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2014年10月 6日 (月)

不確定性原理

革命期の混沌は、まさに因果律に慎重なメスを入れることで一条の光を導き入れた。それでは物理学はいかにして原因と結果の間につながる絆を断ち切ったか・・・・・この本はそのいきさつを書いたものである。ラプラスの悪魔へのチャレンジの記録だと思っていただいていい。悪魔へ真っ向から斬り込んだのは若き日のハイゼンベルグであり、悪魔に致命傷を負わせた武器を、不確定性原理という

 

読めもしない本を買い込んで積ん読のままにして、限られた小遣いの範囲とはいえ、我ながら随分無駄をするものだと、半ば自虐的にあきれたりもする。だが、こういう文章を目にすると、そういうのは全て吹っ飛んで、「これだから乱読はやめられない」と嬉しくなってしまう。

 

この一節は、『不確定性原理 ~運命への挑戦~』(都筑卓司 講談社ブルーバックス)にあったものだ。宇宙論や量子論をつらづら見ていると、この「不確定性原理」なるものをいやでも目にすることになる。量子、すなわち超ミクロの世界での粒子は、その位置を確定させようとすれば運動量が不確定となり、逆もしかり。両者を同時には決めることができず確率でしか語れないという。それを少しは理解したいとこの書を買った。それで、理解できたかというと・・・・サッパリわからない。少々ハッタリをかまして大いに見栄を張ったとしても「なかなか難しいですね」ともったいぶって言うのが精いっぱいだ。

それもそのはずで、かのアインシュタイン(18791955)ですら、この不確定性原理に対して否定的、あるいは、何か論理に欠陥があるのではないか、という見方を終生持っていたという。その時の「神はサイコロを振らない」、つまり、確率などではなく事象は厳格な物理法則の因果律でとらえなければならない、という彼の言葉はその世界では非常に有名である。それに対して、不確定性原理を肯定する立場のボーア(18851962)は、「神はサイコロが好きかも知れないよ」とやりかえしたと言われている。

 

冒頭の言葉に戻ろう。「ラプラスの悪魔」とは、ラプラス(17491827)という物理学者が、全ての物質は基本粒子に分解することができ、いかに膨大になったとしても、その粒子のふるまいを分析すれば、因果律として次に起こることは必ず予見できるはずだ、と主張したことを言う。例え理論上のことであっても、個々人の運命が全て予見されるとすれば気持ち悪いことこの上ないわけで、それを悪魔の仕業と呼んだのである。対して、理論上においてもそのようなことはあり得ない、と不確定性原理を提唱したのがドイツの物理学者ハイゼンベルグ(19011976)である。これをして「悪魔に致命傷を負わせた」と都筑卓司氏(19282002)は表現したのである。写真はハイゼンベルグ。

Heisenberg_14


ここで不確定性原理をわかりやすく説明できたらまことに格好いいのだが、そもそも理解できていないのでその能力は私にはない。試みたとしてもどうせ受け売りの引用の羅列になるだけのことだ。いずれにしても、超ミクロの世界の粒子は、光の粒すなわち光子も、電子もそうだが、粒としての性質と波としての性質を持ち、質量がなかったり大きさが規定できなかったりの超ミクロであることとあわせ、その二面性が事をややこしくしている。

そのことを「ルビンの壺」に例えた解説が『量Yjimage2子の逆説』(細谷暁夫編 別冊日経サイエンス)にあった。要するに、この図を壺と認識すれば壺だし、向き合った人の顔と認識すればそうであるけれども、我々はその二つを同時に認識することはできない、ということだ。理解できたわけではないが、この説明にはいたく感じいった。実のところ、不確定性原理はマクロの世界でも成立するそうだが、マクロでは不確定部分があまりにも小さくなってさしたる意義を持たないという。

 

 

量子の世界は我々の直感というか常識でとらえられないものが非常に多い。これまた我々にはサッパリ理解できないアインシュタインの相対性理論ですら、量子力学から見れば古典的物理学である。量子コンピューターなど、科学への応用は色々試みられてはいるけれども、まだまだこれからというところだろう。不確定性原理の考え方も変遷している。

 

理解していないものを話題に取り上げてはなはだおこがましいが、不確定性原理は、我々が全く想像もできない、もちろん予見もできない、という世界があるのだ、ということを教えてくれることは確かである。これだけ科学が進歩したようで、自然の摂理を全て解明するメドは全くない。

 

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