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2017年8月 9日 (水)

斗南藩

会津の悲劇は、敗戦、落城、婦女子などの自決、また、上級藩士の子息が中心であった白虎隊の飯森山での集団自決がその象徴として語られることが多い。会津戦争で新政府軍に降伏した会津藩は、いったん廃藩となった後に、斗南(となみ)藩として下北半島などに領地が与えられた。実のところ、これもまた大きな悲劇だったのである。

 

会津藩と称したが、「藩」という呼称は江戸時代にはほとんど用いられておらず、これは明治以降に定着した表記である。また、会津藩士といっても、いわゆる土着ではなく、もとを辿れば多くは信州などからの移入だ。したがって、戦乱の中でともども悲哀を味わったことは確かでも、もともとから居住していた人々と藩士は分けて考えた方がよい。必ずしも善政が行われていたわけではなく、会津藩士に反感を抱いていた住民が多かったとも聞く。もっとも、それは会津に限ったことではなく、江戸時代には支配層レベルにおいて“お取り潰し”や移封、加増が頻繁に行われ、その一方、被支配層たる庶民はそのままで、なかなかややこしい。これは血統についても言えることで、嫡子、庶子、養子が入り乱れている。近代においても、大正天皇ですら母親は皇后ではない。ただし、こういったことは、不倫ひとつで大騒ぎのネタとなる(メディアにさほど倫理感があるとは思えず、単に面白がって報道しているだけという気もするが)現代感覚で推し量るべきではないだろう。

 

さて、それらはともかく、大原綜合病院の平子健理事長に勧められて読んだ『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著 中公新書)は私にとって衝撃的で心に残った書である。それは何かと言えば、のちに陸軍大将にまでなった会津藩士の子息柴五郎が下北半島で味わった辛酸である。火山灰の痩せた土地で農作物もろくに育たず、あばら家で飢えと酷寒に苦しみ、「まことに顧みて乞食の一家なり」「挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」と記している。

 

多くの会津藩士が移住したのは下北半島の田名部(たなぶ)、今のむつ市である。なぜ火山灰なのかちょっと不思議だったのだが、むつ市から直線距離でさほど遠くない霊地恐山に行ってみて、これはまさしく火山そのものだと、疑問が氷解した。この1万年ばかり大噴火していないだけで、恐山の宇曽利山湖は紛れもないカルデラ湖であり、むつ市のどこからでも見える釜臥山は外輪山のひとつである。会津藩士は、この山を磐梯山に見立てて心の支えとし、故郷を懐かしんだという。写真は恐山の宇曽利山湖と釜臥山の遠景。
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恐山の本坊はむつ市の円通寺で、そこには斗南藩の拠点がおかれていた。そして、円通寺から数㎞程度離れた場所(斗南ヶ丘)にかつて会津藩士が定住を図り、井戸を掘り、土塀をあつらえた居宅跡があった。今はわずかに痕跡を残すのみだ。なお、柴五郎の居住地は田名部から西北に離れた山裾である。
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斗南藩の痕跡は今の青森県に散在しているようだが、まさに本州北端の大間にもあった。それは大間在住の会津藩士の末裔たる木村重忠氏が私的に開設している会津斗南藩資料館である。たまたまその看板を目にし、入館してみた。木村氏は「よくぞ来てくれた」とばかり懇切に説明して下さった。そこには旧会津藩主松平容保が書き残した「向陽處」と大書された額がおかれている。太陽に向かう明るい大地で努力すれば必ず報われる時がくる、という意味のようだ。苦労のかいもなく廃藩置県で斗南藩は断絶させられたわけだが、北の大地で悪戦苦闘する会津藩士を鼓舞する意味があったのだろう。

 

その後の会津藩士は、下北半島に定住し、あるいは青森県で名士となった者もいるし、柴五郎のように上京して立身出世をした者もいる。が、多くは慣れない厳しい気候と開墾の困難により、悲嘆と屈辱の中で再び会津に戻らざるを得なかったようだ。

 

江戸幕府の崩壊から明治への移行期、会津藩ならずとも、悲劇は数多くあった。それでも、縁あって手にした『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』を思い起しながら、会津藩士の旧跡にその苦労を偲びなにがなしに感傷を覚えた下北半島行であった。もう少し触れるためには厳冬期に行ってみなければならないだろう。

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