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2015年4月 6日 (月)

筋肉質の医療提供体制

医療系のサイトを見ていて、「“筋肉質”の医療提供体制を目指せ」という言葉が目にとまった。抽象的、総論的な比喩表現だが、本質を言い当てている。その通りだと思う。これは土居丈朗慶応義塾大学教授のインタビューに出ていた表現だ。土居教授は経済学者で医師ではないが、総合研究開発機構(NIRA)というシンクタンクで医療政策の提言を行ったことが機で医療系サイトのインタビューを受け、その中で語っている。

http://www.m3.com/news/iryoishin/303340

http://www.nira.or.jp/index.html

http://www.nira.or.jp/pdf/opinion14.pdf

 

「節約的な医療費で、こんな少ない負担で、より良い医療を実現しているのに、増税もせず、医療費をさらに削るのは無理」という状態が土居教授の言う「筋肉質の医療提供体制」だ。今はそうなっていない、ということだ。仮に医療関係者が反発を覚えたとしても、群馬大学や千葉県がんセンターの術後死亡の多発を見れば、これで筋肉質の医療だとは言えまい。いくらなんでもあれは異常に集中し過ぎだが、本質的には氷山の一角である。

 

私の親族が、慢性的な痛みが強いということで整形外科の大手術を受けて、術後経過が悪く、痛みが良くなるどころか、大幅な機能低下をきたしたということがあった。当初は本人も家族も良くなることを信じて疑っておらず、私が相談を受けたのは手術の後だった。このようなことが起こる原因は多々あるし、群大や千葉県がんセンターの件も含め、個別の事例がそうかどうかは分からないので論評しにくいのだが、総論として私が確信を以て言えることは、医師の世界には「淘汰の原理」が働きにくい、ありていに言えば、非常に下手くそな、あるいは無謀な外科医でも手術をやっているということだ。患者にはそれがわからない。物腰が柔らかく懇切な説明をしてくれたら、あるいは、ちょっとの時間も惜しそうに多忙にする姿を見れば、「お任せしてよいのではないか」と思うだろう。インフォームドコンセントなる言葉があるが、素人に医療内容まで理解して判断せよというのは土台無理な話だ。この言葉は、知識、経験、技術に裏づけられたプロフェッショナルの倫理観と責任ある意見の提示があってこそだ。現実として「あんな医師が手術をしてはいけない」というのがたくさんあるのである。人間の体にメスを入れるというのは特に重い責務を負っている。上記の例など、麻酔科医などは絶対に疑念を抱いていたはずだ。私の経験からしても、もっと強く止めるべきだった、という忸怩たる思いにかられたこともある。診療科が異なったり、序列が下の医師にはそれがなかなか行いにくい。

 

技術が拙劣、判断が悪い、トラブルが多い、チーム医療ができない、上級管理職になってからの私の医師人生の少なくとも半分は、そのような医師に手術、あるいは高度な技術を要する処置をやらせないための闘いに明け暮れたような気がする。医療にリスクはつきものなので、医療界でそのようなことを言うと「自分だけ格好つけて」と非難されてしまうが、私自身は短期間外科に携わって、手術の上手な医師を見て、とても自分にはあのような才はない、と早々に見切りをつけ、自分で可能なところでやってきたつもりだし、管理職になってからは、それが職責だと臆することなく対応しようとした。それで随分恨みを買っただろうと思う。その分、自らの職位にしがみつくようなことはしなかった。なお、救急医療に従事、あるいは整備に尽力したのは、急に症状が発現した患者に対応するのは疑いもなく最も重要な責務のひとつだと思っていたからである。

 

それで、筋肉質の医療体制にするためには、どうしたらいいか、が問題となる。考察を展開すれば、安く効率的という面で全くインセンティヴが働かない日本の医療制度の負の面にまで論及する必要があり、相当な時間を費やさないとただ単に冗長な話になってしまうのでここではしない。

 

総論的な要約としては、医療側が自浄力を働かせていくこと、医療機関がそれぞれ担うべき機能を明確化し、高度な診療を担う施設は集約化し、特に外科系に関しては淘汰の原理を働かせる中で高度な技術を有するスーパーエリートを育成してしかるべき待遇を与える、医師至上主義を排し良質なチーム医療体制を構築する、ということになると思う。なぜそれが容易にできないかということも含め、各論的なことについてはまたそれぞれ触れていきたいと考えている。

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