« エプリールフール | トップページ | がんと闘った科学者の記録 その2 がんの再発 »

2016年4月10日 (日)

がんと闘った科学者の記録 その1

『がんと闘った科学者の記録』(戸塚洋二著 立花隆編 文春文庫)は、がんに罹患した科学者の闘病記である。それも並みの科学者ではない。ノーベル賞を受賞した小柴昌俊氏の門下生で、もし存命であったならば、梶田隆章氏と共にノーベル賞を受賞したであろう世界的な科学者の手による闘病記である。
Yoji_totsuka_20030815_5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%A1%9A%E6%B4%8B%E4%BA%8C

 

東京大学宇宙線研究所教授だった戸塚洋二氏は、1999年(平成11年)頃から下血の症状があり、多忙だったこともあってそのまま放置していたところ、2000年秋に大量の下血が見られ、近医を受診して大腸がんと診断されている。58歳の時である。裕子夫人は1990年代後半には様子がおかしいと感じておられたようだ。がんがいきなりできるわけではないから、数年前からあったのだろう。

 

200011月にがんセンターで切除手術を受ける。手術の詳細は分からないが、人工肛門は造設されておらず、直腸を含め大腸を30㎝切除したということなので、腫瘍はS状結腸の下部もしくは直腸の上部にあり、おそらく、口側と肛側の切除端を骨盤内で吻合して肛門機能を温存させる低位前方切除という術式だったと思われる。初診時に腫瘤が触診で分かり、ステージ3aだったとのことなので、リンパ節に転移がみられる進行がんである。

 

その戸塚氏は手術のあと、化学療法は受けず、早々に多忙な生活に復帰した。さまざまな折衝、会議、出張と目の回るような忙しさだったと思われる。それに追い打ちをかけたのが、20011112日に起こった世界最大のニュートリノ実験施設であるスーパーカミオカンデの事故である。光電子増倍管を交換し水の再注入をしている途中で増倍管の一部に損傷が起き、連鎖的に計8000本もの高価な管球が破壊された。この時の衝撃は地震観測網に小さな地震としてとらえられるほどのものであった。

 

事故の時はカナダでの国際会議から帰国の機中にあり、到着後すぐに報せを聞き、呆然となったという。自ら心血を注いだ施設の事故にどれだけ落胆したことだろうと思う。しかし、戸塚氏は事故翌日の1113日に次のような文言があるメッセージを関係者に送っている。

 

I have decided to express my intention on behalf of Kamioka Observatory.

(神岡の研究施設のために、私の意志をここに表明することを決意した)

We will rebuild the detector. There is no question.

(私たちは光電検知器を再建する。これに疑問の余地はない)

 

この力強いメッセージに関係者は勇気づけられ、資金をも提供していた米国エネルギー省もすぐに、「損害賠償など考えなくてもよい。スーパーカミオカンデ再建に全面協力する」と支援を表明している。各国の研究者からは、激励のメールが洪水のように送られてきたという。

 

がんの大手術からわずか1年目のことである。戸塚氏は、原因究明、再建の陣頭指揮を取り、研究再開には何年も要すると見られていたのを、1年も経たない200210月には観測の再開にこぎつけている。先にあげた書の編集にあたった評論家の立花隆氏は、「戸塚さんの業績はサイエンスでも科学行政でもいろいろあるが、私はこのときの戸塚さんのスーパーカミオカンデ復旧の陣頭指揮こそ、もっとも評価されてしかるべきものだと思っている」と記している。実はこの時期、戸塚さんは腹部手術後にしばしば見られる腸閉塞の症状に悩まされ、スタッフにはそれを隠して入院したということもあったようだ。「体力的にはきつかったですね」と立花氏との対談の中で述懐している。

 

復旧と時を同じくして200210月にスーパーカミオカンデの前身であるカミオカンデを用いて超新星からのニュートリノをとらえた、戸塚氏の師である小柴昌俊氏のノーベル賞受賞が決定した。カミオカンデは小柴氏の指揮のもと、スーパーカミオカンデは自らと、いずれも戸塚氏が手がけたものである。スーパーカミオカンデは既に業績をあげており、19986月に高山市で開催されたニュートリノ国際会議では、「カジタ、お前がやれ」と、戸塚氏の指示で梶田隆章氏が発表している。参加していた世界の学者からはニュートリノに質量があることを証明した素粒子物理学に変革を迫る素晴らしい発表に拍手の嵐だったという。その梶田氏は、「先生と話しているだけで心が温まるような思いがしました」とのべ、「いくら感謝してもしきれない思いです」と戸塚氏を追悼している。

 

がんはその間にも次第に戸塚氏の体を蝕み、それが顕在化するのが2004年である。

« エプリールフール | トップページ | がんと闘った科学者の記録 その2 がんの再発 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事