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2014年10月22日 (水)

『近藤先生、「がんは放置」で本当にいいんですか?』その1

Photo_2Q&Aで構成されているためか、少々長ったらしい書名だ。これは「がんは放置」した方がよいと“常識”に反して少々過激な論陣を張っている元慶応大学医学部放射線科講師の近藤誠さんの近刊である(光文社新書 2014920日初版)。

 

近藤さんの専門的医学論文はいざ知らず、一般向けの書にはたいてい目を通してきたつもりだが、書棚のどこにおいたか分からなくなったし、探して引っ張り出して逐一引用していくのも面倒。まずは手許にある本書を題材に取り上げて感想を書いてみたい。我が習性として、あちこち横道にそれて長くなるので、他の話題もはさみ、飛び飛びで何回かに分けてアップしようと考えている。

 

最近はインターネットの普及とともに、一般人の医療知識が非常に豊富になっている。特に自ら患った、あるいは近しい身内が罹患した疾患など、それを専門としない医師よりよほど詳しい場合もある。それに関して早速横道にそれて、本稿でちょっと長い前置きをしておきたい。

 

41sa3zaekcl__aa160_ずっと以前に、鋭い論評で鳴る立花隆さんの『脳死』(中央公論社 1986年)を読んで、医師でなくともこれほど徹底的に調べ上げれば我々よりはるかに詳しくなる、といたく感心した。私自身、この書で学ばせてもらったことも多くある。そのひとつは、脳死になればなぜ多臓器不全となって早晩に心停止に至るのか、という疑問を立花氏が抱き、心臓生理学者のもとを訪ねて話を聞いたくだりである。これは、脳死状態の患者に少なからず接し、事実としてそれが起こることを知っていた医師として、かねてから抱いていた疑問でもあった。知る限りではその理由について当時の医学書には記されていなかった。

 

溺水や縊頚(いわゆる首つり)などの患者は心肺停止で病院に搬送されても、他に心停止になる原因がないので、発見が早い場合は、心マッサージや人工呼吸、薬物への反応がよく、心拍が再開して血圧も回復するということがよくある。ただ、心臓は強くても脳は非常に弱く、ほとんどの場合、現場で数分以上酸素供給が途絶えて脳が不可逆的な障害を受けている。心拍が再開しても、意識はないけれども自発呼吸は回復するといういわゆる植物状態で推移する場合もあるが、自発呼吸もなく脳神経の反射も全て消失してしまう脳死状態になることが多い。「状態」と表現しているのは、私が直接の担当医として最前線にいた頃は脳死移植が制度化されておらず、そうだと思っても厳密に脳死の診断をすることはまずなかったからである。この点も立花氏は、「救急医は脳死状態の患者はいずれ心停止に至ることを体験的に知っているのであえて診断しようとはしない」と喝破している。まさしくその通りだ。抗利尿ホルモンを投与すればやや長くなるが、脳死の患者は心臓や血圧が最大限にいい状態であっても、次第に黄疸が出たり腎不全になったりで、概ね、2週間前後で心停止になってしまう。意識も自発呼吸もなく人工呼吸を施行されていても、当初は傍目には肌もつややかでいかにも今にも目を覚ましそうな錯覚に陥るぐらいなので、御家族の心情を思えば、あってよい受容の期間だとも言える。次第に生気を失っていくのだが、すがるような御家族の言葉に、「何とかなるものなら私だって何とかしてあげたい」と心の中で何度つぶやいたかわからない。なお、脳死移植の場合、この臓器不全が起こる前に臓器摘出をしなければならない。移植が前提の場合は、脳死は個体の死とみなされる。脳死判定の手順が非常に厳格になっているゆえんである。

 血圧も維持され、人工呼吸で酸素も供給されているのに、また、もともと臓器に疾病があるわけではないのに、脳死の患者はなぜ肝不全や腎不全、そして心停止に至るのか。この疑問に対して、医師でもあるその生理学者は、「これは私の推論ですが、人間の血液というのは基本的に不足状態にあり、その時に必要でないところには流量を少なくして、必要なところに多く流す、という微妙なコントロールを脳がしているのではないかと思います。その機能が失われた時には、全体的に不足状態が続いて次第にどの臓器も血液不足で機能不全になっていくのではないでしょうか」というような説明をしたと立花氏が書いていた。ナルホド、そういうことなのかと、ストンと腹入りがしたものだ。血液が不足状態にあるというのは理にかなっている。血液が多いと心臓もより強く大きくなる必要があり、血管も太くせねばならない。体重も増えるだろう。しかしそれではかえって体の負担が増える。そうならない丁度いいところでスリムに調整されているわけである。

 随分長い前置きというか、前置きだけの稿になってしまったが、ここで私が言いたかったのは、これほど鋭い立花氏であっても、彼の脳死論になにかしら異和感を覚えたということである。立花氏は、知識としてはわかっていても、万が一には意識を取り戻す場合もあるのではないか、という思いが感情として拭いきれなかったのではないだろうか。だが、脳死状態になれば万が一にもそれはない。百歩譲って表現したとして、全身にがんが転移して余命数日という末期患者のがんがあっという間に全て消失して再び元気になる、という可能性よりもはるかに低いと思う。それに、恥ずかしいことかも知れないが、医学の限界もあり、臨床医学は立花氏ほどの緻密な論理では動いていない。そうでなければ今さら近藤氏のような主張が出てくるはずがない。

 「生の現場で実際に経験してみないとわからない」というのは身もふたもない言い方で、それはそれで独善と傲慢に陥る危険性を包含しているが、知識だけの学びには限界があり、医療は実践を伴うだけに、一面の真実ではあると思う。癌への関心は非常に高く、近藤氏の著書は広く読まれている。生の臨床の現場にいた私がどう受けとめたか、しばし綴ってみる。

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