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2018年6月14日 (木)

西郷隆盛その13 動乱の真っ只中への復帰

前稿に記したように、沖永良部島への島流しから赦免されて復帰するのが元治元年2月(18643月)である。1年半以上も沖永良部島に閉じ込められていたわけだが、その間にも色々な大きな事が起こっていた。

 

生麦事件

文久2821日(1962914日)、江戸から引き上げる島津久光の行列をイギリス人が横切り、殺傷された事件。薩摩は開き直りを続け、慌てた幕府が尻ぬぐいをするはめとなる。それでもおさまりはつかなかった。

 

京都守護職の新設

京都の治安悪化に伴い、旧来の京都所司代と京都奉行所だけでは対応できないとして、幕政改革の一環として、文久2年閏8月1日1862年9月24日)に京都守護職が設けられ、会津藩の松平容保(かたもり)就いた。
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莫大な費用を要し火中の栗を拾うようなもので、家臣も反対しており、決して自ら好んだものではなかったようだ。余談ながら、これが後年の会津藩関係者による坂本龍馬暗殺につながる。

 

長州藩による外国船砲撃事件

そもそも長州は開国を維持して国力をつけるという長井雅楽(ながいうた)の「航海遠略策」(1861年)を藩論としていた。長井雅楽は藩命を受けてこれを幕府に上申し、高く評価され、長州は外様大名でありながら幕府中枢に重きをなすようになる。

ところが長州は攘夷の志士が力を持つことによって藩論を転換してしまう。攘夷論者に敵視された面もあったのだろう、開国論者の長井は切腹を命じられ、文久326日(1863324日)に世を去る。幕末維新の激動の中で命を落としたがゆえに埋もれてしまったものの、まことに惜しい人物であった。

藩論を転換した長州は、文久35月(18636月)下関海峡の外国艦に砲撃を加えるという事件を起こす。これはわざわざ上洛した将軍家茂が孝明天皇に約束した攘夷を長州が率先してやったような面もある。ただ、江戸幕府は武力では外国に対処できないことをよく知っており、面従腹背の苦し紛れの攘夷を言ったに過ぎない。

孝明天皇自身は単純かつ頑なに「何とか外国を追い払え」ということであって、武力行使で外国と戦争になることは全く望んでいなかった様子がある。江戸幕府が凛とした統治能力を失う中で、孝明天皇のわかりにくく非現実的な意思が結果として百家争鳴を惹起し、国内を振り回してしまった感がある。長州が混乱にさらに輪をかけた。

長州は、この砲撃事件と海峡封鎖により直後と翌年の二度にわたり諸外国から手痛い報復を受けることになる。一歩間違えば、要衝である関門(馬関)海峡と下関一帯は租借地にされた可能性がある。そうならなかったのは、イギリスも日本に多く軍を割く余力がなく本国にも過干渉への警戒論があり、アメリカは南北戦争の痛手からようやく立ち直ったところで、また、フランスは江戸幕府に取り入ることに執心していたからである。

 

薩英戦争

薩摩の本音は攘夷ではなかったが、それでも、湾内に進入して生麦事件の決着を迫るイギリス艦に砲撃を加え、いわゆる薩英戦争(文久372日‐74日:186381517日)を起している。斉彬の水雷は役に立たなかったようだが、彼の富国強兵の効あってか、英側に大損害を与えている。

「薩摩あなどり難し」と見られたものの、自らも沿岸部が灰塵に帰すなど甚大な被害を蒙った。生麦事件について、実行者は特定していたようだが、不明として突っぱねて処罰はせず、幕府から借りて賠償金を支払って決着している(返済はしていない)。

 

「八月十八日の政変」

これは文久38月に(18639月)長州が京都御所の外塀である堺町御門の警備の任を解かれ、京から放逐された事件である。下記は境町御門の地図。
Kyotoshinai201302_960_2

http://tokyosuicatree.web.fc2.com/kyotoshinai201302_pdf.pdf

簡単に書けばそうなのだが、これは語るに非常にやっかいな代物である。会津と薩摩が手を組んで長州を追い出したという単純な構図ではない。

この政変の根幹は、孝明天皇と三条実美(さねとみ)ら一部公家との確執であって、その公家を巻き込んで「勅」や「偽勅」で「天皇に大和に行幸して頂いてそこで攘夷の軍議を開く」といういささか無謀な無理筋で主導権を取ろうと動いたのが朝廷に取り入っていた久留米藩士真木和泉と長州藩である。

長州によって処分されようとしたのは長州に非協力的であった小倉藩である。そんなことは幕政秩序からしても許されないと多くの藩が受け止め、朝廷では今上陛下の曽祖父にあたる朝彦親王も三条実美らに強く反発し、結局真木や長州が放逐され、三条実美らも京を追放されてしまう(七卿落ち)。ただし、堺町御門の警備から降りるというのは当初は勧告程度で、正式に入京禁止などで処分されるのは文久3829日のことである。

会津の秋月悌次郎や薩摩の高崎佐太郎が策を練ったり動いたりしているが、彼らが独自にできるはずもなく、松平容保は策士ではなく、島津久光はこの時は薩摩に帰っており、薩英戦争で足元に火がついていたわけで、こまごまとした指示ができたはずはない。

最終的には、三条実美に不信を募らせ、真木和泉や長州に反感を抱くようになった天皇の意志と、親王をはじめとした朝廷内の反三条の動き、そして京都守護職の会津藩と薩摩を含めそれに協力する藩によってなされた政変である。その後長州は四面楚歌となり、博打的に京に打って出た闘いにも敗れ、存亡の危機に瀕することになる。それが維新の雄とされるわけだから、歴史はわからない、というか、面白い。

 

島津久光の参与就任

京の混乱に対しては、島津久光は朝廷の正常化を望み、必要があれば兵を率いて上洛するという意志は示したようだが、文久38月は薩英戦争の余燼でそれどころではなかったであろう。その後に要請を受けて卒兵して上洛するが、長州処分で強硬論を唱え、年末には長州藩から薩摩藩の船が砲撃を受け沈没するということも起こっている。

上洛した島津久光は、公武合体として朝議への武家の参加を提唱している。国父として薩摩の実権を握っているものの、公式には何の立場もなかった彼に官位の従四位下左近衛少将が与えられ、参与として、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、松平容保と、錚々たる名士に並んで朝議に加わることができたのである。

ところが、一橋慶喜としっくり行かず、参与会議はわずか3ヶ月あまりで空中分解してしまう。一時は孝明天皇の宸翰(手紙)の草稿を作るぐらいに信頼を得ていた久光だが、さすがにこの時は苦境に陥ったのではないだろうか。

その後、一橋慶喜、会津藩、桑名藩(藩主は容保の実弟)の、歴史家の造語であるいわゆる「一会桑」が一つの政治勢力となる。朝廷と江戸幕府、薩摩や長州などの外様の雄藩の関係だけでも十分ややこしいところに、京都を場とする新たな政治勢力ができたわけだ。しかも、その内部は決して一枚岩ではなく、非現実的な攘夷や横浜鎖港問題などで一橋慶喜の変転に翻弄されることになる。

 

特に文久3年は攘夷を巡って大荒れであったが、沖永良部島に幽閉されていた西郷は関わりようもなく、薩摩に戻ったのは翌文久4年の初頭である。すぐに京にいた久光に呼び出され、「軍賦役(ぐんぶやく)兼諸藩応接係」を命じられる。これは薩摩の軍司令官兼外交官のようなもので、見込まれて託されたのか、“貧乏くじ”を引かされたのか、私にはよく分からない。

 

西郷はそれまで、闘いの経験も、指揮官としての経験も、藩を代表しての外交経験も、皆無であった。しかも、情勢には“浦島太郎”である。孝明天皇の覚えめでたくなった策士一橋慶喜が京を牛耳り、長州への始末が難題となるのが目に見えていた時期でもあった。

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