2018年12月10日 (月)

西郷隆盛 その23 江戸無血開城

ちょっと書いてみようと思っただけのこのシリーズだが、振り返ると結構な量になってしまった。改めて思うに、これだと、西郷隆盛というよりも、『一般書から読み解く幕末維新』とでもした方がよさそうだ。大変革が短期間に凝縮されているわけで、随分ややこしい話だが、知識を仕入れながら自分で楽しんで書いている。

 

さて、今回は、有名な江戸無血開城。これは多くの書で説明されている。書名そのままの『江戸無血開城 -本当の功労者は誰か?』(岩下哲典 吉川弘文館歴史文化ライブラリー)という書もある。

 

西郷隆盛と勝海舟(1823-1899)が薩摩藩邸で談判する下記の絵はよく知られていて、江戸無血開城談判のシンボルになっている。結城素明東京美術学校教授の手によりこれが描かれたのははるか後年の昭和10年なので、あくまでイメージの描きおこしであって、よくできていても、リアリティーという意味では少々怪しい。

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立役者はいかにも西郷と勝だが、この場には山岡鉄舟(1836-1888)など、複数の者が同席していたようだ。談判は313日と14日と、2回行われている。山岡は、それに先立って駿府で西郷隆盛と直談判して、いくつかの条件の下で江戸無血開城をすることの交渉を行っている。勝海舟はそれを受けて最後の詰めをしているわけだ。勝海舟は、西郷の至誠に自分も至誠で応えたと語っている。

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少し話を戻す。鳥羽伏見の闘いに勝利した新政府側が、今度こそ武力討幕と、江戸に攻め入ろうとして中山道方面や北陸道、駿府(静岡)方面に進軍している。どうも本人は気が進まないようだったが、ともかく西郷隆盛が東征大総督府下参謀、すなわち実質上の総司令官を命ぜられる。

 

先兵的に箱根を攻略し、いよいよ江戸攻略を慶応4315日(186847日)と決めた駿府の西郷の元に、39日に山岡鉄舟が訪れる。江戸開城、徳川家存続、慶喜助命などの条件交渉をするためである。よくも敵陣ど真ん中に行ったものではあるが、江戸騒擾の罪で幕府に捕らえられ、勝海舟が預かっていた薩摩の益満休之助の同行が可能ならしめたのだろう。

 

幕府のトップは依然として徳川慶喜で、どのようないきさつで山岡鉄舟が西郷の元に派遣されたのだろうか。老中の取り計らいで陸軍総裁などに出世していた勝海舟がそのようにしたとすればなんとなく納得してしまうが、肌合いが悪かったのか、彼は慶喜には嫌われていたとのべており、どうもよくわからない。慶喜に委任されたと記している書もある。勝海舟も恭順の考えであり、知遇のあった西郷と直談判したことは不自然ではない。

 

抗戦か恭順か、江戸城に入った徳川慶喜は逡巡を重ねる。『江戸無血開城』によれば、それを、ここにいたっては朝廷に恭順して内乱を防ぐことが日本のためと強く説得したのが山岡の義兄であり、実力部隊の指揮官である遊撃隊頭の高橋泥舟(泥舟は後年の号 1835-1903)である。慶応42月頃、ついに恭順の意を固め、当初は泥舟を赴かせようと考える。ところが、頼りにしている泥舟に万一のことがあってはと不安にかられ、誰か適任者をと打診して、泥舟が義弟の山岡鉄舟を推薦したといういきさつがのべられている。寛永寺での謹慎、水戸での蟄居も泥舟の提案で、槍の名手として名をはせた彼が移動の護衛にあたったという。

 

泥舟、鉄舟ともに海舟と違ってあまり自己誇示がなく、多くを語っていないので詳細は不明である。ただし、『江戸無血開城』の著者である岩下哲典氏は相当に確信的に、勝海舟ではなく、山岡鉄舟こそが最大の功労者だと記述している。おそらくこちらが真実に近いと思われる。

 

江戸を戦乱の場としなかったという点において、徳川幕府の統率が完全に瓦解したという点において、江戸無血開城は極めて重大な意義があると思う。西郷隆盛と山岡鉄舟、勝海舟の功は大である。そして、少なくとも結果的には徳川慶喜も大功労者である。しかし、新政府に反発し、徳川に忠を尽くす人達は当然にしていたわけで、この後にまた多くの血が流されることになる。

2018年12月 1日 (土)

西郷隆盛 その22 鳥羽伏見の戦い

「鳥羽伏見の戦い」は、おとなしく京都の二条城からさらに大坂城に引っ込んだ(京から見れば)はずの慶喜が、ここでもまた中途半端で、京を支配下におく薩摩に激昂する会津藩などの幕府軍勢を抑えられず、再入洛しようとした彼らと薩摩側の軍勢が京都の鳥羽・伏見で衝突した戦いである。兵員数では断然勝っていたはずの幕府軍が敗退してしまう。

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 ありていに書けばそうなのだが、今、ひと味違う書を読んでいて、これがなかなか面白い。いわば、博識のおじさんが歴史をわかりやすく物語ってくれているような趣がある。

 

これは、『明治裏面史』(伊藤痴遊 講談社文芸文庫)という本で、「隠れたる事実」という副題がつけられている。もともと大正13年に発刊されたものを現代仮名遣いに改め、20189月に出版されている。

 

作者の伊藤痴遊(1867~1938)は講談師であり政治家でもあったというのだから面白いはずだ。「見てきたような嘘を言い」と思いきや、さにあらず、よく調べて書いているようで、なかなか真実に迫っている。少なくとも私にはそう思える。

 

この書で伊藤痴遊は、「慶喜が政権を返上しても、なお二条城に頑張っていて、あくまでも討幕派と対抗していたら、まさか慶喜を京都から逐い出すこともできず、討幕派はどれほど苦しんだか知れぬ」と書き、「慶喜は癇癪まぎれに、大坂に引き揚げたのであろうが、それがそもそも幕府の大失策であったのだ」と指弾している。領地返納などの問題もあって、「慶喜はついに兵を率いて入京しようとした。そこで薩長二藩が主となり、朝命を威光(かさ)に入京を拒んだのである。ここにおいて慶喜は、兵力によって入京しようとする、その争いが例の伏見鳥羽の戦闘(たたかい)になったのだ」としている。これは簡潔には全くその通りだと思う。

 

さらには、「この戦闘が始まるときには、どんな者でも徳川の勝利と見ていたのである。単に兵数の上からいうても、幕兵は一万三千からあった。これに対して、伏見鳥羽の街道に関門を設け、幕兵の入京を拒んだ、薩長連合の兵はわずかに四千ぐらいのものであった」と書いている。それがなぜ惨めな敗北を喫したかというと、薩長軍は必死の闘いをし、幕府軍は、総師の竹中重固(しげかた)がその器になく、裏切りもあったりして統率を欠いていたと指摘している。岩倉具視と大久保利通らの細工である「錦の御旗」も威力を発揮したかも知れない。有名な、薩摩藩邸焼き打ちにつながる幕府挑発の江戸擾乱工作もその前に行われた(これを西郷が指示してやらせたというのが定番になっているが、私は非常に疑問に思っている)。

 

以前の稿で、これらの戦闘につながりかねない慶喜追い出しは、薩長にとって大博打だったと書いたが、実際にそういう状況だったと思う。しかし、戦況不利と見てか、パークスの進言によってか、徳川慶喜、老中の板倉勝静、会津の松平容保、桑名の松平定敬らが夜ひそかに大坂を脱出し軍艦で江戸に逃げ帰ったことがとどめをさした。これでは勝てるはずはない。激闘と言われながら、双方の戦死者は1割もなかったので、その意味ではこの逃げ帰りは幸いだったかも知れない。

 

伊藤痴遊は、「伏見鳥羽の敗報があまねく天下に知れわたると、いままで態度を曖昧にしていた、弱い大名が朝廷への恭順を申し出た。ただわずかに奥州諸州は、会津藩が頑張っていたので、堅く連盟した、あくまで官軍に抗戦すべき手順が運んだ」と説明しており、これも簡潔で的確だ。鳥羽伏見の闘いで幕が切って落とされたいわゆる戊辰戦争である。千葉の請西藩(じょうざい)のような小藩の抵抗もあったし、江戸では上野の彰義隊が死闘を繰り広げたが、これについては別稿で取り上げたい。

 

肝心の徳川慶喜は、逃げ帰っての江戸城滞在はわずかで、恭順して上野の寛永寺で謹慎し、水戸を経て、静岡に移り、晩期は東京で過ごしたというのは前稿に書いた通りである。伊藤痴遊は、西郷隆盛が慶喜を極刑に処すことを頑として拒んだがために命が救われたと記している。多分、篤姫がらみの西郷の情であろう。

 

さて、本来は徳川幕府に忠を尽くすべき諸藩がなぜかくもあっさり恭順したかというと、将軍のていたらくもさることながら、どこも財政難に苦しんでおり、とても戦ができるような状況になかったということも大きいだろう。新政府軍というか官軍はどうかというと、実はこちらも財政難にあえぎ戦費調達に非常に苦しんでいたのである。

2018年11月19日 (月)

晩秋のボナリ高原ゴルフクラブ

またその話かい、と言われそうだ。それでも書きたくなる。せっかくにまた撮ったし。

 

とあるゴルフコンペに誘われてこの週末に晩秋の「ボナリ高原ゴルフクラブ」を楽しんだ。磐梯山と安達太良山に囲まれた文字通り高原にあるため、冬季クローズ直前の11月下旬はさぞ寒かろうと覚悟して、まるでスキーにでも行くかのような出で立ちで赴いた。

 

ところが、そんな重装備がまるでアホに思えるほどの快晴。寒さというほどのことは全く感じなかった。こんな時のボナリ高原ゴルフクラブは最高で、まさに至福のひとときである。

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売店のお姉さんが「お久しぶりですネ」とにこやかに応えてくれて、「こんな日は滅多にないですよ」とのこと。それはそうだろう、晴れた日でも磐梯山の頂には綿ぼうしのような雲がのっかっていることが多い。

 

磐梯山に向かってショットする名物のショートホール。

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安達太良山が特異な山容を見せている。この場所からは磐梯山が後ろに見えるのだが、当たり前のことながら、さすがに一枚の画面では捉えられない。日本100名山の二つの山姿が同時に近くに見られる場所は多くはないだろう。ボナリの16番、ボナリはもともと母成と書くらしいが、ここはその一つである。磐梯山も安達太良山も見る方向によって山姿が随分と違う。

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クラブハウスから見た景色。普通の山々であっても、紅葉の盛りを過ぎた晩秋は何かしら郷愁をそそられる。

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私は山に行く脚力もないし、今さらその気もないが、山は大好きで、NHK衛星放送の百名山の番組は楽しんで見ている。それはそうとして、肝心のゴルフの方は、景色同様、タップリ可愛がってもらったと書くにとどめておこう。雨が、風が、寒さが、としたいところだが、何ひとつ言い訳けなし。

 

蛇足ながら、こういう実体験モノは、幕末維新モノと違って、間違いを書いてしまわないかとヒヤヒヤしなくて済む。写真も自分で撮ったものなので著作権のことも気にしなくていいし。本来が好きなのだろう、どちらを書いても自分では楽しい。

2018年11月13日 (火)

西郷隆盛 その21 王政復古2

慶応3129日(186813日)の「王政復古」はクーデターと表現されることが多い。もともとはフランス語のようだが、クーデターは暴力的な行為を背景にして行われる政変と言われている。

 

ここで、幕府制の廃止、朝廷政治の摂関制度の廃止、太政官の設置(総裁、議定、参与)と人事、岩倉具視や三条実美など、放逐・蟄居していた公家の赦免、長州の復権、慶喜の処分(辞官納地)、などが宣言される。形だけを見れば、日本近代史上に特筆される大変革である。

 

決議は128日から10日にかけて複数の会議で行われ、正式な発令は1214日である。岩倉具視は118日に蟄居していた岩倉村から京都に戻ることが赦され、この頃は大久保利通の借家のすぐ近くに居住していた。なお、坂本龍馬が会津藩配下の見廻り組によって暗殺されたのが1115日だから、まだ幕府勢力も強く、京都には殺伐とした雰囲気が漂っていたと思われる。

 

実際にはこの時に戦闘が起こったわけではない。しかし、薩摩、土佐、尾張、芸州、越前の武力を背景とした政変である。何のために武力を示威したかというと、ひとつには、幕府存続を図る会津と桑名藩の武力反発を警戒していたことと、兵によって御所の門を固めることで朝議後に退所した親徳川の公家の再参内を封じるためであった。

 

なお、慶喜は1024日(18671119日)に将軍職の辞表を提出しているが、内大臣職の官位とともに朝廷から未承認で宙に浮いたままであった。これがこの時に承認される。政変で強引に決定づけたわけだ。

 

二条城にいた慶喜が動かないようにするために、福井の松平春嶽と尾張の徳川慶勝による根回しがなされていたが、兵は慶喜の方が多く、その動きひとつでどうなるかわからず、いささか心もとない状況であった。土佐の山内容堂は間違いなく、また、春嶽や慶勝も、ここまで徹底した慶喜はずしが行われるとは思っていなかったのではないだろうか。

 

素直に従ったのかどうか、ともかく慶喜は、「王政復古」のクーデターの際には戦闘とならぬように会津の松平容保と桑名の松平定敬を京都の二条城に滞在させていたようだ。その後に数千人にものぼる兵を引き連れて大坂城に移っている。「皇居付近で騒動が起きてはとの懸念」で大坂城に退いたと語っていたという。

 

慶喜は大坂(大阪)でも外国の外交官に会っており、自らを「上様」と称し、実権は失うまいとしていた様子がある。ただ、大坂で慶喜と会ったイギリス人外交官のアーネスト・サトウは、「この五月には、気位も高く態度も立派だったのに、こんなにも変わり果てたかと思うと、同情の念を禁じ得なかった。眼前の慶喜は、やせ、疲れて、音声も哀調をおびていた」と記している。慶喜の行動はなんとも中途半端で、その後にまた上洛を試みたことが鳥羽・伏見の闘い、戊辰戦争の幕開けにつながる。

 

慶喜について結論を書けば、鳥羽・伏見の闘いの際には、戦況不利と見てとるや、いち早く小舟で軍艦に乗り移り大坂から江戸に脱出している。下図はWikipediaにあったその時の様子を描いた錦絵である。ウソかまことか、事柄を大仰に想像で描写する手法で錦絵は当時の庶民の情報源となり人気を博したという。西郷隆盛も髭面の見慣れぬ顔貌で随分と錦絵のネタにされている。

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一旦江戸城に入った慶喜は、幕臣を護る動きもなきまま、その後新政府に恭順して上野の寛永寺で謹慎し、徳川宗家を譲った。完全に舞台を降りてしまったわけだ。さらに、そもそもの出身地である水戸、徳川家が移封された静岡に移り謹慎生活を送っている。謹慎が解かれた後も栄誉職程度で表舞台には出ず、長く静岡、晩期は東京で趣味に浸る安穏な余生を過ごした。大正2年(1913年)に76歳で死去している。不思議な人ではあった。

 

西郷隆盛なども「慶喜の首を取らねばすまない」と息まいていたが、『徳川家が見た西郷隆盛の真実』(徳川宗英 角川新書)には、「内心では慶喜を殺すことはできないとはじめからわかっていたのだ」と記されており、その理由として、「慶喜は歴代の将軍の中で初めて天皇家の血を引いた人だったからだ」と説明している。ただし、幕末維新期に殺害された大名はいないので、それが真の理由かどうかは定かでない。西郷隆盛の言動不一致の情ではないかという気もする。篤姫や孝明天皇の妹で徳川家定に嫁がされた和宮が助命を懇願しているのでこれも効いたのかも知れない。

 

しかしそれにしても、よくもまあこのような動乱の中心にいて内にも外にも敵だらけの状態で慶喜は生きながらえたと思う。聡明な人だったようだが、信念というか哲学に欠けていたのだろう。その分、変わり身が早い。水戸藩主徳川斉昭の嫡子でありながら、格式が高いというだけで、藩としてのまとまりも有さず自前の兵を持たない御三卿のひとつである一橋家に養子に入ったということも責任感の涵養という点で関係あるかも知れない。洋式の兵装の導入をしているが、胆力はなく、兵を上手に使えなかったようだ。

 

話がまたそれてしまったが、この「王政復古」は権力者の交代を決定づけた大事業だったと私は感じる。決して博打ではなかったとするむきもあるが、綿密な段取りはしていても最後はドンとやったわけで、私は相当に大胆な大博打だったと思う。ただ、形は派手でも、要は、どの国にもどの時代にもある単なる権力の奪取であって、明治維新の本質はここにはない。

 

西郷隆盛は策略的な裏工作はあまり得意ではないので、強力な仲間ではあったことは確かだが、やはり、土佐の坂本龍馬や後藤象二郎が走り回り、岩倉具視と大久保利通が段取りを進めたのではないだろうか。直前に坂本龍馬を失い、大久保利通にとって大きな痛手だったと思われるが、このクーデターを断行した胆力は彼の持ち味であろう。

2018年11月 3日 (土)

西郷隆盛 その20 王政復古1

大河ドラマの『西郷どん』は既に明治に入り、本ブログの西郷隆盛シリーズは大きく抜き去られた。撮影も終了したという。さして観ているわけではないし参考にしているわけでもないのであまり関係ないが、私の四苦八苦をよそにややこしいところをさっとクリアしたようだ。

 

前回に「大政奉還」と「王政復古」は似て非なるものと表現した。徳川幕府が「大政奉還」として政権を返上するとすれば当然にして天皇と朝廷で、それはそのまま王政復古につながるはずだ。本来、屋上屋を架すごとくの言葉なのに、何が違うのか、ここはわかりにくい。

 

この点、書題そのままの『王政復古』(久住真也 講談社現代新書)に下記のような記述がある(太字引用)。

 

慶喜の大政奉還は、たしかに局面を一変させる大きな意味を持ち、周囲に与えた影響も大きかった。また、本書の冒頭でも記したように、大政奉還をもって「王政復古」の実現とする見方も当時は少なくなかった。しかし、政権は朝廷に移動しても、数えで十六歳という若年の天皇に代わり、摂政が政治を主宰する体制に変化はない。つまり、宮中での身分秩序の表現である空間には何も変化はなかったのである。

 

「宮中での身分秩序の表現である空間」というのはいい表現だと思うが、なじみがないとわかりにくい。私なりの理解は、身分の違いによって相互が近しく接することすらできないような構造では政治は遂行できないということだ。これを変えない限り実務は幕府の既存の秩序に依拠するほかはない。

 

朝廷とひと口に言っても、その内部は天皇を頂点として家格による厳しい身分秩序で縛られていた。天皇が大名と謁見するのは小御所で、それも天皇の座に御簾を垂らした上段と、中段および下段に分かれている。大名が入れたのは中段までで、下段は評議に用いられたようだ。天皇と公家が対面するのは御学問所で、天皇の居室は御常御殿とされており、ここに入ることができるのは将軍と後見職などそれに準ずる立場の人に限られたという。

 

大名が参内する際の場は、諸大夫間(しょだいぶのま)で、それも格によって、虎間、鶴間、桜間に分けられる。大名ですらそうだから、藩士は天皇に近づくことすら不可能であった。ところが、幕末期に忽然と「仮建(かりだて)」が鶴間の南側に現れる。そもそもは参内する大名のために増設されたもののようだが、ここが宮中作法から解放された場となり、藩士が入ることができるようになった。それまでは藩士は御所(皇居である禁裏御所)に入ることはできず、公家との接触も外でするほかはなかった。それが、「仮建」により空間的に結ばれた。『王政復古』ではそのように説明されている。

 

つまり、本来がんじがらめの宮中作法に、抜け道ができていたのである。そして色々ないきさつからやがて鶴間にも入るようになる。ともかくその頃に藩士が政治中枢に参画する素地ができたということだ。あくまで素地であって、藩士が朝廷を直接に動かせたわけではない。

 

公家とひとくちに言っても、家格があり門流がありまた一族とするものもあり、非常にややこしい。有名な岩倉具視を例にとれば、彼は家格としては羽林家と、さして高位ではないが、一族としては天皇系の村上源氏で、門流としては一条家である。もちろんそんなことが私にわかるはずはないので、これは『公家たちの幕末維新』(刑部芳則 中公新書)での記載の受け売りである。維新150年というのを私が特に意識することはないが、記念しての幕末維新書が売れ筋なのか、このような実証的で優れた一般書が多く発刊されていることは非常に有難い。

 

江戸時代は、公家、大名、武士、庶民、それぞれにがんじがらめの細かい身分制度があり、原則的に相互移行はなく、世襲が重んじられていた。意図してか結果としてか、明治維新の最大の意義のひとつは、これらを破壊したことにある。これは刻むべきあまりにも重いテーマなので、おいおい触れていきたい。

 

話を戻す。徳川慶喜は体政奉還をし、将軍位も返上するわけだが、佐々木克氏の『幕末史』には、大政奉還と慶喜の将軍職の辞職について、「しかし現実は、何も変わらなかった」と記されている。「朝廷との空間」には慶喜が座し外国との交渉も担い多くの武家集団のトップとしてやる気まんまんであったように見受けられる。このままでは知略と変転で矛先をうまくかわしていく慶喜の思うままである。

 

ここに武力示威による「王政復古」のクーデターが打開策として登場する。これを画策したのは中級公家である岩倉具視と、一藩士に過ぎない大久保利通が主だったと思われる。だからこそ公家の秩序を崩せたのである。シリーズのひとつとして具体的に何をやったかについて語ってみたい。

2018年10月21日 (日)

惜しんであまりある一医師の死

過日、私が尊敬してやまなかった医師が逝去された。かいまに聞く病状から、難しそうだと思ってはいたが、まだ現職にあった68歳で、やはり何とも残念である。ようやくに念願叶い新病院がまさに落成せんとする時であり、さぞ心残りであっただろう。体調が許す限り酸素ボンベを携行して出勤しておられたという。

 

一医師の死と表現したが、救命救急センターを擁する規模の大きい病院の院長であり、また、数々の全国レベルの学会の要職を歴任した著名な小児科医であり、とても「一医師の死」ではないかも知れない。しかし、私の心の中では地位も名誉も関係ない。やはり「一医師」である。真摯に病児と向き合い、障害児を含めた小児のためのよき療養環境の整備を願い、尽力されたかたである。「是非に実現させたい」と、この夢を直接にお聞きしたことがある。

 

院長に就任された際、「あのようなかたに院長職の煩いをかけるのは全くもったいない」と心から思った。御本人も決して本意ではなかっただろう。院長就任後にも何度かお会いする機会があったが、それまでと全く変わらない態度で接して下さった。

 

今も、コンビニ受診の抑制、医師の疲弊問題だとかで喧しいが、もう20年以上も前のこと、救急関連の会で、「母親が子供の体調を心配するのは当然で、いくら受診してくれてもいい。24時間365日、我々は診療します」と壇上で公言されたことが心に残る。小児科ではないが、私も同じ志向で、ささやかな実践はしたつもりだが、ほぼ同世代と言ってよい私には、そこまで断言する胆力もそれを裏付ける実力もなかった。

 

それだとブラック病院、ブラック診療科になってしまうのではないかと心配するむきもあるかも知れない。しかし、そうならぬよう、医師5人体制だった小児科をなんと35人体制にまで整備された。

 

「救急をやると医師が集まらない」「若い医師は救急をいやがる」というのは大嘘で、それを如実に証明されたかたでもある。彼の哲学とその実践に惹かれ、現実として、多くの若き医師が集い、慕ってきたのである。しかも建て替えを必要とする老朽化した病院である。現場にいる人は現場で汗をかき、本来、管理職は体制整備で汗をかかねばならない。彼はその両者をやってのけた。

 

通夜の席で奥様が「家庭を全く顧みない夫でした」と語っておられた。時には腹立たしく寂しい思いをした反面、誇らしくも感じておられたのではないだろうか。

 

小児の死因の第一位は「不慮の事故」である。溺水や窒息、転落や交通事故などの外傷などがある。「不慮の事故」以外にも、死につながる血液系の疾患や先天性、腫瘍性の疾患、原因不明の突然死もある。医師にとっても、死というのは患者さんへの思いに加えて、敗北感、無力感にさいなまされるものだが、小児の死はことさらである。愛児の死に泣き崩れる親の姿を目にするのは辛かった。

 

小児救急、救命救急センターという性格上、多くの小児の死に接し、生死の線上にある重症の小児の診療にも数限りなく携わってこられたはずだ。その精神力も並大抵ではない。家庭でもいつも患児のことを気にかけておられたという。遺影はウィスキーグラスを手にして微笑んでいる姿だった。ささやかな癒しだったのだろうか。

 

「一医師の尽力」が地域にどれだけ安心感を与えたか図り知れない。実はこれは、小児の診療体制が弱い病院にとっても同じで、小児で困ればあの病院なら必ず診てくれる、というのは大きな安心であった。歴史は個人だけで作られるわけではないけれども、抜きんでた個人は大きな歴史を作る、そう思えてならない。

 

哀惜、哀悼の思いは尽きない。私など知己の末席にいただけのことだが、せめてもと、その思いを綴らせて頂いた。合掌。

2018年10月15日 (月)

西郷隆盛 その19 大政奉還

幕長戦争で惨敗を喫し、面子丸つぶれで、江戸幕府の凋落は覆うべくもなくなってしまった。もちろん幕府は存続しているわけで、おりしも、慶応2年7月20日(1866829日)第14代将軍徳川家茂が20歳で死去し、その後継に誰がなるかが問題となる。かつて第13代将軍家定の後継とも目された一橋慶喜に当然のごとく白羽の矢が立つ。まず徳川宗家を相続してのちに将軍になるわけだが、相続をとりあえずしたものの、不思議なことに彼は将軍職を当初は固辞する。

 

佐々木克氏の『幕末史』(ちくま新書)では、朝廷や諸侯の支持の取り付けをしてからという思惑があったと解説されている。家近良樹氏の『江戸幕府崩壊』(講談社学術文庫)では、幕長戦争に自ら出陣して形勢を挽回してからと思っていたからではないかと指摘されている。実際にはあっさりと考えを一転させ、出陣を中止する。

 

慶応2125日(1867110日)にはいよいよ第15代将軍に就任する。将軍空位期が4ヶ月以上も続いたわけだ。前稿で記したように、慶応21225日(1867130日)に、慶喜を支援してきた、振り回されもした、孝明天皇が死去する。それを口実に慶喜は幕長戦争を終結に持ち込む。写真はWikipediaに掲載されていた徳川慶喜。
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あれやこれやと、また自らが蒔いた種ということもあって、慶喜が負った痛手は大きかったと思われるが、翌慶応3年の3月から4月頃には将軍として諸外国の代表に謁見するなど、外交的な動きを見せる。頭が良く、弁舌がさわやかで容姿に優れていたためか、兵庫開港にも積極的であった慶喜の外国側の評価は上々だったようだ。天皇なのか将軍なのか、誰を相手にすればいいか戸惑い多かった諸外国にとっても交渉相手が定まったという点で安堵があったかも知れない。ところが、慶喜にとってことはそううまく運ばない。

 

この頃の慶喜について家近良樹氏は上記の書で次のように書いている(太字引用)。

 

 そして、ここに注目すべきは、徳川慶喜が自らの政治意見を持つ将軍であった(すなわち老中まかせではなかった)ために、いままでは幕府の政策を批判する場合、悪いのは将軍ではなく、中間にあって間違った政策を採用している老中や諸役人だとして、彼らに攻撃の矛先を向けていたのが、そうはいかなくなることである。そのため、将軍である徳川慶喜に直接批判の眼や言葉を向けざるをえなくなり、それが幕府との真正面からの対決を招くことになる。

 

幕府と正面から対峙したのが、薩摩であり長州であると記せば、なんとなく納得する気がするが、それはそうではない。いわゆる大名は江戸幕府の秩序に組み込まれていたわけで、変革や政治への参画、自治の拡大、がんじがらめの徳川支配からの脱却、を望んでいたとしても、基本的には親幕府である。家近良樹氏は繰り返し、対幕強硬路線と挙兵討幕路線とは違うとのべている。少なくとも、藩を挙げての武力討幕が起こったわけではない。

 

では誰が対峙、あるいは大変革、必要であれば武力挙兵を画策していったかというと、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、薩摩の大久保利通、西郷隆盛、長州の桂小五郎達である。彼らが、薩土盟約、大政奉還建白、討幕の密勅への動きなど、あの手この手で慶喜に揺さぶりをかけていったのである。私は現時点ではそのように理解している。

 

彼らがどのような変革を志向していたかについては、全くの私見であるが、土佐系や西郷隆盛などは合議政体、大久保利通はネチネチと粘り強くことを進めともかく自ら権力の座の獲得、のように感じられる。同床異夢という面もあったようだ。ただし、大樹公とも呼ばれた慶喜への反感は共通している。

 

志士の中には横井小楠の思想に影響を受けた人もいるだろう。日本通のイギリス人外交官アーネスト・サトウが匿名で書いた将来のあるべき日本の政体論を思い描いていた人もいるかも知れない。具体的な詳しい策があったわけではないにせよ、簡略には、天皇を核として公儀政体というか代議員を参集した形で構成される国家体制である。

 

そんな中、慶応31014日(1867119日)、突然のように徳川慶喜が朝廷に政権の返上を申し出て翌日に承認される。これが世に言う「大政奉還」だ。

 

豊田家以外の社長が続いた自動車会社のトヨタ社長に創業者豊田家直系の豊田章男氏が就任した際に、「大政奉還」だと騒がれたが、豊田章男氏は車好きでレーシングドライバーとしても相当な腕らしいし、ビジネスの世界も学び、特別扱いなしに一社員から頭角を現していった。能力があれば創業者直系がトップの方が据わりがいい。それと違って、朝廷には権威はあっても実務能力はない。慶喜がそれを見越して返上したという話もある。

 

幕府はそれ以前から尊皇であり、弱体化してよりは朝廷に振り回され、政治介入にも甘んじてきた。それならばいっそ慶喜が朝廷と合議し「政権帰一」の形をとった方がよいというものだったようだ。武家の頂点という意味ではそのままである。福井藩主の松平春嶽や土佐藩主の山内容堂なども同様の考えだったようだ。なお、大政奉還と言われている慶喜の上奏文の中身には「大政奉還」という言葉はない。

 

西周などの優れた側近の案もあり慶喜なりの構想はあったようで、それでことがうまく運べば、慶喜主導になってしまう。だからこそ慶喜嫌いで変革を求める志士たちが危機感を抱いて岩倉具視などの一部の公家と手を組んで次の手として打ったのが「王政復古」である。これは「大政奉還」とは似て非なる、紛れもなく慶喜はずし、徳川追い落としの大博打のクーデターであった。このことは稿を改めてとりあげてみたい。

2018年9月27日 (木)

西郷隆盛 その18 幕長戦争

幕長戦争は、長州が京から放逐された「818日の政変」を伏線として、長州が御所に向かって砲撃した「禁門の変」に端を発している。西郷隆盛が岩国にのりこんで戦闘に至らずに決着が図られた第一次長州出兵と(元治元年 1864年)、実際に戦闘が起こった第二次長州戦争(慶応2年~慶応3年 18661867年)である。狭義には後者を指し、長州戦争、四境戦争、四境の役、長州征討、長州征伐などとも呼称されている。

 

第一次長州出兵の際には、長州藩は三家老の切腹と四参謀の斬首という形で謝罪・恭順の意を示したわけだが、長州藩内部ではそのことに対する不満もあって、内乱の様相を経て高杉晋作らの強硬派が抬頭した。一方、幕府側は、それでは手ぬるいと征討論が起こっている。強硬論は一橋慶喜と京都守護職であった会津藩の松平容保が主張したようだ。ただし、一橋慶喜は言動が変転しているので本音がどうだったかはよく分からない。

 

西郷隆盛はというと、慶応元年828日付の蓑田伝兵衛宛の手紙に「幕府は自ら倒れ候儀、疑いなきことに候」と書いている。家老の蓑田伝兵衛宛ということは、実質的には国父として薩摩藩の実権を握っていた島津久光への報告である。長州再征伐をするとしても、幕府自らは諸藩を動員できそうにないので、勅命に頼るであろうと予測していたらしい。実際、勅命が出されたわけだが、この勅命をして、大久保利通が正義の理由のない勅命は「非議の勅命」だとして、それに従わないことを表明したと言われている。こういうのは「勅」は都合よく利用するものだという大久保の本質であろう。この頃は勅もインフレでどこまで孝明天皇の意思かも不明で重みもなくなっていたようだ。

 

ともあれ、薩摩は長州再征討については朝廷にも幕府にも非協力の腹だったわけだ。ちなみに、長州藩主毛利敬親父子から薩摩の島津久光父子宛に和解の手紙が届けられるのが慶応元年98日付で、薩長誓約(薩長同盟)が結ばれたとされているのは慶応2122日(186637日)である。武器調達の便宜を図るなど、薩摩はむしろ長州支援である。

 

ここで注釈しておくと、元治247日(186551日)に慶応と改元されているので、以後の元号は慶応となる。慶応元年5月は閏月で、暦の調整のために5月が閏5月と2回ある。

 

慶応元年105日には、一橋慶喜らのほとんど脅しに近い働きかけで、孝明天皇が日米通商条約を勅許している。ここに国内をさんざん振り回した攘夷問題にようやくにして終止符が打たれるわけであるが、江戸幕府にとっては気の毒なことに、時既に遅しであった。

 

さて、大幅な減石と藩主の蟄居隠居などを内容とした長州処分は慶応21月に勅許され、幕府は動きを開始する。それを見越して装備の充実なども図っていた長州は受諾せず、闘いが避けられない状況になった。いわゆる第二次長州戦争は、慶応267日(1866718日)に幕府軍の熊毛半島先端と屋代島への砲撃で火ぶたが切られる。

 

この屋代島というのは、地元では周防大島と呼ばれている。この8月に2歳の男児が行方不明となり、消防や警察の大規模な捜索にも関わらず3日間も発見されず、78歳のボランティアの男性がわずか20分で見つけ出したということで、日本中の人が胸をなでおろし、大きな話題になった場所である。風光明媚で全体的に金魚のような形をしている。昭和18年に沖合で戦艦陸奥が謎の爆沈をしたところでもある。

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写真で手前の街は柳井市で、海を隔てて島の向こうに拡がる街が松山市だ。幕長戦争で幕府側として周防大島を攻撃したのは松山藩である。闘いはこの大島口、石州口、芸州口、小倉口で行われたが、結果としてはいずれも幕府軍の惨敗であった。このあたりのことは『幕長戦争』(三宅紹宣 萩ものがたり)によくまとめられている。

 

医家でありながら、西洋式の戦術を学び天才的とも言える軍略家大村益次郎による準備と指揮に加えて、高杉晋作、坂本龍馬などの活躍があり、また、身分を問わない総力戦で長州が立ち向かい、それに対して寄せ集めの幕府軍は士気も低く、広島藩なども消極的であったことも敗因であったと思われる。

 

征長総督の紀州藩主徳川茂承も征長先鋒副総督の本庄宗秀も戦の素人であり、優れた指揮官がいなかったことも原因だろう。大義名分に欠ける長州征伐に大衆の支持が得られなかったということもある。不思議なことに会津藩の精鋭は参戦していない。薩摩藩が急遽兵を京に駐留させて睨みをきかせたことも関係あるかも知れない。

 

慶応2720日に大坂城にいた将軍徳川家茂が死去した。徳川宗家の後を継いだ慶喜が戦を続けるとか続けないで周囲を翻弄したあげく、実質的な戦闘は8月頃には終わり、ともかく止戦交渉が開始されているうちに孝明天皇が死去する(慶応21225日 1867130日)。30代半ばでの急死のいきさつには謎が投げかけられている。慶応3123日、孝明天皇の国葬を口実に和議が成立し、正式に戦争が終結した。

 

その後に怒涛のように起こる大政奉還、王政復古、さらには戊辰戦争で江戸幕府崩壊が決定づけられたわけだが、本質的に武力政権であった幕府に対する諸藩の信頼の喪失という意味において、この幕長戦争は極めて重大な意義があったというべきであろう。どういう形になるかの予測はできなかったにせよ、幕府終焉の始まりだったわけである。

2018年9月13日 (木)

西郷隆盛 その17 薩長同盟の謎

書くのが好きなだけに、結構こまめにブログの更新をしてきたのだけど、今回は随分間が空いた。私事に追われたこともあるが、薩長同盟について書こうとして壁にぶつかり、あれこれ見ているうちにいつの間にか時が過ぎ去ってしまった。

 

坂本龍馬が薩摩と長州の間を取り持つことで幕府を倒すきっかけを作り、それによって明治になっても薩長閥が支配力を握った、ということが言われている。大河ドラマでは薩摩が長州に頭を下げて薩長同盟を懇請したことになっている。書も、薩摩があのように頭を下げたかどうかはともかく、多くは概そのように記されている。

 

薩長同盟、これは少なくとも当初は同盟というほどの強固なものではなく、志士間の誓約的なものだとも言われている。その内容の詳細は、慶応2121日か22日(1866年3月8日)に坂本龍馬が同席して、桂小五郎(のちの木戸孝允)、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らが京都の小松帯刀邸で話し合いを行い、その内容を桂小五郎が要約して手紙で坂本龍馬に確認を求め、龍馬が「間違いない」と朱筆で裏書きして返信した資料に拠っている。現物は宮内庁に保管されているらしい。

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長くなるので抜粋は避けるが、その内容はというと、薩摩が一方的に長州を援助するというもので、どう読んでも薩摩のメリットがどこにあるのかが私にはサッパリ分からない。朝敵とされ、内部不和をきたし、征伐も受けそうになって非常に苦しかったのは長州であり、その長州にあえて薩摩が歩み寄るというのは考えて見ればおかしな話だ。およそ協力の約束というのは互恵的であるのが普通だ。これは今も昔も同様だろう。

 

薩摩はその後長州から兵糧米の調達などの便宜は受けているが、少なくともそうするということは記されていない。記されていたとしても格段に重要なこととも思えない。薩摩は慶応2年の米高騰の折には大阪で民衆への施し米をしているので、少なくとも極度に困っていたわけではないだろう。長州による薩摩の長崎丸への砲撃事件、禁門の変と、薩摩と長州は何かとぎくしゃくしていたわけだが、藩主同士は既に前年に手紙で和解を得ている。

 

さらに、「皇国之御為」という表現もひっかかる。幕末においても使われていたのかも知れないが、いかにも明治っぽい表現ではある。慶応2121日頃は、薩摩も長州も、江戸幕府の武力打倒を現実的なものとして考えていたようには思われない。そこまで言い切るものだろうか。

 

龍馬はというと、123日(186639日)に宿泊していた寺田屋で襲撃にあい、拳銃で応戦してからくも逃れたものの、手を負傷している。その後薩摩藩邸にかくまわれたようだ。桂小五郎の手紙は慌ただしく京を離れたはずの123日付で、龍馬の裏書の日付は25日である。

 

多くの書物はこの桂小五郎と坂本龍馬のやりとりを薩長同盟の記述の拠り所にしているが、それに異を唱えている人もいる。つまり、この手紙はあとになってのねつ造ではないかというのである。龍馬の居場所を移動中の桂小五郎はどうやって知ったのかと。場合によっては、京で実権を握る一橋慶喜、会津藩、桑名藩のいわゆる一会桑に“決戦”も辞さないということが内容にあるので、対幕府ではないにせよ、これが漏れたらやはり大変なことになる。こんな物騒な手紙を桂小五郎は龍馬にどうやって届けたのか。逆もまたしかり。当時の技術にしては龍馬の朱が鮮やか過ぎるという指摘もある。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/a679143df10f24f7003603b1078d27cb

 

あれこれ書を繰ってみたものの、結局真偽は私には分からなかった。しかし、総合して考えて見れば、少なくとも何かは不自然だと思う。

 

龍馬が西郷とも親しくしており薩摩と長州の間を動いたことは確かなので、とりあえずアバウトに、薩摩と長州が「一会桑」に反発し、ともかくも幕府と距離をおく独自路線である「割拠」同士として手を組んだ、と受け止めておくのでよいだろうとは思う。西郷は参勤交代の復活を言い出した幕府を見限った様子はあるが、武力討幕に至るのはもう少し後のことである。

 

さて、龍馬は、3月には小松帯刀か西郷隆盛かの斡旋と言われている霧島での湯治に赴いている。この時に寺田屋でいち早く危機を報せてくれたお龍を同行し、日本で最初の“新婚旅行”とされている。危うく一命を落としそうになった直後であり、そんなのんびりしたものでもあるまいが、坂本龍馬という人は殺伐とした時代にあって、イメージ通りにあっけらかんとして明るい人だったようだ。

2018年8月19日 (日)

ノモンハン 責任なき戦い

毎年巡ってくる815日の終戦記念日、戦争の悲惨さを改めて心に刻む日には、優れたドキュメンタリー作品が放映される。今年はNHK「ノモンハン 責任なき戦い」を見た。

 

若い人に「ノモンハン」などと言っても、「なんですかそれは」というぐらいのものだろうと思う。しかし、この事件は、重要性、注目度とも非常に高いのである。ベストセラーでありロングセラーでもある『失敗の本質』(中公文庫)の冒頭の事例に取り上げられている。多くの歴史家が研究対象としているし、アメリカ人学者も膨大な資料を渉猟して驚くような詳細な分析をしている。

 

ノモンハン事件は、1939511日の外モンゴル軍と満州国軍の間で起こった数十人単位の国境紛争に端を発した。これがそれぞれの背後にいるソ連軍と日本軍との大規模戦闘に発展し、終結までの4ヶ月で双方が1万人以上の犠牲者を出す悲惨な結果となったわけである。

 

一般読者を対象とすれば、本来は、そもそもノモンハンというのはどこにあり、どうして日本軍がそこにいたのかということから説き起こしていかねばならない。詳細に記すのはとても無理だが、とりあえず簡略に触れておきたい。満州国を下図に示す。「哈爾濱」はハルピンで、「海拉爾」はハイラルである。

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http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/100724/toshi_01.html

 

中国北東部、昔の満州に位置しているハルピンは伊藤博文が安重根によって暗殺された地なのでよく知られている。ここからさらに北西にチチハルがあり、2000m級の山が連なる大興安嶺を越えたホロンバイルの広大な高原の地にハイラルがあり日本軍が要塞をおいていた。この地は漢民族が多かったことから、今は中国の内モンゴル自治区となっているが、かつてのソ連、満州、モンゴルが近接しており、双方が主張する国境が異なっているため紛争が起こり易い地ではあった。混乱してしまうが、内というのは北京から見てということであって、外が概ね今のモンゴル国で、北京からより遠いということだ。

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武力で満州を支配下におき、満州国を創設して傀儡政権をおいた日本はこんなところまで進出していたのである。ハイラルのさらに内陸側、ソ連との国境に接して満州里があり、「満州里小唄」というのがあるぐらいだから、ここにも日本人が多くいたのだろう。日本政府は鉄道などのインフラの整備を図り、満州移民を積極的に進めており、ここに敗戦後の引き揚げの悲劇が生まれる素地ができていた。これほど奥地ではなかったにせよ、映画監督の山田洋次氏、作詞家のなかにし礼氏、作家の新田次郎氏らも満州からの苦難の引き揚げ者である。

 

ノモンハン事件は、よくある国境紛争に端を発しているが、当時満州を軍事支配下においていた関東軍が、ソ連を甘く見て、日本が主張する国境線まで簡単に封じ込められると暴走して戦闘を拡大させたことが大きな原因である。ひらたく言えば関東軍が“火遊び”をしたあげく、コテンパンにやられて莫大な犠牲を払い、あげく国境線はそのままで得るものが全くなかったのである。下図は戦場となったホロンバイルの衛星写真(Google earthより)。

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『失敗の本質』には、「作戦目的があいまいであり、中央と現地とのコミュニケーションが有効に機能しなかった。情報に関しても、その受容や解釈に独善性が見られ、戦闘では過度に精神主義が誇張された」と記されている。現地の指揮官などを自決に追い込む一方、本来最も権限があり責任が重いはずの作戦指揮者が反省しおのずから責任を取った様子はない。最大責任者の一人である作戦参謀の辻正信は決して負けではないと開き直りを続け、戦後は国会議員にまでなっている。

 

しかしこれでは死者は浮かばれない。ソ連軍にもほぼ同数にものぼる甚大な被害が出ていることから、司令官レベルでの見誤り、物量や近代兵器の差で、不利で無謀な戦いにも関わらず前線の兵士達はよく闘っていることがわかる。大東亜戦争で起こった構図そのままで、ノモンハンの重要性はここにある。失敗の要素が凝縮されているのである。

 

日本軍はいたずらに糊塗し、ノモンハンの苦い教訓から学ぼうとはしなかった。国民にも経緯や結末が知らされていない。仮に一部知らされていたとしても軍に都合のいい虚飾に満ちたものであろう。

 

入江徳郎さんの1964522日の「ノモンハンの白骨」と題された朝日新聞の『天声人語』は、「無人で不気味なノモンハンにはまだ白骨が横たわっていよう。せめてこの地の霊を弔うすべはないものか」と結ばれている。入江徳郎氏は従軍記者としてノモンハンに赴いていただけに、痛惜の思いがあったはずだ。ノモンハンの遺骨収集事業が開始されたのは比較的最近のことである。

 

戦史を見ていると自虐的な思いにすらかられる。しかし、例えば満州の軍事支配について、満蒙は日本の生命線だと言うけれど、これこそ危険な枯草であり、一切を棄つるべき、と早くから断言していた人もいる。そんなことは間違っていると、移民政策にも強く反対していた。誇るべき言論人、石橋湛山(たんざん 1884-1973)である。1956年に首相に就任したものの、病により短期で辞している。

 

現実は湛山の予言通りになってしまった。彼の主張に耳を貸す人はほとんどいなかったし、そんな空気も日本社会になかった。ノモンハンに見られるごとくの愚かな無責任、その後の太平洋戦争というさらなる悲劇、アジアに先駆けての成功的改革の裏面として、明治維新の何かがこんな危ない国家にしてしまったのだと思っている。

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