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2018年1月29日 (月)

西郷隆盛 その3 江戸時代の天皇

本ブログの「西郷隆盛 その1」で、「江戸時代の天皇は神仏習合の社会にあって宗教的に最上位の象徴と見られていたようだ」と書いた。もしかして、それはどういうことだ、と疑問に思われたかたもいるかも知れない。

 

現代に生きる我々の多くは、クリスマスを祝い、永平寺の厳粛な映像を見てお寺の除夜の鐘を聞きながら新年を迎え、正月となれば初詣と称して神社にお参りをする。宗教的には無節操この上ない。だが、現実にはあまり抵抗なく受け入れている。

 

神も、古来の神々から、山の神、海の神、さらには松陰神社、乃木神社などなど、人ですらすぐに神様に祀り上げる。まさに多神教である。その一方、先祖あるいは故人を仏壇やお墓で仏様としてまつっている。西郷隆盛も南洲神社で神として祀られているが、お墓もちゃんとある。形として分けているものの、意識において神と仏を特段に分けてはいない、少なくとも対立軸とはとらえていないわけだ。これを神仏習合と言い、いにしえからの伝承あるいはそのような風土であると言っていいだろう。なお、維新期に神仏判然令が出され神社とお寺が分けられたものの、“廃仏”と受け止められて仏教文化の毀損を生じている。

 

学術的なことは『神道とは何か 神と仏の日本史』(伊藤聡 中公新書)に一般人には詳し過ぎるぐらい詳しく論考されており、「そもそも神官・神職とは、僧尼と同じ意味での宗教者ではない。神官は神事においてのみ祭祀者なのであって、それを離れれば、現当二世での仏菩薩の利益を願う俗衆に過ぎないのである」と記されている。石清水八幡宮は明治維新までは石清水八幡宮寺だったという。神宮と神社は格の違いを表しているようだ。ともあれ、日本人の神仏習合は筋金入りで歴史が長い。

 

天皇家はどうかというと、実は江戸時代の天皇は仏教であった。仏門に帰依した天皇もいる。江戸時代最後の天皇である孝明天皇までの葬儀は仏式で、泉涌寺という菩提寺は京都にある。その一方、室町時代以降、絶えた時期はあったようだが、伝統的な神事は今も行われている。天照大神(アマテラスオオミカミ)や神武天皇信仰はいわば神話の原始宗教で、形を伴って一般に敷衍させるには仏教が必要だったのかも知れない。

 

一般庶民にとって天皇は、神か仏か、「民を思ってくれる有難き天子様がおられる」という意識だったのではないだろうか。それを冒頭の言葉で表現した。深入りして論じれば非常に難しい事柄だが、私はまずはそういう理解をしている。

 

天皇という言葉の用い方も実のところややこしい。いにしえからある言葉とはいえ、近世になって用いられるようになったのは光格天皇(1771-1840 在位1779-1817)の死後からだ。当時は“幕府の許可を得て”譲位して上皇になることは普通に行われていたので在位と没年が異なる。ついでに書けば、女性天皇もいたし、元号も在位と関係なくコロコロ変えられていた。今は皇室典範というがんじがらめの縛りがあるため、今上陛下の退位が大きな問題になったわけだ。肖像としてさして意味があるとは思えないが、Wikipediaに掲載されている光格天皇の画をあげておく。
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江戸時代の朝廷は、政治を幕府に委ね、征夷大将軍とか正二位とかの官位を与えるだけで、領地があったとはいえ、支出は幕府丸がかえであった。江戸幕府の禁中並公家中御諸法度では、学問、和歌、管弦などに努めるようにとされている。したがって、政権を担うという想定もその体制もなく、“勅許”どころか朝廷の人事なども幕府にお伺いを立てねばならない状況であった。

 

その状況を変えるきっかけを作ったのが光格天皇で、それが結果として朝廷の復権と江戸幕府崩壊につながっていく。明治維新の経緯についてはここまでさかのぼった方が理解しやすいと思う。

 

こんな話ばかりだとウンザリされてしまうので、お気軽な話を間に入れて、光格天皇から孝明天皇、明治天皇までのいきさつなども書いてみたい。話が大きくそれるように思われるかも知れないが、天皇問題を抜きにして西郷隆盛を語ることはできないのである。

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