパレードで、文庫にして全7巻の大作は、読むのに苦吟した。それでいて不思議な明るさと爽やかさがある。作者は差別の中にいたわけではなかったのにどうしてここまで入りこめたのだろうか。そのほとんどは会話で構成されているが、言わんとしていることは一貫している。少し長くなるが、手紙に折り込む形で表現した核心を下記に引用しておく。

しかし私たち人間に、果たして自分の意志や努力ではどうにも変えようのない、生まれながらの社会的地位などあり得るでしょうか。生まれながらの人間は、いつも君が言うように、一人のこらずはだかで名なしです。一人のこらずはだかで名なしだということは、一人のこらず人間として自由であり、自由であるが故に無限の可能性を持っている、ということだと僕は思います。
ところが現在の社会では、生まれながらの人間的自由や、その無限な人間的可能性は、身分という鋳型によってあと方もなく圧殺されてしまいます。しかし圧殺されるのは、ひとり僕たち賤民身分の者だけではありません。貴族も富者も、やはり身分の鋳型に圧殺されて、その人間的自由と可能性を取り失ってしまいます。最も顕著な例が皇族であり、頂点が天皇だと指摘したら、或る種の人は眉をひそめ、或る種の人は拳をふり上げ、更にある種の人は絞首台をすら差し向けてくるでしょう。それは僕の指摘の正しさに、まともでは太刀打ちが不可能なからではありますまいか。

これは全くその通りだ。住井すゑもまた文章で自己表現をする素晴らしい文学者である。漱石や鴎外だけが文豪では決してない。

たまにしか読まない、多分に気まぐれで読む、ではあるけれど、もう少し広く読まねばとわが偏りを自虐しつつ、小説もまた偉大な芸術だとつくづくにして思う。

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