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2018年4月20日 (金)

西郷隆盛 その10 島流し

185812月、西郷隆盛は月照との入水事件で蘇生したのち、死んだことにされ、菊池源吾と改名の上、18592月に奄美大島に流される。これはおそらくは薩摩の温情措置で、微禄を与えられての島送りである。

 

蘇生したのだから、よかったと言えばよかったわけだが、片方は亡くなっているわけで、入水というのは御法度的で武士としてはまことに不細工な失態である。しかも相方は幕府の追っ手が迫っている人であり、一橋慶喜擁立工作をしつつ反井伊直弼で義挙をも画策していた西郷自身も捕縛の可能性があり、当時のこととて、切腹を命じられても仕方のないところだ。

 

なぜ温情措置がとられたのだろうか。月照への負い目が薩摩にあったとしている書もある。島津斉彬の実父の島津斉興(なりおき)が斉彬なきあとの藩主茂久(もちひさ、後年の忠義)、の後見役として存命しており、彼の指示という話もある。斉興は江戸から帰薩の途中、大坂で西郷に会っており、禁裏の警護の名目で少し兵を残して欲しいといういささか意味不明の彼の懇願を受け入れているので、関係は悪くなかったようだ。なお、斉興は185910月に死去している。

 

『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(川道麟太郎 ちくま新書)には、江戸に向かっていた家老の新納駿河(にいろするが)が、家老首座の島津豊後に「秘密の取り計らいをして、変名の上、島送りにして、いずれその節、表向きは溺死の筋にしてはいかがか」と手紙に書いていることが紹介されている。おそらくその線で事実上のトップが判断したのであろう。

 

奄美大島というと、鹿児島空港からターボプロップ機で1時間程度、今に生きる我々はいかにも鹿児島のすぐ先のように思ってしまうが、実際は400㎞近く離れており、フェリーだと10時間以上を要する。かつてヘリコプターで鹿児島から種子島を経由して奄美方面に移動した経験では、屋久島を過ぎては高度の低いヘリだと前後に島が全く見えないところもあり、時速200㎞でも少々ウンザリする距離ではあった。その昔はこの海域で遭難も多かったのではないだろうか。温情措置と表現したが、移動は容易ではなく、実際のところ相当に厳しい措置だったとは思う。西郷が乗った船も潮待ちなどでかなりの日数を費やしている。

 

奄美大島は深い森林に覆われた随分と大きな島で、南東の海岸に面した切り立った崖からいくつもの滝が流れ出ていたことが印象に残っている。随分前のことにて委細は忘れたが、写真は奄美大島の一部だと思う。綺麗にかかった虹にあわててシャッターを切った。
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西郷が住んだのは奄美大島の北側の湾沿いにある龍郷というところである。上掲の書によれば、ここで同じ歳で知己の薩摩藩士重野安繹(しげのやすつぐ)と再会し、彼に、「まことに天下の人に対しても言い訳がつかない」と歯をかみ涙して語っていたという。重野安繹は知人の不祥事に連座して奄美大島に流されていたが、後年、その実証的な歴史研究が高く評価され、東京帝国大学教授に就いている。

 

西郷は当初は奄美大島の生活になじめず随分苦しんだものの、次第に慣れ、島妻(あんご)か島刀自(しまとじ)か、ともかく現地妻(愛加那として知られている)を娶り、菊次郎と、島を去ったあとに生まれた菊草の、一男一女をもうけている。命に未練のない人と語られることが多いし、本人も手紙でそのように書いているが、決してそうではなく、結構しぶとく生きた人ではないかと私は見ている。

 

島では、苛酷な生活を強いられている島民に同情を寄せ、代官と衝突することもあったようだ。奄美の地で、親しくしていた橋本佐内が処刑されたことに涙し、井伊直弼暗殺、しかも有村次左衛門が首級を挙げたとの報を聞き、歓喜したという。

 

届く便りなどでまた血が騒ぎ、帰還を切に待ち望んでいた様子がある一方、島での生活を愛しんでいたようにも思える。186112月に召還の報せが届いた時には、丁度新居で生活を始めようとしていた矢先のことで、嬉しさの反面、当時においては帰還時の島妻の同伴は御法度で、複雑な胸中であっただろう。結果的か意図的か、あるいは性癖なのかはわからないが、青年期以降の西郷隆盛の活動には、引っ込んだり表に出たりと、なにがしか周期性があるように思える。

 

西郷の召還は大久保利通らが島津久光に請願し、かつて斉彬のもとで主席家老を務めていた島津下総(しもうさ)の力添えによったもののようだ。そして18621月に帰還する。ほぼ3年間奄美大島で過ごしたことになる。すぐに斉彬、そして有村次左衛門に墓参したと言われている。また、大久保利通とともに、家老の小松帯刀を訪れている。これは藩主の後見役として事実上実権を擁していた島津久光への謁見の下準備だったらしいが、折角の段取りなのに、その本番でまた失態をやらかす。西郷隆盛という人は決してスマートな生き方をした人ではない。軽率なところもあり、短期間で、今度は罪人扱いでさらに遠い徳之島、沖永良部島に流されるはめとなる。

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