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2018年12月21日 (金)

西郷隆盛 その24 戊辰戦争

鳥羽伏見の闘いで戊辰戦争の幕が切って落とされたわけだが、戊辰と言っても、本当はピンと来ない。少なくとも私には。

 

昔の成績表や軍隊の体力評価に使われたこともあって、甲・乙・丙・丁は、「甲乙つけがたい」と、どちらも優れていることの比喩的表現で使われるし、それをもじって、どちらもヘボを、「丙丁つけがたい」と揶揄したりもする。それとこれとは関係なさそうだが、そうではない。

 

実は、戊はその甲乙丙丁の次に来る語で、庚、壬・・・と、全部で10あり、十干というらしい。これと今も年賀状で使われる、子、寅、辰・・・・と12ある十二支を組み合わせて年月を表記したようだ。正直なところ私もよく分からないが、ともかくも、戊辰の年に起こったから戊辰戦争と呼称されている。

 

戊辰戦争は、旧幕府側と新政府側の闘いをさしている。鳥羽伏見の戦いから、函館五稜郭の戦いが終結するまでを総称しているわけだ。なぜかローマ字表記だが、Wikipediaの図を拝借すると下記のようになっている。

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これは内乱と言ってもいい。武力を背景とした徳川の武家政権を倒すわけだから、本来平和裡にことが進むはずはない。それでも、日本を二分するほどの大きな戦争にならなかったのは、肝心要の大親分、すなわちかつて将軍であった徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いで大敗を喫して江戸城に逃げ帰り、さらに寛永寺で蟄居の上、江戸無血開城と、早々に恭順というか白旗を掲げてしまったからである。大義名分として日本の王たる天皇に恭順するということだから、本音では戦争などしたくない大名にとって受け入れやすかったということもあるだろう。もし在りせば、新政府軍はとんでもない目に遭ったであろうという人物、小栗忠順(おぐりただまさ)は、その主戦論のために慶喜に罷免され今の倉渕に隠遁していた。その彼は戊辰戦争のさ中にそこで惨殺されてしまう。小栗忠順については先で記したい。

 

ともかく、それでも戦争は起こった。これは、旧体制の維持というか徳川幕府に忠を尽くすという面もあったし、御沙汰に不満があったり、新政府への反発だったりと、抵抗者側の状況は微妙に異なっている。江戸無血開城の前に甲府で板垣退助率いる新政府軍と近藤勇など新選組を主とする幕府軍との戦いはあったが、大規模なものとしては、上野の彰義隊の抵抗、宇都宮城での戦い、北越戦争、会津戦争、五稜郭の戦いなどがある。

 

ひとつひとつのいきさつと経緯を記していけば、膨大な分量になるので、今ここで詳しく触れることはしない。一般書としてよくまとまったものとしては、『戊辰戦争』(佐々木克 中公新書)があり、読みやすい。上野の彰義隊の戦いについては『江戸のいちばん長い日』(安藤優一郎 文春新書)に詳しくまとめられている。

 

さて、こういう戦いの中で、西郷隆盛はどういう動きをしていたか、について触れておきたい。結論的に書けば、彼は戦の中で見るべき動きというのは全くと言っていいほどない。以前に、「西郷隆盛は戦さが得意でもなければ好きでもない」と記したゆえんである。

 

鳥羽伏見の戦いでは、大久保利通に足止めされていたのに、無為に前線にのぞきに行った程度である。彰義隊との戦いでは優れた軍略家であった大村益次郎の総指揮下で前線にいたが、勇猛だったのは薩摩兵で、指揮は篠原国幹(しのはらくにもと)である。むしろこの頃の西郷は勝海舟に委ねて彰義隊を江戸の治安維持にあたらせるなど、その融和路線が批判にさらされていた。

 

彰義隊との戦いが終わったあと西郷は薩摩に帰り、軍を率いて再出動した時は、北越戦争も五稜郭の戦いも既にあらかた片付いた頃である。西郷隆盛と言えば勇壮な武人というイメージがあるが、これは全く誤った見かただと私は思っている。戊辰戦争も全体を采配していったのは大久保利通で、彼は西郷よりはるかに兵の使いかたが上手い。なお、実戦指揮が得意だったのは板垣退助である。

 

軍人としての西郷隆盛の虚飾のイメージは捨て去るべきだろう。彼の真骨頂は、大久保利通や岩倉具視らがいわゆる岩倉使節団で不在であった時の留守政府の首班としての、明治維新を明治維新たらしめた大胆な政治にある。そもそもこのことが書きたくて本シリーズを書き出したわけだが、なかなか辿りつけない。

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