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2016年2月10日 (水)

黄金の国ジパング

日本のことを「黄金の国ジパング」だとマルコ・ポーロなる人が東方見聞録に記していたという。この国には金銀があふれていると。1300年の頃だから、鎌倉時代だ。日本が資源大国だと習った記憶はないし、今の時代、少なくとも私の周りには金銀にあふれている人はいないので、これは「見てきたようなウソを言い」の類のホラ話だろうと思っていた。

 

ところが、今読んでいる『江戸時代』(大石慎三郎 中公新書)によれば、日本が金銀を大量に産出していたのは事実だそうだ。金閣寺がその象徴でもあり、江戸時代初期には日本全国金銀の鉱山が多くあって、徳川幕府や有力大名は金銀を多量に保有していたらしい。それらがどこにいったのか気にならぬでもないが、金の話はさておいても、私が読むにこの『江戸時代』は素晴らしい名著で、1977年が初版で今は34刷を重ねている。自分が読んでなかっただけのことで、知る人ぞ知る隠れたベストセラーだ。既に故人となっておられるが、その著者が書いているのだから金の話も間違いないだろう。

 

金銀は高価なものの代名詞のようなものだが、その金銀がどこから来たかというと、これが実に宇宙から来たらしい。万有引力で有名な、かのニュートンは、金を造るという錬金術に狂ったように明け暮れていたそうだ。あげく発明できないまま失意のうちに生涯を閉じている。いかにニュートンといえどもできるはずはなかったわけで、今の時代に至るまで錬金術は存在しない。

 

物質を構成する原子の最小単位、いわばもっとも単純な元素は水素で、普通にある水素は陽子1個の原子核と周囲にある電子1個からなっている。原子核に中性子があるものもあり、それを同じ水素でも同位体と呼んでいる。陽子が増えると元素の性質が変わるというのは高校時代に習ったことだが、金の原子核には79個の陽子と91個から131個の中性子がある。元素のことは『元素はどうしてできたのか』(櫻井博儀 PHPサイエンス・ワールド新書)に分かり易く解説されている。

 

それで、普通にある物質から金を造るには原子核の陽子を増やす必要があるが、これが難しい。そもそも陽子はプラスの電荷を持っているので、お互い反発しあう。多くの元素でそれらがくっついているのは、非常に短い距離でしか働かない、核力という「強い力」があるからだ。陽子をくっつけるのが核融合で、軽い元素同士ではその時にエネルギーが放出され、北朝鮮が悶着のネタをまたまた振りまいた水素爆弾の原理はこれに基づいている。ところが、核融合でエネルギーが取り出せるのは、人為的には今のところ水素だけで、それも簡単にはできない。北朝鮮の報道が疑問視されているゆえんである。トヨタのMIRAIなど水素エネルギーが使えるのは分子レベルの話で、元素ではない。ちなみに、水素爆弾の起爆には、核融合とは逆に核分裂でエネルギーを取り出す原子爆弾が用いられる。そのぐらい核融合を起こす環境作りは難しい。核融合による原発も研究はなされているが、環境作りが途方もなく困難で、しかもコントロールできる形でエネルギーを取り出さねばならないので、安全性にも懸念があるし、やれたとしても遠い将来のことだろう。

 

金の話に戻って、鉄より陽子の数が多い金を造るには、逆にエネルギーを与えてやらねばならない。これには途方もない高温と高圧が必要で、宇宙のビッグバンでも達成できないと言われている。では何が金を造ったかというと、超新星爆発である。これによってできた金が、金以外の重い元素も、宇宙にバラまかれたらしい。つまり、ジパングの金は宇宙からやってきたわけだ。この辺りのことは宇宙に関する多くの本に記されている。

 

超新星爆発について受け売りを書くと長くなるのでそれはまた別の機会にするとして、太陽より重い恒星の最後である超新星爆発は途方もないエネルギー状態となり、この時に核融合が起こる。エネルギーの99%はニュートリノが持ち出すという。この飛来してきたニュートリノの衝突痕をカミオカンデで掴まえたのがノーベル賞の小柴昌俊氏らのグループである。小柴氏の門下生が昨年ノーベル賞に輝いた梶田隆章氏で、近刊の『ニュートリノで探る宇宙と素粒子』(梶田隆章 平凡社)は大変面白かった。面白いと言っても下記が同書にある梶田さんの学会の発表スライドの一部。
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「フム、ナルホド、そういうことか」と言えたら格好いいのだが、もちろんチンプンカンプン。したがってこの図が面白いわけはない。しかし、同書にある、ニュートリノを巡る謎解きや、ニュートリノがなければ我々は存在しえない、という話は、素人でも十分楽しめる。

 

江戸時代からニュートリノというのもとんでもなく飛躍した話だが、思わぬ形で色々なつながりというか、連想ができる。私など、本を読んで、覚えようとか、理解しなければとか、はたまた教養を高めようとか、そんな殊勝な気持ちはさらさらなく、言わば、書で連想の双六をして遊んでいるようなものだと思っている。普通はもっぱら文庫本だが、梶田さんのハードカバー本は、ノーベル賞へのささやかな御祝儀と思って買った。その価値はあったと思う。そもそもこの手の研究者は印税をほとんど研究費に投入している。みんなで大いに応援したいものだ。応援はともかくとしても、本で遊ぶ双六、それもまた一つの読書の楽しみかただ。

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