« 西郷隆盛 その22 鳥羽伏見の戦い | トップページ | 西郷隆盛 その24 戊辰戦争 »

2018年12月10日 (月)

西郷隆盛 その23 江戸無血開城

ちょっと書いてみようと思っただけのこのシリーズだが、振り返ると結構な量になってしまった。改めて思うに、これだと、西郷隆盛というよりも、『一般書から読み解く幕末維新』とでもした方がよさそうだ。大変革が短期間に凝縮されているわけで、随分ややこしい話だが、知識を仕入れながら自分で楽しんで書いている。

 

さて、今回は、有名な江戸無血開城。これは多くの書で説明されている。書名そのままの『江戸無血開城 -本当の功労者は誰か?』(岩下哲典 吉川弘文館歴史文化ライブラリー)という書もある。

 

西郷隆盛と勝海舟(1823-1899)が薩摩藩邸で談判する下記の絵はよく知られていて、江戸無血開城談判のシンボルになっている。結城素明東京美術学校教授の手によりこれが描かれたのははるか後年の昭和10年なので、あくまでイメージの描きおこしであって、よくできていても、リアリティーという意味では少々怪しい。

Photo

立役者はいかにも西郷と勝だが、この場には山岡鉄舟(1836-1888)など、複数の者が同席していたようだ。談判は313日と14日と、2回行われている。山岡は、それに先立って駿府で西郷隆盛と直談判して、いくつかの条件の下で江戸無血開城をすることの交渉を行っている。勝海舟はそれを受けて最後の詰めをしているわけだ。勝海舟は、西郷の至誠に自分も至誠で応えたと語っている。

Photo_2

少し話を戻す。鳥羽伏見の闘いに勝利した新政府側が、今度こそ武力討幕と、江戸に攻め入ろうとして中山道方面や北陸道、駿府(静岡)方面に進軍している。どうも本人は気が進まないようだったが、ともかく西郷隆盛が東征大総督府下参謀、すなわち実質上の総司令官を命ぜられる。

 

先兵的に箱根を攻略し、いよいよ江戸攻略を慶応4315日(186847日)と決めた駿府の西郷の元に、39日に山岡鉄舟が訪れる。江戸開城、徳川家存続、慶喜助命などの条件交渉をするためである。よくも敵陣ど真ん中に行ったものではあるが、江戸騒擾の罪で幕府に捕らえられ、勝海舟が預かっていた薩摩の益満休之助の同行が可能ならしめたのだろう。

 

幕府のトップは依然として徳川慶喜で、どのようないきさつで山岡鉄舟が西郷の元に派遣されたのだろうか。老中の取り計らいで陸軍総裁などに出世していた勝海舟がそのようにしたとすればなんとなく納得してしまうが、肌合いが悪かったのか、彼は慶喜には嫌われていたとのべており、どうもよくわからない。慶喜に委任されたと記している書もある。勝海舟も恭順の考えであり、知遇のあった西郷と直談判したことは不自然ではない。

 

抗戦か恭順か、江戸城に入った徳川慶喜は逡巡を重ねる。『江戸無血開城』によれば、それを、ここにいたっては朝廷に恭順して内乱を防ぐことが日本のためと強く説得したのが山岡の義兄であり、実力部隊の指揮官である遊撃隊頭の高橋泥舟(泥舟は後年の号 1835-1903)である。慶応42月頃、ついに恭順の意を固め、当初は泥舟を赴かせようと考える。ところが、頼りにしている泥舟に万一のことがあってはと不安にかられ、誰か適任者をと打診して、泥舟が義弟の山岡鉄舟を推薦したといういきさつがのべられている。寛永寺での謹慎、水戸での蟄居も泥舟の提案で、槍の名手として名をはせた彼が移動の護衛にあたったという。

 

泥舟、鉄舟ともに海舟と違ってあまり自己誇示がなく、多くを語っていないので詳細は不明である。ただし、『江戸無血開城』の著者である岩下哲典氏は相当に確信的に、勝海舟ではなく、山岡鉄舟こそが最大の功労者だと記述している。おそらくこちらが真実に近いと思われる。

 

江戸を戦乱の場としなかったという点において、徳川幕府の統率が完全に瓦解したという点において、江戸無血開城は極めて重大な意義があると思う。西郷隆盛と山岡鉄舟、勝海舟の功は大である。そして、少なくとも結果的には徳川慶喜も大功労者である。しかし、新政府に反発し、徳川に忠を尽くす人達は当然にしていたわけで、この後にまた多くの血が流されることになる。

« 西郷隆盛 その22 鳥羽伏見の戦い | トップページ | 西郷隆盛 その24 戊辰戦争 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事