« 桜吹雪 | トップページ | 西郷隆盛 その10 島流し »

2018年4月12日 (木)

西郷隆盛 その9 僧月照との入水事件

一橋慶喜擁立派の粛清、反幕府尊皇攘夷派の捕縛など、「安政の大獄」の幕府の情報網の中で、西郷が親しく交流していた勤王僧月照の名前があがり、追っ手が迫る。島津斉彬の命を受け僧月照らと慶喜擁立を図った西郷自身も危うかったわけだが、ともかく京都にいては危ないと、僧月照を薩摩に逃がしてかくまうことを画策する。
Gesho221x300

 

ここで整理しておくと、井伊直弼が大老に就いたのが、185864日、日米修好通商条約が調印されたのが同年729日、一橋慶喜擁立派の処分など「安政の大獄」が始まったのが同年813日、徳川家定が亡くなったのが同年814日である。この頃はどの年もそうだったように、安政5年も激動であった。

 

島津斉彬が鹿児島で急死したのが1858824日だ。朝廷の護衛の大義名分で大軍を率いて上洛しようとしていた矢先のことで、西郷はその準備のために京都に滞在していた。心酔していた斉彬の死に西郷は落胆し殉死しようとしたのを月照に諫められたという。

 

井伊直弼の指示で酒井忠義が京都所司代として着任し、志士の捕縛が始まったのが同年10月頃からで、1013日にはのちに獄死する梅田雲浜が捕縛される。月照が京から逃れるのが同年1016日である。まさに間一髪の逃避行であった。橋本左内や吉田松陰が捕らえられて処刑されるのは翌1859年の末頃だ。井伊直弼が暗殺されたのが1860324日で、それにより安政の大獄が収束する。

 

試験を受けるわけではないので覚える必要はないが、短期に色々なことが相前後して起こっているので、順を追うためには日付が必要となる。ところが、歴史書は旧暦表記だったり西暦表記だったりで、非常にわかりにくい。Wikipediaは概して併記されているが、そうでないこともある。以前にも書いたように、西暦、すなわち太陽暦になったのは明治6年なので、それ以前の日記などの一次資料の日付は元号の旧暦である。

 

このブログでは、できるかぎり西暦におきかえて記すようにしているが、間違いを書かないかとヒヤヒヤする。幕末は、安政、万延、文久、慶応と続くわけだが、元号表記は原資料に忠実だとしても、旧暦と西暦の月日のズレ、しかもそれは一定ではなく、時には年のズレを変換しなければならないので、混在はまずく、西暦で統一して考えた方がいいと思う。なお、安政5年は概ね1858年である。

 

さて月照だが、下関まで西郷が同行し、受け入れ準備のために西郷は先行して帰薩する。その後は「わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」の歌で有名な福岡の尊皇攘夷の過激志士である平野国臣が同行して苦労の末にようやく18581211日に月照を薩摩入りさせる。

 

しかし、斉彬なき後の薩摩は手配中の人物を匿って幕府とことを構える肚はなく、西郷の奔走も空しく、月照の隠匿を拒否し、月照を宮崎方面に送って事実上殺害する命を西郷に下す。苦悩した西郷は、18581220日、宮崎に向かう船から月照とともに竜ヶ水沖合の錦江湾に身を投げ、入水自殺を図る。同船していた平野国臣が救助にあたったが、月照は亡くなり西郷は蘇生する。

 

なんだかできすぎた話のようにも思えるが、私が見た範囲のどの書にも大同小異のことが記されている。西郷が冬の海で低体温症になっていたとしたら月照より15歳若い彼が復温によって蘇生したことは医学的に十分にあり得る。しかし、なぜ西郷はそこまでしなければならなかったのだろうか。意を同じくして親しく交流していたというだけでこんなことをしていたのでは、あの時代、命がいくつあっても足らない。

 

確たる解が私にあるわけではないが、多分そうだろう、というのが『月照』(友松圓諦 吉川弘文館)に記されている。それは、朝廷にあって事実上の最高位である左大臣の近衛忠熈からそのことでわざわざ呼び出しを受け、月照の庇護を西郷が依頼されたということだ。近衛忠熈だけでなく今上陛下の母方の曽祖父にあたる青蓮院宮(のちの中川宮)にとっても月照は大切な人だったようだ。

 

近衛忠熈の正室は薩摩藩主の島津斉宣(なりのぶ)の娘の郁姫。島津斉宣の長男が斉興(なりおき)で、斉興の長男で郁姫の甥にあたるのがかの島津斉彬(なりあきら)である。斉彬の養女篤姫の徳川家定へのお輿入れの際は、形の上で近衛忠熈の養女になっている。つまり、斉彬急死からあまり間がない時期に、斉彬自身も大恩ある彼の義理の叔父近衛忠熈から月照の保護を直々に頼まれたのである。

 

これでは月照を殺害し自らは生き残るということができようはずがない。もちろん僧職の斬殺は西郷にとって論外である。入水事件はまさに困極まってのことであったのだろう。以後、西郷の手紙には「土中の死骨」という自虐が出てくるので、 終生にわたって“死に損ない”がつきまとっていたようだ。

 

なお、月照は大阪の医家の子息として今の善通寺市に生まれたという。出家し若くして京都の清水寺の僧坊である成就院の住職となっている。歴史のある寺とはいえ、当時の清水寺はかなり荒れていて、改革を試みたものの、うまくいかず挫折している。『月照』の著者の友松圓諦師は、仏教の堕落を正そうとした僧職としても歌人としても、国を思う心でも、月照を高く評価している。

 

月照の弟信海は成就院を継いでいたものの、翌年の1859年に捕縛され獄死している。月照に仕えた近藤正慎は捕らえられ拷問を受けても一切白状せず、獄中で舌をかみ切り壁に頭を打ちつけて亡くなったという。遺族への清水寺の配慮で営業権が与えられ、「舌切茶屋」として今も営業している。近藤正慎は俳優の近藤正臣さんの曽祖父にあたるそうだ。月照に仕えその死後も長く供養した大槻重助の「忠僕茶屋」は今に続いている。ひどい時代にあって心温まる話である。

« 桜吹雪 | トップページ | 西郷隆盛 その10 島流し »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事