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2018年1月22日 (月)

西郷隆盛 その2 開国

日米和親条約が締結されたのは1854年である。「黒船」のペリーが来航したのが1853年だ。日米和親条約は、下田と函館を開港する約束をして、アメリカと和親でいきましょう、航海に必要な物資については対価を払ってくれたら江戸幕府が便宜を図りますよ、という内容である。この時の首席老中は阿部正弘で、諸有力大名や朝廷との協議は行っていたようだ。

 

“鎖国”という言葉に議論があるように、どの時点をもって“開国”とするかについては実のところ判然とし難い。1854年の“仕方なくしぶしぶ”であった日米和親条約か、あるいは交易にまで踏み込んだ1858年の日米修好通商条約か、一般人とすればまずは幅を持たせて曖昧に考えておくのでよいと思う。

 

天皇の承認である「勅許」がないことが問題となったのは日米修好通商条約である。現実と朝廷の反対の板挟みになった大老井伊直弼が日米修好通商条約に積極的だったとは言えないが、最終的な責任者ではあった。ただし、アヘン戦争で清国がイギリスの武力により手痛い目に遭ったことは日本の幕閣もよく知っており、中でも、老中松平忠固(まつだいらただかた)は一貫して開国を唱導し、「勅許」を請う必要はないと主張していたという。

 

日米修好通商条約の交渉の実務を担ったのは岩瀬忠震(いわせただなり)で、当時のこととて、言葉による意思疎通も十分にできず、国際慣行にも疎い中で、粘り強い交渉を重ねたことは高く評価されてよい。この条約は不平等条約として悪名高いが、今の時代にあっても対外交渉はもめにもめるわけで、当時にあってはまずはよしとせねばならないのではないだろうか。

 

Wikipediaには、「岩瀬忠震が外交官として活躍した時期はわずか5年だが日本にとって外国の植民地支配を回避し、この条約のお陰で日本は世界の列強から逃れられた」とある。ちなみに、条約には「アヘンの輸入は禁止する」と明記されている。さらに特筆すべきは、岩瀬忠震が、幕府から使節をアメリカに派遣して批准、より正当性を持たせるための書類交換、をすることを提案して合意を得たことだ。ここから本格的な近代化への肉付けが始まる。

 

1860年、条約の批准のためにアメリカに向かって出港した2隻は、正使の新見正興と小栗忠順(おぐりただまさ)らが乗船したアメリカ艦船のポーンハタン号と、勝海舟を艦長として福沢諭吉らが乗ったかの有名な咸臨丸であった。条約に腐心した岩瀬忠震はどうかと言うと、井伊直弼に疎まれて失脚したため使節団に加わることができなかった。非常に残念なことに岩瀬は1861年に失意のうちに病没する。1859年に亡くなった松平忠固とともに、日本人として忘れてはならない幕末の偉人であろう。なお、小栗忠順については稿を改めて記す。

 

開国してより幕府はうって変わって積極的な対外交流に出ている。『世界を見た幕臣たち』(榎本秋 洋泉社)は、開国以後、何度も行われた派遣使節について紹介した好著だ。1864年の文久遣仏使節団のことも記されており、スフィンクスを背景にした侍達の写真はこの時のものだ。
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さて、日米和親条約が締結された1854年頃、西郷隆盛は何をしていたかというと、島津斉彬(しまづなりあきら)に見込まれ、西郷もまた斉彬に心酔し、江戸に同行し3年以上も滞在している。その時に水戸藩の藤田東湖の影響を受けて尊王攘夷派になり、多くの人と会って啓発を受けたようだ。

 

1855年頃は、斉彬の養女篤姫の将軍徳川家定へのお輿入れの準備に奔走している。あの西郷さんが嫁入り支度に心を砕いていたというのは何とも面白い。このために相当に勉強を重ね「おいどんはこう見えても、金銀、絹物、玳瑁、漆器の鑑定は玄人だよ」と後年に語っていたという。この頃までは、長身でスリム、今で言うイケメンだったようだ。西郷隆盛の写真はないが、篤姫の写真は残っている。篤姫役の女優さんとはかなり違う印象ではある。
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