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2018年8月19日 (日)

ノモンハン 責任なき戦い

毎年巡ってくる815日の終戦記念日、戦争の悲惨さを改めて心に刻む日には、優れたドキュメンタリー作品が放映される。今年はNHK「ノモンハン 責任なき戦い」を見た。

 

若い人に「ノモンハン」などと言っても、「なんですかそれは」というぐらいのものだろうと思う。しかし、この事件は、重要性、注目度とも非常に高いのである。ベストセラーでありロングセラーでもある『失敗の本質』(中公文庫)の冒頭の事例に取り上げられている。多くの歴史家が研究対象としているし、アメリカ人学者も膨大な資料を渉猟して驚くような詳細な分析をしている。

 

ノモンハン事件は、1939511日の外モンゴル軍と満州国軍の間で起こった数十人単位の国境紛争に端を発した。これがそれぞれの背後にいるソ連軍と日本軍との大規模戦闘に発展し、終結までの4ヶ月で双方が1万人以上の犠牲者を出す悲惨な結果となったわけである。

 

一般読者を対象とすれば、本来は、そもそもノモンハンというのはどこにあり、どうして日本軍がそこにいたのかということから説き起こしていかねばならない。詳細に記すのはとても無理だが、とりあえず簡略に触れておきたい。満州国を下図に示す。「哈爾濱」はハルピンで、「海拉爾」はハイラルである。

Photo

http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/100724/toshi_01.html

 

中国北東部、昔の満州に位置しているハルピンは伊藤博文が安重根によって暗殺された地なのでよく知られている。ここからさらに北西にチチハルがあり、2000m級の山が連なる大興安嶺を越えたホロンバイルの広大な高原の地にハイラルがあり日本軍が要塞をおいていた。この地は漢民族が多かったことから、今は中国の内モンゴル自治区となっているが、かつてのソ連、満州、モンゴルが近接しており、双方が主張する国境が異なっているため紛争が起こり易い地ではあった。混乱してしまうが、内というのは北京から見てということであって、外が概ね今のモンゴル国で、北京からより遠いということだ。

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武力で満州を支配下におき、満州国を創設して傀儡政権をおいた日本はこんなところまで進出していたのである。ハイラルのさらに内陸側、ソ連との国境に接して満州里があり、「満州里小唄」というのがあるぐらいだから、ここにも日本人が多くいたのだろう。日本政府は鉄道などのインフラの整備を図り、満州移民を積極的に進めており、ここに敗戦後の引き揚げの悲劇が生まれる素地ができていた。これほど奥地ではなかったにせよ、映画監督の山田洋次氏、作詞家のなかにし礼氏、作家の新田次郎氏らも満州からの苦難の引き揚げ者である。

 

ノモンハン事件は、よくある国境紛争に端を発しているが、当時満州を軍事支配下においていた関東軍が、ソ連を甘く見て、日本が主張する国境線まで簡単に封じ込められると暴走して戦闘を拡大させたことが大きな原因である。ひらたく言えば関東軍が“火遊び”をしたあげく、コテンパンにやられて莫大な犠牲を払い、あげく国境線はそのままで得るものが全くなかったのである。下図は戦場となったホロンバイルの衛星写真(Google earthより)。

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『失敗の本質』には、「作戦目的があいまいであり、中央と現地とのコミュニケーションが有効に機能しなかった。情報に関しても、その受容や解釈に独善性が見られ、戦闘では過度に精神主義が誇張された」と記されている。現地の指揮官などを自決に追い込む一方、本来最も権限があり責任が重いはずの作戦指揮者が反省しおのずから責任を取った様子はない。最大責任者の一人である作戦参謀の辻正信は決して負けではないと開き直りを続け、戦後は国会議員にまでなっている。

 

しかしこれでは死者は浮かばれない。ソ連軍にもほぼ同数にものぼる甚大な被害が出ていることから、司令官レベルでの見誤り、物量や近代兵器の差で、不利で無謀な戦いにも関わらず前線の兵士達はよく闘っていることがわかる。大東亜戦争で起こった構図そのままで、ノモンハンの重要性はここにある。失敗の要素が凝縮されているのである。

 

日本軍はいたずらに糊塗し、ノモンハンの苦い教訓から学ぼうとはしなかった。国民にも経緯や結末が知らされていない。仮に一部知らされていたとしても軍に都合のいい虚飾に満ちたものであろう。

 

入江徳郎さんの1964522日の「ノモンハンの白骨」と題された朝日新聞の『天声人語』は、「無人で不気味なノモンハンにはまだ白骨が横たわっていよう。せめてこの地の霊を弔うすべはないものか」と結ばれている。入江徳郎氏は従軍記者としてノモンハンに赴いていただけに、痛惜の思いがあったはずだ。ノモンハンの遺骨収集事業が開始されたのは比較的最近のことである。

 

戦史を見ていると自虐的な思いにすらかられる。しかし、例えば満州の軍事支配について、満蒙は日本の生命線だと言うけれど、これこそ危険な枯草であり、一切を棄つるべき、と早くから断言していた人もいる。そんなことは間違っていると、移民政策にも強く反対していた。誇るべき言論人、石橋湛山(たんざん 1884-1973)である。1956年に首相に就任したものの、病により短期で辞している。

 

現実は湛山の予言通りになってしまった。彼の主張に耳を貸す人はほとんどいなかったし、そんな空気も日本社会になかった。ノモンハンに見られるごとくの愚かな無責任、その後の太平洋戦争というさらなる悲劇、アジアに先駆けての成功的改革の裏面として、明治維新の何かがこんな危ない国家にしてしまったのだと思っている。

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