2019年8月21日 (水)

たまに読む小説

私の流儀は安い文庫本の乱読だ。途中でほったらかしにしたり、積んでおくだけだったり、という本も多い。ねっころがって読むので、枕元にはいつも50冊以上が積まれている。

好みはノンフィクション系で、小説はあまり読まない。しかし、新田次郎(1912-1980)と吉村昭(1927-2006)は例外で、かなり読んできた。主題に対して綿密な取材をしているからか、まことに面白い。もちろん小説なので、創作部分や虚構は当然と受け止め、必要に応じてWikipediaや他の書物を参照するようにしている。彼らの作品は概して事実に基づいているように思える。

吉村昭で比較的最近に読んだのは、ターヘル・アナトミアの翻訳を巡っての前野良沢と杉田玄白の関係を描いた『冬の鷹』、さすがにどの島がモデルなのか定かではないが、難破船を“お船様”と喜んで略奪などをする島の小村を描いた『破船』、尊皇攘夷を掲げて幕末に筑波から京都を目指した水戸の天狗党の動きを追った『天狗争乱』、日本が戦争にひた走る昭和十年代かけて300人以上もの甚大な犠牲者を出しながら完成にこぎつけた黒部第三ダム建設の『高熱隧道』、大正時代に起こった苫前での羆(ひぐま)による襲撃事件の『羆嵐』。どうしてこのように上手に描けるのだろうか。どの書も一気に読める。

『高熱隧道』では、黒部の山奥での工事自体が非常に難しいことに加え、高熱の湧水でトンネルの掘削が困難を極め、また、泡雪崩で、慎重に安全な場所を選んだはずの人夫の宿舎の3階以上が丸ごと宙に吹き飛ばされるということが起こっている。泡雪崩(ほうなだれ)というのはなじみのない言葉だが、Wikipediaには、「爆風が発生すると誤解されることが多いが、実際は、雪煙が空気と雪粒の混合体であるがゆえ生じる力による。この誤解は『高熱隧道』の記述によって広まったとされている」とあるから、雪粒の中の空気が爆発するかのような吉村昭の記述は正確さに欠いているのかも知れない。ただ、科学的考察ができない読者にとっては大きく見れば誤差範囲だ。普通の雪崩でも十分怖いと思うが、泡雪崩には信じ難いほどの破壊力があるらしい。

なお、小説は触れていないが、黒部第三ダム建設にも、おそらくかなりの数の朝鮮人人夫が危険と高給との抱き合わせで雇用されているはずだ。そういうことは炭鉱などで常態化していた。差別だとか強制という一方的な決めつけには疑問があるが、彼らが日本の統治下で厳しい経済状態に追い込まれていた面は確かで、日本は自省をも込めて理解を深めていかねばならないだろう。

さて、『羆嵐』(くまあらし)では、狂暴な羆を経験豊富な銀四郎が最後に仕留めるのだが、そのやりかたは現役の羆狩りの名手の言と一致している。下からではなく、上から羆にアプローチしなければならないらしい。こういうことにもこだわって執筆しているのだろう。先般に『羆嵐』のもととなった羆の事件をNHKが劇画的に放映していたが、小説の描写の方が迫力を感じる。

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島崎藤村の『夜明け前』は幕末の中山道の妻籠宿(つまごじゅく)が舞台となっている。ここを水戸の天狗党が通る。差別をテーマとした『破戒』のついでにと思ったものの、『夜明け前』は小さな字で1頁2段組、800頁近くもある大作で、さすがに読むのに骨が折れた。ちなみに、吉村昭の『天狗争乱』でも天狗党が妻籠の宿を通る時の彼らの規律と秩序ある状況が描写されているのだが、ほぼ似通っており、かなり事実に近いのだろう。最終的にこの天狗党は慕い頼ったはずの一橋慶喜に冷たく見放され300人以上が斬首されるという悲劇的結末を迎えることとなる。

小説と言えば、住井すゑ(1902-1997)の『橋のない川』は、全編これ露骨な差別用語オンパレードで、文庫にして全7巻の大作は、読むのに苦吟した。それでいて不思議な明るさと爽やかさがある。作者は差別の中にいたわけではなかったのにどうしてここまで入りこめたのだろうか。そのほとんどは会話で構成されているが、言わんとしていることは一貫している。少し長くなるが、手紙に折り込む形で表現した核心を下記に引用しておく。

しかし私たち人間に、果たして自分の意志や努力ではどうにも変えようのない、生まれながらの社会的地位などあり得るでしょうか。生まれながらの人間は、いつも君が言うように、一人のこらずはだかで名なしです。一人のこらずはだかで名なしだということは、一人のこらず人間として自由であり、自由であるが故に無限の可能性を持っている、ということだと僕は思います。
ところが現在の社会では、生まれながらの人間的自由や、その無限な人間的可能性は、身分という鋳型によってあと方もなく圧殺されてしまいます。しかし圧殺されるのは、ひとり僕たち賤民身分の者だけではありません。貴族も富者も、やはり身分の鋳型に圧殺されて、その人間的自由と可能性を取り失ってしまいます。最も顕著な例が皇族であり、頂点が天皇だと指摘したら、或る種の人は眉をひそめ、或る種の人は拳をふり上げ、更にある種の人は絞首台をすら差し向けてくるでしょう。それは僕の指摘の正しさに、まともでは太刀打ちが不可能なからではありますまいか。

これは全くその通りだ。住井すゑもまた文章で自己表現をする素晴らしい文学者である。漱石や鴎外だけが文豪では決してない。

たまにしか読まない、多分に気まぐれで読む、ではあるけれど、もう少し広く読まねばとわが偏りを自虐しつつ、小説もまた偉大な芸術だとつくづくにして思う。

2019年8月 7日 (水)

祝 渋野日向子さんの快挙

はじけるような笑顔、とはこのことを言うのだろう。世界の女子ゴルフ界の試合でもメジャーと位置付けられる全英女子オープンで、日本のプロゴルファー渋野日向子さんが優勝した。そのインタビューの際の写真だ。

ここのところ悲しくうっとおしいことが多い中、それを吹き飛ばすかのような快挙だ。韓国の強豪女子プロをも一蹴。国民もメディアも、日本中が大喜びしたような感がある。それだけ価値のあることを昨年にプロテストに合格したばかりの二十歳がやってのけた。

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あまた多くの報道があるので、私ごときが書くこともないのだが、嬉しかったので、つい書きたくなる。6500ヤード以上の距離のあるコース、4ラウンドで18アンダーというのがどれだけ凄いことか、ゴルフをしないかたにはピンとこないかも知れない。実は、ゴルフ大好きの私にもピンとこない。

飛ばない、曲がる、ダフる、チョロする、トップする、ショートパットが入らない、スコアはいい時で80台前半、悪ければ100以上叩く、というのが私のような大多数の世のアベレージゴルファーだ。それを渋野さんは66とか68で回っているわけだから、全く次元が違う。プロ予備軍の全国レベルのトップアマはどうか知らないが、県レベルのトップアマぐらいでは男性でも歯が立たない。

腕もさることながら、最終ラウンドで短い距離を3パットしてダブルボギーにしてしまったものの、何もなかったように笑顔でラウンドして取り返すメンタルもたいしたものだ。私ごときでも、ダブルボギーは痛いし、悔やまれ、がっくりきて、それがまたミスを呼ぶとわかっていながら、しばらくは表情が暗い。

男子プロの場合は、はじめから体力が違うと思い込んで見るのだが、彼女は、体格的には、普通の男性から見れば少し小柄なわけで、なおさらに技術がきわだつ。ドライバーは、ワイドスタンスからグーンと綺麗な円弧を描いて大きなフォローで振り抜いている。パットも強めにガツンと入れる。優勝を決めた最終ホールの6mか7mかの下りのバーディーパット、私のような小心者にはあのようなパットは絶対に打てない。凄い!

『タラタラしてんじゃねーよ』って何のことかと思ったら、彼女がラウンド中に食べていたお菓子の名前だと知った。お菓子メーカーは大宣伝になっただろうが、すぐに品切れになり、残念なことに、材料の関係から増産もできなかったらしい。着ていた服も手に入れたい人が多くいたようだ。ともあれ、ゴルフだけでなく、お菓子といい、渋野語録といい、随分楽しませてくれた。AKBふうのコテコテメイクに少々飽きたオジサンにとって、すっきり顔の“笑顔のシンデレラ”は新鮮感があふれる。

昨年までは全く無名だったのに、既に国内トーナメントで2勝している。そして今回だ。来年はドサッと億単位の税金がくるだろうから、無理な話だとは思いつつ、コマーシャルにも出ず、できたら今のままで、大いに楽しませて欲しいものだ。願わくば来年の東京オリンピックでも。

2019年8月 1日 (木)

西郷隆盛 その38 留守政府の崩壊

明治6年の対朝鮮政策において、西郷隆盛は武力を行使してでも日本の主張を認めさせるという、いわゆる征韓論者であったというのが巷間言われてきたことであった。それに対して、外国を視察してきた岩倉、大久保らは、今は国内対策が最優先であって、対外戦争などしている時ではないと反対し、結局、岩倉、大久保らの内治派が勝利したというものである。

“論に敗れた”西郷隆盛は政府を辞し、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助ら主要人物も辞任した。つまりこれが留守政府の崩壊である。

この騒動は錦絵で大仰に描かれている。錦絵というのはいわば庶民の政治の娯楽化であって、中には資料的価値が高いものもあるようだが、多くは “見てきたようなウソを描き”である。西郷隆盛が口髭を生やしていたという話は聞いたことがない。 

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私見として、結論的に断言しておきたい。西郷隆盛が征韓論を唱え、そしてそれに敗れた、というのは真っ赤な嘘である。おそらく、岩倉、大久保らの政権闘争の勝利組の歪曲であろう。

留守政府の崩壊は政権闘争にほかならない。西郷らに政権闘争という意識があったかというと、どうもそれはなかったようだ。だから策謀を用いた大久保らが一方的に勝利したのである。

洋行組が帰国してみれば、改革はどんどん進められており、大久保利通の腹心たる山縣有朋も井上馨も汚職事件で拘引寸前になっていた。大久保にとっては、自らが命をはって江戸幕府からの政権交代を遂げたのに、それがそっくりそのまま留守政府に奪われたかのような思いがしたのではないだろうか。帰国後しばらくおとなしくしていた大久保利通は、成果もあげられなかった洋行による長期不在を悔やみ、激しい敵愾心にかられ、政権奪還の策を練っていたに違いない。

ここで利用されたのが征韓論問題である。実は征韓ではなく、西郷隆盛の朝鮮への使節派遣なのだが、これは留守政府で既に決定されており、岩倉具視の帰国を待って正式に決裁の段取りであった。これが策謀によってひっくり返されたのである。怒った西郷は決定当日の明治6年10月23日に辞表を提出し、他の主だった参議も続いて辞職した。

非常にひらたく書けば、これが「明治6年政変」である。だが、理解しようとすれば、多くの「なぜ」が持ち上がる。そもそも征韓論とは何か。大久保利通の策謀とは何か。なぜこの政権交代がそれほど大きなことなのか、などなど。

韓国問題は今現在も世相喧しい。明治初年の朝鮮問題はどうかというと、少なくとも今よりはるかに筋の通った主張を朝鮮がしていたと私は思っている。次稿で征韓論について触れたい。

2019年7月17日 (水)

西郷隆盛 その37 娼妓解放令

「賤民廃止令」が公布されたのは、明治4年8月28日(1871年10月12日)で、まだ岩倉使節団は出発していない。だから、それは必ずしも留守政府の方針だったわけではないのではないか、という疑問が起こるかも知れない。

『明治維新と賤民廃止令』の著者の上杉聰氏は、「(芸)娼妓解放令」にも非常に大きな意義を見出している。これは明治5年10月2日(1872年11月2日)に出されたもので、間違いなく留守政府の手によるものである。

年期奉公などでガチガチに縛られた人々を解放せよということで、上杉聰氏は、娼妓解放令は「たんに娼妓だけではなく、当時のこうした奴隷的、半奴隷的な在り方を広く禁止したものなのである」と記している。

娼妓解放令はマリア・ルース号事件での奴隷解放で名をはせた大江卓らが尽力したことは間違いない。江藤新平も司法卿として深く関り、太政官布告なので、首班たる西郷隆盛も推進し、太政大臣たる三条実美も決済したはずである。

幕末・維新を顧みて、徳川という武力の政権を倒すのだから、大規模か小規模かはともかく、なにがしかの武力闘争は必然であった。そこに不思議はない。武力を用いた闘争はどうしても派手に見え、目を奪われがちだ。

しかし、新政権になって何が変わったかと考えてみると、少数が支配する、すなわち寡頭政治という意味において、江戸時代と何ら変わることはなかった。廃藩置県による中央集権化は政治体制としては確かに大きな出来事であったが、それには、将軍に代わって天皇、そして将軍に替わって求心力を高めるためにその神格化が進められたという弊害も付随した。ただし、西郷隆盛はむしろ人間天皇として見聞を広くするようにしていた様子がある。

最も大きく変わったものは何か。それは「賤民廃止令」「娼妓解放令」に代表される、身分制度の大きな変革、「人権」の導入であった。これこそが明治維新の要諦、本質であって、このことはいくら特筆しても特筆し過ぎることはない。

しかし、こう書けば多くの人が不思議に思うだろう。明治中期から後期にかけての差別問題をテーマにした小説、有名な島崎藤村の『破戒』、住井すゑの『橋のない川』などでは、エタという言葉とその差別が根強く残っていたことが描かれている。被差別民にとっては何とも酷な時代が続いていたではないかと。昭和に入っても大恐慌で「娘の身売り」ということがあったではないかと。

差別に対して闘う水平社が創設されたのは大正11年(1922年)3月3日のことだ。「賤民廃止令」が公布されて50年も経過してなお組織化と闘争を必要とするほどの差別があったのである。

差別を糾弾する一文を「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」と格調高く結んだ水平社宣言は今なお胸をうつ。奈良の被差別民西光万吉が起草したとされるが、福島の被差別民平野小剣による大幅な修正があったとも言われている(『差別と反逆 平野小剣の生涯』朝治武 筑摩書房)。当時掲げられた荊冠旗は画家でもあった西光万吉が、水平社宣言の本文中の一節、「殉教者が、その荊冠(けいかん)を祝福される時が來たのだ」に対応してデザインしたのであろう。

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なぜ「賤民廃止令」「娼妓解放令」の精神が貫徹されなかったか。“差別は根強く残るから”というありきたりのことでは説明がつかないと思う。留守政府の崩壊と、差別解消の最大の推進者江藤新平の死が、精神を大きく後退させた、と私は考えている。彼らはそれらを実効に移す、つまり、文言だけでなく魂を入れる、機会を失ったのである。それであっても、明治初期に、「そういうことはあってはならないのだ」と明確にした意義は非常に大きいと思う。

では、なぜ留守政府が崩壊し江藤新平が死ななければならなかったのだろうか。まずは留守政府の崩壊をとりあげたい。

2019年7月10日 (水)

西郷隆盛 その36 賤民廃止令

「賤民廃止令」は、明治4年8月28日(1871年10月12日)に公布された。この法令には名前がなく、「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」という短い表現にとどまっていたようだ。前稿で紹介した『明治維新と賤民廃止令』の著者の上杉聰氏は、現在のところもっとも適切な略称として「賤民廃止令」を書題に用いている。

穢多だの非人だのと、特定の人々を差別的に呼称する何ともおぞましい表現だ。このような差別を生んだ歴史的背景に関しては色々な研究がある。これはなかなかややこしい。放逐された高貴な人々の末裔という見解もあるようだ。

はっきりしていることは、同じ人間をこのように差別する合理的理由は全くないということである。前稿では、“社会の外”と記した。それはあくまで“人間と見なされないほどのひどい差別”という意味であって、実のところ、こういった人々は社会を大きく支えていたのである。

わかりやすくは、博物館などでよく見る武士が用いる武具を考えてみればよい。弊牛馬の処理と皮革職人の技術がなければこのようなものは作れない。皮革だけではなく、警備、刑吏、芸能など、幅広い領域にわたって職能集団を形成していた。差別されて別社会を形成しつつ社会と密接に関わっていたというのが私の理解である。

『弾左衛門と江戸の被差別民』(浦本誉至史 ちくま文庫)では、江戸の被差別民の代々にわたっての支配者たる弾左衛門は、名字帯刀が許され、大名に匹敵する屋敷を構え、江戸幕府と密接な関係を持っていたことが紹介されている。大都市江戸に流入する無宿人の世話もしていた。もちつもたれつか、秩序の維持に大きな役割を果たしていたわけだ。

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それでも、「人と畜生の間に穢多といふ一階級があるといふのが上下一同の考であった」(『明治維新と賤民廃止令』より)というのが維新までの扱いであったという。だから金持ちにはなれても、娼妓にはなれなかった。恥ずかしくも不思議な時代であった。

この非科学的不合理に楔を打ったのが「賤民廃止令」である。だが、その成立過程については不明な点が多い。『明治維新と賤民廃止令』では、「賤民廃止令公布の最終決定を下した者の名前を挙げるとすれば、江藤新平左院副議長・大久保利通大蔵卿・井上馨大蔵大輔あたりを挙げねばならないであろう」と記されている。この頃は、大蔵省が広く強大な権限を有していたが、明治4年当時の大蔵省の内部資料が関東大震災でほぼ完全に焼失しているため、そこに研究の限界がある。

ところが、『明治維新と賤民廃止令』の記載によれば、その関東大震災の前に大蔵省の資料を閲覧した人の論考が残されており、そこには成立過程に触れて、次のように書かれているという。

然し、弁官の回答としては、平民より一等下に召置くと
云ふ案については、御沙汰に及ばれずとして、唯彼等の身
分をして立派に実効の立つ様に方法を考へ、其実効によっ
て平民に加入せしめよと云ふことであった

つまり弁官は明確に指示をしているのである。差別解消への主体的意思にほかならない。

この弁官とは誰か。大久保利通も井上馨も、弁官であったことはないし、そもそもこのような哲学を有してはいない。

これは太政官で中弁を務めていた江藤新平以外にない。大弁は公家が就くお飾りポストである。江藤新平に関しては他の言動と全く矛盾なく一致する。

江藤新平は赤松小三郎のように自筆の論考を残している。自己満足に過ぎないことではあるけれど、また、いい加減うんざりされるかも知れないけれど、「賤民廃止令」が貫徹されなかったこともあわせ、まだまだ多くのことを紹介したいと思う。

2019年7月 3日 (水)

西郷隆盛 その35 身分制度

西郷隆盛はいわゆる下級武士だと言われている。柔らかな語りとテレビ映りのいい爽やかなルックスから、タレントになったかのような歴史学者の磯田道史さんは、西郷は決して下級ではなかったとのべている。身分に相応して召し抱えの義務などもあり、上下に関わらず総じて武士は貧乏で、西郷も例外ではなかった。ともあれ、西郷隆盛が、家老など、生まれがいわゆる藩のトップクラスにはほど遠かったという受け止めで十分だろう。

江戸時代は士農工商という身分があったとされている。実際には農工商の線引きは曖昧であった。概ね総人口の1割以下であったと言われている武士にも、武士かどうか微妙な位置づけだった層もあり、薩摩のようにその割合が高かったところもある。有名どころでは坂本龍馬や伊藤博文など、商、あるいは農から、武士身分になった者もいるが、そういう移行が日常にあったわけではない。

武士は、特に上になるほど、家格というかガチガチの身分制度に縛られていた。大名はどうかというと、これも格づけされていて、参勤交代で登城した際の控えの間なども、かなり厳しく差別化されていたらしい。御三家、親藩、譜代、外様など、さらに、大納言とか中納言あるいは従四位とかは形の上では朝廷からの位階づけで、こういう何重もの格づけはまことにややこしい。石高の多い大藩ほど老中など政治中枢の役職に就けなかったというのも江戸幕府統治の知恵だったようだ。

将軍に拝謁できる旗本は概ね1万石以下の将軍家直轄の身分だが、石高が同じであっても拝謁できない御家人もいる。各藩にまたそれぞれに身分秩序があり、公家にも厳とした家格があった。重要なことは、それらが原則的に世襲であったということである。

つまり、好むと好まざるに関わらず、生まれにより決まってくるのである。1946年に公布された日本国憲法は、第十四条において、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定めている。明治維新からこの文言を憲法に得るまで80年近くを要しているわけだ。ただし、皇位継承権のある皇族は例外である。

ちなみに、いわゆる明治憲法、大日本帝国憲法において国民は“臣民”であり、知る限り日本国憲法第十四条に謳われている内容に該当する条項はない。今ここで改憲の是非を論じる気はないが、統帥権問題など、大きな欠陥を内包した明治憲法は、改憲なきまま国家を惨めな崩壊に導いたことは知っておかねばならない。

天皇の神格化が図られ、華族、士族、平民の区別がなされたが、それでも、江戸時代のがんじがらめの身分制度は、明治維新において大きく崩壊した。これは極めて重要な変革であった。いかに西洋化が推し進められたとしても、江戸幕府のままではこれは果たせなかったであろう。

身分制度の変革の最大の象徴は、「賤民廃止令」である。士農工商の身分差別どころではない、社会の外と位置づけられていた“賤民”を社会の中においたわけである。今から考えると全く馬鹿げた話だが、江戸時代から明治への移行において、あえて「廃止令」を必要とするほど疎外された人々が現実にいた。それがどれほどのものであったか、未だに尾を引いていることから、推して知るべしだろう。

『明治維新と賤民廃止令』(上杉聰 解放出版社)という労作がある。高価で、ほとんど研究書に近いが、私にとって極めて衝撃的で貴重な学びであった。引っ越しの度に処分せざるを得ない書が多い中、この書は長く大切に保管している。明治維新の意義という点で、もう少し触れていきたい。

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2019年6月18日 (火)

西郷隆盛 その34 江藤新平

江藤新平と聞けば、士族の叛乱たる「佐賀の乱」の首謀者で、それに失敗し、西郷隆盛を頼って鹿児島に落ちのび、西郷に拒否され、土佐にわたってそこで逮捕され、佐賀に送られた後に斬首刑に処せられ、晒し首になった、というのが、事実でもあり、それだけが私の旧来のイメージであった。毛利敏彦氏の『明治六年政変』で描かれている留守政府で大活躍した江藤新平と同一人物だとはとうてい思えなかった。

それは今からもう30年近くも前のことだ。『明治六年政変』の中公新書版が出たのは1978年頃で、私が読んだのは1980年代後半のことだったと思う。江藤は、人権擁護、民権擁護の革新的政治家として描かれている。

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「これはいったいどういうことだろう」と、本業で多忙な時期ではあったが、以後、江藤新平に関する書を手当たり次第に読みあさった。江藤の郷里である佐賀の県立図書館にも足を運んで関連書籍に目を通した。

結論的には、この江藤新平こそは、明治維新を明治維新たらしめた最大級の立役者であり、近代日本の制度整備に大きな功績を残した、というのが、愕然とする思いからスタートして、ようやく辿り着いたところの私の理解である。江藤が心を砕いた身分差別の撤廃については稿を改めて記す。

全く別方面、憲法の関係から、大正時代には衆議院議長も務めた島田三郎に関心を抱き、調べ、書き溜めたことを記念的に書としてまとめたことがある。一般にはほとんど知られていないが、政治家としてよりも、歴史家、言論人として彼の評価は高い。拙著も学者には評価して頂き、Wikipediaには島田三郎の参考文献としてあげられている。その島田三郎は、若き日に江藤新平の謦咳に接しており、終生、この江藤新平を心の師として仰いでいた様子がある。

江藤は佐賀の貧しい武士の家に育ち、脱藩や蟄居の時代を経て、明治新政府の中枢であるところの太政官の中弁という立場に就いている。今なら官房副長官といったところだろうか。そして、岩倉使節団の一員として少し遅れて出発する命が下されており、彼も行きたかったことだろう。だが、これは内政が大変な状況にあるということで沙汰止みとなっている。

誰が江藤の洋行を止めたのだろうか。薩摩に度々帰るなど腰の落ち着かない西郷はそれまでは江藤との接点は少なかったはずで、おそらく彼ではない。この辺りを詳述している書を知らないので、ここに私の大胆な推測を書いておけば、これは太政大臣の三条実美(さねとみ)によるものである。三条は、江藤を高く評価していた一人だ。三条自身も洋行を勧められているが固辞している。

三条実美は上級公家であり、優柔不断、清廉で温厚篤実、そして“お飾り”的な政治家として語られてきた。それは事実であろうけれども、彼は文久2年八月十八日の政変の時には、長州に近い尊皇攘夷派の公家として、公武合体を叫ぶ朝廷の一部や薩摩を中心とする勢力によって京を放逐されている。これが「七卿落ち」である。これによって、長州、そして大宰府と、流転の憂き目に遭い、上級公家らしからぬ悲惨な境遇で何年にもわたって辛酸をなめている。この時に相当に鍛えられたのであろう。

三条実美は、1867年の「王政復古」で政治に復帰してよりは、議定、副総裁、右大臣、そして明治4年には太政大臣になっている。元来、ボトムアップ的な政治家であるが、東京遷都は、色々な人の提言、特に江藤新平の提言を受けて、トップダウン的に三条実美が決断したものと思われる。

大久保利通は大坂遷都論であったし、そもそも朝廷を京都から東京に移すわけだから、朝廷と新政府に睨みが効く人以外には決定できない。徳望のある、そして、硬骨な面もあった三条がこれを担ったのであろう。このことは近刊の好著『三条実美』(内藤一成 中公新書)に記されている。

ついでに記せば、廃藩置県も提唱者としては江藤新平がその一人であったことはほぼ確実である。このことは『大日本憲政史』に書かれている。江藤が決定できたはずはないので、節目において、そしてまた留守政府において太政大臣たる三条実美が重要な決断をしている可能性がある。江藤新平、副島種臣ら、そして、西郷隆盛、三条実美のラインはよほど相性がよかったのだろう。残念なことに、上記の『三条実美』には留守政府時代の記述がすっぽり抜けている。その時代、洋行組との約束などどこへやら、西郷隆盛が非常に重要な役割を担ったことは間違いないが、太政大臣たる三条の決裁は必要であったはずだ。

幕末・維新についてあれこれ学んでみて、小栗上野介忠順(享年40)、赤松小三郎(享年36)、江藤新平(享年40)は、「悲劇の三大偉人」だと私は勝手に心の中で思っている。彼らについて、知ることも、綴ることも、知的興奮を覚えることながら、反面、悲しくもある。

2019年6月 5日 (水)

バナーからはずれます 感謝!

 改めて見ると、このブログ、書きも書いたり、長々と駄文を連ねてきたものだと自分でも思います。理事長のお勧めでその気になり、ほとんど自分勝手に楽しんでいるだけですが、それでも、読んで下さるかたがおられるというのは嬉しいものです。

 大原綜合病院のホームページに、バナーと呼ばれるブログへの閲覧誘導の見出しを頂いてきましたが、特任理事長補佐を退いてより、今は関わりが少なくなり、また、この度、病院のホームページを一新することを機に、『Dr井上のつれづれコラム』のバナーがなくなることになりました。カウント数が7万近くになったのも、ひとえにこのバナーのおかげだと思っています。
 医療のことをもう少し書くべきだったと思わぬでもないのですが、下手に書くと業界の内幕暴露的になり、また、医療は不確実で分かっていないことが多く、知識の提供というのは非常に難しく神経を遣うため避けてきたというのが正直なところです。大原綜合病院をネタにすれば書くことはいくらでもありましたが、例えば理事長や院長、事務局長とどういう話をしたかということなど、いい内容であっても、内幕的なネタは書きにくいものです。
 ただ、バナーがはずれる最後に、ひとつだけどうしても触れておきたいことがあります。それは、大原綜合病院の新病院玄関に掲げてある、世界で初めて野兎病を究明した大原八郎博士の偉業が銘された銅版です。この大原八郎博士あってこその今の大原綜合病院だとも言えるでしょう。もし御覧になったことがなければ、是非に見て頂ければと思っています。私は深く感銘を受け、理事長に、「あれはいいですね!」とお伝えしました。

 ブログそのものは私が個人的に開設したもので、明治維新のことなど、もう少し書いてみたいと考えていますので、今と同じアドレス、URLで続けます。「お気に入り」に登録しておいて頂ければ引き続きそのまま見ることができます。病院の品位を汚してはと、少々の遠慮はありましたが、これからは全くの個人責任になりますので、もう少し突っ込んだ内容にしていきたいと期しています。もしかして、「アレッ」と思われるかたもおられるかと、その旨今回お報せした次第です。
 長くバナーをおいて頂いたこと、もちろん、こちらが本筋ですが、長く大原綜合病院に関わらせて頂いたことに改めて深く感謝し、あわせ、病院の今後ますますの御発展を心よりお祈り申し上げます。

2019年5月30日 (木)

西郷隆盛 その33 留守政府

岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの豪華メンバーを揃えた岩倉使節団が欧米の訪問に出発したのが、廃藩置県(明治4年7月14日:1871年8月29日)の余韻もまださめやらぬ明治4年11月12日(1971年12月23日)である。

廃藩置県は、藩の息の根を止める、すなわち諸藩の統治という地方分権を廃し、中央集権体制への礎となる大改革であった。これによりいわば殿様がそのまま就任していた知藩事は罷免され東京在住を義務づけられた。新たに藩を統廃合したような形で県が策定され、それぞれに原則的に中央派遣の県令がおかれた。

このシリーズの前稿で記したように、岩倉使節団が出発した後の政治を担ったのが、いわゆる「留守政府」である。形の上では公家の三条実美が首班であるが、岩倉具視のような決断力や実行力はなく、事実上、参議筆頭の西郷隆盛が今でいう首相の立場にあった。

“留守政府”という言葉からすれば、とりあえずおとなしく留守を担った、かのような響きがあるが、前稿でも触れたように、おとなしいどころか、大改革を大胆に進めているのである。既定路線もあったにせよ、矢継ぎ早におこなった内容からすれば、主体的に改革を進めていったとしか思えない。

『明治六年政変』(毛利敏彦 中公新書)には、「廃藩置県から岩倉大使帰国までの二箇年余は、近代日本の歴史において政治上・経済上・社会上の急進的改革が最も盛大かつ集中的に実行された時期であった」と記されている。

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これは毛利氏だけの言ではない。多くの書がこの留守政府を高く評価している。私なりには、「政府が最も元気のよかった時期」と表現した同時代のジャーナリストもいるし、この留守政府をして、「横論を豪も危惧せずむしろ喜んでこれを聞く様子があった」と表現した言論人もいるということに触れておきたい。今も昔も言論人は政府の“天敵”となる傾向があるが、天敵からも“あっぱれ”と評価されているのである。なお、この時期に新聞も多く発行されるようになっている。情報の共有と意見構築への啓発は民主主義の根幹である。

解釈と評価はともかくとして、事実として、この時期とそれに相前後して、封建的身分差別の撤廃、宗教の自由化、徴兵制の導入、「地租改正」と通称されている金納方式の新たな税制の導入、戸籍調査、宮廷改革、太陽暦採用、司法制度整備、人権擁護と国権外交の展開、義務教育たる学制の導入、などが行われている。

身分差別解消と人権擁護の推進、この二つこそが燦然と輝く留守政府の偉業であり、明治維新を維新たらしめた事績、だというのが私の見解である。江戸幕府のままでは決してここまでやれなかったであろう。未完に終わったとはいえ、他のアジア諸国には見られない近代日本の特筆すべき大きな前進であった。

混乱がなかったかと問われれば、もちろん大いにあった。改暦は赤松小三郎の師匠であった内田五観が手がけているが、当然にして大混乱を引き起こし旧暦の撤廃にはその後相当な年月を要している。日本人の識字率を大きく高めたのは「学制」で、市町村統廃合で今では廃れつつあるとはいえ、全国津々浦々どこにも立派な小学校があるのは、そもそもはこれに依っている。しかし、子どもを学校に通わせるという概念がない人々にとっては迷惑でしかなく、充分な予算のないままに押し付けられた地域には非常な反発があったようだ。封建的な身分解放の象徴とも言える「賤民廃止令」も、故なき差別を受けてきた非差別民襲撃という悲劇を起こしているし、非差別民にとっても、特権的であった旧来の生業を失う不安があった。徴兵令は国防も内治も国民が等しく担うといういわば身分差別解消のひとつでもあったが、士族にとっては「特権とそれによる優遇」のはく奪への道でしかなかった。

それでも、断行したというのが留守政府の偉さである。混乱も反発もあったにせよ、少なくとも結果的には、この時期に国を分裂させかねないような内乱は起こっていない。洋行組にあたかも危機状況であるかのようなSOSを発して帰国を急がせたのは疑獄事件で窮地に陥っていた山縣有朋、井上馨らである。小心な三条実美があまりの大胆さに不安を覚えたということもあるだろう。

洋行組の帰国後にこの留守政府の主要人物の多くが辞職することとなる。これが明治6年政変で、毛利敏彦氏に同意するかどうかはともかくとして、そのいきさつを詳述した『明治六年政変』は必読の書だと思う。

留守政府においては、寡黙で、まずは人の話をよく聞いて決断をなすというリーダーとしての西郷隆盛、西郷内閣を支えた副島種臣、大木喬任という逸材、そして、「彗星のように現れて彗星のように消え去った」とも称されている江藤新平の天才的な大活躍があった。江藤については稿を改めねばならない。

2019年5月21日 (火)

原発事故被災地の今

久しぶりに原発事故被災地の福島県相双地域を訪れる機会があった。かつて、大熊町での医療プロジェクトに関わり、震災前はここに足繁く通っていた。日照時間が長く、温暖で風光明媚な地であったが、それだけに悲惨な災害には声も出ない思いであった。立ち入ることすらできなくなり、ましてやプロジェクトの継続などできるはずもなく、私も立場を降り、すっかり足が遠のいていた。

大地震、大津波に加えて原発事故が起こったのは2011年3月11日だから、あの日から8年以上が経過した。筆舌に尽くし難い惨禍を経験したかたがたにとっては、もう8年なのか、まだ8年なのか、どちらにしても生涯決して癒えることはない傷跡だろう。

放射線量が高い帰還困難区域は次第に縮小されてきたとはいえ、まだまだ海沿いから山あいの地域にまで設定されている。あちこちに設置されているモニタリングポストだと0.2~2.27μSv/hと表示されていたが、帰還困難区域では年間50mSvを超えるという。大熊町はいまだ帰還困難区域である。図は福島県の発表資料より。

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帰途に通った国道114号線沿いには、帰還できないまま放置せざるを得なかった家屋があり、本当に胸が痛む。どれほど懐かしの我が家に帰りたいことだろうか。

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それでも、燭光はある。ひとつは、宮城県からいわき市までほぼ直線の高速道路が開通したことだ。浜通りの縦の移動はかつて随分時間を要したが、時間的には大幅な短縮となった。常磐線も、あと少しの区間を除いて開通している。双葉町のやまあいや富岡町には新しい家屋が多く建てられつつあった。帰還者はまだ多くはないようだが、この地区に流入する事業者が多くなれば、商業地としての活性化にはつながる。それは少しずつではあっても、帰還事業につながるだろう。

教育、医療、インフラの整備は帰還事業の要となるわけだが、医療に関して、今回見学させて頂いた新設の双葉医療センターは救急疾患にも対応できるようにヘリポートを併設しコンパクトによく整備されていた。これにより、必要に応じて、基幹病院のある福島市、郡山市、いわき市とも医療用ヘリコプターで迅速な移動が図れる。

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双葉医療センターは県の付属施設として設けられ、私が長年にわたって尊敬してやまない非常に優れた医師がリーダーとして配置されていた。災害時にいち早く現地に赴いたひとりである。大変ではあろうけれども、期待を負うにこれ以上の人材はいない。彼の心意気にうたれる。

自然災害、人為災害と、起こった悲劇はどれほど嘆いても嘆き足りない。まさに痛恨の極みである。被災されたかたがたにとっては遅々たるものかも知れない。しかし、復興に向けて確かな力強い歩みが進められていることが今回の訪問で感じられ、非常に嬉しい思いであった。また再訪し、そのダイナミズムに触れていきたいと願っている。

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