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2019年7月17日 (水)

西郷隆盛 その37 娼妓解放令

「賤民廃止令」が公布されたのは、明治4年8月28日(1871年10月12日)で、まだ岩倉使節団は出発していない。だから、それは必ずしも留守政府の方針だったわけではないのではないか、という疑問が起こるかも知れない。

『明治維新と賤民廃止令』の著者の上杉聰氏は、「(芸)娼妓解放令」にも非常に大きな意義を見出している。これは明治5年10月2日(1872年11月2日)に出されたもので、間違いなく留守政府の手によるものである。

年期奉公などでガチガチに縛られた人々を解放せよということで、上杉聰氏は、娼妓解放令は「たんに娼妓だけではなく、当時のこうした奴隷的、半奴隷的な在り方を広く禁止したものなのである」と記している。

娼妓解放令はマリア・ルース号事件での奴隷解放で名をはせた大江卓らが尽力したことは間違いない。江藤新平も司法卿として深く関り、太政官布告なので、首班たる西郷隆盛も推進し、太政大臣たる三条実美も決済したはずである。

幕末・維新を顧みて、徳川という武力の政権を倒すのだから、大規模か小規模かはともかく、なにがしかの武力闘争は必然であった。そこに不思議はない。武力を用いた闘争はどうしても派手に見え、目を奪われがちだ。

しかし、新政権になって何が変わったかと考えてみると、少数が支配する、すなわち寡頭政治という意味において、江戸時代と何ら変わることはなかった。廃藩置県による中央集権化は政治体制としては確かに大きな出来事であったが、それには、将軍に代わって天皇、そして将軍に替わって求心力を高めるためにその神格化が進められたという弊害も付随した。ただし、西郷隆盛はむしろ人間天皇として見聞を広くするようにしていた様子がある。

最も大きく変わったものは何か。それは「賤民廃止令」「娼妓解放令」に代表される、身分制度の大きな変革、「人権」の導入であった。これこそが明治維新の要諦、本質であって、このことはいくら特筆しても特筆し過ぎることはない。

しかし、こう書けば多くの人が不思議に思うだろう。明治中期から後期にかけての差別問題をテーマにした小説、有名な島崎藤村の『破戒』、住井すゑの『橋のない川』などでは、エタという言葉とその差別が根強く残っていたことが描かれている。被差別民にとっては何とも酷な時代が続いていたではないかと。昭和に入っても大恐慌で「娘の身売り」ということがあったではないかと。

差別に対して闘う水平社が創設されたのは大正11年(1922年)3月3日のことだ。「賤民廃止令」が公布されて50年も経過してなお組織化と闘争を必要とするほどの差別があったのである。

差別を糾弾する一文を「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」と格調高く結んだ水平社宣言は今なお胸をうつ。奈良の被差別民西光万吉が起草したとされるが、福島の被差別民平野小剣による大幅な修正があったとも言われている(『差別と反逆 平野小剣の生涯』朝治武 筑摩書房)。当時掲げられた荊冠旗は画家でもあった西光万吉が、水平社宣言の本文中の一節、「殉教者が、その荊冠(けいかん)を祝福される時が來たのだ」に対応してデザインしたのであろう。

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なぜ「賤民廃止令」「娼妓解放令」の精神が貫徹されなかったか。“差別は根強く残るから”というありきたりのことでは説明がつかないと思う。留守政府の崩壊と、差別解消の最大の推進者江藤新平の死が、精神を大きく後退させた、と私は考えている。彼らはそれらを実効に移す、つまり、文言だけでなく魂を入れる、機会を失ったのである。それであっても、明治初期に、「そういうことはあってはならないのだ」と明確にした意義は非常に大きいと思う。

では、なぜ留守政府が崩壊し江藤新平が死ななければならなかったのだろうか。まずは留守政府の崩壊をとりあげたい。

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