« 読み間違い雑感 | トップページ | 西郷隆盛 その16 長州 »

2018年7月24日 (火)

西郷隆盛 その15 蛤御門の変

豪雨による大災害のあとは一転してカラカラの猛暑だ。723日は埼玉県熊谷市で観測史上最高の41.1度を記録したという。

Top http://portal.nifty.com/kiji/180723203481_1.htm

 

かなり前のこと、日本で最初に正式な女医となった荻野吟子(18511913)の記念館を熊谷市に訪ねて、酷暑の中、大汗をかきながら利根川沿いの堤防をテクテク歩いたことを思い出す。随分暑いところだとは思ったが、今にして思うに、記録ホルダーになるぐらいの地域だったわけだ。

 

北海道せたな町の郷土資料館にも荻野吟子ゆかりの品がおかれている。この時は、帯状疱疹に罹患して痛む脚をひきずりながら、ヨタヨタと歩く情けない状況であったが、それだけに、この偉大なる先駆者の辛苦を偲ぶところ多々であった。

 

郷土資料館で見た荻野吟子が書き残した資料のひとつに、勝海舟を引用して西郷隆盛に触れている一節に目が止まった。明治維新の時に17歳ぐらいだった荻野吟子は、その後の勉学によってか、西郷隆盛の真意が征韓でなかったことを見抜いていたようだ。不思議なつながりである。

 

夏の京都が暑いことはよく知られている。150年以上も前の夏の京都はやはり暑かったのだろうか。実際の天候がどうだったかは私にはわからないが、元治元年718日(1864819日)の京都は炎による猛暑に包まれていた。「蛤御門の変」に続発した「どんどん焼け」とも言われる大火である。京都中心部約5万戸のうち27千戸が焼失し、火事による死傷者は千名を超えたという。

 

どうしてそんなことになったのか。その伏線は長州が京から放逐された前年の「八月十八日の政変」と元治元年65日(186478日)に起こった池田屋事件にある。

 

池田屋事件というのは、京都守護職の会津松平容保とその配下の新選組が、探索により、過激攘夷の志士が京都で大動乱を画策し、その会合を池田屋で行っているとの情報を得て、襲撃した事件である。池田屋での会合では、梅田雲浜の弟子で、武器商人となっていて新選組に拉致された古高俊太郎の奪還と、前年の「八月十八日の政変」で長州放逐の立役者と見られていた朝彦親王を襲うことが相談されていたという。池田屋にいたのは主に土佐藩士で、ほか熊本藩士など、長州藩士はむしろ少ない。池田屋か、少なくとも近くにはいた長州の桂小五郎(木戸孝允)は、からくも脱出している。

 

新選組による襲撃と聞くと、凄惨な状況を想起するが、手薄な体制で突入したこともあって、死者が出たのはむしろ新選組の方で、池田屋で殺害された志士はおらず、周囲で厳戒態勢をとった会津藩兵や桑名藩兵によって殺傷されたと言われている。

 

京都守護職の会津藩配下にあって京都の治安維持にあたったのは見廻り組と新選組とされている。身分が異なることもあって厳密ではないにせよ両者は担当地域が分かれていたようだ。以前にも触れたように、坂本龍馬を暗殺したのは見廻り組である。

 

この頃の京は、会津藩士が殺害されたりして、松平容保は長州を憎み、長州も会津を目の敵にするなど、双方が疑心暗鬼となっていた感がある。国元や江戸詰めの家老などは、藩主に京都守護職を辞して物騒な京を離れるように促していた。容保は在京中病気で引きこもりがちだったと言われており、その分、手足となって動く公用方の権勢が強くなり、会津藩内で軋轢を生じていた面もあったという。ただし、松平容保は対長州では一貫して強硬論だったようだ。

 

孝明天皇の信が篤かった松平容保がその後朝敵とされてしまい、朝敵として討伐の対象にまでなった長州が権力を握ることになるわけだから、これひとつとっても、明治維新が謀略の政治クーデターであったことに疑いの余地はない。長州は二転三転して存続を図っているが、会津は不器用に忠を貫いたとも言える。もっともこれは武家の話であっていずこも一般大衆はおきざりである。

 

「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」とも称されているが、それが起こるまでは、西郷隆盛は会津と長州、どちらにも与せず静観を決め込んでいたようである。ところが、「八月十八日の政変」で京を放逐されたことの挽回策として、家老と兵を上洛させて親長州の公家を通じて復権を得ようとしていた長州に、池田屋事件の報が入り、藩内の慎重派もおさえがきかなくなる。

 

長州とすれば、孝明天皇の攘夷に忠実で、朝廷の長州支持も少なくなく、幕府が約束した通りに外国船打ち払い行動を起こしたわけだから、納得がいかない面が多かったのだろう。しかし、兵を京都に入れてしまったら、偶発であれ必然であれ、武力衝突は時間の問題であった。西郷も、戦闘になることを想定して藩に要請し薩摩兵を入洛させる。

 

京都御所はかなり広大で複雑な構造である。単純に言えば、天皇の住居は禁裏御所と称されて6つの門に囲まれており、その外側に公家屋敷が立ち並ぶ。こちらも囲まれており9の門がある。「八月十八日の政変」の場となったのは外側の堺町御門である。蛤御門も外側なのだが、禁裏御所に非常に近いところに位置している。ここに長州兵が押し寄せ、警護の会津藩兵と桑名藩兵と武力衝突が起こるわけである。

 

長州が優勢、という情報に接し、西郷隆盛率いる薩摩兵が応援に駆け付け、西郷も負傷したものの、その奮闘によって長州は散り散りになって敗退するはめとなる。この時に京都を焼き尽くすかのような火災が起こっている。これが「蛤御門の変」で、長州は禁裏の方向に砲撃したことを難癖的に咎められ、朝敵とされ、征伐の対象となったわけである。さらに、逃散する長州兵に会津兵が残虐行為を働いたということで長州の会津への怨念が深まる。

 

長州に怒り心頭だった西郷が勧められて勝海舟と会うのは元治元年911日(18641011日)、大坂(大阪)でのことである。勝海舟の話に感激屋の西郷は魅せられ目を見開かされたようで、有名な「惚れ申し候」はこの時のことである。

 

その後、期してか期せずしてか、西郷隆盛は対長州で奮闘することとなる。

« 読み間違い雑感 | トップページ | 西郷隆盛 その16 長州 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事