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2018年5月22日 (火)

西郷隆盛 その12 沖永良部島での生活と赦免

当初は徳之島だったのが、さらに厳しい処分であるより以南の沖永良部島に流されたことは前回に記した。西郷に兄事し行動を共にしていた村田新八(18361877)は、古くは平安時代に僧俊寛が流されたという伝説のある喜界島に流されている。事実かどうかは定かでないが、俊寛は“島流し”の象徴として演劇や絵などで取り上げられている。
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森に深く覆われた奄美大島は南部に加計呂麻島など、いくつかの島がある。奄美の中心部である名瀬市は現在では医療機関もかなり整備されているが、群島を擁する大きな島だけに、どういう医療整備をしていけばいいのかということは今も難題だ。

 

奄美群島は沖縄と同様に、1945年の日本の敗戦後アメリカの統治下におかれ、返還されたのは1952年から1953年にかけてである。歴史的、文化的に沖縄との結びつきが強く、戦後に奄美大島から沖縄本島に移住した人も多くいる。

 

喜界島は奄美大島の海を隔てた東側に位置し、人口は約7000人。目と鼻の先なのだが、飛行機を使うには短すぎるし(実際は使われている 飛行時間10分)、比較的平べったい島で風が強く、船だと荒れる海で特に西側は着岸が容易でなく、すぐ欠航になってしまうという厳しさが今もある。今は奄美にドクターヘリが導入されており、喜界島はじめとして島嶼地域にとっては福音になったであろう。

 

喜界島は珊瑚が隆起してできた島なので保水性がなく、川らしい川もなく、水の確保が容易でないため、地下に巨大なダムが建設されている。見学した際、地上からはわからないその規模にびっくり仰天した。
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地下ダムから水を汲み上げ、農業用水や生活水として活用している。かつて3日間滞在したことがあるが、島に特に不便はなく快適であった。ただ、今はそうでも、昔時の生活はさぞ大変だっただろうと思う。

 

この喜界島には喜界徳洲会病院があって、島の人はこの病院で初めてエレベーターを見たという。徳洲会は色々言われているが、徳之島出身の徳田虎雄氏が主導して島の医療整備に尽くしたことは大きく称えられるべきだ。私は喜界徳洲会病院を初めて見た時は、よくぞこの島に、と深く感銘した。徳洲会病院は南西諸島に多く設立されており、沖縄本島を基地とする所有の小型飛行機を活用してそれぞれの病院を結んでいる。

 

さて、西郷隆盛は沖永良部島で罪人扱いとして苦しんだものの、土持政照(18341903)という島役人に助けられ、待遇も改善されなんとか命をつなぐことができた。政照が彼の父親から面倒を見るように依頼されたという話もある。土持家の先祖は薩摩の名家で、政照は沖永良部島に度々赴任したという父親と島の娘との間に生まれたいわば島に根ざした人である。

 

西郷は、酒で失態をおかし島に流された学者の川口雪蓬(18191890)とも親交を持つ。川口雪蓬はのちに西郷家に寄寓し、執事的に西郷家、そして子供達の面倒をよく見てくれたという。

 

こういうのを知ると、本人の徳望もあったのかも知れないが、西郷は運のよい人だ、と感じる。沖永良部島では読書もよくしたようで、学者のような生活を送っていると手紙に記している。

 

西郷が沖永良部島にいた時は、攘夷と開国を巡ってテロが渦巻き、長州は不穏な動きを見せ、薩摩も、生麦事件、そして薩英戦争が起こっている。幸か不幸か、島にいたおかげでそういった騒乱には巻き込まれていない。熱血漢で行動的なだけにその場にいればただでは済まなかったかも知れない。それでもやはりまた血が騒いだのか、赦免を待ち望み、誰かがそれを邪魔しているのではないかという猜疑心をも抱いていたようだ。その一方、隠遁して奄美大島で家族と暮らしたい願望もあったようで、いささか複雑ではある。

 

西郷が赦免となり迎えの船が来たのは18643月(元治元年221日)で、鹿児島への帰途、奄美大島に立ち寄り、わずかな期間、愛加那と子供達と過ごす。愛加那にとってはこれが西郷との今生の別れとなった。喜界島では村田新八を同船させている。なお、久光に西郷の赦免を願い出たのは側近の家臣だが、彼らに働きかけた一人に後年に福島や栃木で県令として強圧的な態度でならし、田中正造らを弾圧した薩摩藩士三島通庸(みしまみちつね)がいる。

 

ともあれ、1864年、自ら望んでか望まずしてか、当初は風土病と体力の衰えで歩くこともおぼつかない状況の中で、動乱の真っ只なかに再び身をおくことになる。なお、明治維新のキーパーソンの一人とも言える堪能な日本語を操るイギリス人外交官アーネスト・サトウと西郷が初めて出会うのは186511月である。この時には島津左仲と名のっていたようで、「小さいが炯々とした黒い目玉の、たくましい大男が寝台の上に横になっていた」とサトウは記している(『一外交官の見た明治維新 上』 坂田精一訳 岩波文庫)。サトウが二度目に会うのは1866年になってからで、有名な「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべる時の微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」と表現したのはこの時である。

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