« 西郷隆盛 その15 蛤御門の変 | トップページ | ハイブリッド老婆 »

2018年8月 2日 (木)

西郷隆盛 その16 長州

元治元年718日(1864819日)の「蛤御門の変」あるいは「禁門の変」で禁裏御所に向けて砲撃したという咎で、長州征討の勅が出て、禁裏御所総督の徳川慶喜が中心となった幕府は諸藩を動員して準備を行う。将軍の進発が予定され、征長総督として前尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)が任じられるが、慶勝は当初は辞退していた。朝廷はさかんに催促するが、そもそも幕府も諸藩もあまりその気がない。朝廷内部や大名、京の庶民にも長州シンパが少なからずいるし、戦争などやりたいわけではなく、この頃はどの藩も財政難にあえいでいたからなおさらである。だから準備に随分もたもたして、とりあえず形ができたのは元治元年11月になった頃であった。

 

長州はというと、「蛤御門の変」後1ヶ月も経たない元治元年85日、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国が海から下関に攻撃をかけて上陸し砲台を占拠されるという事態に陥っていた。これは前年510日に長州が攘夷実行の証としてアメリカ商船を砲撃したことの報復というよりも、関門海峡封鎖に対するものであった。写真は空から見た今の関門海峡(Wikipediaより)。

Photo

この海峡は幅1㎞もないが、九州と本州を結ぶ海上交通の要衝であり、関門トンネルも関門大橋もない時代、いかに陸路を最大限に活用したとしても、ここだけは船を使うほかなく、航行の妨害によって交易に大きな支障が出ていたのである。他のことで外国の足並みが揃っていたわけではないが、関門海峡は共通の利害の要であった。実のところ、長州は伊藤博文を使者として直前に封鎖解除を条件に攻撃猶予の交渉をしようとして、ほとんど行き違いで間に合わなかったといういきさつがあるようだ。

 

当時の長州の藩主は毛利敬親(たかちか)であったが、彼は第12代将軍徳川家慶から「慶」の字を下賜され、それまでの教明から慶親(よしちか)と改名していた。敬親にしたのは元治元年114日である。

 

長州藩は1849年イギリス艦マリーナ号が江戸湾に侵入して測量をした際、いち早く駆け付けたことが高く評価され、ペリー来航の頃には三浦半島の警備を命じられている。その後、兵庫港の警備の任にもあたっている。ちなみに、下田に入港したマリーナ号への退去交渉は、例の日本で最初にパンを作った伊豆韮山の代官江川英龍が担ったという。勝海舟は英龍をなかなかの人物であったとのべている。パンだけではなかったわけだ。

 

毛利家は遠く遡れば天皇家の流れをくむともいわれている。その分、尊皇意識が強く、朝廷が困窮していた江戸時代、長州は白金などを献上し経済的な支援を継続していた。幕府は外様大名と朝廷との直接接触を禁じていたが、黙認かどうか、長州だけはこのように直接的な交流があった。孝明天皇側近の女官が天皇の意を受けて「女房奏書」として謝意の和歌を毛利敬親に贈った資料が今も残されている。学習院において、木戸孝允、久坂玄瑞、高杉晋作、木島又兵衛達が日常に公家達と交流していた時期もある。

 

ちなみに、藩主でなかった島津久光を別とすれば、幕末に幕府中枢の役職にない外様大名が孝明天皇に参内したのは毛利敬親がトップバッターである。本来これは御法度で、幕府には無断であったが、それだけ重きをなしていたとも、幕府の力がそこまで衰退していたとも言える。

 

そのように考えてみると、長州は一貫して尊皇であり、幕府に対しても忠を尽くしている。西洋に目を向け、藩士を海外に派遣し、反射炉の試作までしているわけだから、内心がどうだったかはわからないが、朝廷への姿勢としてはあくまで攘夷である。長井雅楽(うた)の「航海遠略策」を藩論にしていた時期もあったが、「航海遠略策」は開国して国力をつけ、しかるのちに攘夷、という点ではタテマエとしては攘夷論である。長井が切腹に追い込まれたのは、その反対派の動きと、文言に朝廷を貶めるかのような表現があるとの難癖をつけられた「謗詞(ぼうし)事件」によるものである。

 

「攘夷」と言っても、すぐに闘いをして追い払うという非現実的な即今攘夷の過激論から婉曲な攘夷まで、実のところ内容は幅が広い。孝明天皇はというと、頑迷な攘夷であっても、決して過激な攘夷ではなかった。無理筋の話で、これも攘夷を巡って百家争鳴を招いた一因である。孝明天皇については、自ら、あるいは天皇家の安泰と、京の平穏が第一義であったと考えておけば理解しやすい。

 

幕府は開国して諸外国との和親に踏み切ったが、そもそも外国船は迷惑以外の何物でもなかった。その意味では攘夷だが、それが不可能であることをはっきり悟り、ならばいいものは大いに取り入れようと積極策を打ち出したわけである。少なくとも後顧的に見れば、対外政策としては幕末の江戸幕閣が一番まともで現実的であった。その点においては幕府を倒す必要性は全くなかったのである。

 

前置きが随分長くなってしまった。要は、長州征伐にどれほどの大義名分があって誰が何の得をするのか全く見えなくなったのである。長州藩にとっては、敵はあくまで会津藩であって、朝廷を毀損する意図は全くなく、「冤罪」にほかならなかった。その言葉は薩長同盟の際の木戸孝允の一文に出ている。

 

結論的に言えば、その収拾を西郷隆盛がつけた。彼は長州の藩論が分裂していると見抜き、恭順している者まで罰すべきではなく、今は内乱をしている場合ではないと、ほとんど単身で長州の毛利藩につながる岩国藩に乗り込んで、114日(1864122日)吉川経幹(きっかわつねまさ)と談判し、「禁門の変」で兵を率いていた家老3人を切腹させ、何人かの長州藩士の処刑・処罰をすることで事態を打開させる。こういうのが西郷の真骨頂で、“戦好き”と自称しているものの、戦は好きでもなければ得意でもない。切腹や処刑が西郷の本意であったかどうかはわからない。そうだとしても、多分、強硬論を背にしてやむにやまれぬことだったと思う。この時に高杉晋作の処刑も検討されたことが最近の研究で判明している。形としては長州藩の(不本意な)自発的な謝罪である。もしかしたら慶親から敬親への改名もこれに関係しているかも知れない。

 

長州藩主の毛利敬親は、家臣の提言に「そうせい」とよく言ったそうで「そうせい候」と揶揄されていて、いかにも暗愚のようだが、実は賢候であった。

Photo_2 洪水に悩まされた萩において、藩士から提言をつのり、運河を造ることで洪水被害を激減させている。実践的な軍事教練なども行っている。厳しい財政事情の中で倹約に務める一方、教育に力を注ぎ、藩校の明倫館を移設拡充している。飢饉などで民が困窮している時は米を放出してその救済にあたったという。また、身分にこだわらず能力のある者を登用した人でもあった。伊藤博文はもともと周防の農民の出であるが、萩の武士の養子となり、毀誉褒貶があるにせよ、幕末は敏く小走りに動き回り、明治になってからは大物として活躍している。戦略家として優れた能力を発揮した大村益次郎も医家ではあっても武士ではなかった。

 

長州のそもそもの本拠地は萩城なのだが、海に面し地理的に偏した萩では防御や命令の伝達に支障があるということで、敬親は拠点を今の山口市に移している。おそらく、家老の切腹には断腸の思いがあっただろう。明治4年に52歳でこの地で逝去した。

 

この年に限らず、この頃のことを時系列で端的に把握していくのは非常に難しい。というのは、朝廷内部、一会桑、江戸幕府などなど、同時並行的に色々複雑な動きがあるからである。

« 西郷隆盛 その15 蛤御門の変 | トップページ | ハイブリッド老婆 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事