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2018年2月 5日 (月)

西郷隆盛 その4 皆既月食と改暦の話

皆様もよく御存知のように、131日夜は月が完全に地球の影に隠れる皆既月食だった。私がいる地域は薄曇りで、月がおぼろに欠け始めた時は見えたが、皆既月食になれば赤銅色に見えるという月は残念ながら全くわからなくなってしまった。

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http://www.afpbb.com/articles/-/3160736?pid=19771389

 

月食が始まった時間は報道通りドンピシャリである。今の科学、天文学なら当然かとは思うが、昔はこの予測に難渋したらしい。それもそのはずで、正確に予測するためには周期性や軌道を観測し複雑な計算をしなければならない。月で太陽が隠される日食もしかり。

 

暦(こよみ、れき)は当然にして発信源は一つである必要があり、占いの意味もあって、それを朝廷の「陰陽寮」という部門が古くから担っていたようだ。江戸時代まで長く使われたのは中国から伝来した太陰太陽暦の「宣明歴」で、太陰とは月のことで、月の満ち欠けと太陽の動きから導き出された暦だ。それなりの正確性はあったものの、宣明歴だと、3年に一度程度、余計な月、つまり閏月をおいて修正が必要で、また、日食や月食も正確に予測できない。冬至や夏至、吉凶の迷信もあり、起こった地域ではどちらも誰にも見えることで、予測がはずれたのでは権威の失墜にもなりかねない。正確な暦の作成は、権威者、権力者ともども宿願であっただろう。

 

江戸時代に改暦の研究に着手したのは渋川春海(しぶかわはるみ 1639-1715)で、そもそもは幕府の「碁打ち」だったが、敗北し、和算と改暦に打ち込んだという。囲碁を通して要人との接点があり、会津藩の祖である保科正之は、「春海に改暦をやらせること」と遺言し、黄門様こと徳川光圀も渋川春海を支持していたようだ。また、朝廷で暦事業に携わっていた土御門(つちみかど)泰福も理解を寄せ協力者になっている。

 

渋川は苦心惨憺してようやく「大和暦」を完成させた。これは本来ならまず幕府で吟味するところだったが、丁度その頃、宣明歴で月食予測がはずれたことでバツが悪かったのか、新しい暦を求めた朝廷に幕府から一気に上奏され、結果、「貞享暦」として800年ぶりに改暦が行われたのである。維新の200年前、1685年のことであった。なぜ大和暦かというと、そもそも中国(今の北京)で作成された暦を使っていたわけだから、京都とは経度が異なり、そのためにさらに微妙なズレを生じていた。当時にしてこれに気付いた渋川春海は本当に偉い人だ。

 

暦の作成には精密な観測と高度な数学が必要で、朝廷には手に負えず、観測などの行動力があり高度な和算の達人であった渋川春海だからこそ行えたのである。これにより渋川春海は幕府の初代天文方(てんもんかた)に登用され、以後、暦の実務は天文方に移行する。

 

江戸時代初期、1627年に吉田光由が和算の教書である『塵劫記』(じんこうき)を出版するや、たちまち庶民に至るまでベストセラーとなったという。詳細は私には分からないが、遊び心満載ながら、出されている問題はなかなかに難しい。渋川春海はそれを軽々と習得し、地理や天文、算法の工夫をして骨の折れる計算を重ねたのであろう。

 

次なる改暦を推進したのが、 “暴れん坊将軍”こと実のところ論理的な“理系将軍”であった徳川吉宗(1668-1751)である。西洋天文学を取り入れた暦を作成しようとし、没後の1755年に「宝暦甲戌元暦」(宝暦暦)が施行されたが、優れた人材を欠いていたこともあって、結果的にはあまりうまくいかなかった。しかし、吉宗が出した天文学の禁書令緩和はその後の大きな発展に寄与することになる。

 

なお、暦の事業には直接携わらなかったものの、天才数学者関孝和の門弟であるこれまた優れた数学者建部賢弘(たけべかたひろ 1664-1739)は吉宗の地図作成に大きく寄与し、それが後の伊能忠敬の正確な日本地図作成につながっていく。建部賢弘は和算でもって円周率を3.14…と、小数点以下53桁まで正確に算出し、円周率の計算の公式を世界に先駆けて導き出した人である。なんとも凄い先人がいたものだ。

 

さて、次に改暦が行われたのは、西洋天文学の知識を取り入れた「寛政暦」で、1798年に施行された。これを作成したのがやはり天才数学者高橋至時(たかはしよしとき)と、並みはずれた数学の才を発揮した富豪商人の間重富(はざましげとみ)である。2人とも、精密な日本沿岸地図を作製した伊能忠敬の師であり協力者であった。この辺りの話も非常に面白いのだが、詳細は別の機会に。

 

寛政暦からさらに精度を高めて、高橋至時の長男で不幸な死を遂げた景保の事績をも継承した次男の景佑(渋川家の養子になり渋川姓)を中心にして作成されたのが天保壬寅元暦(天保暦)で、その施行は1844年であった。この暦は西洋の太陽暦が採用される1872年(明治5年)末まで用いられている。

 

江戸時代の改暦が幕府中枢、朝廷の関与なしにできなかったように、太陽暦への切り替えは政府中枢と朝廷の承認なしにはできず、しかも、明治5123日がいきなり明治611日になるわけで、大混乱必至のものすごい大事業であった。天文方は維新後に改称させられたが、高水準の素地があっただけに太陽暦の優れた面への理解も早く、この改暦を進言したという。その組織は今の国立天文台につながっていく。

 

月食を糸口に、暦の話ばかりで、西郷隆盛はどこに行ったのか、と尋ねられそうだ。実は、太陽暦への切り替えは、当時の筆頭参議、今で言えば内閣総理大臣とも言える立場にあった西郷隆盛の理解と決断があればこそだったと私は見ている。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允達にできたはずはない。その頃は岩倉使節団で洋行していて不在であったからである。

 

本稿は『天文学者たちの江戸時代』(嘉数次人 ちくま新書)、『江戸の天才数学者』(鳴海風 新潮選書)、『夢中になる! 江戸の数学』(桜井進 集英社文庫)などの書を参考とした。ただし、丸写しは避けたので、本稿の記述に誤りがあればそれは私の責任である。

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