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2019年8月 1日 (木)

西郷隆盛 その38 留守政府の崩壊

明治6年の対朝鮮政策において、西郷隆盛は武力を行使してでも日本の主張を認めさせるという、いわゆる征韓論者であったというのが巷間言われてきたことであった。それに対して、外国を視察してきた岩倉、大久保らは、今は国内対策が最優先であって、対外戦争などしている時ではないと反対し、結局、岩倉、大久保らの内治派が勝利したというものである。

“論に敗れた”西郷隆盛は政府を辞し、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助ら主要人物も辞任した。つまりこれが留守政府の崩壊である。

この騒動は錦絵で大仰に描かれている。錦絵というのはいわば庶民の政治の娯楽化であって、中には資料的価値が高いものもあるようだが、多くは “見てきたようなウソを描き”である。西郷隆盛が口髭を生やしていたという話は聞いたことがない。 

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私見として、結論的に断言しておきたい。西郷隆盛が征韓論を唱え、そしてそれに敗れた、というのは真っ赤な嘘である。おそらく、岩倉、大久保らの政権闘争の勝利組の歪曲であろう。

留守政府の崩壊は政権闘争にほかならない。西郷らに政権闘争という意識があったかというと、どうもそれはなかったようだ。だから策謀を用いた大久保らが一方的に勝利したのである。

洋行組が帰国してみれば、改革はどんどん進められており、大久保利通の腹心たる山縣有朋も井上馨も汚職事件で拘引寸前になっていた。大久保にとっては、自らが命をはって江戸幕府からの政権交代を遂げたのに、それがそっくりそのまま留守政府に奪われたかのような思いがしたのではないだろうか。帰国後しばらくおとなしくしていた大久保利通は、成果もあげられなかった洋行による長期不在を悔やみ、激しい敵愾心にかられ、政権奪還の策を練っていたに違いない。

ここで利用されたのが征韓論問題である。実は征韓ではなく、西郷隆盛の朝鮮への使節派遣なのだが、これは留守政府で既に決定されており、岩倉具視の帰国を待って正式に決裁の段取りであった。これが策謀によってひっくり返されたのである。怒った西郷は決定当日の明治6年10月23日に辞表を提出し、他の主だった参議も続いて辞職した。

非常にひらたく書けば、これが「明治6年政変」である。だが、理解しようとすれば、多くの「なぜ」が持ち上がる。そもそも征韓論とは何か。大久保利通の策謀とは何か。なぜこの政権交代がそれほど大きなことなのか、などなど。

韓国問題は今現在も世相喧しい。明治初年の朝鮮問題はどうかというと、少なくとも今よりはるかに筋の通った主張を朝鮮がしていたと私は思っている。次稿で征韓論について触れたい。

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