« 帯状疱疹 | トップページ | 落ち込んだ時には »

2014年8月21日 (木)

北海道せたな町

北海道せたな町を訪れることができた。目的は、荻野吟子ゆかりの地に実際に足を運んでみたかったのと、その資料がある郷土館の見学だ。

 荻野吟子は近代日本において国家資格としての医師免許(当時は医術開業免許)を取得した最初の女性医師である。明治18年のことであった。その苦難の歩みや活動については、ネットを見る人であればちょっと検索すれば膨大な関連記事が出てくるので、ここでは触れない。なお、彼女の伝記的小説として整形外科医から作家に転じた渡辺淳一さんの作品『花埋み』(新潮文庫)が名高い。荻野吟子の出生地である埼玉県熊谷市俵瀬には記念館があり、バスに揺られ炎暑の利根川の土手をテクテク歩いて訪れたことがある。ここも結構遠く感じられたが、北海道のせたな町といえば、東京から離れてという意味ではそれどころではない。

 私は千歳から移動したのだが、今でもせたな町は遠い。長万部まで特急でも2時間弱を要し、長万部からせたな町にはバスで1時間40分ぐらいかかる。長万部というと有名な地名なので結構賑やかなところかと思いきや、私が着いた夜には既に駅員すら引き払っていて、駅前は薄暗く閑散としていた。瀬棚はその反対側の日本海側に位置する。荻野吟子が明治18年に本郷に開業した盛業の医院をたたんで、鉄道と船を乗り継いでやや夢想家的なところのある夫、志方之善の待つ今のせたな町、あるいは今金に移住したのは明治27年のことだから、その決意と困難は想像に難くない。渡辺淳一氏はそんな一面を持つからこそ荻野吟子を書きたいと思ったと書いておられる。もっとも、当時の瀬棚は鰊が豊漁でかなり賑わっていたという。今金は原生林の荒野だったようだが、今はなだらかな美しい緑の丘陵が続いていて、男爵芋の名産地となっている。

Dsc03625_2


せたな町には荻野吟子の顕彰碑が建立されている。








資料館には、荻野吟子が書きとめて残っている数少ない文書類が、有難いことに崩し文字から活字に変換されてファイルされていて、そのひとつに次のようなものがあった。


Dsc03623_3

欠落した文字があり判然としないところもあるが、これを見ると、歴史に強い関心があり、西郷隆盛が征韓論者ではなかったということを把握していたようで興味深い。荻野吟子は今のお茶の水女子大の第一期生にあたり、その意味でも当時として第一級の女性知識人だったのだろう。なお、資料のひとつに志方吟子と署名しているものがあり、一般的には荻野吟子と称されているが、本人は再婚した志方之善の姓を用いていたことがわかる。戸籍上の記載はギンである。こうったことはいわば瑣末なことだろうから、二次資料にはあまりなく、原資料に近いものを見るに限る。こういうささいな喜びが“読み書きフリーク”たるゆえんである。



Ogino_3
荻野吟子は夫の死後も瀬棚に住み続けた。どんな思いが去来していたのだろうか。衰弱を自覚してからか、明治
41年に瀬棚を去って帰京し大正2年に62歳で病没した。写真は晩年のものと思われる。若い時の美貌と知性あふれる容姿もさることながら、この凛とした顔貌も印象的である。




 今の時代、女子医学生は35割を占める。その先達として、また、女性として、利得のないダイナミックな人生を歩んだ荻野吟子に、時に思いを馳せてみたいものである。

« 帯状疱疹 | トップページ | 落ち込んだ時には »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事