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2019年3月29日 (金)

西郷隆盛 その30 赤松小三郎1

勝海舟
おまえさんは、学問の話になると、子どものように目を輝かせるねえ。少しも昔と変わっちゃいないんだ

赤松小三郎
多分、そうでしょう。私は、蘭学であれ、英学であれ、学ぶことが好きなんです。それが世のため、人のために役立つならば、いうことはありません

これは『龍馬の影』(江宮隆之 河出書房新社)の一節である。小説なのでこれは創作だろう。しかし、赤松小三郎の生涯を見ると、また、唯一残っている彼の写真を見ると、さらに勝海舟の面倒見のよさを思ってみれば、多分このような会話があったであろうと私も感じる。下掲は赤松小三郎。

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作者の江宮隆之氏はWikipediaには「主に史実に即した伝記的な歴史小説を手掛ける」と紹介されており、ノンフィクションの作品も多くあるようだ。『龍馬の影』は、龍馬よりもさらに進歩的で卓越した構想を得ていながら、龍馬の影に埋もれ、世に知られることがなかった赤松小三郎を描いた素晴らしい作品である。江宮氏は龍馬をして「埋火のような小三郎の生涯に対して、燃え盛る炎のような生涯であった」と表現している。

赤松小三郎は、武士身分ながら、いわゆる軽輩の貧しい家の二男として1831年に信州の上田に生まれている。幼少の時から和算に優れた才を発揮し、算学を活用しての凧づくりの名手だったという。後年赤松家に養子に入るまでは芦田清次郎という名前であった。

学問を志し18歳で江戸に出奔し、内田弥太郎(五観)の数学塾で学んでいる。内田弥太郎は関孝和の流れをくむ当代一流の数学者であり、「微分」「積分」の名づけ親だと記されている。高野長英を通じて間接的にシーボルトの蘭学も修めていた。日本で最初にパンを作ったという伊豆韮山の代官江川英龍に依頼されて江戸湾の測量も担ったようだ。明治5年の太陽暦への改暦も彼が手掛けている。

赤松小三郎は算学だけに飽き足らず、おそらくはその間に聞き知った砲術と蘭学を学ぶために師の紹介を得て、下曽根金三郎という洋学者の門を叩いた。ここでも猛勉強をしてオランダ語を学んでいる。数学の基礎があるだけに砲術への理解が早かったことは想像に難くない。

事実かどうかは不明だが、小説では、その間に、この頃浦賀に来航したペリーの黒船を見学に行っている。そして上田藩主で江戸幕府老中の松平忠固に謁見し黒船について報告して励ましを受けたことになっている。以前にも記したように、この松平忠固こそは開国主義者で、日米修好通商条約を結ぶにあたって朝廷の許諾が不要と主張した、先見の明のあった硬骨の人である。

小三郎はその後赤松家へ養子入りのため上田に戻り、そしてまた再度江戸にのぼる。内田弥太郎、下曽根金三郎からさらに学ぶとともに、今度は勝海舟の門下生になっている。これが縁で、長崎の海軍伝習所で非正規の形で学ぶ機会を得る。

航海術、砲術とあわせ、長崎でオランダ語にさらに磨きがかかる。その頃、英語の必要性を感じ、江戸に戻ってからイギリス騎兵大尉の知遇を得て、横浜に居住している彼の下に足しげく通い、持ち前の才と努力であっという間に英語をも習得したようだ。教科書は軍事や政治に関する原書だから、当然にしてその方面の知識も他の者の追従を許さぬぐらいに身につけたわけである。その後、翻訳も手掛けるようになり、京都で自らの塾を持ち、薩摩の島津久光からも高く評価される。

と書いてくると、「それはそうとして、西郷隆盛の話はどこに行った」とまた尋ねられそうだ。実は、西郷隆盛はこの赤松小三郎と京都で親しく懇談しているのである。福島の関連で触れておくと、NHKの大河ドラマ『八重の桜』の主人公新島八重の兄である山本覚馬とも親交を有し、おそらくは強い影響を与えたはずだ。

当時にあってオランダ語と英語を自在にあやつる異色の逸材、赤松小三郎がどのような考えを持つに至ったか、それは明確に文書として残されているので、改めて紹介したい。驚くべき内容である。

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