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2019年1月 9日 (水)

西郷隆盛 その25 戊辰戦争その後

戊辰戦争は函館五稜郭の旧幕府軍の敗戦でほぼ終止符が打たれた。それまで、そしてその後には当然のことながら色々ないきさつがある。

 

仙台藩は最終的には降伏したわけだが、そもそも奥羽越後諸藩の同盟は会津藩の赦免を目的としたようなところがあり、会津藩に降伏を説いた仙台藩の優れた重鎮であった但木土佐は事後に江戸で斬首されてしまう。幕府支持で開国派だったものの、当初は必ずしも全面的な反新政府ではなく比較的穏健派であった但木は不本意に反新政府の方向に追い込まれたのではないか。下参謀であった悪名高き世良修蔵の仙台藩士らによる殺害、奥州鎮撫総督を監禁下においたりしたことの報復もあったかも知れない。仙台藩士玉虫左太夫(たまむしさだゆう)も捕縛され切腹を余儀なくされた。福沢諭吉や殺害された小栗忠順と同じくして渡米経験のある貴重な人材であった。晒し首にまでされた米沢の雲井龍雄もさぞ無念であっただろう。藤沢周平の小説『雲奔る』(中公文庫)の主人公である。

 

ちなみに、世良修蔵は、2018年、幼児の不明騒動と奇跡的な無事発見、船舶による大島大橋破壊による断水で、有難いのか有難くないのかよく分からぬ形で一躍全国に有名になった周防大島(屋代島)の出身で、そもそもは武士ではなかった。以前にも記したように、ここは第二次長州戦争で激しい闘いが行われた地だ。世良は第二奇兵隊を率いて戦っている。

 

会津藩はよく知られているように、悲惨な戦いに敗れ、降伏したのち、下北半島に領地が与えられ、斗南(となみ)藩として再興を図ることになった。

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農業に適さない厳寒の地での苦難は『斗南藩』(星亮一 中公新書)に詳しい。『ある明治人の記録』(石光真人編著 中公新書)にも先で陸軍大将となった柴五郎の苦闘が生々しく描かれている。また、折角の努力も廃藩置県によって藩としてはわずかな期間で途絶してしまった。多くは会津に戻ったものの、この地で頑張り、栄達を遂げた人もいる。藩候の松平容保は一命を助けられたが、引き換えに家老の首を差し出すことが求められ、重臣の萱野権兵衛があたら命を散らすこととなった。年長であったため自らかって出たようだが、潔い言葉とは裏腹に、辛かっただろう。

 

戊辰戦争で多くの命が失われたが、実は、幕府側も新政府側も、兵員の半数近くは武士ではなかった。戦争をする場合は、食料や弾薬の補給、いわゆる兵站が欠かせず、前線にこそあまり出なかったにせよ、多くの農民らが駆り出されていたからである。あまり表に出ないだけのことで、彼らも塗炭の思いをしたはずだ。

 

したがって、ことさらに重臣の死をあげつらう必要はない。しかし、ここでどうしても言及しておきたいことがある。

 

それは榎本武揚(えのもとたけあき)だ。本来なら新政府の資産になるべき貴重な軍艦をかっぱらい、北海道に自治領を造ることも企図し、失策を重ねたあげく、函館五稜郭に立てこもってあくまで抗戦した人物である。降伏してよりは、他の例にならえば、三度ぐらい打ち首になっても不思議ではない。しかし、獄から比較的早く釈放され、後年の明治政府において、なんと農商務大臣にまでなっている。黒田清隆が助命に奔走したと言われているが、この場合の最終判断はこの時政府に身をおいていた西郷隆盛であろう。自ら乗り込んだ庄内藩にも彼が寛容の態度で臨んだことはよく知られている。

 

榎本武揚は恭順の説得に耳をかさない確信犯であったが、奥羽越後諸藩は、そこまで追い込まなくとも話し合いの道はあったのではないか、と感じる。それがために多くの貴重な人材が失われたのである。

 

新政府になっても、単に権力者が交代しただけのことであって、苛酷な体質は江戸時代のそれと全く変わっていない。維新の最大の意義はこの政権交代自体にはない、と思うゆえんである。明治になって西郷隆盛の早々の帰薩は、そんな体質が嫌だったからではないだろうか。未完遂に終わったとはいえ、維新を維新たらしめた偉業はもう少し後のことである。

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