2019年10月17日 (木)

西郷隆盛 その40 西郷隆盛と征韓論

西郷隆盛が征韓論者でなかったことは私の見解として以前に記した。今回の稿ではその根拠についてのべてみたい。

西郷隆盛が征韓論者というのは長年の通説であった。その通説を真っ向から否定したのが『明治六年政変』の著者、大阪市立大学教授であった故毛利敏彦氏である。西郷隆盛は決して“征韓論者”ではなく、平和交渉の使節として、朝鮮語に堪能で事前調査も行っている腹心の別府普介を同行して赴こうとしていたと。毛利氏は、西郷自身が兵を率いて、という資料的根拠は全く見当たらないと指摘している。

これに対してマルクス主義歴史学者なる人達からは、揶揄、誹謗に近い批判を受けているが、それらは雑音に近いもので取るに足らない。そうではなく、実証的歴史学の見地から西郷隆盛の手紙を仔細に検討し、『西郷「征韓論」の真相―歴史家の虚構をただす』(勉誠出版)という書をも出版して毛利氏を厳しく批判したのが、もともとは関西大学教授として建築学が専門であった川道麟太郎氏である。

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はたしてどちらが正しいのだろうか。

ことをややこしくしているのは、政治が苦手で戦さが得意、なので強気で兵の派遣を唱えていた板垣退助宛の、西郷隆盛の手紙である。ひらたく書けば、「自分が交渉で朝鮮に行けばきっと謀殺されるだろうから、そうなれば兵を出す大義名分が立つので、あとは貴兄に任せる」という内容だ。この板垣宛の手紙が一人歩きして“征韓論者”になってしまったわけだ。岩倉具視、大久保利通、伊藤博文たちが政権奪還の策謀の誤魔化しとして利用した面もあるだろう。後年に日韓併合がなされたわけで、国民的英雄たる西郷隆盛が征韓論者だったとして何の不都合もなかったということもあるかも知れない。

実のところ、川道麟太郎氏も、西郷隆盛が “征韓論者”であったとは断言していない。むしろ、「西郷が真剣に征韓を期していたとは言えまい」と記している。ただ、懐に短銃を用意しようとしていたことから、毛利氏の言うような平和使節でもない、としている。しかし、西郷は結構用心深くて、短銃の保持はその時に始まったことではない。詳しくは触れないが、川道氏の毛利氏批判は、資料の読み方の問題と、平和への希求心がどうだったかという問題で、遣韓使節という点では、私が読解する限りでは大きな違いはない。川道氏の、西郷が死に場所を求めていたという論には私は同意しかねる。僧月照の件で死に損なって以来、西南戦争の終末に至るまで西郷は相当にしぶとく生き抜いている。

ここで、毛利氏からも川道氏からも離れて、ずっと以前、昭和2年(1927年)に出版された全10巻の『大日本憲政史』(大津淳一郎)を引用してみたい。この書は非常に実証的で豊富な資料を駆使していることから、歴史書によく引用されている。この書では西郷隆盛の兵の派遣を唱える板垣退助に対する閣議での発言が次のように記されている(太字引用)。

従来我より廔次使節を彼に派せりと雖も、皆、卑官にして僅に彼の地方官吏と折衝せるに過ぎず。是、彼の我を輕侮する所以にして、今日に至るまで、未だ其の使命を全うすることを得ざりしものは、職として之に由らずんばあらず。故に今日の策は、宜しく先づ兵力を以てすることを止めて、責任ある全權大使を派し、正理公道を以て、彼の政府に説き、之をして反省せしめざる可からず。

そして、三条実美の「兵を率いてはどうか」との言に対して、下記のようにのべている。

大使は、宜しく烏帽子直垂を著し、禮を厚うし道を正して、之に當る可し。今、俄かに兵を率ゐて之に赴くが如きは斷じて不可なり

余、不肖なりと雖ども、願くは全權大使の任に當り、誓て一身を國家に捧げ、以て其の使命をはたさんと欲す

他にも色々書かれているが、ともかくもこれで、派兵論の板垣退助、それは外務卿の任だとして当初難色を示していた副島種臣、らも西郷に賛意を表し、太政大臣三条実美も同意して、つまり全員一致で閣議決定されたわけである。

三条はすぐに西郷隆盛の遣韓使節のことを天皇に奏上し、内諾を得て、そのことを西郷に伝えている。西郷は、「生涯の愉快此事に御座候」と板垣宛の手紙に書いている。ただ、にもかかわらず、三条が「正式には岩倉大使一行の帰国を待って之を行う」としたことが問題を起こす。つまり、岩倉具視、大久保利通らの策謀によりひっくり返され、西郷ら、主だった留守政府の要人の辞職となる。これが「明治六年政変」である。

内村鑑三は、『代表的日本人』(鈴木範久訳 岩波文庫)の中で賞賛を以て西郷隆盛をあげ、朝鮮問題に関して、「西郷をもっとも怒らせたのは、決議の撤回されたことではなく、撤回させたやり方でした」としている。悪童的で口の悪い、それでいて科学力も直観力もあった内村鑑三にしては珍しい記述である。

軍艦で朝鮮の江華島で威嚇行動、交戦を起こしたのは明治8年(1875年)のことである。とっくに下野していた西郷隆盛は腹心の篠原国幹への手紙の中でこのことに触れ、「遺憾千万」「天理において恥ずべき行為」と痛罵している。西郷隆盛が“征韓論者”でなかったことを私が確信したのは、資料に目を通していてこの一節を目にした時のことだ。

それにしても、毛利敏彦氏の論を待つまでもなく、西郷隆盛が征韓論者でなかったことは近代史の歴史家なら絶対に知っているはずの『大日本憲政史』でとっくに指摘されていたのに、なぜ征韓論者が通説になってしまったのか、不思議でならない。

2019年10月 5日 (土)

訃報に思うこと

この歳になると訃報が少しずつ気になってくる。メディアで取り上げられるような有名人には直接の知人はまずいないので、特に悲しみという感情はないが、それでもなにがしかの寂寥感はぬぐえない。

つい最近、オペラ歌手の佐藤しのぶさんが亡くなった。まだ61歳というから、はるか年長の私としては心おだやかではない。

今年、つまり2019年のニューイヤーコンサートで佐藤しのぶさんの歌唱を聴いたばかりだ。もちろん私では巧拙はわからないが、この人がかの有名な佐藤しのぶさんかと直に接してなんとなく光栄感を覚えた。やつれた様子は全く感じず、それからまだ1年も経っていない。8月初頭までコンサート活動をしておられたとのことなので急逝と言っていいだろう。医学的には、生きていることが不思議なくらい死に至る病は多くあるが、それにしても経過が早い。死因は故人の意思とのことで公表されていないが、なんだったのだろう。

私が聴いた九州交響楽団のコンサートは、夫の現田茂夫さんの指揮で、まさに美男美女の、人も羨むセレブのカップルだと、音楽と関係ない妙なところで感心していた。まさか訃報を聞くことになるとは。写真はその時のパンフレットに掲載されていたもの。


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“金ピカ先生”こと、元予備校講師の佐藤忠志さんが人知れず亡くなっていたという。彼は68歳というから私とほぼ同じ年齢だ。かつて、高級外車を乗り回し、派手なスーツに金ピカの腕時計やネックレスなど、まさにヤクザ、今でいう反社スタイルで世間の耳目を集めた。

そのいでたちのせいか、実力があったか、英語の教師として大人気を誇り、タレント活動までして多い時は年収2億円を超えていたらしい。その彼が生活保護下で、灰皿に吸い殻が山のようにたまり、酒浸りのやつれ果てた姿で晩年を送っていたという。なんとも言葉もない。ただ、御本人は自業自得と案外諦観していたようで、あれこれ言うのは大きなお世話かも知れない。

彼の死は孤独死で、死後少し経ってから発見されたわけだが、わが身に引き換えて思えば、孤独死は一向に構わないけれど、死後数日以上、というのは避けたい。周囲に大迷惑をかけてしまう。幸いにして、今現在とりあえず悩む状況にはないが、最近では独居の高齢者用に、トイレのドアの開閉状況で安否を確認してもらうシステムがあって、これはなかなかいいアイデアだ。生あって動けなくなったらさっさと施設にお願いするつもりだが、万一に自立で独居、という状況になれば、こういうのは有難いだろう。監視カメラは御免こうむりたい。

安部譲二さんの訃報もあった。82歳というから、あれだけ“破天荒”とも言える奔放な人生を歩んだ割には長生きだったと言えるかも知れない。この人は本物のヤクザをやっていた人だ。

足を洗って作家としての出世作『塀の中の懲りない面々』は、そういう人たちがいるのかと、非常に面白かった。希少な体験を書き起こす文才に恵まれていたのだろう。味をしめて、以後、刑務所に関する本はちょくちょく読んでいる。

ホリエモンこと堀江貴文氏と大王製紙の元会長の井川意高氏の対談をまとめた『東大から刑務所へ』(幻冬舎新書)という本もあって、大笑いしながら読んだ。東大顔はほとんどなく、刑務所の食事、長野は普通に美味しく、喜連川はまずい、という話題で盛り上がったようだ。本の帯のキャッチフレーズには、「人生で大切なことはすべて塀の中で教わった」とある。まあ、東大で習えないことは確かだが。「不運があっても不幸とはかぎらない」というのは堀江さんの至言だ。

それはともかく、還暦以後の人の訃報は、直接の知己でなければ、何がしかの感傷を覚えても、ショックというほどではない。いつしか必ず死が訪れる。

ただ、全くの他人であっても、事故や犯罪での小児の死はやはりどうもいけない。報道を目にするたびに、溺水など、子供の死を看取った辛い体験が思い起され、堪えがたい思いにかられてしまう。

訃報を見聞きするにつけ、私自身にもその時期がひたひたと忍び寄って来ていることをおぼろげながらに感じる。多分に終活の入口には来ているのだろう。そう思う反面、取り組んできた仕事にきちんとけりをつけておきたい、読書三昧は断ち難い、ブログでアウトプットもしてみたい、歴史研究に本格的に取り組みたい、ゴルフももう少し上達したい、孫は可愛い、と結構欲張りな自分もいる。

訃報を逆に励ましとして、とりあえず今は神が命を与えてくれているのだから、やれるところは精一杯やってみる、楽しむべきは大いに楽しむ。まずはそれだろうと自分を納得させている次第である。

2019年9月26日 (木)

西郷隆盛 その39 なぜ征韓論が起こったのか

なぜ征韓論が起こったのだろうか。以前の稿で、当時の朝鮮は今よりはるかに筋の通った主張をしていたと記した。西郷隆盛の征韓論について踏み込む前に、今回の稿で、それがどういうことなのかということについて触れておきたい。

なお、「朝鮮」という言葉は紀元前からあったとされている。その由来については諸説あって判然としない。我々一般人はとりあえず、「朝が鮮やかなる国」と受け止めておけばいいと思う。これには多分に私情もあって、30年近く前のこと、釜山のホテルから見た朝焼けの鮮やかさ、美しさ、は今も心に強く残っている。

「韓」という言葉も古来より用いられているようだ。その使い分けは私にはよくわからない。「朝鮮」が宗主国であった中国王朝から与えられた名ということで、それを嫌い古来の三韓にならったという説もある。近代で明確に国名として使われたのは1897年の「大韓帝国」だが、1910年の日韓併合で消滅してしまう。我々は現在「韓国」と略称しているが、正式には「大韓民国」である。

近代日本の場合、王朝には実権がなく、実支配していた徳川政権が江戸幕府として長く続き、大きく見れば比較的単純だ。近代の朝鮮半島は李王朝といっても、王朝が実権を握っていただけに、政権を巡ってあまた多くの抗争が行われ、同一の系とも言い難く、非常にややこしい。まずはとりあえず、政権の簒奪が繰り返されつつ、李朝が朝鮮を支配してきた、としておくのでいいだろう。

朝鮮も鎖国政策をしてきたわけだが、日本がペリーに開国を迫られたように、朝鮮も外国から武力による示威を受けている。日本のように慌てふためくはめにならなかったのは、1850年頃から侵入してきたフランス船、イギリス船、アメリカ船をこっぴどく追い払ったからである。

日本とは、江戸時代になってより、朝鮮を宗主国ともしていた対馬を窓口として活発な交易がなされ、特に将軍の代替わりの時などに朝鮮通信使も来訪し、江戸幕府と良好な関係が保たれていた。この対馬において朝鮮外交で非常に重要な役割を担ったのが近江地方出身の雨森芳洲である。1990年5月25日に当時の盧泰愚(ノテウ)大統領が日本の国会で行った演説の中でこのことに触れ、広く知られるようになった。この時の演説は実に素晴らしいもので、私は大きな感動を覚えた。

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江戸幕府は朝鮮通信使に非常に気を遣い、丁重にもてなした。今でも日韓が協力して当時を再現するイベントが残されている。

ここで起こったのが日本の政変、すなわち明治維新で、江戸幕府が突然のように倒され、「明治新政府になりましたよ、どうぞ宜しく」と言われても、「ハイそうですか」とはならない。ましてや、外国船を追い払い、鎖国政策を続ける朝鮮にとって、手のひらを返したように欧化政策を進める日本にはむしろ嫌悪感を抱いたのであろう。この時の朝鮮の王は高宗であったが、実質的な権限は実父の興宣大院君にあり、頑として明治新政府を拒んだ。

もしかしたら奇異に思われるかも知れないが、こういうことは世界史的にはよくあることで、「国家の承認」は非常に難しい問題をはらんでいる。1918年のロシア革命で誕生したボリシェビキ政権(のちのソ連)をアメリカは1933年に至るまで承認していない。日本は承認どころか武力干渉までしている。今現在であげれば、日本と北朝鮮は相互に国家として承認していない。闊達な貿易も交流も行っていながら、台湾を国家として正式に承認しているわけではない。もちろんそれには色々と複雑な事情がある。

とはいえ、釜山の倭館には数百人の日本人が居留しており、既成の交易のこともあって、明治新政府としては何とかこの問題を解決せねばならなかった。「話し合い」での解決が無理なら武力で屈服させてしまえ、という乱暴な意見が“征韓論”である。そもそもは木戸孝允らが唱えていたという。新政府を辞して帰薩していた西郷隆盛は当初はこの件に全く関与していない。

居留邦人の安全が脅かされつつあるとの危惧がさらに高まったのが、明治5年か6年頃で、留守政府の時である。外務卿の副島種臣が、外交は外務省がとりしきる、とした“対馬はずし”に朝鮮がさらに反発を強めたという面もある。

そして、日本の官吏への食糧供給を断ち、日本を「無法の国」と侮蔑した文書が掲示されたという報せが届き、閣議は騒然となる。本来なら対処にあたるべき外務卿副島種臣は中国出張で不在であった。ここに西郷隆盛の朝鮮問題への関わりが始まる。

2019年9月15日 (日)

「嗤う」で思い起すこと

「嗤(わら)う」という言葉を普段我々が使うことはない。普通に「笑う」と記せばこと足りる。「嗤う」はあたかも死語か古語のような感じだが、昨今、韓国の話題につけ、しばしば使われているようだ。

あくまで嫌韓ネトウヨの落書きの話だが、「嫌韓」が「呆韓」になり、「拒韓」「哀韓」、そして「嗤韓(しかん)」という表現も目にする。韓国は“嗤う”対象になっている。まあ、ナッツ姫に水かけ姫、氷姫、果てはたまねぎ男と、なかなかセンスのいいネームミング、多彩で怪しげなキャラクターが続々登場するものではある。

嗤って遊んでいるうちはまだいいが、我々が韓国に対して「嗤う」という状況は、双方にとって決していいことではない。ただ、国と国との正式な約束を平然と踏みにじり、執拗に嫌がらせの限りを尽くす韓国の文在寅政権に対しては、「いいかげんにしろ」というのが一小市民たる私の率直な感情だ。ちなみに、昨年の自衛隊哨戒機のロックオン事件は、哨戒機の元パイロットの知人によれば、直ちに日本側から反撃されてもやむを得ないぐらいの行為だという。

彼らが勝ち誇るように“独島”だと大騒ぎして占領している竹島も、そもそもは李承晩元大統領が無法者的に引き、日本が実効支配していた島が誰も認めていないそのラインの内側にあったというだけのことだ。ラインに沿って日本漁船の拿捕と抑留など、当時の韓国は日本に酷い対応をしている。

さて、「嗤う」は多分に嘲笑を含んだ表現だ。いつから使われるようになったかは知らないが、これを有名にしたひとつは、桐生悠々(1873-1941)が信濃毎日新聞社説で書いた「関東防空大演習を嗤ふ」だろう。木造家屋が密集した首都圏では、空襲を受ければいかに防空大演習をやっていようとも、あっという間に大火災が起こり甚大な被害となることは明らかで、これでは既に負け戦を認めているようなものだと、厳しく批判した。

当時の陸軍はカンカンになったが、東京大空襲という形で事実として、その通りになった。反戦を論じた桐生悠々の言は封じられてしまったが、このような勇気ある気骨のジャーナリストがいたことは記憶されていい。下掲はWikipediaより。

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桐生悠々がその一文をものしたのはまだ日本に一発の爆弾も落ちていない昭和8年(1933)のことであった。要人を殺害し、軍事クーデターを起こそうとした二・二六事件は3年後の昭和11年(1936)である。河合栄治郎(1891-1944)は帝大新聞でこれを厳しく糾弾した。彼もその後言論弾圧を受け、出版法違反として裁判で起訴され、東京大学教授を休職にされてしまう。

昭和14年に日本陸軍はノモンハン事件(“事件”は多分に糊塗的な表現で、実際は日本が仕掛けた戦争)を引き起こす。以前にも触れたが、日本をはるか遠く離れ、昔時の廟はあるにしても、今のモンゴルと中国国境に接している荒涼たる草原でしかないノモンハンには、嗤われてもしかたがない第二次世界大戦の日本軍部の愚かさが凝縮されている。それでもよく戦った日本兵は、日本陸軍中枢、関東軍中枢、そしてソ連軍に空しく殺められたようなものだ。これが批判されなかったのは情報が隠匿されたからである。

私も既に人並みには渡航経験があり、面倒なこともあって、今さら外国に行きたいとは思わない。だが、このノモンハンにはいつの日か訪れ、あまた多くの悲劇を生んだ戦地の象徴として、柄にもなくしばし殊勝な思いにひたってみたいと願っている。ノモンハンについてはいずれまた書いてみたい。

「嗤う」と言えば、アメリカ大統領トランプ氏の言行にもそれを誘うものがある。哲学が感じられない絶大的権力は「嗤う」を超えて恐ろしくもある。ジャーナリストの木村太郎氏は、「好きではないが」とことわりつつ、日本で当初は泡沫候補だとかキワモノ候補だとか言われていたトランプ氏が当選することを早い時期から予見していた。大恥になりかねないリスクを背負っての、先見性のある明言で、これがジャーナリストのあるべき姿だ。氏はこれからをどう予測しているのだろうか。

桐生悠々の時代と違って今の日本には言論の自由がある。「アホノミクス」と嗤おうが、「改憲で戦争への道を進む安部晋三」と誹謗しようが、言う方はリスクを負わない。ただ、これは一般人の話であって、社会に影響を及ぼす言論人となると話は別だ。もちろん拘引だとか封殺するという意味ではない。

日本は「言論への質の検証」という作業が社会にないので、“責任なき言いっぱなし”が横行する。かつて北朝鮮を誉め称えた“知識人”なる人がいかに日韓問題を論評しようが、言うのは自由だが、とりあげる必要もなければ傾聴する必要もない。なのに、現実は臆面もなく登場している。これは実に嘆かわしく嗤うほかない。

歴史的経緯、人権問題への言及がなければいかなる北朝鮮論も意義はない。一般人は床屋談義でもよかろうが、特権的に情報が取得できるメディアや、知識人と言われる人たちは別で、「言論の自由」は「言論への質の検証」とセットであることが必須である。その点からすれば、韓国に関する報道は、断片的、垂れ流し的で、いったい何が真実なのか、彼らがどういう人たちなのか、わからなくなってきている。

日韓問題に限らず、アメリカ、イギリス、イランなど、今の国際政治情勢は本当に混沌としている。しかし、どこかに、先で振り返って、あれは正しかった、という言説があるはずだ。残念ながらそれは私にはわからない。幸いにしてその判断をせねばならない責任ある立場にはいない。

個人的には、せめてもと、現状を考えて見ると同時に、過去を振る、つまり歴史を見ることになる。朝鮮を保護国におき、満州に移民を送り、かいらい政権を擁立することはむしろ日本を危うくすると主張した石橋湛山(1884-1973)にも惹かれるゆえんである。同時代に彼の主張を目にしたら、とんでもないことを言うやつだ、と思ったことだろう。しかし、彼は正しかった。

今の状況下で150年近くも昔の“征韓論”の話でもあるまいと筆が止まってしまった。先で嗤われない冷静な判断は何か、シリーズを続けつつ、しばらくその模索が続きそうだ。

2019年8月21日 (水)

たまに読む小説

私の流儀は安い文庫本の乱読だ。途中でほったらかしにしたり、積んでおくだけだったり、という本も多い。ねっころがって読むので、枕元にはいつも50冊以上が積まれている。

好みはノンフィクション系で、小説はあまり読まない。しかし、新田次郎(1912-1980)と吉村昭(1927-2006)は例外で、かなり読んできた。主題に対して綿密な取材をしているからか、まことに面白い。もちろん小説なので、創作部分や虚構は当然と受け止め、必要に応じてWikipediaや他の書物を参照するようにしている。彼らの作品は概して事実に基づいているように思える。

吉村昭で比較的最近に読んだのは、ターヘル・アナトミアの翻訳を巡っての前野良沢と杉田玄白の関係を描いた『冬の鷹』、さすがにどの島がモデルなのか定かではないが、難破船を“お船様”と喜んで略奪などをする島の小村を描いた『破船』、尊皇攘夷を掲げて幕末に筑波から京都を目指した水戸の天狗党の動きを追った『天狗争乱』、日本が戦争にひた走る昭和十年代かけて300人以上もの甚大な犠牲者を出しながら完成にこぎつけた黒部第三ダム建設の『高熱隧道』、大正時代に起こった苫前での羆(ひぐま)による襲撃事件の『羆嵐』。どうしてこのように上手に描けるのだろうか。どの書も一気に読める。

『高熱隧道』では、黒部の山奥での工事自体が非常に難しいことに加え、高熱の湧水でトンネルの掘削が困難を極め、また、泡雪崩で、慎重に安全な場所を選んだはずの人夫の宿舎の3階以上が丸ごと宙に吹き飛ばされるということが起こっている。泡雪崩(ほうなだれ)というのはなじみのない言葉だが、Wikipediaには、「爆風が発生すると誤解されることが多いが、実際は、雪煙が空気と雪粒の混合体であるがゆえ生じる力による。この誤解は『高熱隧道』の記述によって広まったとされている」とあるから、雪粒の中の空気が爆発するかのような吉村昭の記述は正確さに欠いているのかも知れない。ただ、科学的考察ができない読者にとっては大きく見れば誤差範囲だ。普通の雪崩でも十分怖いと思うが、泡雪崩には信じ難いほどの破壊力があるらしい。

なお、小説は触れていないが、黒部第三ダム建設にも、おそらくかなりの数の朝鮮人人夫が危険と高給との抱き合わせで雇用されているはずだ。そういうことは炭鉱などで常態化していた。差別だとか強制という一方的な決めつけには疑問があるが、彼らが日本の統治下で厳しい経済状態に追い込まれていた面は確かで、日本は自省をも込めて理解を深めていかねばならないだろう。

さて、『羆嵐』(くまあらし)では、狂暴な羆を経験豊富な銀四郎が最後に仕留めるのだが、そのやりかたは現役の羆狩りの名手の言と一致している。下からではなく、上から羆にアプローチしなければならないらしい。こういうことにもこだわって執筆しているのだろう。先般に『羆嵐』のもととなった羆の事件をNHKが劇画的に放映していたが、小説の描写の方が迫力を感じる。

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島崎藤村の『夜明け前』は幕末の中山道の妻籠宿(つまごじゅく)が舞台となっている。ここを水戸の天狗党が通る。差別をテーマとした『破戒』のついでにと思ったものの、『夜明け前』は小さな字で1頁2段組、800頁近くもある大作で、さすがに読むのに骨が折れた。ちなみに、吉村昭の『天狗争乱』でも天狗党が妻籠の宿を通る時の彼らの規律と秩序ある状況が描写されているのだが、ほぼ似通っており、かなり事実に近いのだろう。最終的にこの天狗党は慕い頼ったはずの一橋慶喜に冷たく見放され300人以上が斬首されるという悲劇的結末を迎えることとなる。

小説と言えば、住井すゑ(1902-1997)の『橋のない川』は、全編これ露骨な差別用語オンパレードで、文庫にして全7巻の大作は、読むのに苦吟した。それでいて不思議な明るさと爽やかさがある。作者は差別の中にいたわけではなかったのにどうしてここまで入りこめたのだろうか。そのほとんどは会話で構成されているが、言わんとしていることは一貫している。少し長くなるが、手紙に折り込む形で表現した核心を下記に引用しておく。

しかし私たち人間に、果たして自分の意志や努力ではどうにも変えようのない、生まれながらの社会的地位などあり得るでしょうか。生まれながらの人間は、いつも君が言うように、一人のこらずはだかで名なしです。一人のこらずはだかで名なしだということは、一人のこらず人間として自由であり、自由であるが故に無限の可能性を持っている、ということだと僕は思います。
ところが現在の社会では、生まれながらの人間的自由や、その無限な人間的可能性は、身分という鋳型によってあと方もなく圧殺されてしまいます。しかし圧殺されるのは、ひとり僕たち賤民身分の者だけではありません。貴族も富者も、やはり身分の鋳型に圧殺されて、その人間的自由と可能性を取り失ってしまいます。最も顕著な例が皇族であり、頂点が天皇だと指摘したら、或る種の人は眉をひそめ、或る種の人は拳をふり上げ、更にある種の人は絞首台をすら差し向けてくるでしょう。それは僕の指摘の正しさに、まともでは太刀打ちが不可能なからではありますまいか。

これは全くその通りだ。住井すゑもまた文章で自己表現をする素晴らしい文学者である。漱石や鴎外だけが文豪では決してない。

たまにしか読まない、多分に気まぐれで読む、ではあるけれど、もう少し広く読まねばとわが偏りを自虐しつつ、小説もまた偉大な芸術だとつくづくにして思う。

2019年8月 7日 (水)

祝 渋野日向子さんの快挙

はじけるような笑顔、とはこのことを言うのだろう。世界の女子ゴルフ界の試合でもメジャーと位置付けられる全英女子オープンで、日本のプロゴルファー渋野日向子さんが優勝した。そのインタビューの際の写真だ。

ここのところ悲しくうっとおしいことが多い中、それを吹き飛ばすかのような快挙だ。韓国の強豪女子プロをも一蹴。国民もメディアも、日本中が大喜びしたような感がある。それだけ価値のあることを昨年にプロテストに合格したばかりの二十歳がやってのけた。

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あまた多くの報道があるので、私ごときが書くこともないのだが、嬉しかったので、つい書きたくなる。6500ヤード以上の距離のあるコース、4ラウンドで18アンダーというのがどれだけ凄いことか、ゴルフをしないかたにはピンとこないかも知れない。実は、ゴルフ大好きの私にもピンとこない。

飛ばない、曲がる、ダフる、チョロする、トップする、ショートパットが入らない、スコアはいい時で80台前半、悪ければ100以上叩く、というのが私のような大多数の世のアベレージゴルファーだ。それを渋野さんは66とか68で回っているわけだから、全く次元が違う。プロ予備軍の全国レベルのトップアマはどうか知らないが、県レベルのトップアマぐらいでは男性でも歯が立たない。

腕もさることながら、最終ラウンドで短い距離を3パットしてダブルボギーにしてしまったものの、何もなかったように笑顔でラウンドして取り返すメンタルもたいしたものだ。私ごときでも、ダブルボギーは痛いし、悔やまれ、がっくりきて、それがまたミスを呼ぶとわかっていながら、しばらくは表情が暗い。

男子プロの場合は、はじめから体力が違うと思い込んで見るのだが、彼女は、体格的には、普通の男性から見れば少し小柄なわけで、なおさらに技術がきわだつ。ドライバーは、ワイドスタンスからグーンと綺麗な円弧を描いて大きなフォローで振り抜いている。パットも強めにガツンと入れる。優勝を決めた最終ホールの6mか7mかの下りのバーディーパット、私のような小心者にはあのようなパットは絶対に打てない。凄い!

『タラタラしてんじゃねーよ』って何のことかと思ったら、彼女がラウンド中に食べていたお菓子の名前だと知った。お菓子メーカーは大宣伝になっただろうが、すぐに品切れになり、残念なことに、材料の関係から増産もできなかったらしい。着ていた服も手に入れたい人が多くいたようだ。ともあれ、ゴルフだけでなく、お菓子といい、渋野語録といい、随分楽しませてくれた。AKBふうのコテコテメイクに少々飽きたオジサンにとって、すっきり顔の“笑顔のシンデレラ”は新鮮感があふれる。

昨年までは全く無名だったのに、既に国内トーナメントで2勝している。そして今回だ。来年はドサッと億単位の税金がくるだろうから、無理な話だとは思いつつ、コマーシャルにも出ず、できたら今のままで、大いに楽しませて欲しいものだ。願わくば来年の東京オリンピックでも。

2019年8月 1日 (木)

西郷隆盛 その38 留守政府の崩壊

明治6年の対朝鮮政策において、西郷隆盛は武力を行使してでも日本の主張を認めさせるという、いわゆる征韓論者であったというのが巷間言われてきたことであった。それに対して、外国を視察してきた岩倉、大久保らは、今は国内対策が最優先であって、対外戦争などしている時ではないと反対し、結局、岩倉、大久保らの内治派が勝利したというものである。

“論に敗れた”西郷隆盛は政府を辞し、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助ら主要人物も辞任した。つまりこれが留守政府の崩壊である。

この騒動は錦絵で大仰に描かれている。錦絵というのはいわば庶民の政治の娯楽化であって、中には資料的価値が高いものもあるようだが、多くは “見てきたようなウソを描き”である。西郷隆盛が口髭を生やしていたという話は聞いたことがない。 

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私見として、結論的に断言しておきたい。西郷隆盛が征韓論を唱え、そしてそれに敗れた、というのは真っ赤な嘘である。おそらく、岩倉、大久保らの政権闘争の勝利組の歪曲であろう。

留守政府の崩壊は政権闘争にほかならない。西郷らに政権闘争という意識があったかというと、どうもそれはなかったようだ。だから策謀を用いた大久保らが一方的に勝利したのである。

洋行組が帰国してみれば、改革はどんどん進められており、大久保利通の腹心たる山縣有朋も井上馨も汚職事件で拘引寸前になっていた。大久保にとっては、自らが命をはって江戸幕府からの政権交代を遂げたのに、それがそっくりそのまま留守政府に奪われたかのような思いがしたのではないだろうか。帰国後しばらくおとなしくしていた大久保利通は、成果もあげられなかった洋行による長期不在を悔やみ、激しい敵愾心にかられ、政権奪還の策を練っていたに違いない。

ここで利用されたのが征韓論問題である。実は征韓ではなく、西郷隆盛の朝鮮への使節派遣なのだが、これは留守政府で既に決定されており、岩倉具視の帰国を待って正式に決裁の段取りであった。これが策謀によってひっくり返されたのである。怒った西郷は決定当日の明治6年10月23日に辞表を提出し、他の主だった参議も続いて辞職した。

非常にひらたく書けば、これが「明治6年政変」である。だが、理解しようとすれば、多くの「なぜ」が持ち上がる。そもそも征韓論とは何か。大久保利通の策謀とは何か。なぜこの政権交代がそれほど大きなことなのか、などなど。

韓国問題は今現在も世相喧しい。明治初年の朝鮮問題はどうかというと、少なくとも今よりはるかに筋の通った主張を朝鮮がしていたと私は思っている。次稿で征韓論について触れたい。

2019年7月17日 (水)

西郷隆盛 その37 娼妓解放令

「賤民廃止令」が公布されたのは、明治4年8月28日(1871年10月12日)で、まだ岩倉使節団は出発していない。だから、それは必ずしも留守政府の方針だったわけではないのではないか、という疑問が起こるかも知れない。

『明治維新と賤民廃止令』の著者の上杉聰氏は、「(芸)娼妓解放令」にも非常に大きな意義を見出している。これは明治5年10月2日(1872年11月2日)に出されたもので、間違いなく留守政府の手によるものである。

年期奉公などでガチガチに縛られた人々を解放せよということで、上杉聰氏は、娼妓解放令は「たんに娼妓だけではなく、当時のこうした奴隷的、半奴隷的な在り方を広く禁止したものなのである」と記している。

娼妓解放令はマリア・ルース号事件での奴隷解放で名をはせた大江卓らが尽力したことは間違いない。江藤新平も司法卿として深く関り、太政官布告なので、首班たる西郷隆盛も推進し、太政大臣たる三条実美も決済したはずである。

幕末・維新を顧みて、徳川という武力の政権を倒すのだから、大規模か小規模かはともかく、なにがしかの武力闘争は必然であった。そこに不思議はない。武力を用いた闘争はどうしても派手に見え、目を奪われがちだ。

しかし、新政権になって何が変わったかと考えてみると、少数が支配する、すなわち寡頭政治という意味において、江戸時代と何ら変わることはなかった。廃藩置県による中央集権化は政治体制としては確かに大きな出来事であったが、それには、将軍に代わって天皇、そして将軍に替わって求心力を高めるためにその神格化が進められたという弊害も付随した。ただし、西郷隆盛はむしろ人間天皇として見聞を広くするようにしていた様子がある。

最も大きく変わったものは何か。それは「賤民廃止令」「娼妓解放令」に代表される、身分制度の大きな変革、「人権」の導入であった。これこそが明治維新の要諦、本質であって、このことはいくら特筆しても特筆し過ぎることはない。

しかし、こう書けば多くの人が不思議に思うだろう。明治中期から後期にかけての差別問題をテーマにした小説、有名な島崎藤村の『破戒』、住井すゑの『橋のない川』などでは、エタという言葉とその差別が根強く残っていたことが描かれている。被差別民にとっては何とも酷な時代が続いていたではないかと。昭和に入っても大恐慌で「娘の身売り」ということがあったではないかと。

差別に対して闘う水平社が創設されたのは大正11年(1922年)3月3日のことだ。「賤民廃止令」が公布されて50年も経過してなお組織化と闘争を必要とするほどの差別があったのである。

差別を糾弾する一文を「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」と格調高く結んだ水平社宣言は今なお胸をうつ。奈良の被差別民西光万吉が起草したとされるが、福島の被差別民平野小剣による大幅な修正があったとも言われている(『差別と反逆 平野小剣の生涯』朝治武 筑摩書房)。当時掲げられた荊冠旗は画家でもあった西光万吉が、水平社宣言の本文中の一節、「殉教者が、その荊冠(けいかん)を祝福される時が來たのだ」に対応してデザインしたのであろう。

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なぜ「賤民廃止令」「娼妓解放令」の精神が貫徹されなかったか。“差別は根強く残るから”というありきたりのことでは説明がつかないと思う。留守政府の崩壊と、差別解消の最大の推進者江藤新平の死が、精神を大きく後退させた、と私は考えている。彼らはそれらを実効に移す、つまり、文言だけでなく魂を入れる、機会を失ったのである。それであっても、明治初期に、「そういうことはあってはならないのだ」と明確にした意義は非常に大きいと思う。

では、なぜ留守政府が崩壊し江藤新平が死ななければならなかったのだろうか。まずは留守政府の崩壊をとりあげたい。

2019年7月10日 (水)

西郷隆盛 その36 賤民廃止令

「賤民廃止令」は、明治4年8月28日(1871年10月12日)に公布された。この法令には名前がなく、「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」という短い表現にとどまっていたようだ。前稿で紹介した『明治維新と賤民廃止令』の著者の上杉聰氏は、現在のところもっとも適切な略称として「賤民廃止令」を書題に用いている。

穢多だの非人だのと、特定の人々を差別的に呼称する何ともおぞましい表現だ。このような差別を生んだ歴史的背景に関しては色々な研究がある。これはなかなかややこしい。放逐された高貴な人々の末裔という見解もあるようだ。

はっきりしていることは、同じ人間をこのように差別する合理的理由は全くないということである。前稿では、“社会の外”と記した。それはあくまで“人間と見なされないほどのひどい差別”という意味であって、実のところ、こういった人々は社会を大きく支えていたのである。

わかりやすくは、博物館などでよく見る武士が用いる武具を考えてみればよい。弊牛馬の処理と皮革職人の技術がなければこのようなものは作れない。皮革だけではなく、警備、刑吏、芸能など、幅広い領域にわたって職能集団を形成していた。差別されて別社会を形成しつつ社会と密接に関わっていたというのが私の理解である。

『弾左衛門と江戸の被差別民』(浦本誉至史 ちくま文庫)では、江戸の被差別民の代々にわたっての支配者たる弾左衛門は、名字帯刀が許され、大名に匹敵する屋敷を構え、江戸幕府と密接な関係を持っていたことが紹介されている。大都市江戸に流入する無宿人の世話もしていた。もちつもたれつか、秩序の維持に大きな役割を果たしていたわけだ。

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それでも、「人と畜生の間に穢多といふ一階級があるといふのが上下一同の考であった」(『明治維新と賤民廃止令』より)というのが維新までの扱いであったという。だから金持ちにはなれても、娼妓にはなれなかった。恥ずかしくも不思議な時代であった。

この非科学的不合理に楔を打ったのが「賤民廃止令」である。だが、その成立過程については不明な点が多い。『明治維新と賤民廃止令』では、「賤民廃止令公布の最終決定を下した者の名前を挙げるとすれば、江藤新平左院副議長・大久保利通大蔵卿・井上馨大蔵大輔あたりを挙げねばならないであろう」と記されている。この頃は、大蔵省が広く強大な権限を有していたが、明治4年当時の大蔵省の内部資料が関東大震災でほぼ完全に焼失しているため、そこに研究の限界がある。

ところが、『明治維新と賤民廃止令』の記載によれば、その関東大震災の前に大蔵省の資料を閲覧した人の論考が残されており、そこには成立過程に触れて、次のように書かれているという。

然し、弁官の回答としては、平民より一等下に召置くと
云ふ案については、御沙汰に及ばれずとして、唯彼等の身
分をして立派に実効の立つ様に方法を考へ、其実効によっ
て平民に加入せしめよと云ふことであった

つまり弁官は明確に指示をしているのである。差別解消への主体的意思にほかならない。

この弁官とは誰か。大久保利通も井上馨も、弁官であったことはないし、そもそもこのような哲学を有してはいない。

これは太政官で中弁を務めていた江藤新平以外にない。大弁は公家が就くお飾りポストである。江藤新平に関しては他の言動と全く矛盾なく一致する。

江藤新平は赤松小三郎のように自筆の論考を残している。自己満足に過ぎないことではあるけれど、また、いい加減うんざりされるかも知れないけれど、「賤民廃止令」が貫徹されなかったこともあわせ、まだまだ多くのことを紹介したいと思う。

2019年7月 3日 (水)

西郷隆盛 その35 身分制度

西郷隆盛はいわゆる下級武士だと言われている。柔らかな語りとテレビ映りのいい爽やかなルックスから、タレントになったかのような歴史学者の磯田道史さんは、西郷は決して下級ではなかったとのべている。身分に相応して召し抱えの義務などもあり、上下に関わらず総じて武士は貧乏で、西郷も例外ではなかった。ともあれ、西郷隆盛が、家老など、生まれがいわゆる藩のトップクラスにはほど遠かったという受け止めで十分だろう。

江戸時代は士農工商という身分があったとされている。実際には農工商の線引きは曖昧であった。概ね総人口の1割以下であったと言われている武士にも、武士かどうか微妙な位置づけだった層もあり、薩摩のようにその割合が高かったところもある。有名どころでは坂本龍馬や伊藤博文など、商、あるいは農から、武士身分になった者もいるが、そういう移行が日常にあったわけではない。

武士は、特に上になるほど、家格というかガチガチの身分制度に縛られていた。大名はどうかというと、これも格づけされていて、参勤交代で登城した際の控えの間なども、かなり厳しく差別化されていたらしい。御三家、親藩、譜代、外様など、さらに、大納言とか中納言あるいは従四位とかは形の上では朝廷からの位階づけで、こういう何重もの格づけはまことにややこしい。石高の多い大藩ほど老中など政治中枢の役職に就けなかったというのも江戸幕府統治の知恵だったようだ。

将軍に拝謁できる旗本は概ね1万石以下の将軍家直轄の身分だが、石高が同じであっても拝謁できない御家人もいる。各藩にまたそれぞれに身分秩序があり、公家にも厳とした家格があった。重要なことは、それらが原則的に世襲であったということである。

つまり、好むと好まざるに関わらず、生まれにより決まってくるのである。1946年に公布された日本国憲法は、第十四条において、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定めている。明治維新からこの文言を憲法に得るまで80年近くを要しているわけだ。ただし、皇位継承権のある皇族は例外である。

ちなみに、いわゆる明治憲法、大日本帝国憲法において国民は“臣民”であり、知る限り日本国憲法第十四条に謳われている内容に該当する条項はない。今ここで改憲の是非を論じる気はないが、統帥権問題など、大きな欠陥を内包した明治憲法は、改憲なきまま国家を惨めな崩壊に導いたことは知っておかねばならない。

天皇の神格化が図られ、華族、士族、平民の区別がなされたが、それでも、江戸時代のがんじがらめの身分制度は、明治維新において大きく崩壊した。これは極めて重要な変革であった。いかに西洋化が推し進められたとしても、江戸幕府のままではこれは果たせなかったであろう。

身分制度の変革の最大の象徴は、「賤民廃止令」である。士農工商の身分差別どころではない、社会の外と位置づけられていた“賤民”を社会の中においたわけである。今から考えると全く馬鹿げた話だが、江戸時代から明治への移行において、あえて「廃止令」を必要とするほど疎外された人々が現実にいた。それがどれほどのものであったか、未だに尾を引いていることから、推して知るべしだろう。

『明治維新と賤民廃止令』(上杉聰 解放出版社)という労作がある。高価で、ほとんど研究書に近いが、私にとって極めて衝撃的で貴重な学びであった。引っ越しの度に処分せざるを得ない書が多い中、この書は長く大切に保管している。明治維新の意義という点で、もう少し触れていきたい。

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