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2018年9月27日 (木)

西郷隆盛 その18 幕長戦争

幕長戦争は、長州が京から放逐された「818日の政変」を伏線として、長州が御所に向かって砲撃した「禁門の変」に端を発している。西郷隆盛が岩国にのりこんで戦闘に至らずに決着が図られた第一次長州出兵と(元治元年 1864年)、実際に戦闘が起こった第二次長州戦争(慶応2年~慶応3年 18661867年)である。狭義には後者を指し、長州戦争、四境戦争、四境の役、長州征討、長州征伐などとも呼称されている。

 

第一次長州出兵の際には、長州藩は三家老の切腹と四参謀の斬首という形で謝罪・恭順の意を示したわけだが、長州藩内部ではそのことに対する不満もあって、内乱の様相を経て高杉晋作らの強硬派が抬頭した。一方、幕府側は、それでは手ぬるいと征討論が起こっている。強硬論は一橋慶喜と京都守護職であった会津藩の松平容保が主張したようだ。ただし、一橋慶喜は言動が変転しているので本音がどうだったかはよく分からない。

 

西郷隆盛はというと、慶応元年828日付の蓑田伝兵衛宛の手紙に「幕府は自ら倒れ候儀、疑いなきことに候」と書いている。家老の蓑田伝兵衛宛ということは、実質的には国父として薩摩藩の実権を握っていた島津久光への報告である。長州再征伐をするとしても、幕府自らは諸藩を動員できそうにないので、勅命に頼るであろうと予測していたらしい。実際、勅命が出されたわけだが、この勅命をして、大久保利通が正義の理由のない勅命は「非議の勅命」だとして、それに従わないことを表明したと言われている。こういうのは「勅」は都合よく利用するものだという大久保の本質であろう。この頃は勅もインフレでどこまで孝明天皇の意思かも不明で重みもなくなっていたようだ。

 

ともあれ、薩摩は長州再征討については朝廷にも幕府にも非協力の腹だったわけだ。ちなみに、長州藩主毛利敬親父子から薩摩の島津久光父子宛に和解の手紙が届けられるのが慶応元年98日付で、薩長誓約(薩長同盟)が結ばれたとされているのは慶応2122日(186637日)である。武器調達の便宜を図るなど、薩摩はむしろ長州支援である。

 

ここで注釈しておくと、元治247日(186551日)に慶応と改元されているので、以後の元号は慶応となる。慶応元年5月は閏月で、暦の調整のために5月が閏5月と2回ある。

 

慶応元年105日には、一橋慶喜らのほとんど脅しに近い働きかけで、孝明天皇が日米通商条約を勅許している。ここに国内をさんざん振り回した攘夷問題にようやくにして終止符が打たれるわけであるが、江戸幕府にとっては気の毒なことに、時既に遅しであった。

 

さて、大幅な減石と藩主の蟄居隠居などを内容とした長州処分は慶応21月に勅許され、幕府は動きを開始する。それを見越して装備の充実なども図っていた長州は受諾せず、闘いが避けられない状況になった。いわゆる第二次長州戦争は、慶応267日(1866718日)に幕府軍の熊毛半島先端と屋代島への砲撃で火ぶたが切られる。

 

この屋代島というのは、地元では周防大島と呼ばれている。この8月に2歳の男児が行方不明となり、消防や警察の大規模な捜索にも関わらず3日間も発見されず、78歳のボランティアの男性がわずか20分で見つけ出したということで、日本中の人が胸をなでおろし、大きな話題になった場所である。風光明媚で全体的に金魚のような形をしている。昭和18年に沖合で戦艦陸奥が謎の爆沈をしたところでもある。

Photo

写真で手前の街は柳井市で、海を隔てて島の向こうに拡がる街が松山市だ。幕長戦争で幕府側として周防大島を攻撃したのは松山藩である。闘いはこの大島口、石州口、芸州口、小倉口で行われたが、結果としてはいずれも幕府軍の惨敗であった。このあたりのことは『幕長戦争』(三宅紹宣 萩ものがたり)によくまとめられている。

 

医家でありながら、西洋式の戦術を学び天才的とも言える軍略家大村益次郎による準備と指揮に加えて、高杉晋作、坂本龍馬などの活躍があり、また、身分を問わない総力戦で長州が立ち向かい、それに対して寄せ集めの幕府軍は士気も低く、広島藩なども消極的であったことも敗因であったと思われる。

 

征長総督の紀州藩主徳川茂承も征長先鋒副総督の本庄宗秀も戦の素人であり、優れた指揮官がいなかったことも原因だろう。大義名分に欠ける長州征伐に大衆の支持が得られなかったということもある。不思議なことに会津藩の精鋭は参戦していない。薩摩藩が急遽兵を京に駐留させて睨みをきかせたことも関係あるかも知れない。

 

慶応2720日に大坂城にいた将軍徳川家茂が死去した。徳川宗家の後を継いだ慶喜が戦を続けるとか続けないで周囲を翻弄したあげく、実質的な戦闘は8月頃には終わり、ともかく止戦交渉が開始されているうちに孝明天皇が死去する(慶応21225日 1867130日)。30代半ばでの急死のいきさつには謎が投げかけられている。慶応3123日、孝明天皇の国葬を口実に和議が成立し、正式に戦争が終結した。

 

その後に怒涛のように起こる大政奉還、王政復古、さらには戊辰戦争で江戸幕府崩壊が決定づけられたわけだが、本質的に武力政権であった幕府に対する諸藩の信頼の喪失という意味において、この幕長戦争は極めて重大な意義があったというべきであろう。どういう形になるかの予測はできなかったにせよ、幕府終焉の始まりだったわけである。

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