« 火山噴火 その2 医師が書いた火山噴火SF小説 | トップページ | 火山噴火 その3 桜島 »

2015年7月15日 (水)

Dr.コトーを訪ねて

久しぶりに下甑島手打診療所の瀬戸上健二郎医師にお会いすることができた。瀬戸上先生には長い間大変お世話になっていて、私淑と言ってよいのだろうか、かねてより深く尊敬申し上げているかただ。私の関係だけで研修医はのべ何十人もここで地域医療を学んでいる。今でも彼、彼女らに会うと、瀬戸上先生への敬慕と、楽しく意義深かった手打診療所での研修を懐かしく語ってくれる。私も下甑島は何度も訪れているが、ここ最近は機会がなく、そのうちにそのうちにと思いつつ、御無沙汰をしていた。そう遠くないうちに現役を退かれるという話をお聞きし、長年の御指導に感謝の意を伝えたく、また、余裕ができた暁には離島医療について思いきり語ってもらう機会を持ちたいと、今回再訪させて頂いた。

 

瀬戸上健二郎という名前ではピンとこなくても、漫画の連載で人気を博し、テレビドラマでも高視聴率となったので、Dr.コトーと言えばほとんどの人が知っている。テレビのロケが沖縄県の与那国島で行われたためか、沖縄の離島が舞台と思っている人が多いが、そうではなく、舞台となったのは鹿児島県の東シナ海沖合に浮かぶ上甑、中甑、下甑からなる甑島列島のうち最も大きく、釣り人の憧れの地、下甑島だ。モデルとなったのが瀬戸上健二郎先生である。漫画やテレビのイメージが強いせいか、瀬戸上先生の写真を学生さんに紹介すると、「本物と違う」と言われたという笑い話もある。下に掲げたのは瀬戸上先生との記念写真。隣にボケ顔の私がいるせいかも知れないが、74歳の今でも、鋭い眼光と精悍な顔貌は初めてお会いした時と全く変わっていない気がする。木版は職員か誰かが作ったらしい。
Photo
漫画の中では、何かのいわくつきで赴任したように描かれているそうだが、実際はそうではない。鹿児島大学第1外科の伝説になるぐらいの手術の名手だった瀬戸上先生は開業を予定していて、土地も確保し医院の設計図までできていたのに、医師不足にあえぐ島から強く請われ、半年間という約束で下甑島に赴任したというのがそもそものいきさつである。以来、あと半年、あと1年の繰り返しで、いつの間にか38年。漫画やテレビでは面白おかしく脚色されているようだが、長い間にはそれ以上のドラマがあり、人に言えない苦労もあったはずだ。医療に完璧はあり得ないので、悪く言われたことだってあるだろう。ちなみに、瀬戸上先生御自身は取材を受けただけで、それらの作品はほとんど見ておられない。もちろん、御本人が「Dr.コトー」と自称したことはない。注目に困惑しつつも、少しでも離島医療のことを知ってもらえれば、という思いはあったかも知れない。

 

「島では安心して死ねない」と島の老人が言っていたという。私はその意味を、医師にもかかれないまま死にたくない、ということだと思っていた。実際はそうではなく、亡くなっても、医師がいなければ診断書も検案書も書いてもらえない、つまり正式に死ぬことができない、書類を書いてもらうには、医師を呼び寄せるか、遺体を一旦島から搬送して陸の医師に確認してもらわねばならない、死ぬのは仕方ないけれど、死後に家族や周囲にそんな迷惑をかけたくないという思いから出た言葉だそうだ。今は変わっているにせよ、当時は人口が数千人いたにも関わらず、それほどまでに深刻な状況であった。

 

「ここでは島全体が病棟のようなものです」とは、今を去ること10数年前に下甑島に赴かせた、今で言う研修医が書いてきたレポートの一節だ。それを読んだ時、「そうか、こまめな在宅医療を展開することができたら、地域を病棟にすることができ、ここではそれが実践されている」ということを思い気づかされた。先取的なひとつのありかたのモデルがこの島にはあった。

 

下甑島に行くには、串木野からフェリーで3時間半、あるいは川内港から高速艇で1時間強、手打に行くには長浜に着いてからさらにまたバスで移動しなければならない。以前は手打港にも着く船便があったが、今は廃止されている。移動時間もさることながら、東シナ海は波が荒く、船がすぐに欠航になるのが問題だ。今回も、着いたのはいいが、帰ることができない、というはめにあやうくなりそうだった。私ごときの往来はダメならダメで予定を変えれば済むことだが、急患が発生した時が問題だ。今では防災ヘリコプターやドクターヘリが使えるが、30年前はそのようなシステムはなかったし、天候が荒れてしまえばヘリコプターも飛ぶに飛べない。手打診療所で腹部手術は言うに及ばず、帝王切開、大腿骨頸部骨折に対して人工骨頭置換までやってしまうようになったのは、それを可能とする力量とこのような状況があったからだ。透析を導入して島の患者さんには随分福音になったようだが、入院患者もいるし、その分、医師はうかうか島外に出ることもできない。行き来が不確定というのは辛く、留守番の医師の確保にも随分と苦労があったようだ。

 

 

  漁船借り冬の荒海渡りけり

    いまわの父に一目会いたく

 

  白き布一枚顔に我が父は

    とわの旅路に立ちし後かな

 

離島にいて親孝行もできないまま、父親のいまわの時にも間に合わなかった悔しさ、悲しさを瀬戸上先生が詠んだ歌である。

 

喜びも、苦しみも、親しい交流のあった島の人達を少しずつ看取っていかねばならない悲しみも、何もかも呑み込んでの38年はやはり重い。自分にはとてもできないと、超人ぶりに改めて思いを馳せた下甑島訪問であった。

« 火山噴火 その2 医師が書いた火山噴火SF小説 | トップページ | 火山噴火 その3 桜島 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事