2018年10月15日 (月)

西郷隆盛 その19 大政奉還

幕長戦争で惨敗を喫し、面子丸つぶれで、江戸幕府の凋落は覆うべくもなくなってしまった。もちろん幕府は存続しているわけで、おりしも、慶応2年7月20日(1866829日)第14代将軍徳川家茂が20歳で死去し、その後継に誰がなるかが問題となる。かつて第13代将軍家定の後継とも目された一橋慶喜に当然のごとく白羽の矢が立つ。まず徳川宗家を相続してのちに将軍になるわけだが、相続をとりあえずしたものの、不思議なことに彼は将軍職を当初は固辞する。

 

佐々木克氏の『幕末史』(ちくま新書)では、朝廷や諸侯の支持の取り付けをしてからという思惑があったと解説されている。家近良樹氏の『江戸幕府崩壊』(講談社学術文庫)では、幕長戦争に自ら出陣して形勢を挽回してからと思っていたからではないかと指摘されている。実際にはあっさりと考えを一転させ、出陣を中止する。

 

慶応2125日(1867110日)にはいよいよ第15代将軍に就任する。将軍空位期が4ヶ月以上も続いたわけだ。前稿で記したように、慶応21225日(1867130日)に、慶喜を支援してきた、振り回されもした、孝明天皇が死去する。それを口実に慶喜は幕長戦争を終結に持ち込む。写真はWikipediaに掲載されていた徳川慶喜。
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あれやこれやと、また自らが蒔いた種ということもあって、慶喜が負った痛手は大きかったと思われるが、翌慶応3年の3月から4月頃には将軍として諸外国の代表に謁見するなど、外交的な動きを見せる。頭が良く、弁舌がさわやかで容姿に優れていたためか、兵庫開港にも積極的であった慶喜の外国側の評価は上々だったようだ。天皇なのか将軍なのか、誰を相手にすればいいか戸惑い多かった諸外国にとっても交渉相手が定まったという点で安堵があったかも知れない。ところが、慶喜にとってことはそううまく運ばない。

 

この頃の慶喜について家近良樹氏は上記の書で次のように書いている(太字引用)。

 

 そして、ここに注目すべきは、徳川慶喜が自らの政治意見を持つ将軍であった(すなわち老中まかせではなかった)ために、いままでは幕府の政策を批判する場合、悪いのは将軍ではなく、中間にあって間違った政策を採用している老中や諸役人だとして、彼らに攻撃の矛先を向けていたのが、そうはいかなくなることである。そのため、将軍である徳川慶喜に直接批判の眼や言葉を向けざるをえなくなり、それが幕府との真正面からの対決を招くことになる。

 

幕府と正面から対峙したのが、薩摩であり長州であると記せば、なんとなく納得する気がするが、それはそうではない。いわゆる大名は江戸幕府の秩序に組み込まれていたわけで、変革や政治への参画、自治の拡大、がんじがらめの徳川支配からの脱却、を望んでいたとしても、基本的には親幕府である。家近良樹氏は繰り返し、対幕強硬路線と挙兵討幕路線とは違うとのべている。少なくとも、藩を挙げての武力討幕が起こったわけではない。

 

では誰が対峙、あるいは大変革、必要であれば武力挙兵を画策していったかというと、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、薩摩の大久保利通、西郷隆盛、長州の桂小五郎達である。彼らが、薩土盟約、大政奉還建白、討幕の密勅への動きなど、あの手この手で慶喜に揺さぶりをかけていったのである。私は現時点ではそのように理解している。

 

彼らがどのような変革を志向していたかについては、全くの私見であるが、土佐系や西郷隆盛などは合議政体、大久保利通はネチネチと粘り強くことを進めともかく自ら権力の座の獲得、のように感じられる。同床異夢という面もあったようだ。ただし、大樹公とも呼ばれた慶喜への反感は共通している。

 

志士の中には横井小楠の思想に影響を受けた人もいるだろう。日本通のイギリス人外交官アーネスト・サトウが匿名で書いた将来のあるべき日本の政体論を思い描いていた人もいるかも知れない。具体的な詳しい策があったわけではないにせよ、簡略には、天皇を核として公儀政体というか代議員を参集した形で構成される国家体制である。

 

そんな中、慶応31014日(1867119日)、突然のように徳川慶喜が朝廷に政権の返上を申し出て翌日に承認される。これが世に言う「大政奉還」だ。

 

豊田家以外の社長が続いた自動車会社のトヨタ社長に創業者豊田家直系の豊田章男氏が就任した際に、「大政奉還」だと騒がれたが、豊田章男氏は車好きでレーシングドライバーとしても相当な腕らしいし、ビジネスの世界も学び、特別扱いなしに一社員から頭角を現していった。能力があれば創業者直系がトップの方が据わりがいい。それと違って、朝廷には権威はあっても実務能力はない。慶喜がそれを見越して返上したという話もある。

 

幕府はそれ以前から尊皇であり、弱体化してよりは朝廷に振り回され、政治介入にも甘んじてきた。それならばいっそ慶喜が朝廷と合議し「政権帰一」の形をとった方がよいというものだったようだ。武家の頂点という意味ではそのままである。福井藩主の松平春嶽や土佐藩主の山内容堂なども同様の考えだったようだ。なお、大政奉還と言われている慶喜の上奏文の中身には「大政奉還」という言葉はない。

 

西周などの優れた側近の案もあり慶喜なりの構想はあったようで、それでことがうまく運べば、慶喜主導になってしまう。だからこそ慶喜嫌いで変革を求める志士たちが危機感を抱いて岩倉具視などの一部の公家と手を組んで次の手として打ったのが「王政復古」である。これは「大政奉還」とは似て非なる、紛れもなく慶喜はずし、徳川追い落としの大博打のクーデターであった。このことは稿を改めてとりあげてみたい。

2018年9月27日 (木)

西郷隆盛 その18 幕長戦争

幕長戦争は、長州が京から放逐された「818日の政変」を伏線として、長州が御所に向かって砲撃した「禁門の変」に端を発している。西郷隆盛が岩国にのりこんで戦闘に至らずに決着が図られた第一次長州出兵と(元治元年 1864年)、実際に戦闘が起こった第二次長州戦争(慶応2年~慶応3年 18661867年)である。狭義には後者を指し、長州戦争、四境戦争、四境の役、長州征討、長州征伐などとも呼称されている。

 

第一次長州出兵の際には、長州藩は三家老の切腹と四参謀の斬首という形で謝罪・恭順の意を示したわけだが、長州藩内部ではそのことに対する不満もあって、内乱の様相を経て高杉晋作らの強硬派が抬頭した。一方、幕府側は、それでは手ぬるいと征討論が起こっている。強硬論は一橋慶喜と京都守護職であった会津藩の松平容保が主張したようだ。ただし、一橋慶喜は言動が変転しているので本音がどうだったかはよく分からない。

 

西郷隆盛はというと、慶応元年828日付の蓑田伝兵衛宛の手紙に「幕府は自ら倒れ候儀、疑いなきことに候」と書いている。家老の蓑田伝兵衛宛ということは、実質的には国父として薩摩藩の実権を握っていた島津久光への報告である。長州再征伐をするとしても、幕府自らは諸藩を動員できそうにないので、勅命に頼るであろうと予測していたらしい。実際、勅命が出されたわけだが、この勅命をして、大久保利通が正義の理由のない勅命は「非議の勅命」だとして、それに従わないことを表明したと言われている。こういうのは「勅」は都合よく利用するものだという大久保の本質であろう。この頃は勅もインフレでどこまで孝明天皇の意思かも不明で重みもなくなっていたようだ。

 

ともあれ、薩摩は長州再征討については朝廷にも幕府にも非協力の腹だったわけだ。ちなみに、長州藩主毛利敬親父子から薩摩の島津久光父子宛に和解の手紙が届けられるのが慶応元年98日付で、薩長誓約(薩長同盟)が結ばれたとされているのは慶応2122日(186637日)である。武器調達の便宜を図るなど、薩摩はむしろ長州支援である。

 

ここで注釈しておくと、元治247日(186551日)に慶応と改元されているので、以後の元号は慶応となる。慶応元年5月は閏月で、暦の調整のために5月が閏5月と2回ある。

 

慶応元年105日には、一橋慶喜らのほとんど脅しに近い働きかけで、孝明天皇が日米通商条約を勅許している。ここに国内をさんざん振り回した攘夷問題にようやくにして終止符が打たれるわけであるが、江戸幕府にとっては気の毒なことに、時既に遅しであった。

 

さて、大幅な減石と藩主の蟄居隠居などを内容とした長州処分は慶応21月に勅許され、幕府は動きを開始する。それを見越して装備の充実なども図っていた長州は受諾せず、闘いが避けられない状況になった。いわゆる第二次長州戦争は、慶応267日(1866718日)に幕府軍の熊毛半島先端と屋代島への砲撃で火ぶたが切られる。

 

この屋代島というのは、地元では周防大島と呼ばれている。この8月に2歳の男児が行方不明となり、消防や警察の大規模な捜索にも関わらず3日間も発見されず、78歳のボランティアの男性がわずか20分で見つけ出したということで、日本中の人が胸をなでおろし、大きな話題になった場所である。風光明媚で全体的に金魚のような形をしている。昭和18年に沖合で戦艦陸奥が謎の爆沈をしたところでもある。

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写真で手前の街は柳井市で、海を隔てて島の向こうに拡がる街が松山市だ。幕長戦争で幕府側として周防大島を攻撃したのは松山藩である。闘いはこの大島口、石州口、芸州口、小倉口で行われたが、結果としてはいずれも幕府軍の惨敗であった。このあたりのことは『幕長戦争』(三宅紹宣 萩ものがたり)によくまとめられている。

 

医家でありながら、西洋式の戦術を学び天才的とも言える軍略家大村益次郎による準備と指揮に加えて、高杉晋作、坂本龍馬などの活躍があり、また、身分を問わない総力戦で長州が立ち向かい、それに対して寄せ集めの幕府軍は士気も低く、広島藩なども消極的であったことも敗因であったと思われる。

 

征長総督の紀州藩主徳川茂承も征長先鋒副総督の本庄宗秀も戦の素人であり、優れた指揮官がいなかったことも原因だろう。大義名分に欠ける長州征伐に大衆の支持が得られなかったということもある。不思議なことに会津藩の精鋭は参戦していない。薩摩藩が急遽兵を京に駐留させて睨みをきかせたことも関係あるかも知れない。

 

慶応2720日に大坂城にいた将軍徳川家茂が死去した。徳川宗家の後を継いだ慶喜が戦を続けるとか続けないで周囲を翻弄したあげく、実質的な戦闘は8月頃には終わり、ともかく止戦交渉が開始されているうちに孝明天皇が死去する(慶応21225日 1867130日)。30代半ばでの急死のいきさつには謎が投げかけられている。慶応3123日、孝明天皇の国葬を口実に和議が成立し、正式に戦争が終結した。

 

その後に怒涛のように起こる大政奉還、王政復古、さらには戊辰戦争で江戸幕府崩壊が決定づけられたわけだが、本質的に武力政権であった幕府に対する諸藩の信頼の喪失という意味において、この幕長戦争は極めて重大な意義があったというべきであろう。どういう形になるかの予測はできなかったにせよ、幕府終焉の始まりだったわけである。

2018年9月13日 (木)

西郷隆盛 その17 薩長同盟の謎

書くのが好きなだけに、結構こまめにブログの更新をしてきたのだけど、今回は随分間が空いた。私事に追われたこともあるが、薩長同盟について書こうとして壁にぶつかり、あれこれ見ているうちにいつの間にか時が過ぎ去ってしまった。

 

坂本龍馬が薩摩と長州の間を取り持つことで幕府を倒すきっかけを作り、それによって明治になっても薩長閥が支配力を握った、ということが言われている。大河ドラマでは薩摩が長州に頭を下げて薩長同盟を懇請したことになっている。書も、薩摩があのように頭を下げたかどうかはともかく、多くは概そのように記されている。

 

薩長同盟、これは少なくとも当初は同盟というほどの強固なものではなく、志士間の誓約的なものだとも言われている。その内容の詳細は、慶応2121日か22日(1866年3月8日)に坂本龍馬が同席して、桂小五郎(のちの木戸孝允)、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らが京都の小松帯刀邸で話し合いを行い、その内容を桂小五郎が要約して手紙で坂本龍馬に確認を求め、龍馬が「間違いない」と朱筆で裏書きして返信した資料に拠っている。現物は宮内庁に保管されているらしい。

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長くなるので抜粋は避けるが、その内容はというと、薩摩が一方的に長州を援助するというもので、どう読んでも薩摩のメリットがどこにあるのかが私にはサッパリ分からない。朝敵とされ、内部不和をきたし、征伐も受けそうになって非常に苦しかったのは長州であり、その長州にあえて薩摩が歩み寄るというのは考えて見ればおかしな話だ。およそ協力の約束というのは互恵的であるのが普通だ。これは今も昔も同様だろう。

 

薩摩はその後長州から兵糧米の調達などの便宜は受けているが、少なくともそうするということは記されていない。記されていたとしても格段に重要なこととも思えない。薩摩は慶応2年の米高騰の折には大阪で民衆への施し米をしているので、少なくとも極度に困っていたわけではないだろう。長州による薩摩の長崎丸への砲撃事件、禁門の変と、薩摩と長州は何かとぎくしゃくしていたわけだが、藩主同士は既に前年に手紙で和解を得ている。

 

さらに、「皇国之御為」という表現もひっかかる。幕末においても使われていたのかも知れないが、いかにも明治っぽい表現ではある。慶応2121日頃は、薩摩も長州も、江戸幕府の武力打倒を現実的なものとして考えていたようには思われない。そこまで言い切るものだろうか。

 

龍馬はというと、123日(186639日)に宿泊していた寺田屋で襲撃にあい、拳銃で応戦してからくも逃れたものの、手を負傷している。その後薩摩藩邸にかくまわれたようだ。桂小五郎の手紙は慌ただしく京を離れたはずの123日付で、龍馬の裏書の日付は25日である。

 

多くの書物はこの桂小五郎と坂本龍馬のやりとりを薩長同盟の記述の拠り所にしているが、それに異を唱えている人もいる。つまり、この手紙はあとになってのねつ造ではないかというのである。龍馬の居場所を移動中の桂小五郎はどうやって知ったのかと。場合によっては、京で実権を握る一橋慶喜、会津藩、桑名藩のいわゆる一会桑に“決戦”も辞さないということが内容にあるので、対幕府ではないにせよ、これが漏れたらやはり大変なことになる。こんな物騒な手紙を桂小五郎は龍馬にどうやって届けたのか。逆もまたしかり。当時の技術にしては龍馬の朱が鮮やか過ぎるという指摘もある。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/a679143df10f24f7003603b1078d27cb

 

あれこれ書を繰ってみたものの、結局真偽は私には分からなかった。しかし、総合して考えて見れば、少なくとも何かは不自然だと思う。

 

龍馬が西郷とも親しくしており薩摩と長州の間を動いたことは確かなので、とりあえずアバウトに、薩摩と長州が「一会桑」に反発し、ともかくも幕府と距離をおく独自路線である「割拠」同士として手を組んだ、と受け止めておくのでよいだろうとは思う。西郷は参勤交代の復活を言い出した幕府を見限った様子はあるが、武力討幕に至るのはもう少し後のことである。

 

さて、龍馬は、3月には小松帯刀か西郷隆盛かの斡旋と言われている霧島での湯治に赴いている。この時に寺田屋でいち早く危機を報せてくれたお龍を同行し、日本で最初の“新婚旅行”とされている。危うく一命を落としそうになった直後であり、そんなのんびりしたものでもあるまいが、坂本龍馬という人は殺伐とした時代にあって、イメージ通りにあっけらかんとして明るい人だったようだ。

2018年8月19日 (日)

ノモンハン 責任なき戦い

毎年巡ってくる815日の終戦記念日、戦争の悲惨さを改めて心に刻む日には、優れたドキュメンタリー作品が放映される。今年はNHK「ノモンハン 責任なき戦い」を見た。

 

若い人に「ノモンハン」などと言っても、「なんですかそれは」というぐらいのものだろうと思う。しかし、この事件は、重要性、注目度とも非常に高いのである。ベストセラーでありロングセラーでもある『失敗の本質』(中公文庫)の冒頭の事例に取り上げられている。多くの歴史家が研究対象としているし、アメリカ人学者も膨大な資料を渉猟して驚くような詳細な分析をしている。

 

ノモンハン事件は、1939511日の外モンゴル軍と満州国軍の間で起こった数十人単位の国境紛争に端を発した。これがそれぞれの背後にいるソ連軍と日本軍との大規模戦闘に発展し、終結までの4ヶ月で双方が1万人以上の犠牲者を出す悲惨な結果となったわけである。

 

一般読者を対象とすれば、本来は、そもそもノモンハンというのはどこにあり、どうして日本軍がそこにいたのかということから説き起こしていかねばならない。詳細に記すのはとても無理だが、とりあえず簡略に触れておきたい。満州国を下図に示す。「哈爾濱」はハルピンで、「海拉爾」はハイラルである。

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http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/100724/toshi_01.html

 

中国北東部、昔の満州に位置しているハルピンは伊藤博文が安重根によって暗殺された地なのでよく知られている。ここからさらに北西にチチハルがあり、2000m級の山が連なる大興安嶺を越えたホロンバイルの広大な高原の地にハイラルがあり日本軍が要塞をおいていた。この地は漢民族が多かったことから、今は中国の内モンゴル自治区となっているが、かつてのソ連、満州、モンゴルが近接しており、双方が主張する国境が異なっているため紛争が起こり易い地ではあった。混乱してしまうが、内というのは北京から見てということであって、外が概ね今のモンゴル国で、北京からより遠いということだ。

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武力で満州を支配下におき、満州国を創設して傀儡政権をおいた日本はこんなところまで進出していたのである。ハイラルのさらに内陸側、ソ連との国境に接して満州里があり、「満州里小唄」というのがあるぐらいだから、ここにも日本人が多くいたのだろう。日本政府は鉄道などのインフラの整備を図り、満州移民を積極的に進めており、ここに敗戦後の引き揚げの悲劇が生まれる素地ができていた。これほど奥地ではなかったにせよ、映画監督の山田洋次氏、作詞家のなかにし礼氏、作家の新田次郎氏らも満州からの苦難の引き揚げ者である。

 

ノモンハン事件は、よくある国境紛争に端を発しているが、当時満州を軍事支配下においていた関東軍が、ソ連を甘く見て、日本が主張する国境線まで簡単に封じ込められると暴走して戦闘を拡大させたことが大きな原因である。ひらたく言えば関東軍が“火遊び”をしたあげく、コテンパンにやられて莫大な犠牲を払い、あげく国境線はそのままで得るものが全くなかったのである。下図は戦場となったホロンバイルの衛星写真(Google earthより)。

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『失敗の本質』には、「作戦目的があいまいであり、中央と現地とのコミュニケーションが有効に機能しなかった。情報に関しても、その受容や解釈に独善性が見られ、戦闘では過度に精神主義が誇張された」と記されている。現地の指揮官などを自決に追い込む一方、本来最も権限があり責任が重いはずの作戦指揮者が反省しおのずから責任を取った様子はない。最大責任者の一人である作戦参謀の辻正信は決して負けではないと開き直りを続け、戦後は国会議員にまでなっている。

 

しかしこれでは死者は浮かばれない。ソ連軍にもほぼ同数にものぼる甚大な被害が出ていることから、司令官レベルでの見誤り、物量や近代兵器の差で、不利で無謀な戦いにも関わらず前線の兵士達はよく闘っていることがわかる。大東亜戦争で起こった構図そのままで、ノモンハンの重要性はここにある。失敗の要素が凝縮されているのである。

 

日本軍はいたずらに糊塗し、ノモンハンの苦い教訓から学ぼうとはしなかった。国民にも経緯や結末が知らされていない。仮に一部知らされていたとしても軍に都合のいい虚飾に満ちたものであろう。

 

入江徳郎さんの1964522日の「ノモンハンの白骨」と題された朝日新聞の『天声人語』は、「無人で不気味なノモンハンにはまだ白骨が横たわっていよう。せめてこの地の霊を弔うすべはないものか」と結ばれている。入江徳郎氏は従軍記者としてノモンハンに赴いていただけに、痛惜の思いがあったはずだ。ノモンハンの遺骨収集事業が開始されたのは比較的最近のことである。

 

戦史を見ていると自虐的な思いにすらかられる。しかし、例えば満州の軍事支配について、満蒙は日本の生命線だと言うけれど、これこそ危険な枯草であり、一切を棄つるべき、と早くから断言していた人もいる。そんなことは間違っていると、移民政策にも強く反対していた。誇るべき言論人、石橋湛山(たんざん 1884-1973)である。1956年に首相に就任したものの、病により短期で辞している。

 

現実は湛山の予言通りになってしまった。彼の主張に耳を貸す人はほとんどいなかったし、そんな空気も日本社会になかった。ノモンハンに見られるごとくの愚かな無責任、その後の太平洋戦争というさらなる悲劇、アジアに先駆けての成功的改革の裏面として、明治維新の何かがこんな危ない国家にしてしまったのだと思っている。

2018年8月10日 (金)

ハイブリッド老婆

キラキラネームもシワシワネームも面白い造語だと思ったが、こういうのは次から次へと出てくるようだ。

 

ハイブリッド老婆

文春オンラインで、「ハイブリッド老婆」という言葉を見て、思わず吹き出した。なんでも、気力、体力、財力が充実した老年の女性を称してのことらしい。エンジンのパワーとモーターのドライブでパワフルに動き回るということだろうか。燃費がいいということにかけて“そのくせ案外ケチ”というのを言外に匂わせている

大変結構なことだと思う一方、こういう人が身近にいて、あれこれ干渉してきたらさぞうっとうしいに違いない。人生の成功体験を鎧のように身にまとって、上から目線で説教されたのではたまらない。

記事は実母がモデルだったが、嫁にとって義母がそうだった場合の苦悩は想像するにあまりある。ハイブリッド老婆は、多分、正論が必ずしも好論でないということを悟っていない。現役世代はそれぞれに事情を持っているのだ。

誰が作った言葉かは知らないが、こういう造語は川柳をうんと短くしたような趣がある。

 

ステルス作戦

いつから使われるようになったのか、新潟の県知事選挙でクローズアップされた言葉だ。背後にいる政党は表に出ないで戦う選挙のことらしい。なるほど。ただ、それで選挙民にバレないかというと、たいていはバレバレで、ステルス性能は低い。

そんなことよりも、立候補者の性格や日常の言動、過去のスキャンダル歴などがステルスになっていることが問題だ。だから当選後に本性が出て、暴言失言、不適切なふるまいなどの“あきれキャラ”が後を絶たない。

ではどうしたらいいかというと、これは難問だ。選挙前の悪口はメディアへのないものねだりだからだ。その一方、メディアは発言の一端をとらえて針小棒大に“暴言”に仕立てあげる傾向がある。

 

走るシーラカンス

若い人は御存知ないだろうけれども、昔、三菱デボネアという主として黒塗りの高級車があった。一般には全く売れず、三菱系の会社の重役専用車とも言われた。

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レトロな角ばった姿かたちを長く変えなかったため、「走るシーラカンス」と揶揄されている。さすがに今はモデルチェンジをしているらしい。

 

ヘリコプター・ペアレント

これは、我が子のことが心配で、学校でもどこでもまるでヘリコプターがホバリング(空中停止)するかのように子供につきまとう親のことを言うらしい。気持ちはわからぬでもないが、子供にとってはさぞ迷惑なことだろう。語呂が悪いのでこの言葉は多分定着しないだろうけど、面白い表現だ。

ドクターヘリ事業に携わっていた関係から、ヘリコプターについては無駄に詳しいが、手動の場合は風を読みながら両手両足で操縦しなければならないので、ホバリングをピタッと決めるというのは結構難しい。失速の危険性もある。

ヘリコプターに関してはコンピューターによる自動のホバリング装置があるが、こと対子供関係ではオートというわけにはいくまい。つかず離れず、適正な距離感というのは人間が営みを続ける限り永遠の命題だ。

 

日傘男子

日傘というと女性専用の感があったが、日焼けを嫌って日傘をさす男性が増えて、これを日傘男子と呼ぶらしい。遮るもののないゴルフ場では日傘をさしている人も少なくない。写真は日傘男子、と言いたいが、男子という表現には躊躇するとっくに還暦を過ぎた単なるオッサン。我がよきライバル。

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私に関しては面倒なので日傘を使ったことはない。だからすっかり日焼けしてしまった。サウナで鍛えているから暑さには強いとうそぶいてはいるものの、暑いのは暑い。そうボヤいていたら、75歳の同伴者が、「暑いの寒いのと言っていたらゴルフなんぞやってはおれない」と。ご説ごもっとも。

今どきの後期高齢者は何とも元気で、敬服のほかない。もちろん、病に伏して施設や療養型の病院にいる人も、物故者もいるわけだが、何がこの運命を分けるのか、謎である。節制だとはとうてい思えない。健康ヲタクだったらこんなカンカン照りの猛暑日にゴルフなどやるはずがない。ついでに書けば、猛暑∽熱中症というパターンが定着したようだが、その傾向はあるにせよ、この病態はそれほど単純なものではない。

 

ここであげたのは一部だが、新しい造語は多くある。棄たれるもの、長く残るもの、傑作、駄作と色々だろうが、川柳感覚で楽しめる気がする。

2018年8月 2日 (木)

西郷隆盛 その16 長州

元治元年718日(1864819日)の「蛤御門の変」あるいは「禁門の変」で禁裏御所に向けて砲撃したという咎で、長州征討の勅が出て、禁裏御所総督の徳川慶喜が中心となった幕府は諸藩を動員して準備を行う。将軍の進発が予定され、征長総督として前尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)が任じられるが、慶勝は当初は辞退していた。朝廷はさかんに催促するが、そもそも幕府も諸藩もあまりその気がない。朝廷内部や大名、京の庶民にも長州シンパが少なからずいるし、戦争などやりたいわけではなく、この頃はどの藩も財政難にあえいでいたからなおさらである。だから準備に随分もたもたして、とりあえず形ができたのは元治元年11月になった頃であった。

 

長州はというと、「蛤御門の変」後1ヶ月も経たない元治元年85日、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国が海から下関に攻撃をかけて上陸し砲台を占拠されるという事態に陥っていた。これは前年510日に長州が攘夷実行の証としてアメリカ商船を砲撃したことの報復というよりも、関門海峡封鎖に対するものであった。写真は空から見た今の関門海峡(Wikipediaより)。

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この海峡は幅1㎞もないが、九州と本州を結ぶ海上交通の要衝であり、関門トンネルも関門大橋もない時代、いかに陸路を最大限に活用したとしても、ここだけは船を使うほかなく、航行の妨害によって交易に大きな支障が出ていたのである。他のことで外国の足並みが揃っていたわけではないが、関門海峡は共通の利害の要であった。実のところ、長州は伊藤博文を使者として直前に封鎖解除を条件に攻撃猶予の交渉をしようとして、ほとんど行き違いで間に合わなかったといういきさつがあるようだ。

 

当時の長州の藩主は毛利敬親(たかちか)であったが、彼は第12代将軍徳川家慶から「慶」の字を下賜され、それまでの教明から慶親(よしちか)と改名していた。敬親にしたのは元治元年114日である。

 

長州藩は1849年イギリス艦マリーナ号が江戸湾に侵入して測量をした際、いち早く駆け付けたことが高く評価され、ペリー来航の頃には三浦半島の警備を命じられている。その後、兵庫港の警備の任にもあたっている。ちなみに、下田に入港したマリーナ号への退去交渉は、例の日本で最初にパンを作った伊豆韮山の代官江川英龍が担ったという。勝海舟は英龍をなかなかの人物であったとのべている。パンだけではなかったわけだ。

 

毛利家は遠く遡れば天皇家の流れをくむともいわれている。その分、尊皇意識が強く、朝廷が困窮していた江戸時代、長州は白金などを献上し経済的な支援を継続していた。幕府は外様大名と朝廷との直接接触を禁じていたが、黙認かどうか、長州だけはこのように直接的な交流があった。孝明天皇側近の女官が天皇の意を受けて「女房奏書」として謝意の和歌を毛利敬親に贈った資料が今も残されている。学習院において、木戸孝允、久坂玄瑞、高杉晋作、木島又兵衛達が日常に公家達と交流していた時期もある。

 

ちなみに、藩主でなかった島津久光を別とすれば、幕末に幕府中枢の役職にない外様大名が孝明天皇に参内したのは毛利敬親がトップバッターである。本来これは御法度で、幕府には無断であったが、それだけ重きをなしていたとも、幕府の力がそこまで衰退していたとも言える。

 

そのように考えてみると、長州は一貫して尊皇であり、幕府に対しても忠を尽くしている。西洋に目を向け、藩士を海外に派遣し、反射炉の試作までしているわけだから、内心がどうだったかはわからないが、朝廷への姿勢としてはあくまで攘夷である。長井雅楽(うた)の「航海遠略策」を藩論にしていた時期もあったが、「航海遠略策」は開国して国力をつけ、しかるのちに攘夷、という点ではタテマエとしては攘夷論である。長井が切腹に追い込まれたのは、その反対派の動きと、文言に朝廷を貶めるかのような表現があるとの難癖をつけられた「謗詞(ぼうし)事件」によるものである。

 

「攘夷」と言っても、すぐに闘いをして追い払うという非現実的な即今攘夷の過激論から婉曲な攘夷まで、実のところ内容は幅が広い。孝明天皇はというと、頑迷な攘夷であっても、決して過激な攘夷ではなかった。無理筋の話で、これも攘夷を巡って百家争鳴を招いた一因である。孝明天皇については、自ら、あるいは天皇家の安泰と、京の平穏が第一義であったと考えておけば理解しやすい。

 

幕府は開国して諸外国との和親に踏み切ったが、そもそも外国船は迷惑以外の何物でもなかった。その意味では攘夷だが、それが不可能であることをはっきり悟り、ならばいいものは大いに取り入れようと積極策を打ち出したわけである。少なくとも後顧的に見れば、対外政策としては幕末の江戸幕閣が一番まともで現実的であった。その点においては幕府を倒す必要性は全くなかったのである。

 

前置きが随分長くなってしまった。要は、長州征伐にどれほどの大義名分があって誰が何の得をするのか全く見えなくなったのである。長州藩にとっては、敵はあくまで会津藩であって、朝廷を毀損する意図は全くなく、「冤罪」にほかならなかった。その言葉は薩長同盟の際の木戸孝允の一文に出ている。

 

結論的に言えば、その収拾を西郷隆盛がつけた。彼は長州の藩論が分裂していると見抜き、恭順している者まで罰すべきではなく、今は内乱をしている場合ではないと、ほとんど単身で長州の毛利藩につながる岩国藩に乗り込んで、114日(1864122日)吉川経幹(きっかわつねまさ)と談判し、「禁門の変」で兵を率いていた家老3人を切腹させ、何人かの長州藩士の処刑・処罰をすることで事態を打開させる。こういうのが西郷の真骨頂で、“戦好き”と自称しているものの、戦は好きでもなければ得意でもない。切腹や処刑が西郷の本意であったかどうかはわからない。そうだとしても、多分、強硬論を背にしてやむにやまれぬことだったと思う。この時に高杉晋作の処刑も検討されたことが最近の研究で判明している。形としては長州藩の(不本意な)自発的な謝罪である。もしかしたら慶親から敬親への改名もこれに関係しているかも知れない。

 

長州藩主の毛利敬親は、家臣の提言に「そうせい」とよく言ったそうで「そうせい候」と揶揄されていて、いかにも暗愚のようだが、実は賢候であった。

Photo_2 洪水に悩まされた萩において、藩士から提言をつのり、運河を造ることで洪水被害を激減させている。実践的な軍事教練なども行っている。厳しい財政事情の中で倹約に務める一方、教育に力を注ぎ、藩校の明倫館を移設拡充している。飢饉などで民が困窮している時は米を放出してその救済にあたったという。また、身分にこだわらず能力のある者を登用した人でもあった。伊藤博文はもともと周防の農民の出であるが、萩の武士の養子となり、毀誉褒貶があるにせよ、幕末は敏く小走りに動き回り、明治になってからは大物として活躍している。戦略家として優れた能力を発揮した大村益次郎も医家ではあっても武士ではなかった。

 

長州のそもそもの本拠地は萩城なのだが、海に面し地理的に偏した萩では防御や命令の伝達に支障があるということで、敬親は拠点を今の山口市に移している。おそらく、家老の切腹には断腸の思いがあっただろう。明治4年に52歳でこの地で逝去した。

 

この年に限らず、この頃のことを時系列で端的に把握していくのは非常に難しい。というのは、朝廷内部、一会桑、江戸幕府などなど、同時並行的に色々複雑な動きがあるからである。

2018年7月24日 (火)

西郷隆盛 その15 蛤御門の変

豪雨による大災害のあとは一転してカラカラの猛暑だ。723日は埼玉県熊谷市で観測史上最高の41.1度を記録したという。

Top http://portal.nifty.com/kiji/180723203481_1.htm

 

かなり前のこと、日本で最初に正式な女医となった荻野吟子(18511913)の記念館を熊谷市に訪ねて、酷暑の中、大汗をかきながら利根川沿いの堤防をテクテク歩いたことを思い出す。随分暑いところだとは思ったが、今にして思うに、記録ホルダーになるぐらいの地域だったわけだ。

 

北海道せたな町の郷土資料館にも荻野吟子ゆかりの品がおかれている。この時は、帯状疱疹に罹患して痛む脚をひきずりながら、ヨタヨタと歩く情けない状況であったが、それだけに、この偉大なる先駆者の辛苦を偲ぶところ多々であった。

 

郷土資料館で見た荻野吟子が書き残した資料のひとつに、勝海舟を引用して西郷隆盛に触れている一節に目が止まった。明治維新の時に17歳ぐらいだった荻野吟子は、その後の勉学によってか、西郷隆盛の真意が征韓でなかったことを見抜いていたようだ。不思議なつながりである。

 

夏の京都が暑いことはよく知られている。150年以上も前の夏の京都はやはり暑かったのだろうか。実際の天候がどうだったかは私にはわからないが、元治元年718日(1864819日)の京都は炎による猛暑に包まれていた。「蛤御門の変」に続発した「どんどん焼け」とも言われる大火である。京都中心部約5万戸のうち27千戸が焼失し、火事による死傷者は千名を超えたという。

 

どうしてそんなことになったのか。その伏線は長州が京から放逐された前年の「八月十八日の政変」と元治元年65日(186478日)に起こった池田屋事件にある。

 

池田屋事件というのは、京都守護職の会津松平容保とその配下の新選組が、探索により、過激攘夷の志士が京都で大動乱を画策し、その会合を池田屋で行っているとの情報を得て、襲撃した事件である。池田屋での会合では、梅田雲浜の弟子で、武器商人となっていて新選組に拉致された古高俊太郎の奪還と、前年の「八月十八日の政変」で長州放逐の立役者と見られていた朝彦親王を襲うことが相談されていたという。池田屋にいたのは主に土佐藩士で、ほか熊本藩士など、長州藩士はむしろ少ない。池田屋か、少なくとも近くにはいた長州の桂小五郎(木戸孝允)は、からくも脱出している。

 

新選組による襲撃と聞くと、凄惨な状況を想起するが、手薄な体制で突入したこともあって、死者が出たのはむしろ新選組の方で、池田屋で殺害された志士はおらず、周囲で厳戒態勢をとった会津藩兵や桑名藩兵によって殺傷されたと言われている。

 

京都守護職の会津藩配下にあって京都の治安維持にあたったのは見廻り組と新選組とされている。身分が異なることもあって厳密ではないにせよ両者は担当地域が分かれていたようだ。以前にも触れたように、坂本龍馬を暗殺したのは見廻り組である。

 

この頃の京は、会津藩士が殺害されたりして、松平容保は長州を憎み、長州も会津を目の敵にするなど、双方が疑心暗鬼となっていた感がある。国元や江戸詰めの家老などは、藩主に京都守護職を辞して物騒な京を離れるように促していた。容保は在京中病気で引きこもりがちだったと言われており、その分、手足となって動く公用方の権勢が強くなり、会津藩内で軋轢を生じていた面もあったという。ただし、松平容保は対長州では一貫して強硬論だったようだ。

 

孝明天皇の信が篤かった松平容保がその後朝敵とされてしまい、朝敵として討伐の対象にまでなった長州が権力を握ることになるわけだから、これひとつとっても、明治維新が謀略の政治クーデターであったことに疑いの余地はない。長州は二転三転して存続を図っているが、会津は不器用に忠を貫いたとも言える。もっともこれは武家の話であっていずこも一般大衆はおきざりである。

 

「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」とも称されているが、それが起こるまでは、西郷隆盛は会津と長州、どちらにも与せず静観を決め込んでいたようである。ところが、「八月十八日の政変」で京を放逐されたことの挽回策として、家老と兵を上洛させて親長州の公家を通じて復権を得ようとしていた長州に、池田屋事件の報が入り、藩内の慎重派もおさえがきかなくなる。

 

長州とすれば、孝明天皇の攘夷に忠実で、朝廷の長州支持も少なくなく、幕府が約束した通りに外国船打ち払い行動を起こしたわけだから、納得がいかない面が多かったのだろう。しかし、兵を京都に入れてしまったら、偶発であれ必然であれ、武力衝突は時間の問題であった。西郷も、戦闘になることを想定して藩に要請し薩摩兵を入洛させる。

 

京都御所はかなり広大で複雑な構造である。単純に言えば、天皇の住居は禁裏御所と称されて6つの門に囲まれており、その外側に公家屋敷が立ち並ぶ。こちらも囲まれており9の門がある。「八月十八日の政変」の場となったのは外側の堺町御門である。蛤御門も外側なのだが、禁裏御所に非常に近いところに位置している。ここに長州兵が押し寄せ、警護の会津藩兵と桑名藩兵と武力衝突が起こるわけである。

 

長州が優勢、という情報に接し、西郷隆盛率いる薩摩兵が応援に駆け付け、西郷も負傷したものの、その奮闘によって長州は散り散りになって敗退するはめとなる。この時に京都を焼き尽くすかのような火災が起こっている。これが「蛤御門の変」で、長州は禁裏の方向に砲撃したことを難癖的に咎められ、朝敵とされ、征伐の対象となったわけである。さらに、逃散する長州兵に会津兵が残虐行為を働いたということで長州の会津への怨念が深まる。

 

長州に怒り心頭だった西郷が勧められて勝海舟と会うのは元治元年911日(18641011日)、大坂(大阪)でのことである。勝海舟の話に感激屋の西郷は魅せられ目を見開かされたようで、有名な「惚れ申し候」はこの時のことである。

 

その後、期してか期せずしてか、西郷隆盛は対長州で奮闘することとなる。

2018年7月12日 (木)

読み間違い雑感

サッカーの本田圭祐選手が、「清々しい(すがすがしい)」を「きよきよしい」と言い間違えたことが話題になっていた。(画像はWikipediaより)

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まあ、本人は赤面の思いだっただろうし、彼本来のカッコよさとは縁遠い話だが、「すがすがしい」という言葉を知らぬわけはあるまい。ついうっかり字面をそのまま読んでしまっただけのことだろう。クスッと笑ってそれで御仕舞にすればいい。

 

それにしても、外国は強い。欧州で活躍する選手も多い日本サッカーが相当に高レベルになってもこれだ。江戸時代は鎖国で独自の文化を発展させたと言えば聞こえがいいし、それはそれで事実でもあるが、引きこもって世界の田舎になっていただけとも言える。「攘夷」などできもしない相談で、幕末日本が外国に太刀打ちできなかったのは当然だろう。外国の凄さはその精神力だと思っている。日本に2点先行されながら3点を奪取して大逆転をしたベルギーには驚嘆してしまう。日本の方が格下とはいえ、技量的にはそんな大逆転をあっさり許してしまうほどの差はあるまい。

 

菅官房長官が枚方市を「まいかたし」と読んだらしい。「ひらかたし」だから、政権の中枢として随分恥ずかしい話だ、と大仰にあげつらいたいが、実は私自身、「ひらかた」と読むのは長い間知らず、知ったのはそう遠い話ではない。大阪にあまり縁がないと意外に知らない、あるいは、読みになじみがないのではなかろうか。

 

今回の豪雨は全くひどいものだったが、これは重い話なのでとりあえずおき、被災地域に、宍粟市があった。私は昨年に当地に行くまで「あなぐり」とばかり思い込んでいた。道路標識のローマ字で、「ん?」となって、「しそう」と読むというのを初めて知った。「栗(くり)」に似ているが、よく見れば「粟(あわ)」である。と言っても、 “あなあわ”と読むのではなく、あくまで「しそう」である。それに、勝手に思い込んでいただけのことで、「宍」は「穴」ではない。

 

宍粟市から養父市(やぶし)、但馬を通って日本海に抜けた時、「間人」という地名に目を白黒させた。はて、と思ったら、これは「たいざ」と読む。北海道や沖縄の地名が読みにくいのはよく知られているが、日本列島を旅してみて、本州も決して少なくないことを知った。

 

言い間違えは洋の東西を問わずあるようで、アメリカ大統領に関する報道をしていたアメリカ人記者が、「presidency(大統領職)」を「pregnancy(妊娠)」と言い間違えてニュース取り上げられたことがある。何を考えていたのかと視聴者は大爆笑したに違いない。

 

他人のことは言えない。私の失敗談は数々あるが、結婚式のスピーチでこともあろうに新郎の名前を間違えたことがある。看護学校の講義で、ウケ狙いでAKB48を出し、「AKBよんじゅうはち」と言ってしまった。後になってフォーティーエイトだと知った。こういう間違いをするのでは完璧にオッサンだ。ともに場の空気を固めてしまう大恥をかき、以来、かなり慎重になった。

 

キラキラネームもそうだが、人名などの固有名詞は難しい。西郷ゆかりの幕末薩摩の人名で言えば、島津下総は「しもうさ」なのか「しもふさ」と読むのか、どちらの解釈もあるようだ。赤山靱負は知らなければ「ゆきえ」とはまず読めないだろう。桂久武はさすがに素直に読める。が、この3人が実の兄弟だというのは名前からは絶対にわからない。

 

江戸時代は独特の家督制度があり、幼名、諱(いみな)、号、別名、変名などがあり、しかもそれらが変わったりしているから余計ややこしい。隆盛の名は明治になってからだし、利通も幕末ギリギリからだ。厳密を期せば語るに逐一注釈をしなければならないが、とてもそんなことはできない。

 

ちなみに、大久保利通は島津久光から名前を与えられてより大久保一蔵と名乗っていたが、大久保一翁と紛らわしい。一翁は、徳川幕府の要職にあり、勝海舟を引き立て、幕末、明治において多くの人の尊敬を集めたという。明治になってからも留守政府首班の西郷が彼の出仕を仰いだほどの大人物である。

 

気楽な話にと気楽に書き出して、結局こんな締めになってしまった。これも連想綴りが好きな生来の性(さが)のなせることと、お許し頂きたい。

2018年7月 6日 (金)

西郷隆盛 その14 京の情勢

その13で記したように、西郷は文治元年2月末(18643月末)に鹿児島に戻る。斉彬の墓参をして、島流しの疲れを癒す間もなく、久光の呼び出しを受け、元治元年314日(1864419日)に京都に着く。入れ替わりというわけでもなかろうが、国是会議というか、参予体制が瓦解して失意の久光は元治元年418日(1864523日)に西郷と小松帯刀を残して京を離れ、大久保利通を同行して帰薩している。

 

水戸藩の権力闘争から生まれた尊皇攘夷の過激集団(天狗党)が筑波山で挙兵し、京を目指して西上するのが元治元年327日(186452日)である。既に記したように、敦賀で阻止され、投降したにも関わらず苛酷な処罰を受ける。
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この手の錦絵はお咎めにヒヤヒヤしながら大仰に描かれ、幕末から明治にかけて庶民の娯楽的情報源になったようだ。想像で描かれたせいか、とうてい似ているとは思えない姿で西郷隆盛も多くネタになっている。錦絵から幕末維新を読み解いた書もあり、機会を見て紹介したい。

 

一橋慶喜(よしのぶ)が将軍後見職を退き、朝廷が新設した禁裏御守衛総督と摂海防衛指揮に就いたのは元治元年325日(1864430日)である。京都所司代(桑名藩主松平定敬:松平容保の実弟)があり、京都守護職(会津藩主松平容保)をおいているのに、それではこころもとないと、天皇警護を主務とする職がおかれたことになる。慶喜が京都で立場を築きいわゆる“一会桑”体制となったわけだ。

 

摂海というのは大阪湾のことで、外国艦隊が大阪湾に押し寄せて来るのを防衛するということだが、これも外国が本気になれば侵入を防ぐことなどできない相談で、本来なら交渉というか折衝しかないわけで、さほど意義があったとは思えない。孝明天皇が絶対に容認しない兵庫開港問題とも絡み、結果として孝明天皇が自縄自縛で慶喜依存に落ち込んでしまった感がある。

 

前年には孝明天皇から幕府への大政委任を確認し、元治元年には庶政も「幕府へ一切御委任」との勅諚を得ている。将軍家茂が18歳ということを考えれば、「天皇の喉元の要地より天下に号令する勢い」と一橋慶喜が揶揄されたのも当然のことであろう。それでいて江戸の幕閣との協調を欠き、いっそうの幕府弱体化につながる。

 

一橋慶喜は最終的に開国の勅許をこの構造から得るわけだが、横浜鎖港を言い出して参与体制を瓦解させたり、はたまた兵庫開港を強硬にとなえたりして、周囲を翻弄している。朝廷と親密であった島津久光の追い落としだったのかも知れないが、キーマンの軸がこれだけぶれたのでは混乱は必定である。かつては一橋慶喜を将軍に就けようと奔走し自らの命まで危うくした西郷の心中はどうだったのだろうか。疑問がなくもないが、維新の三傑は、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允と言われている。その論でよければ、意図せずして維新を引き寄せた裏の三傑は、孝明天皇、一橋慶喜、島津久光と言っていいかも知れない。

 

気の毒なのは池田長発(ながおき)を正使とした遣仏使節団で、できもしない横浜鎖港談判の任を帯びて文久3年末(186426日)に出発し、当然のごとく全く相手にされず元治元年7月(1864819日)に空しく帰国している。フランス士官殺害事件の後始末をさせられ、長州の関門海峡封鎖解除が含まれていたパリ約定も締結したようだが、そちらは幕府によって反故にされている。

 

池田長発は攘夷論者であったが、外国を見聞したことで、開国論者に転じたという。なかなかの人物だったようだ。以前の稿で紹介した、有名な、スフィンクスを背にした侍の写真は渡欧に際してカイロに立ち寄った時のものである。朝廷への形ばかりのアピールとして捨て石にするにはあまりにももったいないことであった。正使と副使は不遇であったが、救いは外国を実際に見聞したこの使節団のメンバーが多く明治に活躍したことであろう。

 

ともあれ、文久3年(概1863年)は「攘夷」という“幽霊”が強烈に日本をさまよい、翌元治元年(概1864年)はその余波と後遺症で誰しもが苦しんだ、という感がある。藩主が参内し、藩論を変えて攘夷を唱え外国艦への攻撃という実践までした長州は、京を追い出され、池田屋での会合を新選組に襲撃され、あげく長州征伐論まで起こされるというのは納得できない事態であった。

 

こういう状況で西郷がどういう動きをしたかだが、元治元年3月から、長州が兵を送りこんで巻き返しを図った「蛤御門の変」(禁門の変)が起こる元治元年6月までの間がよく分からない。浦島太郎状態のリハビリをしていたのかも知れない。彼は筆まめで、特に6月は多くの手紙を書いている。のちの大久保利通への手紙からは、生糸の密貿易の段取りをしていた様子もある。愛加那に書いたかどうかは知らないが、彼女は字が読めなかったという悲しい話がある。余談ながら、日本の識字率を大きく進歩させたのは明治5年の「学制」で、西郷隆盛が筆頭参議、つまり事実上の実務のトップ、今でいう内閣総理大臣だった時のことである。大久保利通らは岩倉使節団で不在であった。

 

さて、長州は攘夷の実行者として京の世上で不思議に人気があり、一方、薩摩と会津は、「薩賊会奸」と称されて嫌われていたという。西郷は会津と距離をおくために親会津の薩摩藩士を帰薩させる動きをしていたとも言われている。当初は長州問題には静観を決め込んでいたものの、「蛤御門の変」では西郷も決起せざるを得なかった。

 

京の祇園で仲居をしていたという“豚姫”こと、お虎とねんごろになったのはこの頃であろう。後年に勝海舟が西郷はこの豚姫をたいそう気に入っていたと述べている。「豚姫といふのは京都の祇園で名高い・・・・もつとも初めから名高つたではない、西郷と関係ができてから名高くなつたのだが・・・・豚のごとく肥えて居たから、豚姫と称せられた茶屋の仲居だ。この仲居が、ひどく西郷にほれて、西郷もまたこの仲居を愛して居たのヨ」と語っている(『氷川清話』講談社学術文庫)。勝海舟は大言壮語的なところがあり後年の語りにて不正確かも知れないが、この手の話に大きな記憶間違いがあるとは思えないので、多分事実であろう。

 

NHKの大河ドラマではこの豚姫をハリセンボンの春菜さんが演じるそうだ。一橋慶喜もいかにもそれらしく、この配役にはなかなかのセンスを感じる。ただし、これから変貌していくのかも知れないが、大久保利通はあんなに情味あふれる爽やかタイプではない。私にとっては下記の写真の方がしっくりくる。
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イメージとしてはちょい違うが、役者として今を盛りの遠藤憲一さん演じる勝海舟と西郷隆盛が初めて会うのが元治元年911日(18641011日)、大坂(大阪)でのことである。

2018年6月21日 (木)

切腹考

江戸時代に関する書を読んでいると、切腹という言葉がよく出てくる。今でも、「それで何か起こったら俺が腹を切る」というふうに使われる。昔と違って本当に死ぬわけではないが、責任を取るということだ。ただ、そういう威勢のいいことを言う人にかぎって実際に責任を取ったのを私は見たことがない。

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浅田次郎さんの短編小説集に『お腹召しませ』(中公文庫)というのがあって、その中の一つの短編、書題そのままの「お腹召しませ」で、入り婿の不祥事から、切腹が免れないと悟り、それにおそれおののく武士の苦悩がコミカルに描かれている。妻も娘も「お腹召しませ」と賛同し、手回しよくその準備を整える(何と冷たいことか)という自虐も浅田さんらしい。

 

結局のところ「切腹はいやなので武士をやめる」というのがオチになっていて死なずに済んだ。そういう侍もいたという祖父からの聞き覚えをヒントにして創作し、名誉などより、人間らしく生きた方がよい、という氏の哲学がモチーフになっている。切腹の際には白装束というのが時代劇の定番だが、この小説では麻黄色の肩衣となっているので浅田さんはかなり調べてのことだろう。白だと鮮血が目立ちあまりにも凄惨になるため、実際、全て白ではなかったらしい。

 

切腹と言っても、医学的には腹を切ってもすぐには死ねない。腹部大動脈をバッサリ切れば大出血によって分単位で死ぬだろうけど、この血管は背中に近いところ、いわばお腹の非常に深いところにあり、そうそうそこまで刺せるわけではない。腸管や腹部の中小の動脈を傷つけてしまえば死んでしまうが、少なくともすぐではない。

 

作家の故吉村昭さんに『冬の鷹』(新潮文庫)というオランダのターヘルアナトミアを前野良沢と杉田玄白らが「解体新書」として苦心惨憺して翻訳する経緯を描いた小説がある。この中に、良沢と親しくしていた皇国の士高山彦九郎が腹を切って自死する描写があるが、夜に切って、息絶えたのは明け方となっている。吉村さんもよく調べて書いたのだろうし、腹部刺傷や腹部外傷をかなり経験したものとしてこの経過は首肯できる。ただし、医療者は当然にして治療介入をするわけで、自然経過を見たことはない。

 

1970年(昭和45年)1125日に作家三島由紀夫が「盾の会」の仲間とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に侵入し、クーデターを呼びかける扇動演説を試みたのちに総監室で割腹自殺を遂げるという事件があった。

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介錯がうまくいかず悲惨な状況になったようだが、首のない遺体と床におかれた生首の写真が流出したことも大きな話題となった。切腹というのは凄惨極まりない。三島由紀夫は高山彦九郎に関心を寄せていたという。

 

腹を切ってもすぐに死なず地獄の苦しみを味わうというのは昔の人もわかっていて、だから介錯と言って斬首するわけである。時代が進んでは腹を切ることもせず、扇腹と言って扇で形作りをしてすぐに斬首されたようだ。斬首も頸椎があるため簡単にできるとは思えず、介錯人は腕利きでなければならなかった。斬首に立ち会ったアーネスト・サトウはその著書の中で、うまくいかなかった時のさらなるおぞましさに触れている。

 

長州の長井雅楽が切腹死を遂げたというのは前回に書いた。大河ドラマ『西郷どん』でも赤山靱負(ゆきえ)の切腹シーンが最初の頃にあった。国内外の情勢に通じ、先見の明があり坂本龍馬からも高く評価された会津藩の神保修理(長輝)も慶応4222日(1868315日)に切腹させられる。彼は無駄な流血を避けようと苦悩していた人物のように思われる。多くの有為な士が酷な死に遭ったわけだ。

 

切腹は武士にとって“名誉ある死”との格好つけ、言い換えれば“粉飾”がなされていただけのことで、それによって武士への死刑宣告を容易にしていた。実際は斬首にほかならない。

 

斬首といえば、水戸の過激攘夷思想集団による天狗党の乱では、彼らが各地で暴虐を働いたということもあって、京にのぼることがかなわず、敦賀で降伏したのちに苛酷な扱いを受け、18653月に300人以上が数日間をかけて斬首されている。水戸にいる家族までもが処刑されたという。水戸藩主だった徳川斉昭の七男でそもそも水戸家の出である一橋慶喜には彼らへの情状酌量は全くなかった。江戸時代は魅力あふれる興味深い時代であるが、その一方、こういう残虐性には強い嫌悪感を覚える。

 

必ずしも切腹に限らないけれども、基本的人権中の最たるものである命が、権力者の一存で奪われてよいはずはない。また、江戸時代において当たり前のように行われていた拷問も、人権侵害の極みである。明治維新の最大の意義の一つは、こういった悪しき慣習を廃し、法治主義による人権擁護を導入したことにある。

 

少数者が政治を担う、すなわち寡頭政治という意味では明治維新は政治体制にさしたる変革があったわけではない。西郷隆盛を語りの軸にしているのは、彼が明治政府における法治主義導入のキーパーソンの一人だからでもある。

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