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2019年7月10日 (水)

西郷隆盛 その36 賤民廃止令

「賤民廃止令」は、明治4年8月28日(1871年10月12日)に公布された。この法令には名前がなく、「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」という短い表現にとどまっていたようだ。前稿で紹介した『明治維新と賤民廃止令』の著者の上杉聰氏は、現在のところもっとも適切な略称として「賤民廃止令」を書題に用いている。

穢多だの非人だのと、特定の人々を差別的に呼称する何ともおぞましい表現だ。このような差別を生んだ歴史的背景に関しては色々な研究がある。これはなかなかややこしい。放逐された高貴な人々の末裔という見解もあるようだ。

はっきりしていることは、同じ人間をこのように差別する合理的理由は全くないということである。前稿では、“社会の外”と記した。それはあくまで“人間と見なされないほどのひどい差別”という意味であって、実のところ、こういった人々は社会を大きく支えていたのである。

わかりやすくは、博物館などでよく見る武士が用いる武具を考えてみればよい。弊牛馬の処理と皮革職人の技術がなければこのようなものは作れない。皮革だけではなく、警備、刑吏、芸能など、幅広い領域にわたって職能集団を形成していた。差別されて別社会を形成しつつ社会と密接に関わっていたというのが私の理解である。

『弾左衛門と江戸の被差別民』(浦本誉至史 ちくま文庫)では、江戸の被差別民の代々にわたっての支配者たる弾左衛門は、名字帯刀が許され、大名に匹敵する屋敷を構え、江戸幕府と密接な関係を持っていたことが紹介されている。大都市江戸に流入する無宿人の世話もしていた。もちつもたれつか、秩序の維持に大きな役割を果たしていたわけだ。

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それでも、「人と畜生の間に穢多といふ一階級があるといふのが上下一同の考であった」(『明治維新と賤民廃止令』より)というのが維新までの扱いであったという。だから金持ちにはなれても、娼妓にはなれなかった。恥ずかしくも不思議な時代であった。

この非科学的不合理に楔を打ったのが「賤民廃止令」である。だが、その成立過程については不明な点が多い。『明治維新と賤民廃止令』では、「賤民廃止令公布の最終決定を下した者の名前を挙げるとすれば、江藤新平左院副議長・大久保利通大蔵卿・井上馨大蔵大輔あたりを挙げねばならないであろう」と記されている。この頃は、大蔵省が広く強大な権限を有していたが、明治4年当時の大蔵省の内部資料が関東大震災でほぼ完全に焼失しているため、そこに研究の限界がある。

ところが、『明治維新と賤民廃止令』の記載によれば、その関東大震災の前に大蔵省の資料を閲覧した人の論考が残されており、そこには成立過程に触れて、次のように書かれているという。

然し、弁官の回答としては、平民より一等下に召置くと
云ふ案については、御沙汰に及ばれずとして、唯彼等の身
分をして立派に実効の立つ様に方法を考へ、其実効によっ
て平民に加入せしめよと云ふことであった

つまり弁官は明確に指示をしているのである。差別解消への主体的意思にほかならない。

この弁官とは誰か。大久保利通も井上馨も、弁官であったことはないし、そもそもこのような哲学を有してはいない。

これは太政官で中弁を務めていた江藤新平以外にない。大弁は公家が就くお飾りポストである。江藤新平に関しては他の言動と全く矛盾なく一致する。

江藤新平は赤松小三郎のように自筆の論考を残している。自己満足に過ぎないことではあるけれど、また、いい加減うんざりされるかも知れないけれど、「賤民廃止令」が貫徹されなかったこともあわせ、まだまだ多くのことを紹介したいと思う。

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