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2016年6月12日 (日)

がんと闘った科学者の記録 その9 ノーベル賞

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2011
11月の『日経サイエンス』「世界を変えた日本の頭脳 ノーベル賞に近い人たち」には、戸塚洋二さんと梶田隆章さんが取り上げられている。この時点では戸塚さんは亡くなっているので、原則、現存者に贈呈されるノーベル賞の可能性はなかったわけだが、弟分の梶田隆章さんが2015年に「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」で見事ノーベル賞に輝いた。戸塚さんも草葉の陰でさぞ喜んだことだろう。

 

私が知る限りでは、戸塚さんはノーベル賞を意識していた様子はない。世界中の研究者にスタンディングオベーションで絶賛された1998年に高山市で開催されたニュートリノ国際学会の発表は戸塚さんがしても誰も何の文句もなかっただろうが、以前に記したように、「カジタ、お前がやれ」と譲っている。発表だけではノーベル賞にはならないので、その後に梶田さんが筆頭著者として論文を仕上げたのだろう。その後、戸塚さんが手がけたK2KT2Kでニュートリノに質量があることの検証がなされている。

 

20062月の欧米訪問を、ノーベル賞の下準備だったのかとの立花隆さんの問いかけにも、「いやいや、それは全く関係ないんですよ」とあっさり答えている。ベニスでの講演、ジュネーブでの会議、ミュンヘンでの打ち合わせ、パリで陳情と夕食会と、元気な人でもこういう出張は大変だ。戸塚さんは肺転移による咳に悩まされながら行程をこなしている。世界的にそれだけ重みのある人だったことは確かだ。

 

ノーベル賞にさほどこだわりがなかった理由のひとつは、生来、章典には恬淡な人だということがあげられると思う。文化勲章も含め、色々な賞を受けているのだが、自慢めいた記述や語りは全くない。

 

そして、これが最大の理由だと推測するのだが、本来ノーベル賞に輝くべき人がその栄誉に預かっていない、という思いが強くあったのではないだろうか。一人は親交のあったレイモンド・デイビスJr博士で、ニュートリノ一筋に研究を重ね、戸塚さんは「一つの研究を不器用に生涯続け最後にその真価が認められる科学者」と表現している。デイビス博士は戸塚さんの師であった小柴昌俊さんとともに2002年にノーベル賞を受けているが、この時は88歳で、アルツハイマー病を患っていて記念講演もできず誰が誰かもわからない状況だったという。もっと早く受賞すべき人だったと戸塚さんは思っていたようだ。もう一人は、ジョーン・バコール博士で、かのハッブル宇宙望遠鏡の強力な推進者で、打ち上げ当初の失敗を乗り越えるべく困難に立ち向かった人でもあり、太陽ニュートリノの研究者でもあった。戸塚氏は、「私は、彼の数多い友人の一人であったことを誇りに思います」と記している。バコール博士はノーベル賞を受けることなく2005年に70歳で亡くなっている。

 

ノーベル賞は我々一般人にはわかりやすい大きな栄誉であることは確かだが、運不運にも左右され、至上主義にする必要はないと思う。がんで言えば、山極勝三郎のウサギの耳の人工的な発がん実験の成功は間違いなくノーベル賞に値する。実際、1925年(大正14年)から何度も候補にあげられながらついに受賞することはなかった。余談ながら、ノーベル賞を受賞した益川敏英氏は、師の坂田昌一氏にノーベル賞が授与されなかったのは弟子がふがいなかったからだといささか自虐的に語っている。坂田氏はニュートリノに質量があることを理論で予言している。

 

『がんと闘った科学者の記録』をネタに駄文を連ねてきた。戸塚洋二さんのことを多く知ることができたのは本当によかったと思っている。もう少し生きたかったという思いも強くあっただろうし、惜しんであまりある人だったが、それとは別に、氏の病悩期間が今の私の年齢に重なることで特に思い入れを感じた。資料を読み、そして書いてみることで、市井の一小市民として戸塚さんに捧げるささやかなレクイエムにはなったかと思う。

 

素粒子物理学、がん、闘病記など、色々目を通してみる非常にいいきっかけともなった。これらについて書いてみたいことは多くあるのだが、本シリーズとしてはとりあえずこれでおき、また機会を改めて紹介していきたい。

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