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2018年12月 1日 (土)

西郷隆盛 その22 鳥羽伏見の戦い

「鳥羽伏見の戦い」は、おとなしく京都の二条城からさらに大坂城に引っ込んだ(京から見れば)はずの慶喜が、ここでもまた中途半端で、京を支配下におく薩摩に激昂する会津藩などの幕府軍勢を抑えられず、再入洛しようとした彼らと薩摩側の軍勢が京都の鳥羽・伏見で衝突した戦いである。兵員数では断然勝っていたはずの幕府軍が敗退してしまう。

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 ありていに書けばそうなのだが、今、ひと味違う書を読んでいて、これがなかなか面白い。いわば、博識のおじさんが歴史をわかりやすく物語ってくれているような趣がある。

 

これは、『明治裏面史』(伊藤痴遊 講談社文芸文庫)という本で、「隠れたる事実」という副題がつけられている。もともと大正13年に発刊されたものを現代仮名遣いに改め、20189月に出版されている。

 

作者の伊藤痴遊(1867~1938)は講談師であり政治家でもあったというのだから面白いはずだ。「見てきたような嘘を言い」と思いきや、さにあらず、よく調べて書いているようで、なかなか真実に迫っている。少なくとも私にはそう思える。

 

この書で伊藤痴遊は、「慶喜が政権を返上しても、なお二条城に頑張っていて、あくまでも討幕派と対抗していたら、まさか慶喜を京都から逐い出すこともできず、討幕派はどれほど苦しんだか知れぬ」と書き、「慶喜は癇癪まぎれに、大坂に引き揚げたのであろうが、それがそもそも幕府の大失策であったのだ」と指弾している。領地返納などの問題もあって、「慶喜はついに兵を率いて入京しようとした。そこで薩長二藩が主となり、朝命を威光(かさ)に入京を拒んだのである。ここにおいて慶喜は、兵力によって入京しようとする、その争いが例の伏見鳥羽の戦闘(たたかい)になったのだ」としている。これは簡潔には全くその通りだと思う。

 

さらには、「この戦闘が始まるときには、どんな者でも徳川の勝利と見ていたのである。単に兵数の上からいうても、幕兵は一万三千からあった。これに対して、伏見鳥羽の街道に関門を設け、幕兵の入京を拒んだ、薩長連合の兵はわずかに四千ぐらいのものであった」と書いている。それがなぜ惨めな敗北を喫したかというと、薩長軍は必死の闘いをし、幕府軍は、総師の竹中重固(しげかた)がその器になく、裏切りもあったりして統率を欠いていたと指摘している。岩倉具視と大久保利通らの細工である「錦の御旗」も威力を発揮したかも知れない。有名な、薩摩藩邸焼き打ちにつながる幕府挑発の江戸擾乱工作もその前に行われた(これを西郷が指示してやらせたというのが定番になっているが、私は非常に疑問に思っている)。

 

以前の稿で、これらの戦闘につながりかねない慶喜追い出しは、薩長にとって大博打だったと書いたが、実際にそういう状況だったと思う。しかし、戦況不利と見てか、パークスの進言によってか、徳川慶喜、老中の板倉勝静、会津の松平容保、桑名の松平定敬らが夜ひそかに大坂を脱出し軍艦で江戸に逃げ帰ったことがとどめをさした。これでは勝てるはずはない。激闘と言われながら、双方の戦死者は1割もなかったので、その意味ではこの逃げ帰りは幸いだったかも知れない。

 

伊藤痴遊は、「伏見鳥羽の敗報があまねく天下に知れわたると、いままで態度を曖昧にしていた、弱い大名が朝廷への恭順を申し出た。ただわずかに奥州諸州は、会津藩が頑張っていたので、堅く連盟した、あくまで官軍に抗戦すべき手順が運んだ」と説明しており、これも簡潔で的確だ。鳥羽伏見の闘いで幕が切って落とされたいわゆる戊辰戦争である。千葉の請西藩(じょうざい)のような小藩の抵抗もあったし、江戸では上野の彰義隊が死闘を繰り広げたが、これについては別稿で取り上げたい。

 

肝心の徳川慶喜は、逃げ帰っての江戸城滞在はわずかで、恭順して上野の寛永寺で謹慎し、水戸を経て、静岡に移り、晩期は東京で過ごしたというのは前稿に書いた通りである。伊藤痴遊は、西郷隆盛が慶喜を極刑に処すことを頑として拒んだがために命が救われたと記している。多分、篤姫がらみの西郷の情であろう。

 

さて、本来は徳川幕府に忠を尽くすべき諸藩がなぜかくもあっさり恭順したかというと、将軍のていたらくもさることながら、どこも財政難に苦しんでおり、とても戦ができるような状況になかったということも大きいだろう。新政府軍というか官軍はどうかというと、実はこちらも財政難にあえぎ戦費調達に非常に苦しんでいたのである。

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