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2018年7月 6日 (金)

西郷隆盛 その14 京の情勢

その13で記したように、西郷は文治元年2月末(18643月末)に鹿児島に戻る。斉彬の墓参をして、島流しの疲れを癒す間もなく、久光の呼び出しを受け、元治元年314日(1864419日)に京都に着く。入れ替わりというわけでもなかろうが、国是会議というか、参予体制が瓦解して失意の久光は元治元年418日(1864523日)に西郷と小松帯刀を残して京を離れ、大久保利通を同行して帰薩している。

 

水戸藩の権力闘争から生まれた尊皇攘夷の過激集団(天狗党)が筑波山で挙兵し、京を目指して西上するのが元治元年327日(186452日)である。既に記したように、敦賀で阻止され、投降したにも関わらず苛酷な処罰を受ける。
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この手の錦絵はお咎めにヒヤヒヤしながら大仰に描かれ、幕末から明治にかけて庶民の娯楽的情報源になったようだ。想像で描かれたせいか、とうてい似ているとは思えない姿で西郷隆盛も多くネタになっている。錦絵から幕末維新を読み解いた書もあり、機会を見て紹介したい。

 

一橋慶喜(よしのぶ)が将軍後見職を退き、朝廷が新設した禁裏御守衛総督と摂海防衛指揮に就いたのは元治元年325日(1864430日)である。京都所司代(桑名藩主松平定敬:松平容保の実弟)があり、京都守護職(会津藩主松平容保)をおいているのに、それではこころもとないと、天皇警護を主務とする職がおかれたことになる。慶喜が京都で立場を築きいわゆる“一会桑”体制となったわけだ。

 

摂海というのは大阪湾のことで、外国艦隊が大阪湾に押し寄せて来るのを防衛するということだが、これも外国が本気になれば侵入を防ぐことなどできない相談で、本来なら交渉というか折衝しかないわけで、さほど意義があったとは思えない。孝明天皇が絶対に容認しない兵庫開港問題とも絡み、結果として孝明天皇が自縄自縛で慶喜依存に落ち込んでしまった感がある。

 

前年には孝明天皇から幕府への大政委任を確認し、元治元年には庶政も「幕府へ一切御委任」との勅諚を得ている。将軍家茂が18歳ということを考えれば、「天皇の喉元の要地より天下に号令する勢い」と一橋慶喜が揶揄されたのも当然のことであろう。それでいて江戸の幕閣との協調を欠き、いっそうの幕府弱体化につながる。

 

一橋慶喜は最終的に開国の勅許をこの構造から得るわけだが、横浜鎖港を言い出して参与体制を瓦解させたり、はたまた兵庫開港を強硬にとなえたりして、周囲を翻弄している。朝廷と親密であった島津久光の追い落としだったのかも知れないが、キーマンの軸がこれだけぶれたのでは混乱は必定である。かつては一橋慶喜を将軍に就けようと奔走し自らの命まで危うくした西郷の心中はどうだったのだろうか。疑問がなくもないが、維新の三傑は、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允と言われている。その論でよければ、意図せずして維新を引き寄せた裏の三傑は、孝明天皇、一橋慶喜、島津久光と言っていいかも知れない。

 

気の毒なのは池田長発(ながおき)を正使とした遣仏使節団で、できもしない横浜鎖港談判の任を帯びて文久3年末(186426日)に出発し、当然のごとく全く相手にされず元治元年7月(1864819日)に空しく帰国している。フランス士官殺害事件の後始末をさせられ、長州の関門海峡封鎖解除が含まれていたパリ約定も締結したようだが、そちらは幕府によって反故にされている。

 

池田長発は攘夷論者であったが、外国を見聞したことで、開国論者に転じたという。なかなかの人物だったようだ。以前の稿で紹介した、有名な、スフィンクスを背にした侍の写真は渡欧に際してカイロに立ち寄った時のものである。朝廷への形ばかりのアピールとして捨て石にするにはあまりにももったいないことであった。正使と副使は不遇であったが、救いは外国を実際に見聞したこの使節団のメンバーが多く明治に活躍したことであろう。

 

ともあれ、文久3年(概1863年)は「攘夷」という“幽霊”が強烈に日本をさまよい、翌元治元年(概1864年)はその余波と後遺症で誰しもが苦しんだ、という感がある。藩主が参内し、藩論を変えて攘夷を唱え外国艦への攻撃という実践までした長州は、京を追い出され、池田屋での会合を新選組に襲撃され、あげく長州征伐論まで起こされるというのは納得できない事態であった。

 

こういう状況で西郷がどういう動きをしたかだが、元治元年3月から、長州が兵を送りこんで巻き返しを図った「蛤御門の変」(禁門の変)が起こる元治元年6月までの間がよく分からない。浦島太郎状態のリハビリをしていたのかも知れない。彼は筆まめで、特に6月は多くの手紙を書いている。のちの大久保利通への手紙からは、生糸の密貿易の段取りをしていた様子もある。愛加那に書いたかどうかは知らないが、彼女は字が読めなかったという悲しい話がある。余談ながら、日本の識字率を大きく進歩させたのは明治5年の「学制」で、西郷隆盛が筆頭参議、つまり事実上の実務のトップ、今でいう内閣総理大臣だった時のことである。大久保利通らは岩倉使節団で不在であった。

 

さて、長州は攘夷の実行者として京の世上で不思議に人気があり、一方、薩摩と会津は、「薩賊会奸」と称されて嫌われていたという。西郷は会津と距離をおくために親会津の薩摩藩士を帰薩させる動きをしていたとも言われている。当初は長州問題には静観を決め込んでいたものの、「蛤御門の変」では西郷も決起せざるを得なかった。

 

京の祇園で仲居をしていたという“豚姫”こと、お虎とねんごろになったのはこの頃であろう。後年に勝海舟が西郷はこの豚姫をたいそう気に入っていたと述べている。「豚姫といふのは京都の祇園で名高い・・・・もつとも初めから名高つたではない、西郷と関係ができてから名高くなつたのだが・・・・豚のごとく肥えて居たから、豚姫と称せられた茶屋の仲居だ。この仲居が、ひどく西郷にほれて、西郷もまたこの仲居を愛して居たのヨ」と語っている(『氷川清話』講談社学術文庫)。勝海舟は大言壮語的なところがあり後年の語りにて不正確かも知れないが、この手の話に大きな記憶間違いがあるとは思えないので、多分事実であろう。

 

NHKの大河ドラマではこの豚姫をハリセンボンの春菜さんが演じるそうだ。一橋慶喜もいかにもそれらしく、この配役にはなかなかのセンスを感じる。ただし、これから変貌していくのかも知れないが、大久保利通はあんなに情味あふれる爽やかタイプではない。私にとっては下記の写真の方がしっくりくる。
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イメージとしてはちょい違うが、役者として今を盛りの遠藤憲一さん演じる勝海舟と西郷隆盛が初めて会うのが元治元年911日(18641011日)、大坂(大阪)でのことである。

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