2018年8月10日 (金)

ハイブリッド老婆

キラキラネームもシワシワネームも面白い造語だと思ったが、こういうのは次から次へと出てくるようだ。

 

ハイブリッド老婆

文春オンラインで、「ハイブリッド老婆」という言葉を見て、思わず吹き出した。なんでも、気力、体力、財力が充実した老年の女性を称してのことらしい。エンジンのパワーとモーターのドライブでパワフルに動き回るということだろうか。燃費がいいということにかけて“そのくせ案外ケチ”というのを言外に匂わせている

大変結構なことだと思う一方、こういう人が身近にいて、あれこれ干渉してきたらさぞうっとうしいに違いない。人生の成功体験を鎧のように身にまとって、上から目線で説教されたのではたまらない。

記事は実母がモデルだったが、嫁にとって義母がそうだった場合の苦悩は想像するにあまりある。ハイブリッド老婆は、多分、正論が必ずしも好論でないということを悟っていない。現役世代はそれぞれに事情を持っているのだ。

誰が作った言葉かは知らないが、こういう造語は川柳をうんと短くしたような趣がある。

 

ステルス作戦

いつから使われるようになったのか、新潟の県知事選挙でクローズアップされた言葉だ。背後にいる政党は表に出ないで戦う選挙のことらしい。なるほど。ただ、それで選挙民にバレないかというと、たいていはバレバレで、ステルス性能は低い。

そんなことよりも、立候補者の性格や日常の言動、過去のスキャンダル歴などがステルスになっていることが問題だ。だから当選後に本性が出て、暴言失言、不適切なふるまいなどの“あきれキャラ”が後を絶たない。

ではどうしたらいいかというと、これは難問だ。選挙前の悪口はメディアへのないものねだりだからだ。その一方、メディアは発言の一端をとらえて針小棒大に“暴言”に仕立てあげる傾向がある。

 

走るシーラカンス

若い人は御存知ないだろうけれども、昔、三菱デボネアという主として黒塗りの高級車があった。一般には全く売れず、三菱系の会社の重役専用車とも言われた。

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レトロな角ばった姿かたちを長く変えなかったため、「走るシーラカンス」と揶揄されている。さすがに今はモデルチェンジをしているらしい。

 

ヘリコプター・ペアレント

これは、我が子のことが心配で、学校でもどこでもまるでヘリコプターがホバリング(空中停止)するかのように子供につきまとう親のことを言うらしい。気持ちはわからぬでもないが、子供にとってはさぞ迷惑なことだろう。語呂が悪いのでこの言葉は多分定着しないだろうけど、面白い表現だ。

ドクターヘリ事業に携わっていた関係から、ヘリコプターについては無駄に詳しいが、手動の場合は風を読みながら両手両足で操縦しなければならないので、ホバリングをピタッと決めるというのは結構難しい。失速の危険性もある。

ヘリコプターに関してはコンピューターによる自動のホバリング装置があるが、こと対子供関係ではオートというわけにはいくまい。つかず離れず、適正な距離感というのは人間が営みを続ける限り永遠の命題だ。

 

日傘男子

日傘というと女性専用の感があったが、日焼けを嫌って日傘をさす男性が増えて、これを日傘男子と呼ぶらしい。遮るもののないゴルフ場では日傘をさしている人も少なくない。写真は日傘男子、と言いたいが、男子という表現には躊躇するとっくに還暦を過ぎた単なるオッサン。我がよきライバル。

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私に関しては面倒なので日傘を使ったことはない。だからすっかり日焼けしてしまった。サウナで鍛えているから暑さには強いとうそぶいてはいるものの、暑いのは暑い。そうボヤいていたら、75歳の同伴者が、「暑いの寒いのと言っていたらゴルフなんぞやってはおれない」と。ご説ごもっとも。

今どきの後期高齢者は何とも元気で、敬服のほかない。もちろん、病に伏して施設や療養型の病院にいる人も、物故者もいるわけだが、何がこの運命を分けるのか、謎である。節制だとはとうてい思えない。健康ヲタクだったらこんなカンカン照りの猛暑日にゴルフなどやるはずがない。ついでに書けば、猛暑∽熱中症というパターンが定着したようだが、その傾向はあるにせよ、この病態はそれほど単純なものではない。

 

ここであげたのは一部だが、新しい造語は多くある。棄たれるもの、長く残るもの、傑作、駄作と色々だろうが、川柳感覚で楽しめる気がする。

2018年8月 2日 (木)

西郷隆盛 その16 長州

元治元年718日(1864819日)の「蛤御門の変」あるいは「禁門の変」で禁裏御所に向けて砲撃したという咎で、長州征討の勅が出て、禁裏御所総督の徳川慶喜が中心となった幕府は諸藩を動員して準備を行う。将軍の進発が予定され、征長総督として前尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)が任じられるが、慶勝は当初は辞退していた。朝廷はさかんに催促するが、そもそも幕府も諸藩もあまりその気がない。朝廷内部や大名、京の庶民にも長州シンパが少なからずいるし、戦争などやりたいわけではなく、この頃はどの藩も財政難にあえいでいたからなおさらである。だから準備に随分もたもたして、とりあえず形ができたのは元治元年11月になった頃であった。

 

長州はというと、「蛤御門の変」後1ヶ月も経たない元治元年85日、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国が海から下関に攻撃をかけて上陸し砲台を占拠されるという事態に陥っていた。これは前年510日に長州が攘夷実行の証としてアメリカ商船を砲撃したことの報復というよりも、関門海峡封鎖に対するものであった。写真は空から見た今の関門海峡(Wikipediaより)。

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この海峡は幅1㎞もないが、九州と本州を結ぶ海上交通の要衝であり、関門トンネルも関門大橋もない時代、いかに陸路を最大限に活用したとしても、ここだけは船を使うほかなく、航行の妨害によって交易に大きな支障が出ていたのである。他のことで外国の足並みが揃っていたわけではないが、関門海峡は共通の利害の要であった。実のところ、長州は伊藤博文を使者として直前に封鎖解除を条件に攻撃猶予の交渉をしようとして、ほとんど行き違いで間に合わなかったといういきさつがあるようだ。

 

当時の長州の藩主は毛利敬親(たかちか)であったが、彼は第12代将軍徳川家慶から「慶」の字を下賜され、それまでの教明から慶親(よしちか)と改名していた。敬親にしたのは元治元年114日である。

 

長州藩は1849年イギリス艦マリーナ号が江戸湾に侵入して測量をした際、いち早く駆け付けたことが高く評価され、ペリー来航の頃には三浦半島の警備を命じられている。その後、兵庫港の警備の任にもあたっている。ちなみに、下田に入港したマリーナ号への退去交渉は、例の日本で最初にパンを作った伊豆韮山の代官江川英龍が担ったという。勝海舟は英龍をなかなかの人物であったとのべている。パンだけではなかったわけだ。

 

毛利家は遠く遡れば天皇家の流れをくむともいわれている。その分、尊皇意識が強く、朝廷が困窮していた江戸時代、長州は白金などを献上し経済的な支援を継続していた。幕府は外様大名と朝廷との直接接触を禁じていたが、黙認かどうか、長州だけはこのように直接的な交流があった。孝明天皇側近の女官が天皇の意を受けて「女房奏書」として謝意の和歌を毛利敬親に贈った資料が今も残されている。学習院において、木戸孝允、久坂玄瑞、高杉晋作、木島又兵衛達が日常に公家達と交流していた時期もある。

 

ちなみに、藩主でなかった島津久光を別とすれば、幕末に幕府中枢の役職にない外様大名が孝明天皇に参内したのは毛利敬親がトップバッターである。本来これは御法度で、幕府には無断であったが、それだけ重きをなしていたとも、幕府の力がそこまで衰退していたとも言える。

 

そのように考えてみると、長州は一貫して尊皇であり、幕府に対しても忠を尽くしている。西洋に目を向け、藩士を海外に派遣し、反射炉の試作までしているわけだから、内心がどうだったかはわからないが、朝廷への姿勢としてはあくまで攘夷である。長井雅楽(うた)の「航海遠略策」を藩論にしていた時期もあったが、「航海遠略策」は開国して国力をつけ、しかるのちに攘夷、という点ではタテマエとしては攘夷論である。長井が切腹に追い込まれたのは、その反対派の動きと、文言に朝廷を貶めるかのような表現があるとの難癖をつけられた「謗詞(ぼうし)事件」によるものである。

 

「攘夷」と言っても、すぐに闘いをして追い払うという非現実的な即今攘夷の過激論から婉曲な攘夷まで、実のところ内容は幅が広い。孝明天皇はというと、頑迷な攘夷であっても、決して過激な攘夷ではなかった。無理筋の話で、これも攘夷を巡って百家争鳴を招いた一因である。孝明天皇については、自ら、あるいは天皇家の安泰と、京の平穏が第一義であったと考えておけば理解しやすい。

 

幕府は開国して諸外国との和親に踏み切ったが、そもそも外国船は迷惑以外の何物でもなかった。その意味では攘夷だが、それが不可能であることをはっきり悟り、ならばいいものは大いに取り入れようと積極策を打ち出したわけである。少なくとも後顧的に見れば、対外政策としては幕末の江戸幕閣が一番まともで現実的であった。その点においては幕府を倒す必要性は全くなかったのである。

 

前置きが随分長くなってしまった。要は、長州征伐にどれほどの大義名分があって誰が何の得をするのか全く見えなくなったのである。長州藩にとっては、敵はあくまで会津藩であって、朝廷を毀損する意図は全くなく、「冤罪」にほかならなかった。その言葉は薩長同盟の際の木戸孝允の一文に出ている。

 

結論的に言えば、その収拾を西郷隆盛がつけた。彼は長州の藩論が分裂していると見抜き、恭順している者まで罰すべきではなく、今は内乱をしている場合ではないと、ほとんど単身で長州の毛利藩につながる岩国藩に乗り込んで、114日(1864122日)吉川経幹(きっかわつねまさ)と談判し、「禁門の変」で兵を率いていた家老3人を切腹させ、何人かの長州藩士の処刑・処罰をすることで事態を打開させる。こういうのが西郷の真骨頂で、“戦好き”と自称しているものの、戦は好きでもなければ得意でもない。切腹や処刑が西郷の本意であったかどうかはわからない。そうだとしても、多分、強硬論を背にしてやむにやまれぬことだったと思う。この時に高杉晋作の処刑も検討されたことが最近の研究で判明している。形としては長州藩の(不本意な)自発的な謝罪である。もしかしたら慶親から敬親への改名もこれに関係しているかも知れない。

 

長州藩主の毛利敬親は、家臣の提言に「そうせい」とよく言ったそうで「そうせい候」と揶揄されていて、いかにも暗愚のようだが、実は賢候であった。

Photo_2 洪水に悩まされた萩において、藩士から提言をつのり、運河を造ることで洪水被害を激減させている。実践的な軍事教練なども行っている。厳しい財政事情の中で倹約に務める一方、教育に力を注ぎ、藩校の明倫館を移設拡充している。飢饉などで民が困窮している時は米を放出してその救済にあたったという。また、身分にこだわらず能力のある者を登用した人でもあった。伊藤博文はもともと周防の農民の出であるが、萩の武士の養子となり、毀誉褒貶があるにせよ、幕末は敏く小走りに動き回り、明治になってからは大物として活躍している。戦略家として優れた能力を発揮した大村益次郎も医家ではあっても武士ではなかった。

 

長州のそもそもの本拠地は萩城なのだが、海に面し地理的に偏した萩では防御や命令の伝達に支障があるということで、敬親は拠点を今の山口市に移している。おそらく、家老の切腹には断腸の思いがあっただろう。明治4年に52歳でこの地で逝去した。

 

この年に限らず、この頃のことを時系列で端的に把握していくのは非常に難しい。というのは、朝廷内部、一会桑、江戸幕府などなど、同時並行的に色々複雑な動きがあるからである。

2018年7月24日 (火)

西郷隆盛 その15 蛤御門の変

豪雨による大災害のあとは一転してカラカラの猛暑だ。723日は埼玉県熊谷市で観測史上最高の41.1度を記録したという。

Top http://portal.nifty.com/kiji/180723203481_1.htm

 

かなり前のこと、日本で最初に正式な女医となった荻野吟子(18511913)の記念館を熊谷市に訪ねて、酷暑の中、大汗をかきながら利根川沿いの堤防をテクテク歩いたことを思い出す。随分暑いところだとは思ったが、今にして思うに、記録ホルダーになるぐらいの地域だったわけだ。

 

北海道せたな町の郷土資料館にも荻野吟子ゆかりの品がおかれている。この時は、帯状疱疹に罹患して痛む脚をひきずりながら、ヨタヨタと歩く情けない状況であったが、それだけに、この偉大なる先駆者の辛苦を偲ぶところ多々であった。

 

郷土資料館で見た荻野吟子が書き残した資料のひとつに、勝海舟を引用して西郷隆盛に触れている一節に目が止まった。明治維新の時に17歳ぐらいだった荻野吟子は、その後の勉学によってか、西郷隆盛の真意が征韓でなかったことを見抜いていたようだ。不思議なつながりである。

 

夏の京都が暑いことはよく知られている。150年以上も前の夏の京都はやはり暑かったのだろうか。実際の天候がどうだったかは私にはわからないが、元治元年718日(1864819日)の京都は炎による猛暑に包まれていた。「蛤御門の変」に続発した「どんどん焼け」とも言われる大火である。京都中心部約5万戸のうち27千戸が焼失し、火事による死傷者は千名を超えたという。

 

どうしてそんなことになったのか。その伏線は長州が京から放逐された前年の「八月十八日の政変」と元治元年65日(186478日)に起こった池田屋事件にある。

 

池田屋事件というのは、京都守護職の会津松平容保とその配下の新選組が、探索により、過激攘夷の志士が京都で大動乱を画策し、その会合を池田屋で行っているとの情報を得て、襲撃した事件である。池田屋での会合では、梅田雲浜の弟子で、武器商人となっていて新選組に拉致された古高俊太郎の奪還と、前年の「八月十八日の政変」で長州放逐の立役者と見られていた朝彦親王を襲うことが相談されていたという。池田屋にいたのは主に土佐藩士で、ほか熊本藩士など、長州藩士はむしろ少ない。池田屋か、少なくとも近くにはいた長州の桂小五郎(木戸孝允)は、からくも脱出している。

 

新選組による襲撃と聞くと、凄惨な状況を想起するが、手薄な体制で突入したこともあって、死者が出たのはむしろ新選組の方で、池田屋で殺害された志士はおらず、周囲で厳戒態勢をとった会津藩兵や桑名藩兵によって殺傷されたと言われている。

 

京都守護職の会津藩配下にあって京都の治安維持にあたったのは見廻り組と新選組とされている。身分が異なることもあって厳密ではないにせよ両者は担当地域が分かれていたようだ。以前にも触れたように、坂本龍馬を暗殺したのは見廻り組である。

 

この頃の京は、会津藩士が殺害されたりして、松平容保は長州を憎み、長州も会津を目の敵にするなど、双方が疑心暗鬼となっていた感がある。国元や江戸詰めの家老などは、藩主に京都守護職を辞して物騒な京を離れるように促していた。容保は在京中病気で引きこもりがちだったと言われており、その分、手足となって動く公用方の権勢が強くなり、会津藩内で軋轢を生じていた面もあったという。ただし、松平容保は対長州では一貫して強硬論だったようだ。

 

孝明天皇の信が篤かった松平容保がその後朝敵とされてしまい、朝敵として討伐の対象にまでなった長州が権力を握ることになるわけだから、これひとつとっても、明治維新が謀略の政治クーデターであったことに疑いの余地はない。長州は二転三転して存続を図っているが、会津は不器用に忠を貫いたとも言える。もっともこれは武家の話であっていずこも一般大衆はおきざりである。

 

「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」とも称されているが、それが起こるまでは、西郷隆盛は会津と長州、どちらにも与せず静観を決め込んでいたようである。ところが、「八月十八日の政変」で京を放逐されたことの挽回策として、家老と兵を上洛させて親長州の公家を通じて復権を得ようとしていた長州に、池田屋事件の報が入り、藩内の慎重派もおさえがきかなくなる。

 

長州とすれば、孝明天皇の攘夷に忠実で、朝廷の長州支持も少なくなく、幕府が約束した通りに外国船打ち払い行動を起こしたわけだから、納得がいかない面が多かったのだろう。しかし、兵を京都に入れてしまったら、偶発であれ必然であれ、武力衝突は時間の問題であった。西郷も、戦闘になることを想定して藩に要請し薩摩兵を入洛させる。

 

京都御所はかなり広大で複雑な構造である。単純に言えば、天皇の住居は禁裏御所と称されて6つの門に囲まれており、その外側に公家屋敷が立ち並ぶ。こちらも囲まれており9の門がある。「八月十八日の政変」の場となったのは外側の堺町御門である。蛤御門も外側なのだが、禁裏御所に非常に近いところに位置している。ここに長州兵が押し寄せ、警護の会津藩兵と桑名藩兵と武力衝突が起こるわけである。

 

長州が優勢、という情報に接し、西郷隆盛率いる薩摩兵が応援に駆け付け、西郷も負傷したものの、その奮闘によって長州は散り散りになって敗退するはめとなる。この時に京都を焼き尽くすかのような火災が起こっている。これが「蛤御門の変」で、長州は禁裏の方向に砲撃したことを難癖的に咎められ、朝敵とされ、征伐の対象となったわけである。さらに、逃散する長州兵に会津兵が残虐行為を働いたということで長州の会津への怨念が深まる。

 

長州に怒り心頭だった西郷が勧められて勝海舟と会うのは元治元年911日(18641011日)、大坂(大阪)でのことである。勝海舟の話に感激屋の西郷は魅せられ目を見開かされたようで、有名な「惚れ申し候」はこの時のことである。

 

その後、期してか期せずしてか、西郷隆盛は対長州で奮闘することとなる。

2018年7月12日 (木)

読み間違い雑感

サッカーの本田圭祐選手が、「清々しい(すがすがしい)」を「きよきよしい」と言い間違えたことが話題になっていた。(画像はWikipediaより)

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まあ、本人は赤面の思いだっただろうし、彼本来のカッコよさとは縁遠い話だが、「すがすがしい」という言葉を知らぬわけはあるまい。ついうっかり字面をそのまま読んでしまっただけのことだろう。クスッと笑ってそれで御仕舞にすればいい。

 

それにしても、外国は強い。欧州で活躍する選手も多い日本サッカーが相当に高レベルになってもこれだ。江戸時代は鎖国で独自の文化を発展させたと言えば聞こえがいいし、それはそれで事実でもあるが、引きこもって世界の田舎になっていただけとも言える。「攘夷」などできもしない相談で、幕末日本が外国に太刀打ちできなかったのは当然だろう。外国の凄さはその精神力だと思っている。日本に2点先行されながら3点を奪取して大逆転をしたベルギーには驚嘆してしまう。日本の方が格下とはいえ、技量的にはそんな大逆転をあっさり許してしまうほどの差はあるまい。

 

菅官房長官が枚方市を「まいかたし」と読んだらしい。「ひらかたし」だから、政権の中枢として随分恥ずかしい話だ、と大仰にあげつらいたいが、実は私自身、「ひらかた」と読むのは長い間知らず、知ったのはそう遠い話ではない。大阪にあまり縁がないと意外に知らない、あるいは、読みになじみがないのではなかろうか。

 

今回の豪雨は全くひどいものだったが、これは重い話なのでとりあえずおき、被災地域に、宍粟市があった。私は昨年に当地に行くまで「あなぐり」とばかり思い込んでいた。道路標識のローマ字で、「ん?」となって、「しそう」と読むというのを初めて知った。「栗(くり)」に似ているが、よく見れば「粟(あわ)」である。と言っても、 “あなあわ”と読むのではなく、あくまで「しそう」である。それに、勝手に思い込んでいただけのことで、「宍」は「穴」ではない。

 

宍粟市から養父市(やぶし)、但馬を通って日本海に抜けた時、「間人」という地名に目を白黒させた。はて、と思ったら、これは「たいざ」と読む。北海道や沖縄の地名が読みにくいのはよく知られているが、日本列島を旅してみて、本州も決して少なくないことを知った。

 

言い間違えは洋の東西を問わずあるようで、アメリカ大統領に関する報道をしていたアメリカ人記者が、「presidency(大統領職)」を「pregnancy(妊娠)」と言い間違えてニュース取り上げられたことがある。何を考えていたのかと視聴者は大爆笑したに違いない。

 

他人のことは言えない。私の失敗談は数々あるが、結婚式のスピーチでこともあろうに新郎の名前を間違えたことがある。看護学校の講義で、ウケ狙いでAKB48を出し、「AKBよんじゅうはち」と言ってしまった。後になってフォーティーエイトだと知った。こういう間違いをするのでは完璧にオッサンだ。ともに場の空気を固めてしまう大恥をかき、以来、かなり慎重になった。

 

キラキラネームもそうだが、人名などの固有名詞は難しい。西郷ゆかりの幕末薩摩の人名で言えば、島津下総は「しもうさ」なのか「しもふさ」と読むのか、どちらの解釈もあるようだ。赤山靱負は知らなければ「ゆきえ」とはまず読めないだろう。桂久武はさすがに素直に読める。が、この3人が実の兄弟だというのは名前からは絶対にわからない。

 

江戸時代は独特の家督制度があり、幼名、諱(いみな)、号、別名、変名などがあり、しかもそれらが変わったりしているから余計ややこしい。隆盛の名は明治になってからだし、利通も幕末ギリギリからだ。厳密を期せば語るに逐一注釈をしなければならないが、とてもそんなことはできない。

 

ちなみに、大久保利通は島津久光から名前を与えられてより大久保一蔵と名乗っていたが、大久保一翁と紛らわしい。一翁は、徳川幕府の要職にあり、勝海舟を引き立て、幕末、明治において多くの人の尊敬を集めたという。明治になってからも留守政府首班の西郷が彼の出仕を仰いだほどの大人物である。

 

気楽な話にと気楽に書き出して、結局こんな締めになってしまった。これも連想綴りが好きな生来の性(さが)のなせることと、お許し頂きたい。

2018年7月 6日 (金)

西郷隆盛 その14 京の情勢

その13で記したように、西郷は文治元年2月末(18643月末)に鹿児島に戻る。斉彬の墓参をして、島流しの疲れを癒す間もなく、久光の呼び出しを受け、元治元年314日(1864419日)に京都に着く。入れ替わりというわけでもなかろうが、国是会議というか、参予体制が瓦解して失意の久光は元治元年418日(1864523日)に西郷と小松帯刀を残して京を離れ、大久保利通を同行して帰薩している。

 

水戸藩の権力闘争から生まれた尊皇攘夷の過激集団(天狗党)が筑波山で挙兵し、京を目指して西上するのが元治元年327日(186452日)である。既に記したように、敦賀で阻止され、投降したにも関わらず苛酷な処罰を受ける。
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この手の錦絵はお咎めにヒヤヒヤしながら大仰に描かれ、幕末から明治にかけて庶民の娯楽的情報源になったようだ。想像で描かれたせいか、とうてい似ているとは思えない姿で西郷隆盛も多くネタになっている。錦絵から幕末維新を読み解いた書もあり、機会を見て紹介したい。

 

一橋慶喜(よしのぶ)が将軍後見職を退き、朝廷が新設した禁裏御守衛総督と摂海防衛指揮に就いたのは元治元年325日(1864430日)である。京都所司代(桑名藩主松平定敬:松平容保の実弟)があり、京都守護職(会津藩主松平容保)をおいているのに、それではこころもとないと、天皇警護を主務とする職がおかれたことになる。慶喜が京都で立場を築きいわゆる“一会桑”体制となったわけだ。

 

摂海というのは大阪湾のことで、外国艦隊が大阪湾に押し寄せて来るのを防衛するということだが、これも外国が本気になれば侵入を防ぐことなどできない相談で、本来なら交渉というか折衝しかないわけで、さほど意義があったとは思えない。孝明天皇が絶対に容認しない兵庫開港問題とも絡み、結果として孝明天皇が自縄自縛で慶喜依存に落ち込んでしまった感がある。

 

前年には孝明天皇から幕府への大政委任を確認し、元治元年には庶政も「幕府へ一切御委任」との勅諚を得ている。将軍家茂が18歳ということを考えれば、「天皇の喉元の要地より天下に号令する勢い」と一橋慶喜が揶揄されたのも当然のことであろう。それでいて江戸の幕閣との協調を欠き、いっそうの幕府弱体化につながる。

 

一橋慶喜は最終的に開国の勅許をこの構造から得るわけだが、横浜鎖港を言い出して参与体制を瓦解させたり、はたまた兵庫開港を強硬にとなえたりして、周囲を翻弄している。朝廷と親密であった島津久光の追い落としだったのかも知れないが、キーマンの軸がこれだけぶれたのでは混乱は必定である。かつては一橋慶喜を将軍に就けようと奔走し自らの命まで危うくした西郷の心中はどうだったのだろうか。疑問がなくもないが、維新の三傑は、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允と言われている。その論でよければ、意図せずして維新を引き寄せた裏の三傑は、孝明天皇、一橋慶喜、島津久光と言っていいかも知れない。

 

気の毒なのは池田長発(ながおき)を正使とした遣仏使節団で、できもしない横浜鎖港談判の任を帯びて文久3年末(186426日)に出発し、当然のごとく全く相手にされず元治元年7月(1864819日)に空しく帰国している。フランス士官殺害事件の後始末をさせられ、長州の関門海峡封鎖解除が含まれていたパリ約定も締結したようだが、そちらは幕府によって反故にされている。

 

池田長発は攘夷論者であったが、外国を見聞したことで、開国論者に転じたという。なかなかの人物だったようだ。以前の稿で紹介した、有名な、スフィンクスを背にした侍の写真は渡欧に際してカイロに立ち寄った時のものである。朝廷への形ばかりのアピールとして捨て石にするにはあまりにももったいないことであった。正使と副使は不遇であったが、救いは外国を実際に見聞したこの使節団のメンバーが多く明治に活躍したことであろう。

 

ともあれ、文久3年(概1863年)は「攘夷」という“幽霊”が強烈に日本をさまよい、翌元治元年(概1864年)はその余波と後遺症で誰しもが苦しんだ、という感がある。藩主が参内し、藩論を変えて攘夷を唱え外国艦への攻撃という実践までした長州は、京を追い出され、池田屋での会合を新選組に襲撃され、あげく長州征伐論まで起こされるというのは納得できない事態であった。

 

こういう状況で西郷がどういう動きをしたかだが、元治元年3月から、長州が兵を送りこんで巻き返しを図った「蛤御門の変」(禁門の変)が起こる元治元年6月までの間がよく分からない。浦島太郎状態のリハビリをしていたのかも知れない。彼は筆まめで、特に6月は多くの手紙を書いている。のちの大久保利通への手紙からは、生糸の密貿易の段取りをしていた様子もある。愛加那に書いたかどうかは知らないが、彼女は字が読めなかったという悲しい話がある。余談ながら、日本の識字率を大きく進歩させたのは明治5年の「学制」で、西郷隆盛が筆頭参議、つまり事実上の実務のトップ、今でいう内閣総理大臣だった時のことである。大久保利通らは岩倉使節団で不在であった。

 

さて、長州は攘夷の実行者として京の世上で不思議に人気があり、一方、薩摩と会津は、「薩賊会奸」と称されて嫌われていたという。西郷は会津と距離をおくために親会津の薩摩藩士を帰薩させる動きをしていたとも言われている。当初は長州問題には静観を決め込んでいたものの、「蛤御門の変」では西郷も決起せざるを得なかった。

 

京の祇園で仲居をしていたという“豚姫”こと、お虎とねんごろになったのはこの頃であろう。後年に勝海舟が西郷はこの豚姫をたいそう気に入っていたと述べている。「豚姫といふのは京都の祇園で名高い・・・・もつとも初めから名高つたではない、西郷と関係ができてから名高くなつたのだが・・・・豚のごとく肥えて居たから、豚姫と称せられた茶屋の仲居だ。この仲居が、ひどく西郷にほれて、西郷もまたこの仲居を愛して居たのヨ」と語っている(『氷川清話』講談社学術文庫)。勝海舟は大言壮語的なところがあり後年の語りにて不正確かも知れないが、この手の話に大きな記憶間違いがあるとは思えないので、多分事実であろう。

 

NHKの大河ドラマではこの豚姫をハリセンボンの春菜さんが演じるそうだ。一橋慶喜もいかにもそれらしく、この配役にはなかなかのセンスを感じる。ただし、これから変貌していくのかも知れないが、大久保利通はあんなに情味あふれる爽やかタイプではない。私にとっては下記の写真の方がしっくりくる。
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イメージとしてはちょい違うが、役者として今を盛りの遠藤憲一さん演じる勝海舟と西郷隆盛が初めて会うのが元治元年911日(18641011日)、大坂(大阪)でのことである。

2018年6月21日 (木)

切腹考

江戸時代に関する書を読んでいると、切腹という言葉がよく出てくる。今でも、「それで何か起こったら俺が腹を切る」というふうに使われる。昔と違って本当に死ぬわけではないが、責任を取るということだ。ただ、そういう威勢のいいことを言う人にかぎって実際に責任を取ったのを私は見たことがない。

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浅田次郎さんの短編小説集に『お腹召しませ』(中公文庫)というのがあって、その中の一つの短編、書題そのままの「お腹召しませ」で、入り婿の不祥事から、切腹が免れないと悟り、それにおそれおののく武士の苦悩がコミカルに描かれている。妻も娘も「お腹召しませ」と賛同し、手回しよくその準備を整える(何と冷たいことか)という自虐も浅田さんらしい。

 

結局のところ「切腹はいやなので武士をやめる」というのがオチになっていて死なずに済んだ。そういう侍もいたという祖父からの聞き覚えをヒントにして創作し、名誉などより、人間らしく生きた方がよい、という氏の哲学がモチーフになっている。切腹の際には白装束というのが時代劇の定番だが、この小説では麻黄色の肩衣となっているので浅田さんはかなり調べてのことだろう。白だと鮮血が目立ちあまりにも凄惨になるため、実際、全て白ではなかったらしい。

 

切腹と言っても、医学的には腹を切ってもすぐには死ねない。腹部大動脈をバッサリ切れば大出血によって分単位で死ぬだろうけど、この血管は背中に近いところ、いわばお腹の非常に深いところにあり、そうそうそこまで刺せるわけではない。腸管や腹部の中小の動脈を傷つけてしまえば死んでしまうが、少なくともすぐではない。

 

作家の故吉村昭さんに『冬の鷹』(新潮文庫)というオランダのターヘルアナトミアを前野良沢と杉田玄白らが「解体新書」として苦心惨憺して翻訳する経緯を描いた小説がある。この中に、良沢と親しくしていた皇国の士高山彦九郎が腹を切って自死する描写があるが、夜に切って、息絶えたのは明け方となっている。吉村さんもよく調べて書いたのだろうし、腹部刺傷や腹部外傷をかなり経験したものとしてこの経過は首肯できる。ただし、医療者は当然にして治療介入をするわけで、自然経過を見たことはない。

 

1970年(昭和45年)1125日に作家三島由紀夫が「盾の会」の仲間とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に侵入し、クーデターを呼びかける扇動演説を試みたのちに総監室で割腹自殺を遂げるという事件があった。

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介錯がうまくいかず悲惨な状況になったようだが、首のない遺体と床におかれた生首の写真が流出したことも大きな話題となった。切腹というのは凄惨極まりない。三島由紀夫は高山彦九郎に関心を寄せていたという。

 

腹を切ってもすぐに死なず地獄の苦しみを味わうというのは昔の人もわかっていて、だから介錯と言って斬首するわけである。時代が進んでは腹を切ることもせず、扇腹と言って扇で形作りをしてすぐに斬首されたようだ。斬首も頸椎があるため簡単にできるとは思えず、介錯人は腕利きでなければならなかった。斬首に立ち会ったアーネスト・サトウはその著書の中で、うまくいかなかった時のさらなるおぞましさに触れている。

 

長州の長井雅楽が切腹死を遂げたというのは前回に書いた。大河ドラマ『西郷どん』でも赤山靱負(ゆきえ)の切腹シーンが最初の頃にあった。国内外の情勢に通じ、先見の明があり坂本龍馬からも高く評価された会津藩の神保修理(長輝)も慶応4222日(1868315日)に切腹させられる。彼は無駄な流血を避けようと苦悩していた人物のように思われる。多くの有為な士が酷な死に遭ったわけだ。

 

切腹は武士にとって“名誉ある死”との格好つけ、言い換えれば“粉飾”がなされていただけのことで、それによって武士への死刑宣告を容易にしていた。実際は斬首にほかならない。

 

斬首といえば、水戸の過激攘夷思想集団による天狗党の乱では、彼らが各地で暴虐を働いたということもあって、京にのぼることがかなわず、敦賀で降伏したのちに苛酷な扱いを受け、18653月に300人以上が数日間をかけて斬首されている。水戸にいる家族までもが処刑されたという。水戸藩主だった徳川斉昭の七男でそもそも水戸家の出である一橋慶喜には彼らへの情状酌量は全くなかった。江戸時代は魅力あふれる興味深い時代であるが、その一方、こういう残虐性には強い嫌悪感を覚える。

 

必ずしも切腹に限らないけれども、基本的人権中の最たるものである命が、権力者の一存で奪われてよいはずはない。また、江戸時代において当たり前のように行われていた拷問も、人権侵害の極みである。明治維新の最大の意義の一つは、こういった悪しき慣習を廃し、法治主義による人権擁護を導入したことにある。

 

少数者が政治を担う、すなわち寡頭政治という意味では明治維新は政治体制にさしたる変革があったわけではない。西郷隆盛を語りの軸にしているのは、彼が明治政府における法治主義導入のキーパーソンの一人だからでもある。

2018年6月14日 (木)

西郷隆盛その13 動乱の真っ只中への復帰

前稿に記したように、沖永良部島への島流しから赦免されて復帰するのが元治元年2月(18643月)である。1年半以上も沖永良部島に閉じ込められていたわけだが、その間にも色々な大きな事が起こっていた。

 

生麦事件

文久2821日(1962914日)、江戸から引き上げる島津久光の行列をイギリス人が横切り、殺傷された事件。薩摩は開き直りを続け、慌てた幕府が尻ぬぐいをするはめとなる。それでもおさまりはつかなかった。

 

京都守護職の新設

京都の治安悪化に伴い、旧来の京都所司代と京都奉行所だけでは対応できないとして、幕政改革の一環として、文久2年閏8月1日1862年9月24日)に京都守護職が設けられ、会津藩の松平容保(かたもり)就いた。
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莫大な費用を要し火中の栗を拾うようなもので、家臣も反対しており、決して自ら好んだものではなかったようだ。余談ながら、これが後年の会津藩関係者による坂本龍馬暗殺につながる。

 

長州藩による外国船砲撃事件

そもそも長州は開国を維持して国力をつけるという長井雅楽(ながいうた)の「航海遠略策」(1861年)を藩論としていた。長井雅楽は藩命を受けてこれを幕府に上申し、高く評価され、長州は外様大名でありながら幕府中枢に重きをなすようになる。

ところが長州は攘夷の志士が力を持つことによって藩論を転換してしまう。攘夷論者に敵視された面もあったのだろう、開国論者の長井は切腹を命じられ、文久326日(1863324日)に世を去る。幕末維新の激動の中で命を落としたがゆえに埋もれてしまったものの、まことに惜しい人物であった。

藩論を転換した長州は、文久35月(18636月)下関海峡の外国艦に砲撃を加えるという事件を起こす。これはわざわざ上洛した将軍家茂が孝明天皇に約束した攘夷を長州が率先してやったような面もある。ただ、江戸幕府は武力では外国に対処できないことをよく知っており、面従腹背の苦し紛れの攘夷を言ったに過ぎない。

孝明天皇自身は単純かつ頑なに「何とか外国を追い払え」ということであって、武力行使で外国と戦争になることは全く望んでいなかった様子がある。江戸幕府が凛とした統治能力を失う中で、孝明天皇のわかりにくく非現実的な意思が結果として百家争鳴を惹起し、国内を振り回してしまった感がある。長州が混乱にさらに輪をかけた。

長州は、この砲撃事件と海峡封鎖により直後と翌年の二度にわたり諸外国から手痛い報復を受けることになる。一歩間違えば、要衝である関門(馬関)海峡と下関一帯は租借地にされた可能性がある。そうならなかったのは、イギリスも日本に多く軍を割く余力がなく本国にも過干渉への警戒論があり、アメリカは南北戦争の痛手からようやく立ち直ったところで、また、フランスは江戸幕府に取り入ることに執心していたからである。

 

薩英戦争

薩摩の本音は攘夷ではなかったが、それでも、湾内に進入して生麦事件の決着を迫るイギリス艦に砲撃を加え、いわゆる薩英戦争(文久372日‐74日:186381517日)を起している。斉彬の水雷は役に立たなかったようだが、彼の富国強兵の効あってか、英側に大損害を与えている。

「薩摩あなどり難し」と見られたものの、自らも沿岸部が灰塵に帰すなど甚大な被害を蒙った。生麦事件について、実行者は特定していたようだが、不明として突っぱねて処罰はせず、幕府から借りて賠償金を支払って決着している(返済はしていない)。

 

「八月十八日の政変」

これは文久38月に(18639月)長州が京都御所の外塀である堺町御門の警備の任を解かれ、京から放逐された事件である。下記は境町御門の地図。
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http://tokyosuicatree.web.fc2.com/kyotoshinai201302_pdf.pdf

簡単に書けばそうなのだが、これは語るに非常にやっかいな代物である。会津と薩摩が手を組んで長州を追い出したという単純な構図ではない。

この政変の根幹は、孝明天皇と三条実美(さねとみ)ら一部公家との確執であって、その公家を巻き込んで「勅」や「偽勅」で「天皇に大和に行幸して頂いてそこで攘夷の軍議を開く」といういささか無謀な無理筋で主導権を取ろうと動いたのが朝廷に取り入っていた久留米藩士真木和泉と長州藩である。

長州によって処分されようとしたのは長州に非協力的であった小倉藩である。そんなことは幕政秩序からしても許されないと多くの藩が受け止め、朝廷では今上陛下の曽祖父にあたる朝彦親王も三条実美らに強く反発し、結局真木や長州が放逐され、三条実美らも京を追放されてしまう(七卿落ち)。ただし、堺町御門の警備から降りるというのは当初は勧告程度で、正式に入京禁止などで処分されるのは文久3829日のことである。

会津の秋月悌次郎や薩摩の高崎佐太郎が策を練ったり動いたりしているが、彼らが独自にできるはずもなく、松平容保は策士ではなく、島津久光はこの時は薩摩に帰っており、薩英戦争で足元に火がついていたわけで、こまごまとした指示ができたはずはない。

最終的には、三条実美に不信を募らせ、真木和泉や長州に反感を抱くようになった天皇の意志と、親王をはじめとした朝廷内の反三条の動き、そして京都守護職の会津藩と薩摩を含めそれに協力する藩によってなされた政変である。その後長州は四面楚歌となり、博打的に京に打って出た闘いにも敗れ、存亡の危機に瀕することになる。それが維新の雄とされるわけだから、歴史はわからない、というか、面白い。

 

島津久光の参与就任

京の混乱に対しては、島津久光は朝廷の正常化を望み、必要があれば兵を率いて上洛するという意志は示したようだが、文久38月は薩英戦争の余燼でそれどころではなかったであろう。その後に要請を受けて卒兵して上洛するが、長州処分で強硬論を唱え、年末には長州藩から薩摩藩の船が砲撃を受け沈没するということも起こっている。

上洛した島津久光は、公武合体として朝議への武家の参加を提唱している。国父として薩摩の実権を握っているものの、公式には何の立場もなかった彼に官位の従四位下左近衛少将が与えられ、参与として、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、松平容保と、錚々たる名士に並んで朝議に加わることができたのである。

ところが、一橋慶喜としっくり行かず、参与会議はわずか3ヶ月あまりで空中分解してしまう。一時は孝明天皇の宸翰(手紙)の草稿を作るぐらいに信頼を得ていた久光だが、さすがにこの時は苦境に陥ったのではないだろうか。

その後、一橋慶喜、会津藩、桑名藩(藩主は容保の実弟)の、歴史家の造語であるいわゆる「一会桑」が一つの政治勢力となる。朝廷と江戸幕府、薩摩や長州などの外様の雄藩の関係だけでも十分ややこしいところに、京都を場とする新たな政治勢力ができたわけだ。しかも、その内部は決して一枚岩ではなく、非現実的な攘夷や横浜鎖港問題などで一橋慶喜の変転に翻弄されることになる。

 

特に文久3年は攘夷を巡って大荒れであったが、沖永良部島に幽閉されていた西郷は関わりようもなく、薩摩に戻ったのは翌文久4年の初頭である。すぐに京にいた久光に呼び出され、「軍賦役(ぐんぶやく)兼諸藩応接係」を命じられる。これは薩摩の軍司令官兼外交官のようなもので、見込まれて託されたのか、“貧乏くじ”を引かされたのか、私にはよく分からない。

 

西郷はそれまで、闘いの経験も、指揮官としての経験も、藩を代表しての外交経験も、皆無であった。しかも、情勢には“浦島太郎”である。孝明天皇の覚えめでたくなった策士一橋慶喜が京を牛耳り、長州への始末が難題となるのが目に見えていた時期でもあった。

2018年5月29日 (火)

病院のパン屋さん

テレビの番組で一斤というか一本が6000円以上もする食パンが紹介されていた。高級食材に慣れている超セレブの皆様はいざ知らず、セブンイレブンの4ケ一袋100円かそこらのマーガリン入りブドウパンが好きな私など、「食パンがそんなに高いんかい!」とびっくりしてしまう。なんでも、材料からしてこだわりにこだわって丁寧に作るとか。そりゃそうだろう。フランスから週に3ケしか届かないパンもあるようだ。

 

そういう別世界の話はさておいて、パンの話と言えば、大原綜合病院新病院の玄関に入ったところにあるパン屋さんの評判がいいらしい。「これ、美味しいんですよ」と理事長から進められて食べてみて、「ホント、美味しいですね」と。これじゃ夕飯が食べれなくなると思いつつ、出されたふかふかのアンパンを結局2つも食べてしまった。

 

新病院の設計に関わらせて頂いたので、図面は数かぎりなく見たはずだが、「はて、パン屋さんをおいたかなぁ」と首をひねる。そういえば、と思い出したのがカフェ。福島医大にもあるし、最近の病院は待合いの近くにカフェをおいているので、そうしようという話になった。そのスペースがいつの間にかカフェ兼のパン屋さんになっていたわけだ。
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セクハラ、パワハラ、アカハラなど、昨今は何でもかんでもハラスメントになってしまう。匂いのハラスメント、いわゆるスメハラというのもある。昔は消毒液の臭いがシンボルだったが、今の病院は臭いには神経質になっている。タバコの臭いが死ぬほど嫌い、という人は多い。それもあってほとんどの病院は敷地内禁煙だ。本来ならいい香りのはずの香水も、苦手な人もいる。匂いには“慣れ”があるので、自分ではわからなくなっても他人にはよくわかるということがある。そういえば遠い昔、「どうしてシャツに香水の匂いがついているのか?」と追及されてえらく弱ったことがあった。閑話休題。

 

疾病によっては匂いに敏感な患者さんもいるので、コーヒーの香りはどうなのか、ということも設計の際に議論になった記憶がある。結局、「いや、決して刺激臭ではないし、コーヒーは和みのいい香りでよいのではないか」、という結論になった。

 

新しい大原綜合病院の玄関に入ると、食欲をそそるような、焼き立てのパンのほのかにいい香りが漂ってくる。設計に関わりながら、全く想定していなかった者が今さら言うのもなんだが、これは実にいいと思う。患者さんや見舞客、職員も癒されるのではないだろうか。そういう病院が最近は増えている。

 

日本でパンを最初に製造したのは伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門英龍と言われている。1840年頃らしい。「代官がパンを作ったんかい」と突っ込みが入りそうだが、代官というのはそもそも幕府の領地、すなわち幕領の民政を担う役人で、多くは将軍に拝謁できる旗本だから、結構な高級官僚だ。江戸幕府に倣って諸藩も地方管轄の代官をおいていた。偉い立場ではあったが、それでいて、何でもかんでもやらされる中間管理職のようなところもあった。米と違って炊かなくていいパンが注目されたそうで、多分指示が下りたのだろう。

 

代官は、時代劇に出てくるような悪もいるにはいたが、ほとんどは職務に忠実で真面目だったらしい。訴えられたり、濡れ衣を着せられて罷免されることもあったようだ。任地には出張で赴く程度で、多くは江戸在住なのだが、英龍は韮山の私邸でパンを試作している。

 

大久保利通は西洋化を進めるにあたって自ら朝はパン食にしたという。福島名物薄皮饅頭の最初は1852年とあるから、小麦から作るわけで、もしかしたらあの薄皮はパンにヒントを得たのかも知れない。薩摩藩もイギリス人を“西洋風料理”で饗応した。慣れぬことにてさして美味しくはなかったにせよ、気持ちは伝わっている。パンにまつわっては面白い話がたくさん出てきそうだが、ここでは、大原綜合病院のパン屋さんは試食の価値はありますよ、と伝えるに止めておこう。

2018年5月22日 (火)

西郷隆盛 その12 沖永良部島での生活と赦免

当初は徳之島だったのが、さらに厳しい処分であるより以南の沖永良部島に流されたことは前回に記した。西郷に兄事し行動を共にしていた村田新八(18361877)は、古くは平安時代に僧俊寛が流されたという伝説のある喜界島に流されている。事実かどうかは定かでないが、俊寛は“島流し”の象徴として演劇や絵などで取り上げられている。
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森に深く覆われた奄美大島は南部に加計呂麻島など、いくつかの島がある。奄美の中心部である名瀬市は現在では医療機関もかなり整備されているが、群島を擁する大きな島だけに、どういう医療整備をしていけばいいのかということは今も難題だ。

 

奄美群島は沖縄と同様に、1945年の日本の敗戦後アメリカの統治下におかれ、返還されたのは1952年から1953年にかけてである。歴史的、文化的に沖縄との結びつきが強く、戦後に奄美大島から沖縄本島に移住した人も多くいる。

 

喜界島は奄美大島の海を隔てた東側に位置し、人口は約7000人。目と鼻の先なのだが、飛行機を使うには短すぎるし(実際は使われている 飛行時間10分)、比較的平べったい島で風が強く、船だと荒れる海で特に西側は着岸が容易でなく、すぐ欠航になってしまうという厳しさが今もある。今は奄美にドクターヘリが導入されており、喜界島はじめとして島嶼地域にとっては福音になったであろう。

 

喜界島は珊瑚が隆起してできた島なので保水性がなく、川らしい川もなく、水の確保が容易でないため、地下に巨大なダムが建設されている。見学した際、地上からはわからないその規模にびっくり仰天した。
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地下ダムから水を汲み上げ、農業用水や生活水として活用している。かつて3日間滞在したことがあるが、島に特に不便はなく快適であった。ただ、今はそうでも、昔時の生活はさぞ大変だっただろうと思う。

 

この喜界島には喜界徳洲会病院があって、島の人はこの病院で初めてエレベーターを見たという。徳洲会は色々言われているが、徳之島出身の徳田虎雄氏が主導して島の医療整備に尽くしたことは大きく称えられるべきだ。私は喜界徳洲会病院を初めて見た時は、よくぞこの島に、と深く感銘した。徳洲会病院は南西諸島に多く設立されており、沖縄本島を基地とする所有の小型飛行機を活用してそれぞれの病院を結んでいる。

 

さて、西郷隆盛は沖永良部島で罪人扱いとして苦しんだものの、土持政照(18341903)という島役人に助けられ、待遇も改善されなんとか命をつなぐことができた。政照が彼の父親から面倒を見るように依頼されたという話もある。土持家の先祖は薩摩の名家で、政照は沖永良部島に度々赴任したという父親と島の娘との間に生まれたいわば島に根ざした人である。

 

西郷は、酒で失態をおかし島に流された学者の川口雪蓬(18191890)とも親交を持つ。川口雪蓬はのちに西郷家に寄寓し、執事的に西郷家、そして子供達の面倒をよく見てくれたという。

 

こういうのを知ると、本人の徳望もあったのかも知れないが、西郷は運のよい人だ、と感じる。沖永良部島では読書もよくしたようで、学者のような生活を送っていると手紙に記している。

 

西郷が沖永良部島にいた時は、攘夷と開国を巡ってテロが渦巻き、長州は不穏な動きを見せ、薩摩も、生麦事件、そして薩英戦争が起こっている。幸か不幸か、島にいたおかげでそういった騒乱には巻き込まれていない。熱血漢で行動的なだけにその場にいればただでは済まなかったかも知れない。それでもやはりまた血が騒いだのか、赦免を待ち望み、誰かがそれを邪魔しているのではないかという猜疑心をも抱いていたようだ。その一方、隠遁して奄美大島で家族と暮らしたい願望もあったようで、いささか複雑ではある。

 

西郷が赦免となり迎えの船が来たのは18643月(元治元年221日)で、鹿児島への帰途、奄美大島に立ち寄り、わずかな期間、愛加那と子供達と過ごす。愛加那にとってはこれが西郷との今生の別れとなった。喜界島では村田新八を同船させている。なお、久光に西郷の赦免を願い出たのは側近の家臣だが、彼らに働きかけた一人に後年に福島や栃木で県令として強圧的な態度でならし、田中正造らを弾圧した薩摩藩士三島通庸(みしまみちつね)がいる。

 

ともあれ、1864年、自ら望んでか望まずしてか、当初は風土病と体力の衰えで歩くこともおぼつかない状況の中で、動乱の真っ只なかに再び身をおくことになる。なお、明治維新のキーパーソンの一人とも言える堪能な日本語を操るイギリス人外交官アーネスト・サトウと西郷が初めて出会うのは186511月である。この時には島津左仲と名のっていたようで、「小さいが炯々とした黒い目玉の、たくましい大男が寝台の上に横になっていた」とサトウは記している(『一外交官の見た明治維新 上』 坂田精一訳 岩波文庫)。サトウが二度目に会うのは1866年になってからで、有名な「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべる時の微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」と表現したのはこの時である。

2018年5月10日 (木)

西郷隆盛 その11 再度の島流し

以前の稿で記したように、3年にもわたる奄美大島での生活を経て、18623月(文久2212日)、いよいよ念願叶い、懐かしの薩摩城下に戻る。別れに際しては西郷も滂沱の涙を流し、以後も可能な支援はしたようだが、現地妻の愛加那と長男菊次郎、そしてまだお腹の中にいた子(のちの菊草)にとっては全く酷な話であった。

 

愛加那が西郷に会えたのはその後わずか2回だけである。そもそも名家の娘だったという愛加那は、西郷に引き取られた子供達と別れ、どのような思いで西郷の生きざまを見、その死を知り、どのような思いで生きたのだろうか。西南戦争から20年以上のちの1902年、愛加那は島で生涯を終える。享年66。官僚として、また京都市長として活躍した、西郷の面影を色濃く残していると思える菊次郎が支えだったのかも知れない。二人の画像はWikipediaから。
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西郷は島から戻って、国父と称され実権を有し、卒兵して東行を考えていた島津久光に拝謁する。この時に、久光に対して、“ジゴロ(地五郎)”(田舎者)だからいきなり京や江戸に行ってもうまくいかない、と言ったとか言わなかったかとの話がある。他の人に語ったのが伝わった、という話もある。嫡男であるため江戸生まれで江戸育ちの斉彬と違って、庶子の島津久光はそれまで薩摩から出たことがなかったわけで、多分西郷はそのように考えていたのであろう。かつて斉彬の命を受けて江戸と京を行き来していた自負もあったのかも知れない。

 

当然のごとく久光は相当に立腹したに違いない。隠遁しようと思っていたためか、西郷の態度も横柄だったらしい。ただ、スパッと辞するところは確かにあったにせよ、だいたいにして西郷の「隠遁」だとか「一命を賭して」という類の言葉はそのまま受け取らない方がいい。この時も一旦出仕を辞めたものの、説得にあって結局隠遁はしていない。

 

ともかく同行することになって、まず西郷が肥後の様子を伺うなどして先行し、下関で久光一行を待つという段取りであった。ところが、先着した下関で、久光の卒兵を幕府の武力打倒と誤解した薩摩藩士に不穏な動きがあるとの報せを聞き、大坂行きの船に飛び乗ってしまう。一封を書き残したと後の手紙には記しているが、大久保利通が握り潰したという話もある。実際、伏見で暴発をおさえたとも言われているが、ともあれ、ここは自制すべきところなのに、西郷にはこういう軽率さがある。そもそも久光は西郷を上洛に同行させるつもりはなく、下関から薩摩に返すつもりだったとも言われている。カンカンになった久光から命にそむいた「大咎め」として、1862522日(文久2410日)に大坂で捕縛され、今度は罪人として、まず徳之島、そして沖永良部島に島流しとなる。

 

島津久光がなぜ「御大策」として兵を率いて上洛、あるいは江戸に赴こうとしていたかだが、これは武力で幕府を打倒しようという意図では全くなかった。朝廷を奉り、公武合体を図るつもりで一橋慶喜を将軍後見職にし、福井の松平慶永を政治総裁職につけ、自らも江戸幕府への参政を意図したもので、斉彬も同様のことを考えていた。維新の原動力の一つは、対外政策で幕府が不甲斐なく見えることから芽生えた外様大名の幕政への参画意識である。

 

西郷のことを語っていると、島津久光がいかにも愚公のように感じられるが、決してそうではなく、この時も、薩摩と親しい近衛家の支持をとりつけて都合のいい勅を引き出し、公家の大原重徳(しげとみ)の護衛の大義名分で幕府の許諾を得た上で江戸に赴いている。なお、京では、薩摩藩出身者を含む過激派浪士が集結して公家や京都所司代の誅殺を計画していたことに対しては、朝廷の命を受け久光は断固たる処断を行っている。これがいわゆる寺田屋事件である。

 

久光がどこまで関与していたかはわからないが、藩主茂久の参勤猶予や久光の江戸参府の口実引き出しのために側近の堀仲左衛門や大久保利通が薩摩藩邸に意図的に火災を起こすなど、乱暴なことも含め、したたかに事前準備をしている。おそらく西郷はそういった背景は知らなかっただろう。こういう謀略的なことでは大久保利通には全く敵わない。

 

島津久光は企図した通りに慶喜と参勤交代緩和論者の松平慶永を推し上げ、長年続いた参勤交代の緩和を得ることに成功する。最も遠い距離を移動せねばならず莫大な出費を強いられる薩摩にとってこれは大きな福音になったはずだ。この時に懐刀とも言える小松帯刀も同行させている。イギリス人外交官のアーネスト・サトウはこの小松帯刀をして、最も印象に残る人物、と評している。知性と紳士的態度において、おそらく西郷は小松には適わない。だからあえて西郷を同行させる必要はなかったのである。何事につけ用意周到な大久保利通が必要と思ったのかも知れない。

 

井伊直弼亡きあとの幕府は“お人好し”的な感がある。後年、幕府は参勤交代の復旧を図るが、時既に遅し、その緩和は幕府の命取りの一つとなってしまった。江戸幕府は緻密な統治機構を発達させる一方、力の抬頭に対しては過酷とも言える抑制をかけていたわけで、その一つが参勤交代であった。島津久光は意図せずして幕府崩壊への痛打を浴びせたことになる。

 

意気ようようと江戸から引き上げる際に久光一行は横浜で大事件を起こしてしまう。行列の前を横切ったというイギリス人リチャードソンが殺害され他2人も負傷するといういわゆる生麦事件である。1862914日(文久2821日)のことであった。この事件で薩摩はあくまで開き直りを続け、幕府が尻ぬぐいをするはめとなるが、結局、薩英戦争の火種となっている。

 

さて、沖永良部島に流された西郷隆盛は罪人として狭い座敷牢に閉じ込められ、苛酷な環境で痩せ衰え、一時は生死のはざまをさまよったと言われている。上から指示があったのかも知れないが、ともかく地元にいた有力者に救われ、読書三昧の日々を送ることになる。

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