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2018年10月15日 (月)

西郷隆盛 その19 大政奉還

幕長戦争で惨敗を喫し、面子丸つぶれで、江戸幕府の凋落は覆うべくもなくなってしまった。もちろん幕府は存続しているわけで、おりしも、慶応2年7月20日(1866829日)第14代将軍徳川家茂が20歳で死去し、その後継に誰がなるかが問題となる。かつて第13代将軍家定の後継とも目された一橋慶喜に当然のごとく白羽の矢が立つ。まず徳川宗家を相続してのちに将軍になるわけだが、相続をとりあえずしたものの、不思議なことに彼は将軍職を当初は固辞する。

 

佐々木克氏の『幕末史』(ちくま新書)では、朝廷や諸侯の支持の取り付けをしてからという思惑があったと解説されている。家近良樹氏の『江戸幕府崩壊』(講談社学術文庫)では、幕長戦争に自ら出陣して形勢を挽回してからと思っていたからではないかと指摘されている。実際にはあっさりと考えを一転させ、出陣を中止する。

 

慶応2125日(1867110日)にはいよいよ第15代将軍に就任する。将軍空位期が4ヶ月以上も続いたわけだ。前稿で記したように、慶応21225日(1867130日)に、慶喜を支援してきた、振り回されもした、孝明天皇が死去する。それを口実に慶喜は幕長戦争を終結に持ち込む。写真はWikipediaに掲載されていた徳川慶喜。
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あれやこれやと、また自らが蒔いた種ということもあって、慶喜が負った痛手は大きかったと思われるが、翌慶応3年の3月から4月頃には将軍として諸外国の代表に謁見するなど、外交的な動きを見せる。頭が良く、弁舌がさわやかで容姿に優れていたためか、兵庫開港にも積極的であった慶喜の外国側の評価は上々だったようだ。天皇なのか将軍なのか、誰を相手にすればいいか戸惑い多かった諸外国にとっても交渉相手が定まったという点で安堵があったかも知れない。ところが、慶喜にとってことはそううまく運ばない。

 

この頃の慶喜について家近良樹氏は上記の書で次のように書いている(太字引用)。

 

 そして、ここに注目すべきは、徳川慶喜が自らの政治意見を持つ将軍であった(すなわち老中まかせではなかった)ために、いままでは幕府の政策を批判する場合、悪いのは将軍ではなく、中間にあって間違った政策を採用している老中や諸役人だとして、彼らに攻撃の矛先を向けていたのが、そうはいかなくなることである。そのため、将軍である徳川慶喜に直接批判の眼や言葉を向けざるをえなくなり、それが幕府との真正面からの対決を招くことになる。

 

幕府と正面から対峙したのが、薩摩であり長州であると記せば、なんとなく納得する気がするが、それはそうではない。いわゆる大名は江戸幕府の秩序に組み込まれていたわけで、変革や政治への参画、自治の拡大、がんじがらめの徳川支配からの脱却、を望んでいたとしても、基本的には親幕府である。家近良樹氏は繰り返し、対幕強硬路線と挙兵討幕路線とは違うとのべている。少なくとも、藩を挙げての武力討幕が起こったわけではない。

 

では誰が対峙、あるいは大変革、必要であれば武力挙兵を画策していったかというと、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、薩摩の大久保利通、西郷隆盛、長州の桂小五郎達である。彼らが、薩土盟約、大政奉還建白、討幕の密勅への動きなど、あの手この手で慶喜に揺さぶりをかけていったのである。私は現時点ではそのように理解している。

 

彼らがどのような変革を志向していたかについては、全くの私見であるが、土佐系や西郷隆盛などは合議政体、大久保利通はネチネチと粘り強くことを進めともかく自ら権力の座の獲得、のように感じられる。同床異夢という面もあったようだ。ただし、大樹公とも呼ばれた慶喜への反感は共通している。

 

志士の中には横井小楠の思想に影響を受けた人もいるだろう。日本通のイギリス人外交官アーネスト・サトウが匿名で書いた将来のあるべき日本の政体論を思い描いていた人もいるかも知れない。具体的な詳しい策があったわけではないにせよ、簡略には、天皇を核として公儀政体というか代議員を参集した形で構成される国家体制である。

 

そんな中、慶応31014日(1867119日)、突然のように徳川慶喜が朝廷に政権の返上を申し出て翌日に承認される。これが世に言う「大政奉還」だ。

 

豊田家以外の社長が続いた自動車会社のトヨタ社長に創業者豊田家直系の豊田章男氏が就任した際に、「大政奉還」だと騒がれたが、豊田章男氏は車好きでレーシングドライバーとしても相当な腕らしいし、ビジネスの世界も学び、特別扱いなしに一社員から頭角を現していった。能力があれば創業者直系がトップの方が据わりがいい。それと違って、朝廷には権威はあっても実務能力はない。慶喜がそれを見越して返上したという話もある。

 

幕府はそれ以前から尊皇であり、弱体化してよりは朝廷に振り回され、政治介入にも甘んじてきた。それならばいっそ慶喜が朝廷と合議し「政権帰一」の形をとった方がよいというものだったようだ。武家の頂点という意味ではそのままである。福井藩主の松平春嶽や土佐藩主の山内容堂なども同様の考えだったようだ。なお、大政奉還と言われている慶喜の上奏文の中身には「大政奉還」という言葉はない。

 

西周などの優れた側近の案もあり慶喜なりの構想はあったようで、それでことがうまく運べば、慶喜主導になってしまう。だからこそ慶喜嫌いで変革を求める志士たちが危機感を抱いて岩倉具視などの一部の公家と手を組んで次の手として打ったのが「王政復古」である。これは「大政奉還」とは似て非なる、紛れもなく慶喜はずし、徳川追い落としの大博打のクーデターであった。このことは稿を改めてとりあげてみたい。

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