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2018年1月13日 (土)

西郷隆盛 その1

前回の稿で西郷隆盛について触れると書いた。明治維新についてあれこれ書物を見た者として、西郷隆盛は避けて通れない存在である。
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なお、明治維新というのは明らかに後づけの言葉で、江戸時代にあったはずはない。江戸幕府を倒すこの改革は「御一新」と称されていたようだ。とはいえ、逐次注釈するのは面倒なのでこの大改革については「維新」あるいは「明治維新」と表記する。薩摩藩などの「藩」も江戸時代の呼称ではないが、便宜上、藩を使うことにしたい。西郷隆盛も名前の変遷があり、吉之助を多く用いているが、特に必然性がない限り通りのよい西郷隆盛と記す。

 

それで、西郷隆盛について通りいっぺんのことを書いてそれでよしとするのでは、Wikipediaを参照するか関連書籍をひとつふたつ読めば済むことで、このブログを読んで下さる皆様に何ら資するところはない。何事によらず、書くことを動機として読書を趣味とする私にとっても意義がない。そこで、例によって双六的に、他のテーマをはさみながら、何回かに分けて私が理解するところを綴ってみたい。

 

まず、いったい江戸幕府を倒す必要があったのかどうか、について考えてみるのがいいと思う。維新の動きはそこから始まるからだ。私に関してはここがきっちり押さえられていなかったので、おおまかな理解の構築にすら随分と廻り道をしてしまった。

 

結論的に言えば、「尊皇攘夷」を掲げる維新の志士達よりも、幕末の江戸幕府の方がよほど開明的に時代を先取りしており、その意味では倒す必然性はなかったのである。桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の決断で外国と条約を結ぶ「開国」をしてよりは、江戸幕府はもの凄い勢いで外国の情報を仕入れている。外国に留学もさせているし、「お雇い外国人」も多くいた。水戸藩から強い影響を受けたこともあって西郷隆盛ですら若い時は攘夷だったわけだが、外国を打ち払うという“攘夷”が不可能なことは幕府の方がよほどよく分かっていたと思える。

 

朝廷についても、少なくとも私が知る限りでは、江戸幕府が天皇をないがしろにするということはなかった。つまり、終始一貫「尊皇」だったのである。ただ、その「尊皇」は、あくまで政治は幕府に委ねるという前提である。これは言ってみれば「王は政治に関わらない」という立憲君主制度の原型のようなものだ。江戸時代の天皇は神仏習合の社会にあって宗教的に最上位の象徴と見られていたようだ。朝廷は暦の作成などの責も負っていたが、科学的な正確性に欠け、次第に幕府の天文方が担うようになっている。

 

したがって、大老井伊直弼が天皇の許可「勅許」を得ずに開国をしたというのは言いがかりであって、そもそも「勅許」は形式に過ぎず、お伺い的に逐一それを得る必要はなかった。天皇が幕府の政治に口をはさんでいたら決して存続はしなかったであろう。それがなぜあれほどの大騒ぎになったかというと、幕末の孝明天皇が徹底的な「攘夷」で、岩倉具視などの取り巻きの公家も威を借りて本来あるべからざる政治的な動きを行ったからである。また、有力大名が横槍を入れる口実にしたということもある。老中を中心とした幕府の弱体化がそれらを許してしまったということは言えるだろう。

 

明治維新はその流れの中で起こった大きな出来事だ。激動の中で多くの有為な志士が斃れ、幕府側の多くの優れた人材を失う中で、西郷隆盛は生き残り新しい時代を作った人である。

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