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2018年11月13日 (火)

西郷隆盛 その21 王政復古2

慶応3129日(186813日)の「王政復古」はクーデターと表現されることが多い。もともとはフランス語のようだが、クーデターは暴力的な行為を背景にして行われる政変と言われている。

 

ここで、幕府制の廃止、朝廷政治の摂関制度の廃止、太政官の設置(総裁、議定、参与)と人事、岩倉具視や三条実美など、放逐・蟄居していた公家の赦免、長州の復権、慶喜の処分(辞官納地)、などが宣言される。形だけを見れば、日本近代史上に特筆される大変革である。

 

決議は128日から10日にかけて複数の会議で行われ、正式な発令は1214日である。岩倉具視は118日に蟄居していた岩倉村から京都に戻ることが赦され、この頃は大久保利通の借家のすぐ近くに居住していた。なお、坂本龍馬が会津藩配下の見廻り組によって暗殺されたのが1115日だから、まだ幕府勢力も強く、京都には殺伐とした雰囲気が漂っていたと思われる。

 

実際にはこの時に戦闘が起こったわけではない。しかし、薩摩、土佐、尾張、芸州、越前の武力を背景とした政変である。何のために武力を示威したかというと、ひとつには、幕府存続を図る会津と桑名藩の武力反発を警戒していたことと、兵によって御所の門を固めることで朝議後に退所した親徳川の公家の再参内を封じるためであった。

 

なお、慶喜は1024日(18671119日)に将軍職の辞表を提出しているが、内大臣職の官位とともに朝廷から未承認で宙に浮いたままであった。これがこの時に承認される。政変で強引に決定づけたわけだ。

 

二条城にいた慶喜が動かないようにするために、福井の松平春嶽と尾張の徳川慶勝による根回しがなされていたが、兵は慶喜の方が多く、その動きひとつでどうなるかわからず、いささか心もとない状況であった。土佐の山内容堂は間違いなく、また、春嶽や慶勝も、ここまで徹底した慶喜はずしが行われるとは思っていなかったのではないだろうか。

 

素直に従ったのかどうか、ともかく慶喜は、「王政復古」のクーデターの際には戦闘とならぬように会津の松平容保と桑名の松平定敬を京都の二条城に滞在させていたようだ。その後に数千人にものぼる兵を引き連れて大坂城に移っている。「皇居付近で騒動が起きてはとの懸念」で大坂城に退いたと語っていたという。

 

慶喜は大坂(大阪)でも外国の外交官に会っており、自らを「上様」と称し、実権は失うまいとしていた様子がある。ただ、大坂で慶喜と会ったイギリス人外交官のアーネスト・サトウは、「この五月には、気位も高く態度も立派だったのに、こんなにも変わり果てたかと思うと、同情の念を禁じ得なかった。眼前の慶喜は、やせ、疲れて、音声も哀調をおびていた」と記している。慶喜の行動はなんとも中途半端で、その後にまた上洛を試みたことが鳥羽・伏見の闘い、戊辰戦争の幕開けにつながる。

 

慶喜について結論を書けば、鳥羽・伏見の闘いの際には、戦況不利と見てとるや、いち早く小舟で軍艦に乗り移り大坂から江戸に脱出している。下図はWikipediaにあったその時の様子を描いた錦絵である。ウソかまことか、事柄を大仰に想像で描写する手法で錦絵は当時の庶民の情報源となり人気を博したという。西郷隆盛も髭面の見慣れぬ顔貌で随分と錦絵のネタにされている。

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一旦江戸城に入った慶喜は、幕臣を護る動きもなきまま、その後新政府に恭順して上野の寛永寺で謹慎し、徳川宗家を譲った。完全に舞台を降りてしまったわけだ。さらに、そもそもの出身地である水戸、徳川家が移封された静岡に移り謹慎生活を送っている。謹慎が解かれた後も栄誉職程度で表舞台には出ず、長く静岡、晩期は東京で趣味に浸る安穏な余生を過ごした。大正2年(1913年)に76歳で死去している。不思議な人ではあった。

 

西郷隆盛なども「慶喜の首を取らねばすまない」と息まいていたが、『徳川家が見た西郷隆盛の真実』(徳川宗英 角川新書)には、「内心では慶喜を殺すことはできないとはじめからわかっていたのだ」と記されており、その理由として、「慶喜は歴代の将軍の中で初めて天皇家の血を引いた人だったからだ」と説明している。ただし、幕末維新期に殺害された大名はいないので、それが真の理由かどうかは定かでない。西郷隆盛の言動不一致の情ではないかという気もする。篤姫や孝明天皇の妹で徳川家定に嫁がされた和宮が助命を懇願しているのでこれも効いたのかも知れない。

 

しかしそれにしても、よくもまあこのような動乱の中心にいて内にも外にも敵だらけの状態で慶喜は生きながらえたと思う。聡明な人だったようだが、信念というか哲学に欠けていたのだろう。その分、変わり身が早い。水戸藩主徳川斉昭の嫡子でありながら、格式が高いというだけで、藩としてのまとまりも有さず自前の兵を持たない御三卿のひとつである一橋家に養子に入ったということも責任感の涵養という点で関係あるかも知れない。洋式の兵装の導入をしているが、胆力はなく、兵を上手に使えなかったようだ。

 

話がまたそれてしまったが、この「王政復古」は権力者の交代を決定づけた大事業だったと私は感じる。決して博打ではなかったとするむきもあるが、綿密な段取りはしていても最後はドンとやったわけで、私は相当に大胆な大博打だったと思う。ただ、形は派手でも、要は、どの国にもどの時代にもある単なる権力の奪取であって、明治維新の本質はここにはない。

 

西郷隆盛は策略的な裏工作はあまり得意ではないので、強力な仲間ではあったことは確かだが、やはり、土佐の坂本龍馬や後藤象二郎が走り回り、岩倉具視と大久保利通が段取りを進めたのではないだろうか。直前に坂本龍馬を失い、大久保利通にとって大きな痛手だったと思われるが、このクーデターを断行した胆力は彼の持ち味であろう。

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