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2018年6月21日 (木)

切腹考

江戸時代に関する書を読んでいると、切腹という言葉がよく出てくる。今でも、「それで何か起こったら俺が腹を切る」というふうに使われる。昔と違って本当に死ぬわけではないが、責任を取るということだ。ただ、そういう威勢のいいことを言う人にかぎって実際に責任を取ったのを私は見たことがない。

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浅田次郎さんの短編小説集に『お腹召しませ』(中公文庫)というのがあって、その中の一つの短編、書題そのままの「お腹召しませ」で、入り婿の不祥事から、切腹が免れないと悟り、それにおそれおののく武士の苦悩がコミカルに描かれている。妻も娘も「お腹召しませ」と賛同し、手回しよくその準備を整える(何と冷たいことか)という自虐も浅田さんらしい。

 

結局のところ「切腹はいやなので武士をやめる」というのがオチになっていて死なずに済んだ。そういう侍もいたという祖父からの聞き覚えをヒントにして創作し、名誉などより、人間らしく生きた方がよい、という氏の哲学がモチーフになっている。切腹の際には白装束というのが時代劇の定番だが、この小説では麻黄色の肩衣となっているので浅田さんはかなり調べてのことだろう。白だと鮮血が目立ちあまりにも凄惨になるため、実際、全て白ではなかったらしい。

 

切腹と言っても、医学的には腹を切ってもすぐには死ねない。腹部大動脈をバッサリ切れば大出血によって分単位で死ぬだろうけど、この血管は背中に近いところ、いわばお腹の非常に深いところにあり、そうそうそこまで刺せるわけではない。腸管や腹部の中小の動脈を傷つけてしまえば死んでしまうが、少なくともすぐではない。

 

作家の故吉村昭さんに『冬の鷹』(新潮文庫)というオランダのターヘルアナトミアを前野良沢と杉田玄白らが「解体新書」として苦心惨憺して翻訳する経緯を描いた小説がある。この中に、良沢と親しくしていた皇国の士高山彦九郎が腹を切って自死する描写があるが、夜に切って、息絶えたのは明け方となっている。吉村さんもよく調べて書いたのだろうし、腹部刺傷や腹部外傷をかなり経験したものとしてこの経過は首肯できる。ただし、医療者は当然にして治療介入をするわけで、自然経過を見たことはない。

 

1970年(昭和45年)1125日に作家三島由紀夫が「盾の会」の仲間とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に侵入し、クーデターを呼びかける扇動演説を試みたのちに総監室で割腹自殺を遂げるという事件があった。

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介錯がうまくいかず悲惨な状況になったようだが、首のない遺体と床におかれた生首の写真が流出したことも大きな話題となった。切腹というのは凄惨極まりない。三島由紀夫は高山彦九郎に関心を寄せていたという。

 

腹を切ってもすぐに死なず地獄の苦しみを味わうというのは昔の人もわかっていて、だから介錯と言って斬首するわけである。時代が進んでは腹を切ることもせず、扇腹と言って扇で形作りをしてすぐに斬首されたようだ。斬首も頸椎があるため簡単にできるとは思えず、介錯人は腕利きでなければならなかった。斬首に立ち会ったアーネスト・サトウはその著書の中で、うまくいかなかった時のさらなるおぞましさに触れている。

 

長州の長井雅楽が切腹死を遂げたというのは前回に書いた。大河ドラマ『西郷どん』でも赤山靱負(ゆきえ)の切腹シーンが最初の頃にあった。国内外の情勢に通じ、先見の明があり坂本龍馬からも高く評価された会津藩の神保修理(長輝)も慶応4222日(1868315日)に切腹させられる。彼は無駄な流血を避けようと苦悩していた人物のように思われる。多くの有為な士が酷な死に遭ったわけだ。

 

切腹は武士にとって“名誉ある死”との格好つけ、言い換えれば“粉飾”がなされていただけのことで、それによって武士への死刑宣告を容易にしていた。実際は斬首にほかならない。

 

斬首といえば、水戸の過激攘夷思想集団による天狗党の乱では、彼らが各地で暴虐を働いたということもあって、京にのぼることがかなわず、敦賀で降伏したのちに苛酷な扱いを受け、18653月に300人以上が数日間をかけて斬首されている。水戸にいる家族までもが処刑されたという。水戸藩主だった徳川斉昭の七男でそもそも水戸家の出である一橋慶喜には彼らへの情状酌量は全くなかった。江戸時代は魅力あふれる興味深い時代であるが、その一方、こういう残虐性には強い嫌悪感を覚える。

 

必ずしも切腹に限らないけれども、基本的人権中の最たるものである命が、権力者の一存で奪われてよいはずはない。また、江戸時代において当たり前のように行われていた拷問も、人権侵害の極みである。明治維新の最大の意義の一つは、こういった悪しき慣習を廃し、法治主義による人権擁護を導入したことにある。

 

少数者が政治を担う、すなわち寡頭政治という意味では明治維新は政治体制にさしたる変革があったわけではない。西郷隆盛を語りの軸にしているのは、彼が明治政府における法治主義導入のキーパーソンの一人だからでもある。

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