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2018年5月10日 (木)

西郷隆盛 その11 再度の島流し

以前の稿で記したように、3年にもわたる奄美大島での生活を経て、18623月(文久2212日)、いよいよ念願叶い、懐かしの薩摩城下に戻る。別れに際しては西郷も滂沱の涙を流し、以後も可能な支援はしたようだが、現地妻の愛加那と長男菊次郎、そしてまだお腹の中にいた子(のちの菊草)にとっては全く酷な話であった。

 

愛加那が西郷に会えたのはその後わずか2回だけである。そもそも名家の娘だったという愛加那は、西郷に引き取られた子供達と別れ、どのような思いで西郷の生きざまを見、その死を知り、どのような思いで生きたのだろうか。西南戦争から20年以上のちの1902年、愛加那は島で生涯を終える。享年66。官僚として、また京都市長として活躍した、西郷の面影を色濃く残していると思える菊次郎が支えだったのかも知れない。二人の画像はWikipediaから。
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西郷は島から戻って、国父と称され実権を有し、卒兵して東行を考えていた島津久光に拝謁する。この時に、久光に対して、“ジゴロ(地五郎)”(田舎者)だからいきなり京や江戸に行ってもうまくいかない、と言ったとか言わなかったかとの話がある。他の人に語ったのが伝わった、という話もある。嫡男であるため江戸生まれで江戸育ちの斉彬と違って、庶子の島津久光はそれまで薩摩から出たことがなかったわけで、多分西郷はそのように考えていたのであろう。かつて斉彬の命を受けて江戸と京を行き来していた自負もあったのかも知れない。

 

当然のごとく久光は相当に立腹したに違いない。隠遁しようと思っていたためか、西郷の態度も横柄だったらしい。ただ、スパッと辞するところは確かにあったにせよ、だいたいにして西郷の「隠遁」だとか「一命を賭して」という類の言葉はそのまま受け取らない方がいい。この時も一旦出仕を辞めたものの、説得にあって結局隠遁はしていない。

 

ともかく同行することになって、まず西郷が肥後の様子を伺うなどして先行し、下関で久光一行を待つという段取りであった。ところが、先着した下関で、久光の卒兵を幕府の武力打倒と誤解した薩摩藩士に不穏な動きがあるとの報せを聞き、大坂行きの船に飛び乗ってしまう。一封を書き残したと後の手紙には記しているが、大久保利通が握り潰したという話もある。実際、伏見で暴発をおさえたとも言われているが、ともあれ、ここは自制すべきところなのに、西郷にはこういう軽率さがある。そもそも久光は西郷を上洛に同行させるつもりはなく、下関から薩摩に返すつもりだったとも言われている。カンカンになった久光から命にそむいた「大咎め」として、1862522日(文久2410日)に大坂で捕縛され、今度は罪人として、まず徳之島、そして沖永良部島に島流しとなる。

 

島津久光がなぜ「御大策」として兵を率いて上洛、あるいは江戸に赴こうとしていたかだが、これは武力で幕府を打倒しようという意図では全くなかった。朝廷を奉り、公武合体を図るつもりで一橋慶喜を将軍後見職にし、福井の松平慶永を政治総裁職につけ、自らも江戸幕府への参政を意図したもので、斉彬も同様のことを考えていた。維新の原動力の一つは、対外政策で幕府が不甲斐なく見えることから芽生えた外様大名の幕政への参画意識である。

 

西郷のことを語っていると、島津久光がいかにも愚公のように感じられるが、決してそうではなく、この時も、薩摩と親しい近衛家の支持をとりつけて都合のいい勅を引き出し、公家の大原重徳(しげとみ)の護衛の大義名分で幕府の許諾を得た上で江戸に赴いている。なお、京では、薩摩藩出身者を含む過激派浪士が集結して公家や京都所司代の誅殺を計画していたことに対しては、朝廷の命を受け久光は断固たる処断を行っている。これがいわゆる寺田屋事件である。

 

久光がどこまで関与していたかはわからないが、藩主茂久の参勤猶予や久光の江戸参府の口実引き出しのために側近の堀仲左衛門や大久保利通が薩摩藩邸に意図的に火災を起こすなど、乱暴なことも含め、したたかに事前準備をしている。おそらく西郷はそういった背景は知らなかっただろう。こういう謀略的なことでは大久保利通には全く敵わない。

 

島津久光は企図した通りに慶喜と参勤交代緩和論者の松平慶永を推し上げ、長年続いた参勤交代の緩和を得ることに成功する。最も遠い距離を移動せねばならず莫大な出費を強いられる薩摩にとってこれは大きな福音になったはずだ。この時に懐刀とも言える小松帯刀も同行させている。イギリス人外交官のアーネスト・サトウはこの小松帯刀をして、最も印象に残る人物、と評している。知性と紳士的態度において、おそらく西郷は小松には適わない。だからあえて西郷を同行させる必要はなかったのである。何事につけ用意周到な大久保利通が必要と思ったのかも知れない。

 

井伊直弼亡きあとの幕府は“お人好し”的な感がある。後年、幕府は参勤交代の復旧を図るが、時既に遅し、その緩和は幕府の命取りの一つとなってしまった。江戸幕府は緻密な統治機構を発達させる一方、力の抬頭に対しては過酷とも言える抑制をかけていたわけで、その一つが参勤交代であった。島津久光は意図せずして幕府崩壊への痛打を浴びせたことになる。

 

意気ようようと江戸から引き上げる際に久光一行は横浜で大事件を起こしてしまう。行列の前を横切ったというイギリス人リチャードソンが殺害され他2人も負傷するといういわゆる生麦事件である。1862914日(文久2821日)のことであった。この事件で薩摩はあくまで開き直りを続け、幕府が尻ぬぐいをするはめとなるが、結局、薩英戦争の火種となっている。

 

さて、沖永良部島に流された西郷隆盛は罪人として狭い座敷牢に閉じ込められ、苛酷な環境で痩せ衰え、一時は生死のはざまをさまよったと言われている。上から指示があったのかも知れないが、ともかく地元にいた有力者に救われ、読書三昧の日々を送ることになる。

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