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2017年10月 3日 (火)

死の彷徨

彷徨(ほうこう)というのは難しい字だが、「(迷って)さまよい歩くさま」を簡潔かつ的確に表現した言葉だとも言える。これに死がついて「死の彷徨」となれば、恐怖をともなった切迫感を字面が醸し出す。

 

まさにこの通りのことが明治351月、青森県の八甲田山麓で起こっている。いわゆる八甲田山雪中行軍遭難事件である。当時の軍のこととて、秘されたところもあったようだが、訓練で210人中199人が死亡という事実は隠しようもなく、世間に知られることとなった。

 

生存者も、自力で麓の田茂木野の村落まで辿りついた者はおらず、多くは凍死寸前の状態で救助されている。特に、雪中で凍てつき屹立したまま仮死状態で救出された後藤房之介伍長はこの遭難事件のシンボルになり、銅像が建立されている。私が訪れた時は人の気配もなく、周りに霧が立ち込め、なんだか鬼気迫るものがあった。後藤伍長が発見されたのはこの場所から少し青森寄りである。
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この事件を題材にとった小説が『八甲田山死の彷徨』(新田次郎 新潮文庫)で、『八甲田山』として映画化もされた。こちらはフィクションではあるが、脚色や誇張はあるにせよ、ほぼ実際に起こったことを描き出しているようだ。気象の専門家でもある新田次郎さんは詳細な取材に基づいて書いているし、映画も八甲田山で過酷な長期ロケを敢行しただけに、どちらも凄い迫力で迫ってくる。

 

いくら明治時代とはいえ、どうしてこのような行軍を試みたかだが、当時、日本とロシアの間には不穏な空気が漂っていて、ロシアの侵攻により海岸沿いの鉄道が攻撃を受けた際に、青森と八戸が分断されないための補給路の確認が必要と考えられたようだ。その補給路は、青森から今の十和田市に抜ける八甲田山麓の峠越えである。また、ロシアと戦争状態になった際に、寒冷地での戦闘を想定した装備を検討しておく必要性もあったようだ。

 

訓練は弘前の第31連隊が少数で弘前から十和田湖をぐるっと回って三本木(今の十和田市)から八甲田山麓の峠越えで11日かけて青森に抜ける行程を取っている。青森の第5連隊は規模を大きくして、青森から1日か2日で八甲田山麓の田代温泉に行く距離としては10㎞足らずの行程である。ほぼ同時期に行われたにも関わらず、第31連隊は全員が生還、第5連隊はほぼ全滅である。
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八甲田山は8つの峰からなる山系で、その山麓においても、雪に加えて津軽海峡からの猛烈な強風が吹き付け、今の時代においても厳冬期の踏破は容易ならざることだと聞く。遭難事件の時は特に寒気が厳しく、数mの積雪があり、零下17度以下、強風により体感温度はさらに下回っていたという。今でこそ舗装された道路があるが、昔はこのような灌木の間に細い道があるだけだったのだろう。実感はとうていできないものの、この雪中行軍の道に迷っての彷徨がまさに“白い地獄”であったことは想像に難くない。
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この雪中行軍遭難事件に関しては、銅像近くにある銅像茶屋と、田茂木野というか幸畑にさらに本格的な資料館がある。悲惨な事件に思いを馳せるとともに、これらを訪れてみてふと感じたことは、これほど多くの犠牲を出しながら、知る限り幹部が誰も罰せられていない、ということだ。命令をする人が責任を取らない、すなわち、日本は、上からしか力が働かない二等辺暴力三角形で作られていると、とある思想家が評していたが、今に至るまでその構造は本質的に変わっていないような気がする。そんなことも感じた八甲田行であった。

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