2018年4月20日 (金)

西郷隆盛 その10 島流し

185812月、西郷隆盛は月照との入水事件で蘇生したのち、死んだことにされ、菊池源吾と改名の上、18592月に奄美大島に流される。これはおそらくは薩摩の温情措置で、微禄を与えられての島送りである。

 

蘇生したのだから、よかったと言えばよかったわけだが、片方は亡くなっているわけで、入水というのは御法度的で武士としてはまことに不細工な失態である。しかも相方は幕府の追っ手が迫っている人であり、一橋慶喜擁立工作をしつつ反井伊直弼で義挙をも画策していた西郷自身も捕縛の可能性があり、当時のこととて、切腹を命じられても仕方のないところだ。

 

なぜ温情措置がとられたのだろうか。月照への負い目が薩摩にあったとしている書もある。島津斉彬の実父の島津斉興(なりおき)が斉彬なきあとの藩主茂久(もちひさ、後年の忠義)、の後見役として存命しており、彼の指示という話もある。斉興は江戸から帰薩の途中、大坂で西郷に会っており、禁裏の警護の名目で少し兵を残して欲しいといういささか意味不明の彼の懇願を受け入れているので、関係は悪くなかったようだ。なお、斉興は185910月に死去している。

 

『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(川道麟太郎 ちくま新書)には、江戸に向かっていた家老の新納駿河(にいろするが)が、家老首座の島津豊後に「秘密の取り計らいをして、変名の上、島送りにして、いずれその節、表向きは溺死の筋にしてはいかがか」と手紙に書いていることが紹介されている。おそらくその線で事実上のトップが判断したのであろう。

 

奄美大島というと、鹿児島空港からターボプロップ機で1時間程度、今に生きる我々はいかにも鹿児島のすぐ先のように思ってしまうが、実際は400㎞近く離れており、フェリーだと10時間以上を要する。かつてヘリコプターで鹿児島から種子島を経由して奄美方面に移動した経験では、屋久島を過ぎては高度の低いヘリだと前後に島が全く見えないところもあり、時速200㎞でも少々ウンザリする距離ではあった。その昔はこの海域で遭難も多かったのではないだろうか。温情措置と表現したが、移動は容易ではなく、実際のところ相当に厳しい措置だったとは思う。西郷が乗った船も潮待ちなどでかなりの日数を費やしている。

 

奄美大島は深い森林に覆われた随分と大きな島で、南東の海岸に面した切り立った崖からいくつもの滝が流れ出ていたことが印象に残っている。随分前のことにて委細は忘れたが、写真は奄美大島の一部だと思う。綺麗にかかった虹にあわててシャッターを切った。
Photo

 

西郷が住んだのは奄美大島の北側の湾沿いにある龍郷というところである。上掲の書によれば、ここで同じ歳で知己の薩摩藩士重野安繹(しげのやすつぐ)と再会し、彼に、「まことに天下の人に対しても言い訳がつかない」と歯をかみ涙して語っていたという。重野安繹は知人の不祥事に連座して奄美大島に流されていたが、後年、その実証的な歴史研究が高く評価され、東京帝国大学教授に就いている。

 

西郷は当初は奄美大島の生活になじめず随分苦しんだものの、次第に慣れ、島妻(あんご)か島刀自(しまとじ)か、ともかく現地妻(愛加那として知られている)を娶り、菊次郎と、島を去ったあとに生まれた菊草の、一男一女をもうけている。命に未練のない人と語られることが多いし、本人も手紙でそのように書いているが、決してそうではなく、結構しぶとく生きた人ではないかと私は見ている。

 

島では、苛酷な生活を強いられている島民に同情を寄せ、代官と衝突することもあったようだ。奄美の地で、親しくしていた橋本佐内が処刑されたことに涙し、井伊直弼暗殺、しかも有村次左衛門が首級を挙げたとの報を聞き、歓喜したという。

 

届く便りなどでまた血が騒ぎ、帰還を切に待ち望んでいた様子がある一方、島での生活を愛しんでいたようにも思える。186112月に召還の報せが届いた時には、丁度新居で生活を始めようとしていた矢先のことで、嬉しさの反面、当時においては帰還時の島妻の同伴は御法度で、複雑な胸中であっただろう。結果的か意図的か、あるいは性癖なのかはわからないが、青年期以降の西郷隆盛の活動には、引っ込んだり表に出たりと、なにがしか周期性があるように思える。

 

西郷の召還は大久保利通らが島津久光に請願し、かつて斉彬のもとで主席家老を務めていた島津下総(しもうさ)の力添えによったもののようだ。そして18621月に帰還する。ほぼ3年間奄美大島で過ごしたことになる。すぐに斉彬、そして有村次左衛門に墓参したと言われている。また、大久保利通とともに、家老の小松帯刀を訪れている。これは藩主の後見役として事実上実権を擁していた島津久光への謁見の下準備だったらしいが、折角の段取りなのに、その本番でまた失態をやらかす。西郷隆盛という人は決してスマートな生き方をした人ではない。軽率なところもあり、短期間で、今度は罪人扱いでさらに遠い徳之島、沖永良部島に流されるはめとなる。

2018年4月12日 (木)

西郷隆盛 その9 僧月照との入水事件

一橋慶喜擁立派の粛清、反幕府尊皇攘夷派の捕縛など、「安政の大獄」の幕府の情報網の中で、西郷が親しく交流していた勤王僧月照の名前があがり、追っ手が迫る。島津斉彬の命を受け僧月照らと慶喜擁立を図った西郷自身も危うかったわけだが、ともかく京都にいては危ないと、僧月照を薩摩に逃がしてかくまうことを画策する。
Gesho221x300

 

ここで整理しておくと、井伊直弼が大老に就いたのが、185864日、日米修好通商条約が調印されたのが同年729日、一橋慶喜擁立派の処分など「安政の大獄」が始まったのが同年813日、徳川家定が亡くなったのが同年814日である。この頃はどの年もそうだったように、安政5年も激動であった。

 

島津斉彬が鹿児島で急死したのが1858824日だ。朝廷の護衛の大義名分で大軍を率いて上洛しようとしていた矢先のことで、西郷はその準備のために京都に滞在していた。心酔していた斉彬の死に西郷は落胆し殉死しようとしたのを月照に諫められたという。

 

井伊直弼の指示で酒井忠義が京都所司代として着任し、志士の捕縛が始まったのが同年10月頃からで、1013日にはのちに獄死する梅田雲浜が捕縛される。月照が京から逃れるのが同年1016日である。まさに間一髪の逃避行であった。橋本左内や吉田松陰が捕らえられて処刑されるのは翌1859年の末頃だ。井伊直弼が暗殺されたのが1860324日で、それにより安政の大獄が収束する。

 

試験を受けるわけではないので覚える必要はないが、短期に色々なことが相前後して起こっているので、順を追うためには日付が必要となる。ところが、歴史書は旧暦表記だったり西暦表記だったりで、非常にわかりにくい。Wikipediaは概して併記されているが、そうでないこともある。以前にも書いたように、西暦、すなわち太陽暦になったのは明治6年なので、それ以前の日記などの一次資料の日付は元号の旧暦である。

 

このブログでは、できるかぎり西暦におきかえて記すようにしているが、間違いを書かないかとヒヤヒヤする。幕末は、安政、万延、文久、慶応と続くわけだが、元号表記は原資料に忠実だとしても、旧暦と西暦の月日のズレ、しかもそれは一定ではなく、時には年のズレを変換しなければならないので、混在はまずく、西暦で統一して考えた方がいいと思う。なお、安政5年は概ね1858年である。

 

さて月照だが、下関まで西郷が同行し、受け入れ準備のために西郷は先行して帰薩する。その後は「わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」の歌で有名な福岡の尊皇攘夷の過激志士である平野国臣が同行して苦労の末にようやく18581211日に月照を薩摩入りさせる。

 

しかし、斉彬なき後の薩摩は手配中の人物を匿って幕府とことを構える肚はなく、西郷の奔走も空しく、月照の隠匿を拒否し、月照を宮崎方面に送って事実上殺害する命を西郷に下す。苦悩した西郷は、18581220日、宮崎に向かう船から月照とともに竜ヶ水沖合の錦江湾に身を投げ、入水自殺を図る。同船していた平野国臣が救助にあたったが、月照は亡くなり西郷は蘇生する。

 

なんだかできすぎた話のようにも思えるが、私が見た範囲のどの書にも大同小異のことが記されている。西郷が冬の海で低体温症になっていたとしたら月照より15歳若い彼が復温によって蘇生したことは医学的に十分にあり得る。しかし、なぜ西郷はそこまでしなければならなかったのだろうか。意を同じくして親しく交流していたというだけでこんなことをしていたのでは、あの時代、命がいくつあっても足らない。

 

確たる解が私にあるわけではないが、多分そうだろう、というのが『月照』(友松圓諦 吉川弘文館)に記されている。それは、朝廷にあって事実上の最高位である左大臣の近衛忠熈からそのことでわざわざ呼び出しを受け、月照の庇護を西郷が依頼されたということだ。近衛忠熈だけでなく今上陛下の母方の曽祖父にあたる青蓮院宮(のちの中川宮)にとっても月照は大切な人だったようだ。

 

近衛忠熈の正室は薩摩藩主の島津斉宣(なりのぶ)の娘の郁姫。島津斉宣の長男が斉興(なりおき)で、斉興の長男で郁姫の甥にあたるのがかの島津斉彬(なりあきら)である。斉彬の養女篤姫の徳川家定へのお輿入れの際は、形の上で近衛忠熈の養女になっている。つまり、斉彬急死からあまり間がない時期に、斉彬自身も大恩ある彼の義理の叔父近衛忠熈から月照の保護を直々に頼まれたのである。

 

これでは月照を殺害し自らは生き残るということができようはずがない。もちろん僧職の斬殺は西郷にとって論外である。入水事件はまさに困極まってのことであったのだろう。以後、西郷の手紙には「土中の死骨」という自虐が出てくるので、 終生にわたって“死に損ない”がつきまとっていたようだ。

 

なお、月照は大阪の医家の子息として今の善通寺市に生まれたという。出家し若くして京都の清水寺の僧坊である成就院の住職となっている。歴史のある寺とはいえ、当時の清水寺はかなり荒れていて、改革を試みたものの、うまくいかず挫折している。『月照』の著者の友松圓諦師は、仏教の堕落を正そうとした僧職としても歌人としても、国を思う心でも、月照を高く評価している。

 

月照の弟信海は成就院を継いでいたものの、翌年の1859年に捕縛され獄死している。月照に仕えた近藤正慎は捕らえられ拷問を受けても一切白状せず、獄中で舌をかみ切り壁に頭を打ちつけて亡くなったという。遺族への清水寺の配慮で営業権が与えられ、「舌切茶屋」として今も営業している。近藤正慎は俳優の近藤正臣さんの曽祖父にあたるそうだ。月照に仕えその死後も長く供養した大槻重助の「忠僕茶屋」は今に続いている。ひどい時代にあって心温まる話である。

2018年4月 4日 (水)

桜吹雪

今年は少し早かったのだろうか、満開だった桜が散り始めた。桜並木を通るとピンクの小さな花びらがひらひらと舞い落ちてくる。絢爛たる満開の桜も、風靡なる桜吹雪も、一年のうちほんのわずかな期間というのが桜を桜たらしめている。
Photo

「サクラサク」「サクラチル」というのはいささか古典的な合否電報の決まり言葉だったが、今はどうなっているのだろう。すっかりメールに置き換わっているのかも知れない。

 

50年近く前のこと、受験会場の下見に行った際、合否電報請負の小遣い稼ぎの大学生が客引きをしていた。「君は県外?」と私も声をかけられ、「そうです」と答え、「なら僕が責任をもって報せてあげるから、どう?」と。そこで、「でも、ケンガイはケンガイでも、合格“圏外”なんです」と応じたら、それまで緊張の面持ちだった周囲の受験生の空気がほぐれて大爆笑。その大学生に「君は合格する!」と妙な褒められかたをされたのを懐かしく思い出す。

 

桜吹雪と言えば、テレビの大人気ドラマだった「遠山の金さん」の代名詞のような感もある。派手な桜の彫り物を曝して、「この桜吹雪、散らせるものなら散らしてみろぃ!」と啖呵を切っての立ち回りは確かに痛快だ。実はこの人お奉行様。
Irezumi20_m

ただ、これでは今の時代、サウナにも行けないしゴルフ場の風呂にも入れない。それに、散るからこそ桜吹雪なのだけど、とチャチャのひとつも入れたくなる。とはいえ、筋書きが分かっているからこそ安心して観ることができるというのがひとつの持ち味で、あれこれ言うのはヤボというものだろう。今はもう再放送だけになったようで、いささか寂しくはある。

 

テレビは脚色としても、金さんこと、遠山金四郎景元は実在の人物で(1793-1855)、父親は人気ポストであった長崎奉行を務めた遠山景晋(かげみち)。景元は放蕩の時期があったようだが、勘定奉行、北町奉行、南町奉行などを歴任しているわけだから、今で言うエリート家系のキャリア官僚、それも次官か局長クラス、もっと上かも知れない。武家の間でも江戸時代はこういう家格、門閥によって縛られる身分社会だったわけだ。ただし、遠山家は旗本とはいえ、さほどの家格ではなかったようだし、こと勘定奉行に関しては、例外を多く出している。

 

ちなみに、この時の将軍が徳川家慶(いえよし)で、優れ者の阿部正弘を老中に就け、島津斉彬の藩主就任を図ったようだ。父親は徳川家斉で、将軍職から引退してよりも強い発言権を保持していたらしい。徳川家慶の代までは将軍職はほどよく機能していたわけだが、その家慶の嫡男である家定が全く適任でなかったことに江戸幕府の大きなつまづきのひとつがあった。家慶が将軍在位のまま亡くなったのは1853727日で、ペリー来航から1ヶ月も経っていない時であった。継嗣は家定である。阿部正弘は185786日に30代の若さで急死する。これも江戸幕府には痛手だったと思われる。

 

将軍は大体にして将軍家すなわち尾張徳川家から出る。後継のない場合は、紀州徳川家、水戸徳川家から養子を迎える。これが徳川御三家である。御三卿は、徳川家から分家した田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家で、決まった領地を支配する大名というよりも徳川家の家族としての扱いだったようで、世継ぎがない場合に御三家に養子を提供する役割も担ったという。わざわざ養子にするのは、門閥の大義名分を重視したからである。結果、原則的であろうとして変則的になった面もある。

 

将軍継嗣が、誰が賢いから、という抽象的な話になってしまうと、必ず跡目争いで揉めてしまう。だから、あくまで血筋が近い大義名分の通る者というのが原則である。以前に触れた王の継承に似ている。江戸時代には憲法も“将軍典範”もないから、多分に慣行でなされてきたようだ。およそ任に堪えそうもない家定が将軍になったのもその原則にのっとったからである。井伊直弼が家定の継嗣として聡明でなる一橋慶喜ではなく若年の慶福(家茂)としたのも同様である。

 

オーナー企業の社長人事などもそうだが、血縁主義が続くと必ずどこかで弱体化が起こる。江戸幕府がそれで長く続いたのは奇跡に思えるが、むしろ、もはや徳川吉宗のようなカリスマ将軍を必要としないほどに統治機構が発達していたと見るべきだろう。それでも、外国のノックで朝廷との二重構造の脆弱性が曝け出されたわけだ。

 

それはさておき、西郷隆盛が初めて江戸に赴いたのは1854年なので、前年のペリー来航による大騒ぎ、そしてペリーが再来しての日米和親条約締結の頃であった。まさか知己ではあるまいが、出家していた晩年の遠山の金さんと江戸で一緒だったことになる。

2018年3月29日 (木)

プロとアマ

プロとアマについて時にあれこれ考えてみることがある。手っ取り早いところでWikipediaを見るとプロについて下記のようになっている。

1.「認定プロ」のこと。統括する団体が認定した人。

プロゴルファーやプロボクサーなど。多くの団体

では賞金支給の対象になる。

2.専門家のこと。ある分野について、専門的知識・技

術を有している人。

3.そのことに対して厳しい姿勢で臨み、かつ、第三者が

それを認める行為を実行している人。

4.複数のグレードがある場合、高機能、高耐久性として

上位バージョンや装飾を廃した下位バージョンとしてつ

けられる。

 

なるほど、そういうことか、と思う。4.は機械類やソフトのことだろうか。

 

プロとアマの差が歴然としているものとして将棋と相撲がよくあげられる。

 

藤井聡太さんのように、将棋において、中学生、若干15歳がまさしくプロの高段者を打ち負かすというのはにわかには信じ難いが、疑いようもなく事実としてある。一般的には、棋院認定のプロ棋士になるだけでも半端ではなく狭き門らしい。プロになったとしてもそこから厳しい闘いを勝ち抜いていかなければトッププロにはなれない。藤井聡太さんはそういうのを超越して瞬間移動したみたいだ。

 

相撲も、アマの横綱だった人が入門してすぐに横綱になったという話は聞かないので、相当に差はあるのだろう。殴る蹴るがなく、また、血生臭さもなく、絵になり勝負がわかりやすいだけに取り組みを楽しみにしているシニアは多い。何がどうあったか私にはわからないが、ゴタゴタを早くすっきりさせて欲しいものだ。

 

ゴルフをしない人はピンとこないかも知れない。テレビのプロのトーナメントで、460ヤードのミドルホールでティーショットをスプーンで打ちセカンドは9番アイアンでベタピンにつけてバーディー、というのに驚く。こういうのはヘボには想像すらできない全く別次元の世界だ。アベレージゴルファーではまぐれにも絶対にない。彼我の差のはてなきを思い知る。
Bc5600595499001

本の世界では、「文筆だけで生活していける」というのがプロとアマの境界線だろうけれども、書物の印税だけで生活できる人というのはほんのひと握りだ。印税は概して本代の1割程度なので、11000円の本が仮に1万冊売れたとして印税は100万円ぐらい。大きな額に思えるが年収としてみればさほどのことはない。売れっ子作家でなければ1回目の印刷は3000部程度で、多くはそれで終わる。何十万部も売れるというのは夢のまた夢である。たとえそうなったとしても、税金を取られるし、継続しなければ生活のあてにはできない。『作家の収支』(森博嗣 幻冬舎)という書があって、著者は工学部助教授から小説家になったとのことだが、それぞれそれなりに売れて、280冊ぐらい出したと紹介している。作家でリッチになるにはアイデアだけでなくそのぐらいの数は必要なのだろう。

 

歴史書は研究者の学績のひとつとして書かれることが多い。疑問がなくもないが、まあプロの作品と言っていいだろう。助教や大学院生は論文が主で本を出す機会はなかなか得られない。これは推測だが、記事によっては非常に詳しかったりして玉石混交なのでWikipediaは結構そういう立場の人が書いているのではないかと思う。

 

西郷隆盛というメジャーの研究では新資料や新解釈はなかなか出せない。若手研究者はいきおいマイナーな人を対象にして原典から詳細にあたって研究結果を論文にする。幕末・維新は複雑なため、全てを深く掘り下げるのは不可能で、一般人向けに時代の全容を語るということはあまり得意ではなくなる。その意味でのプロはなかなか出ない。その分、視点を異にしたものが多くなり、これはこれで私には有難い。

 

司馬遼太郎や海音寺潮五郎、『西郷どん』の林真理子さんなどのプロの小説家は、膨大な資料を渉猟して事実を掴み、そして事実と事実の間のわからないところは創作でつないで都合よくストーリーを組み立てる。だから面白くはあるが、海音寺潮五郎は郷土研究者の面があるとしても、あくまで小説なのだからそのまま事実として受け止めぬよう注意せねばならない。もっとも、大河ドラマは篤実な研究者で“薩摩”の原口泉さんが時代考証をやっているので、大筋での嘘はないだろう。勝海舟は小柄だったが、大男の遠藤憲一さんが演じるようで、これはテレビならではの愛嬌か。迫力はありそうだ。

 

西郷隆盛は、手紙などを収載した全集もあり、大久保利通日記などの資料が製本発刊されており、原典というか一次資料にあたりやすく、研究書も多くある。公文書館などで苦労してマイクロフィルムのくずし文字を解読していく必要はない。親しみのある超有名人で、しかも謎が多いので、学績を重ねる必要のないアマチュアは取りつきやすい。だからとてもアマとは思えないぐらいに詳しく調べてよくまとめられた書もある。内容的にプロとアマの線引きは難しい。

 

西郷隆盛という人は、世間のイメージと違って決して戦争のプロではない、陰謀策謀のプロでもない、政策論のプロとも言い難い。しかし、明治4年から6年にかけて日本近代化の礎を作ったプロのリーダーだと思う。何とも不思議な人だ。

2018年3月21日 (水)

西郷隆盛 その8 安政の大獄

「安政の大獄」は、勅許なしに米修好通商条約を締結(1858729日)した責任者である井伊直弼が、1858年から1859年にかけて、それに反発する志士達を片端から捕らえ、処刑などの厳罰を下した事件である。条約締結の優れた実務者であった岩瀬忠震を罷免し井上清直を左遷しているので、正常な精神状態だったのか疑問に思えるほどだ。

 

この事件にはもう一つの面があって、それは将軍継承(継嗣)問題である。将軍家定には実子がいなかったため、井伊直弼は徳川御三家から将軍家定と血縁の近い紀州徳川家のまだ幼年の慶福を推したが、英明の誉れ高い一橋慶喜を推す勢力もあり、その闘争に勝利した井伊直弼が、一橋慶喜を推した勢力に対して粛清したことである。水戸の徳川斉昭や福井の松平春嶽などの大物大名まで処罰している。島津斉彬への処罰も考えてはいたらしいが、さすがに周囲から諫められたようだ。

 

正室を迎えるなど、一橋家と縁の深い島津斉彬は軍事も辞さずの覚悟で一橋慶喜を推す。斉彬は朝廷を通じて「慶喜擁立に有利な勅語」を得ることで慶喜擁立を図ろうとして西郷隆盛に指示し、彼もそれに従って篤姫を通じて大奥の支持を取り付け、朝廷と親しい僧月照と相談を重ねている。ようやくにして得た勅語は、井伊直弼により慶福(家茂)擁立に都合のいいように改竄されたという。その辺りのことは、近刊の『命もいらず名もいらず 西郷隆盛』(北康利 WAC)でわかりやすく解説されている。

 

そんな最中、鹿児島に滞在していた斉彬が1858824日に急死する。これは西郷隆盛にとって大きな衝撃であった。

 

幕末、といっても、これも明らかに後付けの言葉であり、「幕府は危ないのではないか」「徳川を倒さねば」と思った人は多かったろうが、当時に“幕末”と表現した人がいるはずはない。現代に生きる我々は結果を知って歴史を見るので平気でこういう言葉が使えるが、騒乱の真っただ中にいた人は、結果などわからない。反幕の人達も徳川幕府擁護の人達も、信条や忠義に基づいた“命を賭けた闘い”だった。井伊直弼もまた幕府の存続のためにそれをした人である。しかも彼自身は強い尊皇精神を有していた。だからギリギリまで勅許にこだわったのである。

 

結果的に倒幕になったのは最後の最後であって、徳川家をどうするか、外様大名をどこまで参画させるか、などの内容の異同はともかく、反幕府の人達にほぼ共通してあったのは「天皇を中心としての幕政改革」である。攘夷も、あくまで幕府が(も)攘夷をすべきという論だが、反幕府でも内心が攘夷だったわけではない人もいる。いくら尊皇でも、朝廷が政務を担え攘夷もできると思っていた人はまずいない。この点は誤解しやすいので注意が必要である。

 

今の時代から見て、「この人は優れていたのではないか」と思えるような人が殺されたり、自死に追いやられたり、日の目を見ることがないままに終わったりというのは枚挙にいとまがない。「安政の大獄」もそういう人材を多く失った、あるいは貶められた事件である。僧月照の命も狙われ、かくまおうとした西郷も危うくなる。次稿で触れる。

 

井伊直弼自身もまた、1860324日、桜田門外で水戸浪士、薩摩を脱藩して彼らに加わった有村次左衛門らの襲撃により、時期外れの降り積む雪を真紅に染めて自らの命を落とす。
Photo

 井伊直弼の死によって「安政の大獄」は収束したものの、国内はさらなる大混乱に陥っていく。テロも頻発し、これはもう“グチャグチャ”としか表現しようがないような事態だ。一筋縄では理解できない、というよりも、どうみても一筋縄からはほど遠い。孝明天皇からして、幕府依存というか、親幕府でありながら、強硬な攘夷というのだから、矛盾している。開国を進めながら攘夷を約束するという幕府の苦し紛れの二枚舌を誘発したようなものだ。攘夷を主張しながら生き残った人達は新政府発足までのどこかで開国を受け入れているはずだ。朝廷も分裂している。グチャグチャと切り捨ててしまえば思考停止に陥るので、私でときほぐせるところは先で書いていく。

 

西郷隆盛はというと、動乱からしばし離れた生活を送っている。まず“死に損ない”の身で1859年から奄美大島送りになり、赦されて1862年に2ヶ月ばかり帰還したものの、島津久光の怒りをかい、まず徳之島、そして沖永良部島に遠島になり、1864年まで通算5年にもわたって離島生活をしていたからである。

 

そんな人がなぜ維新の英傑とされ、今なお敬慕されているのか、そういう謎解きで歴史を見ていくのも面白さのひとつである。

2018年3月13日 (火)

西郷隆盛 その7 孝明天皇

311日夜、NHK大河ドラマの『西郷どん』を初めて少し長くみた。ネタ元にしているわけではないが、ブームに便乗した気になってブログを書いているので、時には見ないと申し訳ない気もする。

 

この回の主役は篤姫で、島津斉彬の養女ながら実子として届けられ、形の上では薩摩と親しい公家近衛忠熈の養女として第13代将軍徳川家定(1824-1858)の継室(後妻で正室)となる。血筋から将軍になったものの、謁見した外交官の表現からは、家定は今でいうADHD(注意欠如多動性障害)に似た症状を呈している。天下泰平であれば老中などの幕閣による政務で問題なかったろうが、1853年、黒船来航直後に将軍の座についたわけで、朝廷との関係もあり、まさにトップの強力なリーダーシップが必要とされた時代であった。結局は実子のないまま34歳で亡くなり、その後継問題は井伊直弼による「安政の大獄」につながる大事件となっている。

 

ドラマでは、篤姫が海を見て鹿児島を懐かしむという場面があった。そういうのは史実調査からは出てこないので事実かどうかはわからないが、大規模な埋め立てがなされていない時代、江戸の薩摩藩邸は海に近く、いかにもありそうな話だ。脚本家の腕の見せ所だろう。

 

ちなみに、孝明天皇の異母妹の和宮は、幕府の攘夷実行を条件に、家定の次の第14代将軍徳川家茂(いえもち 1846-1866)に嫁いでいる。血筋が近い慶福(よしとみ のちの家茂)か、聡明でなる一橋慶喜か、の大騒動のあげくに、結局12歳かそこらの慶福が将軍となり、家茂と改名する。ところが、その家茂も20歳で亡くなった。将軍自体は2代続けて機能不全だったことになる。篤姫も和宮も若くして寡婦となったが、篤姫は家定亡きあとも薩摩には戻らず、天璋院として徳川家のために尽くしている。

 

さて、江戸期最後の天皇である孝明天皇は紛れもなく頑迷な攘夷主義者であった。といっても、1831年生まれなので、1846年に践祚、1847年に即位の礼を行なった当時にあっても、16歳ぐらいであり、少なくとも当初においては深い意味での攘夷だったわけではなく、「自分の代でこの神国日本が外国に汚されるのは認められない」という、いわば非常に単純な思いだったようだ。それでも、朝廷において長年関白を務め当初は開国主義であった鷹司政通の説得も効をなさなかったという。

 

「外国船を打ち払っておかなければ、彼らが海から京都に攻め上ってくる」というまことしやかな脅しの話も朝廷にはあったようで、恐れを抱いていたのかも知れない。ところが、この孝明天皇の「攘夷」が幕末のさらなる大混乱を引き起こす。

 

外国船など迷惑この上ないわけで、江戸幕府もできるものなら打ち払いたかった。でも、それはできない相談だというのがよく分かっていたのである。1825年に「外国船打ち払い令」を出し、それが効なしと悟ると、懐柔策として1842年に「薪水給与令」を出した。「困れば必要な支援はするからそうそうに引き取って下さい」としたわけだ。出没する外国船に右往左往させられたものの、武力衝突も起こしており、決して何もしなかったわけではない。

 

琉球を経由して黒船のペリーが来航したのが1853年である。威風堂々とした上から目線で「来年また来る」と予告したペリーに、「いよいよ逃れられなくなった」と幕府はさぞ怖れをなしたことだろう。
Photo

「攘夷は無理な話で、開国は避けられない」として、1854年、幕府はついに日米和親条約締結に踏み切る。さらには勅許を得ることができないまま1857年に日米修好通商条約を締結し、ついでイギリス、フランスなどとも条約を締結していく。以後は猛烈な勢いで西洋文明の導入に努め、使節団を海外に派遣し、お雇い外国人をも多く擁するようになっている。外国も領事館をおき外交官が滞在した。幕府もアメリカの担保を取り複数国を相手にすることで一国による植民地化を防いだようなところがある。

 

ところが、京都に近い兵庫の開港が1863年に約束されるなど、相当に踏み込んだ内容の日米修好通商条約は孝明天皇の激に触れ、あくまで勅許を拒否し、反幕派の人たちにとって絶好の幕府攻撃の口実となっていった。天皇という存在は大きく、基本的には親幕府であった孝明天皇の思惑をはるかに越えて幕府の政体への強烈なカウンターパンチとなる。

 

光格天皇が口火を切った朝廷の復権、孝明天皇の攘夷に関する強硬姿勢、将軍のリーダーシップなき弱体化の幕府、が相乗的に作用したと言えるだろう。「安政の大獄」にも次期将軍を巡る勅語がからんでおり、幕府の弱体化のこともあわせ、稿を改める。

2018年3月 5日 (月)

宇宙の話はどこにいった

江戸時代も、明治維新も、さらには西郷隆盛もよしとして、あれだけ好きだった宇宙の話はどこに行ったのか?と尋ねられそうだ。いや、尋ねられないかも知れないが、勝手に書いている。

 

実は、宇宙も変わらず強い興味の対象である。ただ、目につく一般向けの書はかなり目を通し、私にはもう書けるようなことがなくなってしまったということがある。それに、難解な数学の壁は今さらいかんともし難い。超ミクロの素粒子の話も、高次元だと言われる超マクロの宇宙も、どうも物理学者ですらイメージでとらえることができず、数式で何とか納得を得ているようなのだ。

 

そうであれば一般人にわかるはずがない。私はと言えば、「狐が種を蒔く」とか、「盗人が盗んだ反物を山分けする」とかの、遊び心満載の江戸数学ですらまともに解けない。

 

比較的最近には『時空のからくり-時間と空間はなぜ「一体不可分」なのか-』(山田克哉 講談社)を読んだ。できるだけ親しみを持ってもらいたいという著者の配慮だろうか、落語よろしく八っつあんと熊さんの時空を巡っての対話も折り込まれている。二人の対話はべらんめえ口調というだけで、テンソルがどうのこうのと随分と難しい。長屋のお二人はこんなにインテリだったのか。

 

時間と空間は不可分の関係にあり、一体として時空と呼び、質量によって曲げられる、という。山田克哉さんの本のいいところは、「なぜ質量が空間を曲げるのか」はわかっていない、という率直な語りにある。

 

質量が空間を曲げるというのはかのアインシュタインが予測したことだが、イギリスの天文物理学者のアーサー・エディントン(1882-1944)は、日食を利用し、太陽をかすめて見える星が見かけ上で本来の位置から少しずれる、つまり太陽の質量で光が曲げられる、ということを明らかにした。この観測実験もアインシュタインが示唆したものだ。アーサー・エディントンは、ブラックホールを理論的に予測したインド生まれの若き天才物理学者チャンドラセカール(1910-1995)を罵倒して潰したことでも有名になっている。エディントンとチャンドラセカールの写真はWikipediaから。

Photo_6 Photo_4

















チャンドラセカールの正しさはのちに認められ、はるか後になってノーベル賞を受け、アメリカの衛星にも名前が刻まれた。なお、光が曲がるわけではなく、光としては直進しているのだが、空間が曲がっているため、曲がりに沿って“直進”するわけだ。わかったようなわからないような話ではある。ともあれ、数式が出るわけではないので、科学史は非常に面白く読める。

 

さて、山田克哉さんはアメリカ在住の物理学者で、『原子爆弾』(講談社)という名著がある。アメリカがマンハッタン計画としていかに困難を克服してこのおぞましい兵器を作ったか、ということを解説した書である。1945年にウラン型とプルトニウム型が人体実験的に日本に投下され、広島と長崎で瞬時に何万人にも及ぶおびただしい死者を出している。そのアレルギーから、日本では核爆弾について語ることすら憚られるような風潮があるが、冷静に、事実として、この兵器製造過程について知っておく意義はある、という趣旨の書である。

 

最近では『E=mc2のからくり-エネルギーと質量はなぜ「等しい」のか-』(山田克哉 講談社)が発刊され、枕元に積んでいる。山田氏の書だけではなく、『宇宙に「終わり」はあるのか』(吉田伸夫 講談社)も昨年末に読んだ。もちろん理解はできず、頭がおかしくなりそうなスケールの話だが、なぜか楽しい。写真はハッブル宇宙望遠鏡がとらえた、はるかかなたのはるか昔の宇宙の姿の一片で、これらは全て銀河で、しかもそれぞれは想像すらできない途方もない大きさだ。

Photo_8
チリのアタカマ高地に多く設置されている壮大なアルマ望遠鏡の成果がそろそろ出てくる頃だ。平昌の冬季オリンピックでの日本人選手の活躍も嬉しい限りだったが、このアルマ望遠鏡にも日本は深く関わっている。何かわかりやすく驚くような結果が出て欲しいと、こちらも応援している。平昌も寒さと強風で大変だったようだが、日本から遠く、人里離れたところでの研究もさぞ大変だろう。頑張って新しい宇宙の姿を見せて欲しいものだ。

 

こういうのを読んでいるとボケ防止にはなるかも知れない。いや、わからないとボケを促進させてしまうか、既にボケているからわかりもしないのを読んでいるだけか、それは何とも言えない。だが、江戸時代と並行させている限りは、多分、ボケではないと自分では思っている。

2018年2月25日 (日)

西郷隆盛 その6 天皇に関する横道にそれた論考

光格天皇は生前退位をしており、継いで天皇になったのは第4子の仁孝天皇(1800-1846 在位1817-1846)である。仁孝天皇は歴史を作った親と子の間にあって影が薄い印象だが、光格天皇が腐心した朝廷の教育機関を学習所として創設(復活)することに尽力し武家伝奏(朝廷と幕府との橋渡し役)を通じて幕府の許可を得ている。この事業は孝明天皇に引き継がれ学習院として創設された。名前からわかるように、これは今の学習院大学の前身で、正式には明治10年に学習院大学として発足している。

 

仁孝天皇の第4子が、江戸時代最後の天皇である孝明天皇(1831-1867 在位1846 -1867)だ。画像はWikipediaから。
Photo

こういうことを書いていると、「あなたは天皇家オタクなのか」と言われそうだが、それは全くそうではない。Wikipediaや複数の書を参照しながら私なりに咀嚼して書いているだけで、そもそもこの方面の知識など微々たるものだ。だが、明治維新を語る上で、天皇の存在は避けて通れないのである。もしかして、それを意外に思う人もいるかも知れない。

 

なぜあまり語られなかったかというと、明治維新以降、戦前、つまり1945年に至るまで、天皇は神聖視、いわゆる「神聖ニシテ侵スベカラズ」とされており、語ること自体が“畏れ多い”ことで、タブー視されてきたということがあげられる。不敬罪もあったし、刑罰としては死刑しかなかった大逆罪というとんでもない刑法もあった。

 

戦後、つまり1945年以降はというと、反動からか、いわゆるマルクス主義歴史学者なる人達が席捲し、ブルジョア革命だのプロレタリア革命など、彼ら独自の歴史観を構築している。その際、明治期の天皇絶対制を強調するあまり江戸期の天皇は論考の枠外になりがちで、結果、その果たした役割を閑却してきたということもあげられるであろう。比較的最近になって、1980年代ぐらいから、ようやく自由闊達な論が展開されるようになってきたように思われる。

 

ここでちょっと触れておくと、私自身は、一国民として、今上陛下を国の象徴として敬い、日本は紛れもなく立憲君主国家であり、天皇は政治に関わらない儀礼君主だと断じて憚らない、という立場だ。“日本独自”にこだわる人はどうか知らないが、世界的に見れば間違いなくそうである。英語で書けば、Constitutional Monarchyだ。

 

君主制での君主の権力や富はさまざまだが、そもそもの憲法の起こりは、継承を明確にし、君主(王)にどういう制約を課すか、ということにある。現在の日本の場合は、天皇は政治には関わらない、従って政治責任も負わない、ということで明確だ。江戸時代の朝廷が似ているというのは以前に書いた。

 

今のフランスやドイツ、アメリカは、王、いわゆる君主を持たない共和制である。イギリスは明文憲法を持たない君主制である。これらの国を対比させると非常に面白い。

 

フランスは王がいたが、革命で殺してしまった。その後一時期ナポレオンの独裁などを経て、現在の共和制に至っている。アメリカは先住民族を移民が淘汰したという国の成り立ちからしてそもそも王が出現する余地はなく、独立戦争(1775-1783)で君主国イギリスの支配を拒否している。イギリスはというと、いわゆるピューリタン革命で1649年に王を処刑したものの、結果、クロムウェルの独裁につながり、王政を廃したからといって国の運営は決してうまくいかないと悟り、短期で王を復活させたといういきさつがある。

 

海を隔てたお隣の李氏朝鮮は君主制で、明治維新の頃に実権を持っていたのが高宗の実父の興宣大院君(こうせんだいいんくん)で、頑として明治新政府を認めず在留日本人に危害を加え排斥しようとした。これが西郷隆盛自ら礼節を尽くして朝鮮に赴いて話をまとめようとしたゆえんである。後年、朝鮮の君主制を潰したのは日本だ。

 

さて、立憲君主制度の意義を明快に論じた人として、イギリスの思想家、エドマンド・バーク(1729-1797)があげられる。私の理解においては、王というのは人為的におかれたものではなく、自然発生的に長く継承されたもので、その尊重は国家としてのまとまりに大きな意義があり、国民は王個人というよりも、王がまとう荘厳な法衣に服従するというものだ。王は国民のしもべでもあるとのべている。

 

難しい話はさておいても、世界どんなところにも王がいたし、今も続いている国が多い。人間社会の習性がそうなっていると素直に受け止めていいのではないだろうか。

 

どういう体制を取るかというのはその国の人々が決めることだが、立憲君主制というのは決してゆえなき制度ではないのである。日本は立憲君主国として今は安定しているが、将来を考えるとすれば、それは血統主義で規定される皇位継承権のある範囲の人々、すなわち皇族の人権問題であろう。公務としての国事行為や天皇家の行事が多くあり、品格の維持という不文律の義務がある一方、国民が普遍的に有する自由や権利が制限されているからである。

 

話が横道にそれ過ぎてしまった。次回は孝明天皇に戻す。

2018年2月18日 (日)

西郷隆盛 その5 朝廷と幕府の権威逆転の萌芽

幕末最後の天皇である孝明天皇の祖父にあたる光格天皇は、どちらかといえば傍系で、本来なら出家して聖護院に行くはずが、天皇家の諸事情から天皇となっている。英明な勉強家だったらしい。

 

聖護院は皇族が住職を務めることが多かったようだ。京都御所の大火の際に光格天皇は聖護院に仮住まいをしている。と偉そうに書いても、私はそもそも聖護院については「八つ橋」ぐらいしか知らなかった。写真はWikipediaに掲載されている聖護院の宸殿で、いかにもそれらしい風格ではある。
Photo

その光格天皇が何をしたかについてだが、まず、朝廷の儀式を復活させたことがあげられる。朝廷の凋落を嘆き、その権威の復興を期していたとも言われている。天明の大飢饉の際には、江戸では打ちこわしなどが起こり、『江戸時代の天皇』(藤田覚 講談社)によれば、京都では多い日は5万人の庶民が「御所千度参り」として御所に参詣し飢饉対策への祈願をしたという。幕府はさぞ肝を冷やしたことだろう。

 

『江戸幕府崩壊』(家近良樹 講談社学術文庫)には、「知識人ではない一般の民衆が、朝廷や天皇のことをどう思っていたのか、これがほとんどわからないのである」と記されている。漠然と「民を思ってくれる有難き天子様」だったのではないかという私の考えは以前に書いた通りだが、その当否はともかく、「御所千度参り」からして、困窮時に参詣するという意識が、決してほんの一部とは言えない数の庶民にあったことは確かである。

 

光格天皇は幕府に民衆救済を訴え、米の放出をさせている。千島列島を測量し国後まで南下していたロシア人のゴローニンが1811年に松前藩に拘束されるといういわゆるゴローニン事件の勃発に際しては、その経過について朝廷への報告を求め、幕府もそれに応じている。火災で焼失した京都御所を、莫大な出費を渋る幕府に対して、ほぼ希望通り再建させたのも光格天皇である。

 

これは、事実において幕府への大政委任であった江戸時代においては越権とも言える面もあったが、幕府が柔軟に応じたことが前例を作ったと言えるであろう。先で起こる江戸幕府との権威関係の逆転はこの光格天皇の時に萌芽したのである。朝廷は光格天皇の遺徳を讃え、その死後に、「天皇」という称号の復活を幕府に認めさせている。

 

天皇家が万世一系というのは誇張だと思うが、この光格天皇以降は現在に至るまでほぼ一系である。光格天皇の実母は今の鳥取県倉吉市出身なので倉吉には天皇家と血筋がつながった人が多くいるはずだ。とはいえ、昔は嫡子、庶子、養子などが入り乱れているので、血筋のことを言い出したらきりがない。西郷隆盛も巻き込まれた薩摩の「お由羅騒動」もそういったことに起因している。私はテレビの「西郷どん」は見ていないが、島津斉興の側室として息子の島津久光を強引に権力の座におしあげた「お由羅」を小柳ルミ子さんが演じたようで、いかにもそれらしい。島津久光は藩主にはなっていないが、藩主の父として実権を握り、錚々たる大名をさしおいて幕末にトップバッター的に孝明天皇と対面している。西郷隆盛とも非常に因縁深い。

 

さて、元号は、光格天皇の時代は、安永、天明、寛政、享和、文化と変遷している。光格天皇の第4子である仁孝天皇の時は、文化を引継ぎ、文政、天保、弘化と変遷した。元号制定は紛れもなく幕府の裁量であった。

 

明治、大正、昭和、そして平成という元号に親しんでいる我々は一世一元と思いこんでいるが、これは維新の時にそのように制定され、明治20年の旧皇室典範に「踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ」という定めがあったからである。現在の皇室典範にはそのことは規定されていない。「践祚」(せんそ)というのは皇位継承のことだ。即位は公表日なので少しずれるが、ほぼ同義としてよいと思う。崩御もそうだが、皇室には独特の言葉が多くある。

 

ゴローニン事件もその一つであるように、特に江戸時代後期には日本沿岸に多くの外国船が出没するようになっていて、江戸幕府はこれに悩まされていた。決してペリーの“黒船”一発で沈んだわけではない。外国船については稿を改めて紹介するが、次回は天皇についてもう少し筆を進める予定。

2018年2月12日 (月)

寒中閑あり

「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」と同じで、過ぎたことは寒さも忘れる。だから「冬ってこんなに寒かったのかなぁ」と思ってしまう。この冬はすごく寒い。とはいえ、大雪山の頂上ならともかく、北海道の生活圏の地域でも氷点下30℃を下回ったところもあるようだし、大雪の福井も本当に大変だった。0℃かそこらの粉雪で寒がっていたのでは罰が当たりそうだ。

 

外に出る気がしない寒い夜は、熱燗で一杯、というのがいいのだろうけど、非常に残念なことに私にはその楽しみがない。いきおい、活字を読んで過ごすことが多い。ただ、小さい字を目にしていると、歳のせいか次第に字面がボケてくるので、あまり長い時間は読めない。

 

今まさに平昌での冬季オリンピックたけなわだが、あまり知らないこともあってチョロチョロ程度にしか見ない。そこで、以前にも触れたように、ヘッドホンをしてYouTubeで遊ぶ。音楽であればジャズやタンゴ、歌謡曲などをサーフィン。これはなかなか楽しい。私の身近にいる人は私がそうだとは想像もつかないだろうが、May.Jの隠れファン。可愛らしいすっきり顔が好みなのかも知れない。ただ、歌がうまいのはわかっても曲はサッパリ覚えられず、やはり懐メロがいい。今回は女性演歌歌手をネタに。

 

島津亜矢さんのオリジナルのヒット曲は知らないが、カバー曲は完全に自分のものにして歌っている。さほど美形とは言えないが、歌のうまさは女性演歌歌手では屈指だろう。今は、『哀愁列車』『岸壁の母』『無法松の一生』をローテーションで変えていく「お気に入り」においている。

https://www.youtube.com/watch?v=NFHZTlFTcns

https://www.youtube.com/watch?v=66D7xu0w_tI

https://www.youtube.com/watch?v=3kPQUZQo65U

 

『岸壁の母』は舞鶴が舞台だ。いずれ書くとしながら、引揚記念館のことはまだ書いていない。あまりにも重い話で辛い思いにかられるが、凍死や餓死が続出した極寒のシベリア抑留の悲劇はやはり語り継いでいかねばと思う。

 

誘われて行ったスナックで、メロディと歌詞に惹かれて、松原のぶえさんの『蛍』をウロ覚えで無理して唄ってみたら、お世辞ではあろうけど、ママさんが、「まあ、いい歌を歌われますこと」と言ってくれて気をよくした。下手が歌ってそうなのだからやはり名曲なのだろう。沖縄在住時に仲間と時々行っていた店のママさんが元プロ歌手で、今にして思うに松原のぶえさんと容姿も歌唱もよく似ている。全く売れなかったそうだが、やはりプロは全然違うとつくづく思ったことが懐かしい。『蛍』を歌ってもらえばよかった。

https://www.youtube.com/watch?v=D5Xyl4MTJBE

 

田川寿美さんは名前を聞いたことがある程度だったが、サーフィンで目にとまった。うまいのはもちろんだが、表情と仕草、情感で歌える美系の歌手だと思う。『越後獅子の唄』を惚れ惚れとして聞いている。この人は陰で相当に努力しているのではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=IQD_rUCVYX8&list=RDIQD_rUCVYX8

 

『越後獅子の唄』の作詞者は西条八十で、『誰か故郷を思わざる』『三百六十五夜』などを作詞し、また、演歌に限らず幅広く多くの作品がある。『三百六十五夜』はサクランボのようなつぶらな瞳の本間千代子さん(ちょい古くて恐縮!)が可憐な声でカバーしている。「みどり~の風に お~く~れ毛が~ ♪」と詩を書き出せる感性が羨ましい。

https://www.youtube.com/watch?v=rn1ZCa7xhLY

 

 

この大詩人の西条八十こそは、かの金子みすゞの才を見抜いた人だ。時は昭和2年の夏、下関駅の仄暗い一隅に人眼を憚るようにたたずんで西条八十を待つ彼女に、初めて会う。そのわずかな時間の出会いが、最初で最後であった。西条八十は金子みすゞをして「その容貌は端麗で、その眼は黒曜石のように深く輝いていた」と書き残し、金子みすゞ亡きあと、再訪した雨の下関でその名を呼び慟哭したという。
Photo

 いい歌には詩情がある。懐メロ好きと笑われようと、私はそんな曲が大好きである。

«西郷隆盛 その4 皆既月食と改暦の話