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2019年5月 5日 (日)

西郷隆盛 その32 岩倉使節団

岩倉使節団というのは、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年9月頃まで、外国船を利用してアメリカ、ヨーロッパを歴訪した使節団のことである。岩倉具視を特命全権大使として、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳が副使である。留学生も含め、日本人は総勢107人で、その中には新札の肖像に採用される当時8歳の津田梅子もいた。下掲は有名な岩倉使節団中枢の記念写真。中心にいる岩倉具視は、この洋行中に進言を受けて、断髪し洋装に改めている。

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そもそもは10ヶ月程度の予定だったようだが、大幅に延びて1年9ヶ月にもなっている。“そもそも”を言えば、そもそもは大隈重信が数人を連れて海外訪問を画策していたのが、政権中枢の思惑で我も彼もと、いつの間にかどんどん膨らんでしまい、あげく大隈重信ははずされ、準備不足のままやけに重たい使節が出立したというのが真相のようだ。

その行程は、佐賀藩出身の久米邦武によって『米欧回覧実記』として詳細かつ膨大で優れた報告書が残されている。一行は各地で歓待を受け、各国の人々と交流し実地見聞をなした。多くの留学生も同船させて派遣している。非常に意義深い使節であったことは間違いないが、これだけの人物を揃え、巨額を費やしたにしては、政治外交的な意義は少なかった。

日本は、幕府が開国をしてよりは、猛烈な勢いで西欧文明を取り入れており、使節は何度も派遣している。外国を訪問した、あるいは留学をした日本人もいて、外国の情報は既に多く日本に入っていたのである。幕末の1867年にはパリ万博にも日本から出店している。外交官以外にも、お雇い外国人なども日本に多くいた。なお、大隈重信に洋行を勧めたのは宣教師として日本に派遣されていたフルベッキである。

『異形の維新史』(野口武彦 草思社文庫)には、次のような記述がある。
  だいたい維新政府ができてまだ四年、新しい国家の青写真
 もまだ作られ切っていない多事多難な時期に、政府枢要の地
 位にある人士が内政をおっぽり出して海外へ向かうというの
 もかなりメチャクチャな話である。

これは全くその通りだ。課題山積の時期にわざわざ大物を揃えて訪問する意味は全くと言っていいほどなかったのである。

交渉期限が迫る条約改正の下準備が目的のひとつとしてあげられていたが、ワシントンでのあまりの歓待ぶりに、下準備ではなく条約改正をと欲を出して交渉しようとしたのも大きなつまずきである。その時に国書の不備を指摘され、大久保利通と伊藤博文が慌ててまたアメリカを東から西に横断し船でわざわざ帰国している。ところが、本交渉は無理だと留守政府に拒否され、形だけの書を得て立ち戻ったものの、その時には交渉の場すらなく、予定になかった3ヶ月以上を空しくして使節団はアメリカを去ることになる。全くの大失態で、大久保と伊藤はさぞかし屈辱感と徒労感を味わったことだろう。

関税の問題もあり、外国が日本で治外法権を有しているというのは確かに大きな問題ではあった。しかし、条約の締結や改正、相互に利害がからみあう外交折衝、というのは今も昔もやっかいな作業であり、当時にあってはなおさら、刑法も整備されておらず、ようやく海外と交流を持ち始めた東洋の、多分に野蛮性のある後進的な島国が諸外国と対等に外交をするというのは全く無理な相談であった。

要人たちが不在の間、政治中枢を担っていたのが西郷隆盛を事実上の首班とするいわゆる「留守政府」である。改革をやってはならないと、留守政府に念が押されていたとされているが、伊藤痴遊の『明治裏面史』には、釘を刺したことに対して、西郷隆盛が怒りをあらわにして「国家の大問題と認むることは、すみやかに処理していく責任がある」とのべたと記されている。西郷の肚は「必要なことはやる」と決まっていたのであろう。そうでなければあれほどのことができるはずはない。

あれほどのこととは何か。西郷隆盛を筆頭参議としたこの留守政府がやった盛大な改革について、次稿以降で記すことにする。

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