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2019年4月17日 (水)

西郷隆盛 その31 赤松小三郎2

赤松小三郎は、その構想を口上書として幕府に、また松平春嶽に、そして、それらを若干修正して島津久光にも届けている。『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(関良基 作品社)によれば、島津久光宛のものは赤松の直筆として今も残っており、引用としてはこの島津版がもっとも適切としている。

その気で見れば、原典が乏しいとはいえ意外に論考資料があり、前稿で紹介した書、上掲の書、さらには、上田市の郷土史家から『赤松小三郎先生』という冊子が大正6年に発刊されている。『「朝敵」と呼ばれようとも 維新に抗した殉国の志士』(星亮一編 現代書館)の中でも取り上げられている。古典的な労作である『大日本憲政史』(大津淳一郎)でも、幕末において憲法構想をした一人として名前が挙げられている。

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詳細な引用をして論じるのは私の力量を超え、したとしても、時間がかかり膨大な量となって誰も読みたくなくなるに違いない。端的には、『憲法構想』(江村栄一 岩波書店)で、江村栄一氏が赤松小三郎についての解説で記しているところの「イギリス立憲制にかなり似ている」「英学の理解に基づく平等性をみることができる」ということで十分だろう。ここでは、これらの資料からの私の理解として、その内容の要点を若干記すことにする。

赤松小三郎は、朝廷と幕府の合議政体を唱えており、天皇を最上位に位置付けている。そして、将軍、公家、諸大名、旗本などから、道理が明らかで、実務能力があり、情勢に通じた人を6人選任し、うち1人を大閣老とするとしている。これは天皇の補佐機関で、ひたらくは首相と各大臣である。

これに選挙で選ばれた人で構成される上下二局に分かれた議政局を設け、これを国権の最高機関だと位置づける。ここでの決め事に対して、もし天皇が反対しても、再議して議決すればそれが優先されると記している。これこそは“王に悪事をなさしめない”立憲思想の根幹にほかならない。

「門閥貴賤ニ拘わらす」「国中人才を育」「人民平等」という言葉があり、それが国を治める基礎だとのべている。軍は「国之貧富ニ応して御算定之事」「兵は数寡くして」とあるから、不相応な軍備を戒めているわけである。さらに、まずは「お雇い外国人」を勧めており、衣服や食事についても触れている。

京都では塾を持ち、分け隔てなく教え、「諸藩の士争ひて其門に就き」とあるから相当な人気だったのだろう。講義に同席というわけでもなかったようだが、会津、福井、薩摩藩士にその教え子が多くいる。日本海海戦で名を馳せた薩摩の東郷平八郎もそのひとりで、明治39年に追慕で上田に墓参しているという。余談ながら、この東郷平八郎が遺族のもとに訪れ謝意を表したのが、同じく非業の死を遂げたかの小栗忠順である。

口上書の日付は慶応3年5月とあるから、いわゆる明治維新の1年以上前、1867年6月頃で、大政奉還の4ヶ月前、鳥羽伏見の戦いの半年前である。島津久光が兵を率いて上洛し、四候会議が行われるなど、京に不穏な空気が渦まいていた頃だ。この年の11月に坂本龍馬が暗殺されている。

赤松小三郎が西郷隆盛と会ったのは慶応3年7月か8月のことだ。この時に「幕薩一和」を説き、「少しは成可申見込に候」と兄への手紙に書いている。西郷は武力討幕側になっているが、赤松小三郎の思想や構想に多分に共感していたわけである。戊辰戦争に妙に腰くだけなのは西郷の複雑な心境を表しているような気もする。西郷は少なくとも赤松に会った頃までは「幕薩一和」だったはずだ。考えが変わったとすれば、幕府と徳川慶喜への強い失望、豪胆で押し通す大久保利通への義理立てだろう。

さて、京都で名を挙げた赤松小三郎に上田藩から帰藩命令が再三出ている。幕臣への誘いもあり、薩摩の小松帯刀からも引き留められたものの、いよいよやむなく京都を離れ上田に帰郷することとなった。

老中まで出しているいわば親幕の上田藩の赤松小三郎に、薩摩の動きを幕府に知らせるのではないかとの疑念を抱き、以前からその身辺を探らせていたのが大久保利通だと言われている。

慶応3年9月3日(1867年9月30日)、赤松小三郎は白昼の京都の路上で斬殺される。実行犯は、残存していた日記や証言者の言などからほぼ確定されていて、西郷隆盛の腹心であった桐野利秋である。

赤松の暗殺が桐野の独断であったか、上からの指示であったかは定かでない。西郷隆盛はこの時は大坂にいて、京には不在であった。暗殺の前夜、送宴として赤松を誘い出したのは大久保利通のようである。なお、桐野と同じく西郷の腹心であった篠原国幹は赤松小三郎の死を知って非常に悼んでいたという。島津久光はその死を惜しみ異例とも言える莫大な弔慰金を供出している。

私は、猜疑心が強く、陰の行動を辞さない大久保利通の指示で、粗野な桐野利秋が実行した、と自分では断じている。西郷隆盛は決してこのようなことをする人ではない。当時として貴重だったはずの翻訳書も多く出している赤松小三郎が不当に埋もれてしまったのも、多分に大久保利通のなせる業であろう。

ともあれ、幕末の激動の時代に、おそらくは日本近代史上屈指の、赤松小三郎というとんでもない逸材・偉人がいた、そのことは大いに誇り、もっと語られていいのではないだろうか。機を得て、上田市を訪問してみたいと思っている。

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