2018年2月18日 (日)

西郷隆盛 その5 朝廷と幕府の権威逆転の萌芽

幕末最後の天皇である孝明天皇の祖父にあたる光格天皇は、どちらかといえば傍系で、本来なら出家して聖護院に行くはずが、天皇家の諸事情から天皇となっている。英明な勉強家だったらしい。

 

聖護院は皇族が住職を務めることが多かったようだ。京都御所の大火の際に光格天皇は聖護院に仮住まいをしている。と偉そうに書いても、私はそもそも聖護院については「八つ橋」ぐらいしか知らなかった。写真はWikipediaに掲載されている聖護院の宸殿で、いかにもそれらしい風格ではある。
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その光格天皇が何をしたかについてだが、まず、朝廷の儀式を復活させたことがあげられる。朝廷の凋落を嘆き、その権威の復興を期していたとも言われている。天明の大飢饉の際には、江戸では打ちこわしなどが起こり、『江戸時代の天皇』(藤田覚 講談社)によれば、京都では多い日は5万人の庶民が「御所千度参り」として御所に参詣し飢饉対策への祈願をしたという。幕府はさぞ肝を冷やしたことだろう。

 

『江戸幕府崩壊』(家近良樹 講談社学術文庫)には、「知識人ではない一般の民衆が、朝廷や天皇のことをどう思っていたのか、これがほとんどわからないのである」と記されている。漠然と「民を思ってくれる有難き天子様」だったのではないかという私の考えは以前に書いた通りだが、その当否はともかく、「御所千度参り」からして、困窮時に参詣するという意識が、決してほんの一部とは言えない数の庶民にあったことは確かである。

 

光格天皇は幕府に民衆救済を訴え、米の放出をさせている。千島列島を測量し国後まで南下していたロシア人のゴローニンが1811年に松前藩に拘束されるといういわゆるゴローニン事件の勃発に際しては、その経過について朝廷への報告を求め、幕府もそれに応じている。火災で焼失した京都御所を、莫大な出費を渋る幕府に対して、ほぼ希望通り再建させたのも光格天皇である。

 

これは、事実において幕府への大政委任であった江戸時代においては越権とも言える面もあったが、幕府が柔軟に応じたことが前例を作ったと言えるであろう。先で起こる江戸幕府との権威関係の逆転はこの光格天皇の時に萌芽したのである。朝廷は光格天皇の遺徳を讃え、その死後に、「天皇」という称号の復活を幕府に認めさせている。

 

天皇家が万世一系というのは誇張だと思うが、この光格天皇以降は現在に至るまでほぼ一系である。光格天皇の実母は今の鳥取県倉吉市出身なので倉吉には天皇家と血筋がつながった人が多くいるはずだ。とはいえ、昔は嫡子、庶子、養子などが入り乱れているので、血筋のことを言い出したらきりがない。西郷隆盛も巻き込まれた薩摩の「お由羅騒動」もそういったことに起因している。私はテレビの「西郷どん」は見ていないが、島津斉興の側室として息子の島津久光を強引に権力の座におしあげた「お由羅」を小柳ルミ子さんが演じたようで、いかにもそれらしい。島津久光は藩主にはなっていないが、藩主の父として実権を握り、錚々たる大名をさしおいて幕末にトップバッター的に孝明天皇と対面している。西郷隆盛とも非常に因縁深い。

 

さて、元号は、光格天皇の時代は、安永、天明、寛政、享和、文化と変遷している。光格天皇の第4子である仁孝天皇の時は、文化を引継ぎ、文政、天保、弘化と変遷した。元号制定は紛れもなく幕府の裁量であった。

 

明治、大正、昭和、そして平成という元号に親しんでいる我々は一世一元と思いこんでいるが、これは維新の時にそのように制定され、明治20年の旧皇室典範に「踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ」という定めがあったからである。現在の皇室典範にはそのことは規定されていない。「践祚」(せんそ)というのは皇位継承のことだ。即位は公表日なので少しずれるが、ほぼ同義としてよいと思う。崩御もそうだが、皇室には独特の言葉が多くある。

 

ゴローニン事件もその一つであるように、特に江戸時代後期には日本沿岸に多くの外国船が出没するようになっていて、江戸幕府はこれに悩まされていた。決してペリーの“黒船”一発で沈んだわけではない。外国船については稿を改めて紹介するが、次回は天皇についてもう少し筆を進める予定。

2018年2月12日 (月)

寒中閑あり

「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」と同じで、過ぎたことは寒さも忘れる。だから「冬ってこんなに寒かったのかなぁ」と思ってしまう。この冬はすごく寒い。とはいえ、大雪山の頂上ならともかく、北海道の生活圏の地域でも氷点下30℃を下回ったところもあるようだし、大雪の福井も本当に大変だった。0℃かそこらの粉雪で寒がっていたのでは罰が当たりそうだ。

 

外に出る気がしない寒い夜は、熱燗で一杯、というのがいいのだろうけど、非常に残念なことに私にはその楽しみがない。いきおい、活字を読んで過ごすことが多い。ただ、小さい字を目にしていると、歳のせいか次第に字面がボケてくるので、あまり長い時間は読めない。

 

今まさに平昌での冬季オリンピックたけなわだが、あまり知らないこともあってチョロチョロ程度にしか見ない。そこで、以前にも触れたように、ヘッドホンをしてYouTubeで遊ぶ。音楽であればジャズやタンゴ、歌謡曲などをサーフィン。これはなかなか楽しい。私の身近にいる人は私がそうだとは想像もつかないだろうが、May.Jの隠れファン。可愛らしいすっきり顔が好みなのかも知れない。ただ、歌がうまいのはわかっても曲はサッパリ覚えられず、やはり懐メロがいい。今回は女性演歌歌手をネタに。

 

島津亜矢さんのオリジナルのヒット曲は知らないが、カバー曲は完全に自分のものにして歌っている。さほど美形とは言えないが、歌のうまさは女性演歌歌手では屈指だろう。今は、『哀愁列車』『岸壁の母』『無法松の一生』をローテーションで変えていく「お気に入り」においている。

https://www.youtube.com/watch?v=NFHZTlFTcns

https://www.youtube.com/watch?v=66D7xu0w_tI

https://www.youtube.com/watch?v=3kPQUZQo65U

 

『岸壁の母』は舞鶴が舞台だ。いずれ書くとしながら、引揚記念館のことはまだ書いていない。あまりにも重い話で辛い思いにかられるが、凍死や餓死が続出した極寒のシベリア抑留の悲劇はやはり語り継いでいかねばと思う。

 

誘われて行ったスナックで、メロディと歌詞に惹かれて、松原のぶえさんの『蛍』をウロ覚えで無理して唄ってみたら、お世辞ではあろうけど、ママさんが、「まあ、いい歌を歌われますこと」と言ってくれて気をよくした。下手が歌ってそうなのだからやはり名曲なのだろう。沖縄在住時に仲間と時々行っていた店のママさんが元プロ歌手で、今にして思うに松原のぶえさんと容姿も歌唱もよく似ている。全く売れなかったそうだが、やはりプロは全然違うとつくづく思ったことが懐かしい。『蛍』を歌ってもらえばよかった。

https://www.youtube.com/watch?v=D5Xyl4MTJBE

 

田川寿美さんは名前を聞いたことがある程度だったが、サーフィンで目にとまった。うまいのはもちろんだが、表情と仕草、情感で歌える美系の歌手だと思う。『越後獅子の唄』を惚れ惚れとして聞いている。この人は陰で相当に努力しているのではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=IQD_rUCVYX8&list=RDIQD_rUCVYX8

 

『越後獅子の唄』の作詞者は西条八十で、『誰か故郷を思わざる』『三百六十五夜』などを作詞し、また、演歌に限らず幅広く多くの作品がある。『三百六十五夜』はサクランボのようなつぶらな瞳の本間千代子さん(ちょい古くて恐縮!)が可憐な声でカバーしている。「みどり~の風に お~く~れ毛が~ ♪」と詩を書き出せる感性が羨ましい。

https://www.youtube.com/watch?v=rn1ZCa7xhLY

 

 

この大詩人の西条八十こそは、かの金子みすゞの才を見抜いた人だ。時は昭和2年の夏、下関駅の仄暗い一隅に人眼を憚るようにたたずんで西条八十を待つ彼女に、初めて会う。そのわずかな時間の出会いが、最初で最後であった。西条八十は金子みすゞをして「その容貌は端麗で、その眼は黒曜石のように深く輝いていた」と書き残し、金子みすゞ亡きあと、再訪した雨の下関でその名を呼び慟哭したという。
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 いい歌には詩情がある。懐メロ好きと笑われようと、私はそんな曲が大好きである。

2018年2月 5日 (月)

西郷隆盛 その4 皆既月食と改暦の話

皆様もよく御存知のように、131日夜は月が完全に地球の影に隠れる皆既月食だった。私がいる地域は薄曇りで、月がおぼろに欠け始めた時は見えたが、皆既月食になれば赤銅色に見えるという月は残念ながら全くわからなくなってしまった。

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http://www.afpbb.com/articles/-/3160736?pid=19771389

 

月食が始まった時間は報道通りドンピシャリである。今の科学、天文学なら当然かとは思うが、昔はこの予測に難渋したらしい。それもそのはずで、正確に予測するためには周期性や軌道を観測し複雑な計算をしなければならない。月で太陽が隠される日食もしかり。

 

暦(こよみ、れき)は当然にして発信源は一つである必要があり、占いの意味もあって、それを朝廷の「陰陽寮」という部門が古くから担っていたようだ。江戸時代まで長く使われたのは中国から伝来した太陰太陽暦の「宣明歴」で、太陰とは月のことで、月の満ち欠けと太陽の動きから導き出された暦だ。それなりの正確性はあったものの、宣明歴だと、3年に一度程度、余計な月、つまり閏月をおいて修正が必要で、また、日食や月食も正確に予測できない。冬至や夏至、吉凶の迷信もあり、起こった地域ではどちらも誰にも見えることで、予測がはずれたのでは権威の失墜にもなりかねない。正確な暦の作成は、権威者、権力者ともども宿願であっただろう。

 

江戸時代に改暦の研究に着手したのは渋川春海(しぶかわはるみ 1639-1715)で、そもそもは幕府の「碁打ち」だったが、敗北し、和算と改暦に打ち込んだという。囲碁を通して要人との接点があり、会津藩の祖である保科正之は、「春海に改暦をやらせること」と遺言し、黄門様こと徳川光圀も渋川春海を支持していたようだ。また、朝廷で暦事業に携わっていた土御門(つちみかど)泰福も理解を寄せ協力者になっている。

 

渋川は苦心惨憺してようやく「大和暦」を完成させた。これは本来ならまず幕府で吟味するところだったが、丁度その頃、宣明歴で月食予測がはずれたことでバツが悪かったのか、新しい暦を求めた朝廷に幕府から一気に上奏され、結果、「貞享暦」として800年ぶりに改暦が行われたのである。維新の200年前、1685年のことであった。なぜ大和暦かというと、そもそも中国(今の北京)で作成された暦を使っていたわけだから、京都とは経度が異なり、そのためにさらに微妙なズレを生じていた。当時にしてこれに気付いた渋川春海は本当に偉い人だ。

 

暦の作成には精密な観測と高度な数学が必要で、朝廷には手に負えず、観測などの行動力があり高度な和算の達人であった渋川春海だからこそ行えたのである。これにより渋川春海は幕府の初代天文方(てんもんかた)に登用され、以後、暦の実務は天文方に移行する。

 

江戸時代初期、1627年に吉田光由が和算の教書である『塵劫記』(じんこうき)を出版するや、たちまち庶民に至るまでベストセラーとなったという。詳細は私には分からないが、遊び心満載ながら、出されている問題はなかなかに難しい。渋川春海はそれを軽々と習得し、地理や天文、算法の工夫をして骨の折れる計算を重ねたのであろう。

 

次なる改暦を推進したのが、 “暴れん坊将軍”こと実のところ論理的な“理系将軍”であった徳川吉宗(1668-1751)である。西洋天文学を取り入れた暦を作成しようとし、没後の1755年に「宝暦甲戌元暦」(宝暦暦)が施行されたが、優れた人材を欠いていたこともあって、結果的にはあまりうまくいかなかった。しかし、吉宗が出した天文学の禁書令緩和はその後の大きな発展に寄与することになる。

 

なお、暦の事業には直接携わらなかったものの、天才数学者関孝和の門弟であるこれまた優れた数学者建部賢弘(たけべかたひろ 1664-1739)は吉宗の地図作成に大きく寄与し、それが後の伊能忠敬の正確な日本地図作成につながっていく。建部賢弘は和算でもって円周率を3.14…と、小数点以下53桁まで正確に算出し、円周率の計算の公式を世界に先駆けて導き出した人である。なんとも凄い先人がいたものだ。

 

さて、次に改暦が行われたのは、西洋天文学の知識を取り入れた「寛政暦」で、1798年に施行された。これを作成したのがやはり天才数学者高橋至時(たかはしよしとき)と、並みはずれた数学の才を発揮した富豪商人の間重富(はざましげとみ)である。2人とも、精密な日本沿岸地図を作製した伊能忠敬の師であり協力者であった。この辺りの話も非常に面白いのだが、詳細は別の機会に。

 

寛政暦からさらに精度を高めて、高橋至時の長男で不幸な死を遂げた景保の事績をも継承した次男の景佑(渋川家の養子になり渋川姓)を中心にして作成されたのが天保壬寅元暦(天保暦)で、その施行は1844年であった。この暦は西洋の太陽暦が採用される1872年(明治5年)末まで用いられている。

 

江戸時代の改暦が幕府中枢、朝廷の関与なしにできなかったように、太陽暦への切り替えは政府中枢と朝廷の承認なしにはできず、しかも、明治5123日がいきなり明治611日になるわけで、大混乱必至のものすごい大事業であった。天文方は維新後に改称させられたが、高水準の素地があっただけに太陽暦の優れた面への理解も早く、この改暦を進言したという。その組織は今の国立天文台につながっていく。

 

月食を糸口に、暦の話ばかりで、西郷隆盛はどこに行ったのか、と尋ねられそうだ。実は、太陽暦への切り替えは、当時の筆頭参議、今で言えば内閣総理大臣とも言える立場にあった西郷隆盛の理解と決断があればこそだったと私は見ている。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允達にできたはずはない。その頃は岩倉使節団で洋行していて不在であったからである。

 

本稿は『天文学者たちの江戸時代』(嘉数次人 ちくま新書)、『江戸の天才数学者』(鳴海風 新潮選書)、『夢中になる! 江戸の数学』(桜井進 集英社文庫)などの書を参考とした。ただし、丸写しは避けたので、本稿の記述に誤りがあればそれは私の責任である。

2018年1月29日 (月)

西郷隆盛 その3 江戸時代の天皇

本ブログの「西郷隆盛 その1」で、「江戸時代の天皇は神仏習合の社会にあって宗教的に最上位の象徴と見られていたようだ」と書いた。もしかして、それはどういうことだ、と疑問に思われたかたもいるかも知れない。

 

現代に生きる我々の多くは、クリスマスを祝い、永平寺の厳粛な映像を見てお寺の除夜の鐘を聞きながら新年を迎え、正月となれば初詣と称して神社にお参りをする。宗教的には無節操この上ない。だが、現実にはあまり抵抗なく受け入れている。

 

神も、古来の神々から、山の神、海の神、さらには松陰神社、乃木神社などなど、人ですらすぐに神様に祀り上げる。まさに多神教である。その一方、先祖あるいは故人を仏壇やお墓で仏様としてまつっている。西郷隆盛も南洲神社で神として祀られているが、お墓もちゃんとある。形として分けているものの、意識において神と仏を特段に分けてはいない、少なくとも対立軸とはとらえていないわけだ。これを神仏習合と言い、いにしえからの伝承あるいはそのような風土であると言っていいだろう。なお、維新期に神仏判然令が出され神社とお寺が分けられたものの、“廃仏”と受け止められて仏教文化の毀損を生じている。

 

学術的なことは『神道とは何か 神と仏の日本史』(伊藤聡 中公新書)に一般人には詳し過ぎるぐらい詳しく論考されており、「そもそも神官・神職とは、僧尼と同じ意味での宗教者ではない。神官は神事においてのみ祭祀者なのであって、それを離れれば、現当二世での仏菩薩の利益を願う俗衆に過ぎないのである」と記されている。石清水八幡宮は明治維新までは石清水八幡宮寺だったという。神宮と神社は格の違いを表しているようだ。ともあれ、日本人の神仏習合は筋金入りで歴史が長い。

 

天皇家はどうかというと、実は江戸時代の天皇は仏教であった。仏門に帰依した天皇もいる。江戸時代最後の天皇である孝明天皇までの葬儀は仏式で、泉涌寺という菩提寺は京都にある。その一方、室町時代以降、絶えた時期はあったようだが、伝統的な神事は今も行われている。天照大神(アマテラスオオミカミ)や神武天皇信仰はいわば神話の原始宗教で、形を伴って一般に敷衍させるには仏教が必要だったのかも知れない。

 

一般庶民にとって天皇は、神か仏か、「民を思ってくれる有難き天子様がおられる」という意識だったのではないだろうか。それを冒頭の言葉で表現した。深入りして論じれば非常に難しい事柄だが、私はまずはそういう理解をしている。

 

天皇という言葉の用い方も実のところややこしい。いにしえからある言葉とはいえ、近世になって用いられるようになったのは光格天皇(1771-1840 在位1779-1817)の死後からだ。当時は“幕府の許可を得て”譲位して上皇になることは普通に行われていたので在位と没年が異なる。ついでに書けば、女性天皇もいたし、元号も在位と関係なくコロコロ変えられていた。今は皇室典範というがんじがらめの縛りがあるため、今上陛下の退位が大きな問題になったわけだ。肖像としてさして意味があるとは思えないが、Wikipediaに掲載されている光格天皇の画をあげておく。
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江戸時代の朝廷は、政治を幕府に委ね、征夷大将軍とか正二位とかの官位を与えるだけで、領地があったとはいえ、支出は幕府丸がかえであった。江戸幕府の禁中並公家中御諸法度では、学問、和歌、管弦などに努めるようにとされている。したがって、政権を担うという想定もその体制もなく、“勅許”どころか朝廷の人事なども幕府にお伺いを立てねばならない状況であった。

 

その状況を変えるきっかけを作ったのが光格天皇で、それが結果として朝廷の復権と江戸幕府崩壊につながっていく。明治維新の経緯についてはここまでさかのぼった方が理解しやすいと思う。

 

こんな話ばかりだとウンザリされてしまうので、お気軽な話を間に入れて、光格天皇から孝明天皇、明治天皇までのいきさつなども書いてみたい。話が大きくそれるように思われるかも知れないが、天皇問題を抜きにして西郷隆盛を語ることはできないのである。

2018年1月22日 (月)

西郷隆盛 その2 開国

日米和親条約が締結されたのは1854年である。「黒船」のペリーが来航したのが1853年だ。日米和親条約は、下田と函館を開港する約束をして、アメリカと和親でいきましょう、航海に必要な物資については対価を払ってくれたら江戸幕府が便宜を図りますよ、という内容である。この時の首席老中は阿部正弘で、諸有力大名や朝廷との協議は行っていたようだ。

 

“鎖国”という言葉に議論があるように、どの時点をもって“開国”とするかについては実のところ判然とし難い。1854年の“仕方なくしぶしぶ”であった日米和親条約か、あるいは交易にまで踏み込んだ1858年の日米修好通商条約か、一般人とすればまずは幅を持たせて曖昧に考えておくのでよいと思う。

 

天皇の承認である「勅許」がないことが問題となったのは日米修好通商条約である。現実と朝廷の反対の板挟みになった大老井伊直弼が日米修好通商条約に積極的だったとは言えないが、最終的な責任者ではあった。ただし、アヘン戦争で清国がイギリスの武力により手痛い目に遭ったことは日本の幕閣もよく知っており、中でも、老中松平忠固(まつだいらただかた)は一貫して開国を唱導し、「勅許」を請う必要はないと主張していたという。

 

日米修好通商条約の交渉の実務を担ったのは岩瀬忠震(いわせただなり)で、当時のこととて、言葉による意思疎通も十分にできず、国際慣行にも疎い中で、粘り強い交渉を重ねたことは高く評価されてよい。この条約は不平等条約として悪名高いが、今の時代にあっても対外交渉はもめにもめるわけで、当時にあってはまずはよしとせねばならないのではないだろうか。

 

Wikipediaには、「岩瀬忠震が外交官として活躍した時期はわずか5年だが日本にとって外国の植民地支配を回避し、この条約のお陰で日本は世界の列強から逃れられた」とある。ちなみに、条約には「アヘンの輸入は禁止する」と明記されている。さらに特筆すべきは、岩瀬忠震が、幕府から使節をアメリカに派遣して批准、より正当性を持たせるための書類交換、をすることを提案して合意を得たことだ。ここから本格的な近代化への肉付けが始まる。

 

1860年、条約の批准のためにアメリカに向かって出港した2隻は、正使の新見正興と小栗忠順(おぐりただまさ)らが乗船したアメリカ艦船のポーンハタン号と、勝海舟を艦長として福沢諭吉らが乗ったかの有名な咸臨丸であった。条約に腐心した岩瀬忠震はどうかと言うと、井伊直弼に疎まれて失脚したため使節団に加わることができなかった。非常に残念なことに岩瀬は1861年に失意のうちに病没する。1859年に亡くなった松平忠固とともに、日本人として忘れてはならない幕末の偉人であろう。なお、小栗忠順については稿を改めて記す。

 

開国してより幕府はうって変わって積極的な対外交流に出ている。『世界を見た幕臣たち』(榎本秋 洋泉社)は、開国以後、何度も行われた派遣使節について紹介した好著だ。1864年の文久遣仏使節団のことも記されており、スフィンクスを背景にした侍達の写真はこの時のものだ。
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さて、日米和親条約が締結された1854年頃、西郷隆盛は何をしていたかというと、島津斉彬(しまづなりあきら)に見込まれ、西郷もまた斉彬に心酔し、江戸に同行し3年以上も滞在している。その時に水戸藩の藤田東湖の影響を受けて尊王攘夷派になり、多くの人と会って啓発を受けたようだ。

 

1855年頃は、斉彬の養女篤姫の将軍徳川家定へのお輿入れの準備に奔走している。あの西郷さんが嫁入り支度に心を砕いていたというのは何とも面白い。このために相当に勉強を重ね「おいどんはこう見えても、金銀、絹物、玳瑁、漆器の鑑定は玄人だよ」と後年に語っていたという。この頃までは、長身でスリム、今で言うイケメンだったようだ。西郷隆盛の写真はないが、篤姫の写真は残っている。篤姫役の女優さんとはかなり違う印象ではある。
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2018年1月13日 (土)

西郷隆盛 その1

前回の稿で西郷隆盛について触れると書いた。明治維新についてあれこれ書物を見た者として、西郷隆盛は避けて通れない存在である。
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なお、明治維新というのは明らかに後づけの言葉で、江戸時代にあったはずはない。江戸幕府を倒すこの改革は「御一新」と称されていたようだ。とはいえ、逐次注釈するのは面倒なのでこの大改革については「維新」あるいは「明治維新」と表記する。薩摩藩などの「藩」も江戸時代の呼称ではないが、便宜上、藩を使うことにしたい。西郷隆盛も名前の変遷があり、吉之助を多く用いているが、特に必然性がない限り通りのよい西郷隆盛と記す。

 

それで、西郷隆盛について通りいっぺんのことを書いてそれでよしとするのでは、Wikipediaを参照するか関連書籍をひとつふたつ読めば済むことで、このブログを読んで下さる皆様に何ら資するところはない。何事によらず、書くことを動機として読書を趣味とする私にとっても意義がない。そこで、例によって双六的に、他のテーマをはさみながら、何回かに分けて私が理解するところを綴ってみたい。

 

まず、いったい江戸幕府を倒す必要があったのかどうか、について考えてみるのがいいと思う。維新の動きはそこから始まるからだ。私に関してはここがきっちり押さえられていなかったので、おおまかな理解の構築にすら随分と廻り道をしてしまった。

 

結論的に言えば、「尊皇攘夷」を掲げる維新の志士達よりも、幕末の江戸幕府の方がよほど開明的に時代を先取りしており、その意味では倒す必然性はなかったのである。桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の決断で外国と条約を結ぶ「開国」をしてよりは、江戸幕府はもの凄い勢いで外国の情報を仕入れている。外国に留学もさせているし、「お雇い外国人」も多くいた。水戸藩から強い影響を受けたこともあって西郷隆盛ですら若い時は攘夷だったわけだが、外国を打ち払うという“攘夷”が不可能なことは幕府の方がよほどよく分かっていたと思える。

 

朝廷についても、少なくとも私が知る限りでは、江戸幕府が天皇をないがしろにするということはなかった。つまり、終始一貫「尊皇」だったのである。ただ、その「尊皇」は、あくまで政治は幕府に委ねるという前提である。これは言ってみれば「王は政治に関わらない」という立憲君主制度の原型のようなものだ。江戸時代の天皇は神仏習合の社会にあって宗教的に最上位の象徴と見られていたようだ。朝廷は暦の作成などの責も負っていたが、科学的な正確性に欠け、次第に幕府の天文方が担うようになっている。

 

したがって、大老井伊直弼が天皇の許可「勅許」を得ずに開国をしたというのは言いがかりであって、そもそも「勅許」は形式に過ぎず、お伺い的に逐一それを得る必要はなかった。天皇が幕府の政治に口をはさんでいたら決して存続はしなかったであろう。それがなぜあれほどの大騒ぎになったかというと、幕末の孝明天皇が徹底的な「攘夷」で、岩倉具視などの取り巻きの公家も威を借りて本来あるべからざる政治的な動きを行ったからである。また、有力大名が横槍を入れる口実にしたということもある。老中を中心とした幕府の弱体化がそれらを許してしまったということは言えるだろう。

 

明治維新はその流れの中で起こった大きな出来事だ。激動の中で多くの有為な志士が斃れ、幕府側の多くの優れた人材を失う中で、西郷隆盛は生き残り新しい時代を作った人である。

2018年1月 5日 (金)

外相、“おねだり”報道に不快感

河野太郎外務大臣が、専用のビジネスジェット機を要望したことが、“おねだり”と報道されて、相当に不快を覚えたようだ。それはそうだろうと思う。

 

河野さんが希望したのは、ガルフストリームE650ERのようで、確かにこれはビジネスジェットの高級機だ。この機体は小型ながら “足が長い”、すなわち航続距離が長いという特徴がある。日本からニューヨークまでノンストップで飛べる。速度も通常の商用の民間機、ボーイング777787とほとんど変わらない。
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ビジネスジェットには色々な機種があり、話題になったホンダジェットもその一つだ。ただ、これは小さ過ぎるしそもそも長距離飛行は想定していない。ボンバルディアの機種はビジネス機として大きい割に航続距離が短い。セスナと言えば、小型プロペラ機のイメージだが、セスナサイテーションシリーズとしてターボファン、いわゆる小型ジェット機をズラリと揃えている。

 

ちょい紛らわしいのでここで触れておくと、おおざっぱに言えば、通常に言うジェットエンジン、つまりタービンエンジンでプロペラを回すのがターボプロップ、噴射式で用いるのがターボファンである。だから、プロペラ機だけどエンジンはジェットというのも多くある。キングエアー350などの高級小型機や、商用機のサーブ340B、輸送機C-130など機体が大きいプロペラ機の場合はほとんどがターボプロップだ。国産機YS-11もそうだった。ガルフストリームはターボファンだ。

 

外務大臣が専用機を要望というのは、一般国民からすればとんでもない贅沢をしようとしている感があるが、私の意見とすれば、それは全くそうではない。職務上、外務大臣は相当に海外出張が多い。国会対応があって日本との往復を余儀なくされるため、できるだけ効率的な移動を図りたいというのは当然だ。

 

とある新聞社はセスナサイテーションを専用機として擁している。遠くで災害など、例えば火山噴火、海上での船舶の事故、大火災、大津波など、が発生したら、こういうのを使って写真を撮ってくるわけだ。逆に言えばその程度のことである。こういう所が外務大臣の要望をいかにも贅沢な“おねだり”だというような報道をしている。

 

かのガルフストリームが某地方空港の格納庫に鎮座しているのを見てびっくりしたことがある。機体の登録はアメリカだが、日本の某企業が私用機として使っているらしい。重役の移動はほとんどビジネスジェットという会社もある。どこの誰が使っているのかは知らないが、羽田空港の一角にはビジネス機がずらりと並んでいるのを御存知だろうか。それに、例えば海上保安庁は型式が異なるにせよ、ガルフストリームを保有している。トランプ大統領が保有していたのはボーイング757で、これは小型ビジネス機どころの話ではない。まさに商用機に使われる大きさの機体で、こういうのを私用にしていたわけだからあきれるようなスケールではある。そういうことを考えてみれば、日本の外務大臣にガルフストリームを専用機としてあてがうのは間違ってはいない。

 

日本政府の専用機はボーイング747で、いつも2機体制で飛ぶ。ただ、4発のエンジンではあまりにも燃費が悪く、老朽化もあって、遠くないうちに2発エンジンのボーイング777に変更することが決まっている。それでも、莫大な費用を要し、ガルフストリームなど可愛いものだ。

 

お隣の国が国家間の合意を平気で反故にしようとしている。とんでもない話で、それを突っぱねるのは当然のことだ。歴史を見る限り、国民の悪感情の惹起は、誤った優越感と同様に、憲法がどうのこうのということ以上に平和を損ねてしまう。流暢な英語を操る河野さんだが、憶せず屈せず、かつ破綻も回避しつつと、その職務は大変だろうと思う。外務大臣の主務は、究極のところ、外国との交渉や協調を通じて自国民の平穏と平和を守ることにある。いくら難しい事柄であっても頑張ってもらうほかない。私としては応援したい。

 

今年のNHKの大河ドラマは『西郷(せご)どん』だ。ブームをあてこんでか、書店には西郷隆盛本がズラリと並んでいる。ドラマでどういうふうに描かれるのかは知らないが、彼が“征韓論者”というのは誤りで、この西郷隆盛こそは、明治維新後に悪化した日朝関係の修復に尽力しようとした人だ。次稿は西郷隆盛について触れてみたい。

2018年1月 1日 (月)

謹賀新年




2018
 

2018年が皆様にとってよき年となりますように

2017年12月21日 (木)

これは貴重な大笑い

1220日にTBSで中国外務省の華春瑩報道官の記者会見が報道されていた。しばらくアップされていたが、残念ながら今は消去されている。YouTubeにはアップされているので見ていない人は御参照あれ。


華春瑩報道官はいつも冷たく硬い表情で日本にとって愉快でないことばかり言っている。いわば“好かん奴”だ。中国に“好かん奴”と見られていた稲田朋美前防衛庁長官も中国の高官に美人ではあるがと評されていたので、こちらも、華春瑩報道官もなかなかの美人ではあるが、とエールを送っておこう。国際間の見解の違いはあるだろうけれども。

 

その華春瑩報道官が、12月19日の中国外務省の外国人記者との定例会見で、日本人記者が英語で上野動物園のパンダのシャンシャンについて「パンダのシャンシャンが今日(19日)東京で一般公開されたがコメントは?」と尋ねたところ、「日本が中国側と共に4点の共通認識と4つの共同文書に照らして、問題を適切に処理するよう希望する」と全くもってトンチンカンな硬いコメントをのべた。日本の岸川外務事務次官の姓の中国語読みが「シャンシャン」とのことで、まさかパンダのことだとは思わず、外務事務次官へのコメントだと思ってしまったようだ。日本人記者の不正確な発音もあったようだ。表情から伺うに「何だかヘンだなぁ」と感じてはいたようだが。

  

さすがに見かねた中国人記者が質問内容を中国語で伝えると、「あ あのシャンシャンね! 私はてっきり・・・・」と、今まで見せたこともないような破顔一笑の表情。これだと全く普通の、オバサンというかお姉さんというか、相当無理すればお嬢さんだ。
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普段が普段だけに、これは貴重な笑顔であろう。ネットでも馬鹿ウケしているようだ。

 

まさかこれで更迭されることはあるまいけれども、時には微笑みを浮かべる和やかな語りもしてもらいたいものだ。そういえば、日本の場合はいつも菅官房長官が表に出ている。あれはあれで淡々としていて悪くはないが、やはりオジさんの面白くも何ともない語りだ。内閣も隠し玉的な報道官を擁し、時には出してもいいのではないか。全くもって些細なことだが、案外、国際間の緊張をほぐす糸口にはなるかも知れない。


2017年12月12日 (火)

大原綜合病院新病院棟完成祝賀会

123日の一般の方々への大原綜合病院新病院棟内覧会に引き続き、1210日、医療関係者や工事関係者を主な対象として、内覧会とその後に完成祝賀会がサンパレス福島で開催された。私も関係者として1210日に参加させて頂いた。
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新病院の内部を見るのは建設途中もあわせ4回目だが、嬉しいとか感慨深いとかの思いはなく、むしろ見るのが怖い、といった感が先に立つ。テストの成績発表を見る時の気持ちに似ている。「あそこはこうした方がよかった」というのが出てこないかとヒヤヒヤである。いや、あれだけの規模の複雑構造なので当然にして出てはくるだろうけど、今はただ、問題点が運用で軽減できる範囲であることを祈るほかない。

 

私がスタッフとして関わったのは新病院のグランドデザインというかコンセプトの練り直しと企画設計だが、病院の会議室で、あるいは設計会社の会議室で、設計士や病院のコアメンバーと幾度となく激論を交わしてきただけに、新病院には思い入れが深い。都市の中心部によくこれだけの敷地を確保したものだとその手腕に感心しつつも、南北の端で2m以上の高低差がある傾いた細長い土地でのレイアウトには思った以上に手こずった。

 

救急車の進入路ひとつとっても、ああでもないこうでもないと頭を悩ませたことを思い出す。平子健理事長と一緒に消防署を訪問して救急隊員の意見を集約して頂き、結果、通行量が多く他の車がスピードを出していて危険なため、国道13号側からの進入は避けたいというのが大勢の意見であった。これでは当初の想定は棄却せざるを得ない。

 

このことに限らず、そういった感じで意見を聴いていったので、設計士には数限りなく図面の書き換えをお願いした。もちろん、非常に厳しい予算の制約もあった。専門家ならではの経験と技術で根気強く取り組んでくれたことには感謝のほかない。

 

私に関しては特に救急部門について、「現状からすればオーバースペックではないか」という内なる葛藤との闘いであった。しかし、地域から救急への強い要望がある以上、大原綜合病院は現状に甘んじず人的整備を重ね、それに応えていかねばならない病院であり、この機にハードを整備しておかねば、という思いは強くあった。祝宴の際に竹之下誠一福島県立医科大学長がそのことに触れて下さったのには感激であった。

 

導線や部門の位置、広さなどを策定する作業である企画設計がようやくまとまって、これなら建築図面を作る作業の実施設計に移行できるとなった時には、ともども快哉を叫ぶ思いであった。でも、それはあくまで図面の上でのことである。だからこそ実際の建築物を見るにあたって上記のような思いにかられたのである。

 

さて、祝賀会は、その冒頭に遠藤千晶さんの箏(そう)の演奏があり、式典に大いなる華を添えた。まことに惚れ惚れするような澄んだ音色の演奏であった。私は全く知らなかったのだが、箏というのは13本の弦と、音程の調整をするための可動性のある柱(じ)が弦を支えているのが特徴で、これに対して琴の弦は6本で、柱はない。遠藤千晶さんは福島市の御出身で身内のかたが佐藤勝彦院長の治療を受けたという縁があったようだ。既に名をなしている一流の演奏家である。

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錚々たるかたがたの祝辞、乾杯、病院のあゆみの紹介などに引き続いて、福島県立医科大学混成合唱団の合唱が披露された。さらに職員で構成された大原グリーンハーモニー合唱団が加わり、佐藤勝彦院長作詞作曲の曲を、佐藤院長自らの指揮の下での合唱は圧巻であった。病院の御厚意で参列させて頂いた、高校・大学時代に混成合唱団に所属し今は宮城県で勤務医をしている次男に尋ねてみたところ、「指揮もすごく上手だし、合唱も素晴らしいと思う」ということであった。
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中締めのスピーチで小山善久副院長が、「赴任後に、5年後に新病院になる、と聞かされ、その2年後に尋ねたら、4年後という、その次の年に尋ねたら、4年後と返答があった。本当に新病院になるのだろうか」と不安にかられたエピソードを絶妙な語り口で紹介し、会場の大爆笑を誘っておられた。

 

会で配布された『あゆみと未来』と題された「大原綜合病院新病院棟開院記念誌」は涙なしには読めないぐらい、苦労苦労の連続であったことがわかる。経営苦境に追い打ちをかけるような東日本大震災という悲運もあったけれども、特筆されるべき東邦銀行の勇断など、あまた多くの人々に助けられたこともあって、どん底から不死鳥のように立ち上がってきている。

 

「人を愛し、病を極める」、大原綜合病院の理念である。大正13年に世界に先駆けて「野兎病」を発見した大原八郎博士を先人に拝する大原綜合病院ならではの素晴らしい言葉だ。その頌徳碑は今、新病院玄関に掲揚されている。大原綜合病院に関われたことを誇りに思い、これからまだまだ続く苦闘を乗り越え、地域に信頼される確固たる医療の砦とならんことを願ってやまない。

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