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2018年2月18日 (日)

西郷隆盛 その5 朝廷と幕府の権威逆転の萌芽

幕末最後の天皇である孝明天皇の祖父にあたる光格天皇は、どちらかといえば傍系で、本来なら出家して聖護院に行くはずが、天皇家の諸事情から天皇となっている。英明な勉強家だったらしい。

 

聖護院は皇族が住職を務めることが多かったようだ。京都御所の大火の際に光格天皇は聖護院に仮住まいをしている。と偉そうに書いても、私はそもそも聖護院については「八つ橋」ぐらいしか知らなかった。写真はWikipediaに掲載されている聖護院の宸殿で、いかにもそれらしい風格ではある。
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その光格天皇が何をしたかについてだが、まず、朝廷の儀式を復活させたことがあげられる。朝廷の凋落を嘆き、その権威の復興を期していたとも言われている。天明の大飢饉の際には、江戸では打ちこわしなどが起こり、『江戸時代の天皇』(藤田覚 講談社)によれば、京都では多い日は5万人の庶民が「御所千度参り」として御所に参詣し飢饉対策への祈願をしたという。幕府はさぞ肝を冷やしたことだろう。

 

『江戸幕府崩壊』(家近良樹 講談社学術文庫)には、「知識人ではない一般の民衆が、朝廷や天皇のことをどう思っていたのか、これがほとんどわからないのである」と記されている。漠然と「民を思ってくれる有難き天子様」だったのではないかという私の考えは以前に書いた通りだが、その当否はともかく、「御所千度参り」からして、困窮時に参詣するという意識が、決してほんの一部とは言えない数の庶民にあったことは確かである。

 

光格天皇は幕府に民衆救済を訴え、米の放出をさせている。千島列島を測量し国後まで南下していたロシア人のゴローニンが1811年に松前藩に拘束されるといういわゆるゴローニン事件の勃発に際しては、その経過について朝廷への報告を求め、幕府もそれに応じている。火災で焼失した京都御所を、莫大な出費を渋る幕府に対して、ほぼ希望通り再建させたのも光格天皇である。

 

これは、事実において幕府への大政委任であった江戸時代においては越権とも言える面もあったが、幕府が柔軟に応じたことが前例を作ったと言えるであろう。先で起こる江戸幕府との権威関係の逆転はこの光格天皇の時に萌芽したのである。朝廷は光格天皇の遺徳を讃え、その死後に、「天皇」という称号の復活を幕府に認めさせている。

 

天皇家が万世一系というのは誇張だと思うが、この光格天皇以降は現在に至るまでほぼ一系である。光格天皇の実母は今の鳥取県倉吉市出身なので倉吉には天皇家と血筋がつながった人が多くいるはずだ。とはいえ、昔は嫡子、庶子、養子などが入り乱れているので、血筋のことを言い出したらきりがない。西郷隆盛も巻き込まれた薩摩の「お由羅騒動」もそういったことに起因している。私はテレビの「西郷どん」は見ていないが、島津斉興の側室として息子の島津久光を強引に権力の座におしあげた「お由羅」を小柳ルミ子さんが演じたようで、いかにもそれらしい。島津久光は藩主にはなっていないが、藩主の父として実権を握り、錚々たる大名をさしおいて幕末にトップバッター的に孝明天皇と対面している。西郷隆盛とも非常に因縁深い。

 

さて、元号は、光格天皇の時代は、安永、天明、寛政、享和、文化と変遷している。光格天皇の第4子である仁孝天皇の時は、文化を引継ぎ、文政、天保、弘化と変遷した。元号制定は紛れもなく幕府の裁量であった。

 

明治、大正、昭和、そして平成という元号に親しんでいる我々は一世一元と思いこんでいるが、これは維新の時にそのように制定され、明治20年の旧皇室典範に「踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ」という定めがあったからである。現在の皇室典範にはそのことは規定されていない。「践祚」(せんそ)というのは皇位継承のことだ。即位は公表日なので少しずれるが、ほぼ同義としてよいと思う。崩御もそうだが、皇室には独特の言葉が多くある。

 

ゴローニン事件もその一つであるように、特に江戸時代後期には日本沿岸に多くの外国船が出没するようになっていて、江戸幕府はこれに悩まされていた。決してペリーの“黒船”一発で沈んだわけではない。外国船については稿を改めて紹介するが、次回は天皇についてもう少し筆を進める予定。

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