2019年6月 5日 (水)

バナーからはずれます 感謝!

 改めて見ると、このブログ、書きも書いたり、長々と駄文を連ねてきたものだと自分でも思います。理事長のお勧めでその気になり、ほとんど自分勝手に楽しんでいるだけですが、それでも、読んで下さるかたがおられるというのは嬉しいものです。

 大原綜合病院のホームページに、バナーと呼ばれるブログへの閲覧誘導の見出しを頂いてきましたが、特任理事長補佐を退いてより、今は関わりが少なくなり、また、この度、病院のホームページを一新することを機に、『Dr井上のつれづれコラム』のバナーがなくなることになりました。カウント数が7万近くになったのも、ひとえにこのバナーのおかげだと思っています。
 医療のことをもう少し書くべきだったと思わぬでもないのですが、下手に書くと業界の内幕暴露的になり、また、医療は不確実で分かっていないことが多く、知識の提供というのは非常に難しく神経を遣うため避けてきたというのが正直なところです。大原綜合病院をネタにすれば書くことはいくらでもありましたが、例えば理事長や院長、事務局長とどういう話をしたかということなど、いい内容であっても、内幕的なネタは書きにくいものです。
 ただ、バナーがはずれる最後に、ひとつだけどうしても触れておきたいことがあります。それは、大原綜合病院の新病院玄関に掲げてある、世界で初めて野兎病を究明した大原八郎博士の偉業が銘された銅版です。この大原八郎博士あってこその今の大原綜合病院だとも言えるでしょう。もし御覧になったことがなければ、是非に見て頂ければと思っています。私は深く感銘を受け、理事長に、「あれはいいですね!」とお伝えしました。

 ブログそのものは私が個人的に開設したもので、明治維新のことなど、もう少し書いてみたいと考えていますので、今と同じアドレス、URLで続けます。「お気に入り」に登録しておいて頂ければ引き続きそのまま見ることができます。病院の品位を汚してはと、少々の遠慮はありましたが、これからは全くの個人責任になりますので、もう少し突っ込んだ内容にしていきたいと期しています。もしかして、「アレッ」と思われるかたもおられるかと、その旨今回お報せした次第です。
 長くバナーをおいて頂いたこと、もちろん、こちらが本筋ですが、長く大原綜合病院に関わらせて頂いたことに改めて深く感謝し、あわせ、病院の今後ますますの御発展を心よりお祈り申し上げます。

2019年5月30日 (木)

西郷隆盛 その33 留守政府

岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの豪華メンバーを揃えた岩倉使節団が欧米の訪問に出発したのが、廃藩置県(明治4年7月14日:1871年8月29日)の余韻もまださめやらぬ明治4年11月12日(1971年12月23日)である。

廃藩置県は、藩の息の根を止める、すなわち諸藩の統治という地方分権を廃し、中央集権体制への礎となる大改革であった。これによりいわば殿様がそのまま就任していた知藩事は罷免され東京在住を義務づけられた。新たに藩を統廃合したような形で県が策定され、それぞれに原則的に中央派遣の県令がおかれた。

このシリーズの前稿で記したように、岩倉使節団が出発した後の政治を担ったのが、いわゆる「留守政府」である。形の上では公家の三条実美が首班であるが、岩倉具視のような決断力や実行力はなく、事実上、参議筆頭の西郷隆盛が今でいう首相の立場にあった。

“留守政府”という言葉からすれば、とりあえずおとなしく留守を担った、かのような響きがあるが、前稿でも触れたように、おとなしいどころか、大改革を大胆に進めているのである。既定路線もあったにせよ、矢継ぎ早におこなった内容からすれば、主体的に改革を進めていったとしか思えない。

『明治六年政変』(毛利敏彦 中公新書)には、「廃藩置県から岩倉大使帰国までの二箇年余は、近代日本の歴史において政治上・経済上・社会上の急進的改革が最も盛大かつ集中的に実行された時期であった」と記されている。

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これは毛利氏だけの言ではない。多くの書がこの留守政府を高く評価している。私なりには、「政府が最も元気のよかった時期」と表現した同時代のジャーナリストもいるし、この留守政府をして、「横論を豪も危惧せずむしろ喜んでこれを聞く様子があった」と表現した言論人もいるということに触れておきたい。今も昔も言論人は政府の“天敵”となる傾向があるが、天敵からも“あっぱれ”と評価されているのである。なお、この時期に新聞も多く発行されるようになっている。情報の共有と意見構築への啓発は民主主義の根幹である。

解釈と評価はともかくとして、事実として、この時期とそれに相前後して、封建的身分差別の撤廃、宗教の自由化、徴兵制の導入、「地租改正」と通称されている金納方式の新たな税制の導入、戸籍調査、宮廷改革、太陽暦採用、司法制度整備、人権擁護と国権外交の展開、義務教育たる学制の導入、などが行われている。

身分差別解消と人権擁護の推進、この二つこそが燦然と輝く留守政府の偉業であり、明治維新を維新たらしめた事績、だというのが私の見解である。江戸幕府のままでは決してここまでやれなかったであろう。未完に終わったとはいえ、他のアジア諸国には見られない近代日本の特筆すべき大きな前進であった。

混乱がなかったかと問われれば、もちろん大いにあった。改暦は赤松小三郎の師匠であった内田五観が手がけているが、当然にして大混乱を引き起こし旧暦の撤廃にはその後相当な年月を要している。日本人の識字率を大きく高めたのは「学制」で、市町村統廃合で今では廃れつつあるとはいえ、全国津々浦々どこにも立派な小学校があるのは、そもそもはこれに依っている。しかし、子どもを学校に通わせるという概念がない人々にとっては迷惑でしかなく、充分な予算のないままに押し付けられた地域には非常な反発があったようだ。封建的な身分解放の象徴とも言える「賤民廃止令」も、故なき差別を受けてきた非差別民襲撃という悲劇を起こしているし、非差別民にとっても、特権的であった旧来の生業を失う不安があった。徴兵令は国防も内治も国民が等しく担うといういわば身分差別解消のひとつでもあったが、士族にとっては「特権とそれによる優遇」のはく奪への道でしかなかった。

それでも、断行したというのが留守政府の偉さである。混乱も反発もあったにせよ、少なくとも結果的には、この時期に国を分裂させかねないような内乱は起こっていない。洋行組にあたかも危機状況であるかのようなSOSを発して帰国を急がせたのは疑獄事件で窮地に陥っていた山縣有朋、井上馨らである。小心な三条実美があまりの大胆さに不安を覚えたということもあるだろう。

洋行組の帰国後にこの留守政府の主要人物の多くが辞職することとなる。これが明治6年政変で、毛利敏彦氏に同意するかどうかはともかくとして、そのいきさつを詳述した『明治六年政変』は必読の書だと思う。

留守政府においては、寡黙で、まずは人の話をよく聞いて決断をなすというリーダーとしての西郷隆盛、西郷内閣を支えた副島種臣、大木喬任という逸材、そして、「彗星のように現れて彗星のように消え去った」とも称されている江藤新平の天才的な大活躍があった。江藤については稿を改めねばならない。

2019年5月21日 (火)

原発事故被災地の今

久しぶりに原発事故被災地の福島県相双地域を訪れる機会があった。かつて、大熊町での医療プロジェクトに関わり、震災前はここに足繁く通っていた。日照時間が長く、温暖で風光明媚な地であったが、それだけに悲惨な災害には声も出ない思いであった。立ち入ることすらできなくなり、ましてやプロジェクトの継続などできるはずもなく、私も立場を降り、すっかり足が遠のいていた。

大地震、大津波に加えて原発事故が起こったのは2011年3月11日だから、あの日から8年以上が経過した。筆舌に尽くし難い惨禍を経験したかたがたにとっては、もう8年なのか、まだ8年なのか、どちらにしても生涯決して癒えることはない傷跡だろう。

放射線量が高い帰還困難区域は次第に縮小されてきたとはいえ、まだまだ海沿いから山あいの地域にまで設定されている。あちこちに設置されているモニタリングポストだと0.2~2.27μSv/hと表示されていたが、帰還困難区域では年間50mSvを超えるという。大熊町はいまだ帰還困難区域である。図は福島県の発表資料より。

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帰途に通った国道114号線沿いには、帰還できないまま放置せざるを得なかった家屋があり、本当に胸が痛む。どれほど懐かしの我が家に帰りたいことだろうか。

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それでも、燭光はある。ひとつは、宮城県からいわき市までほぼ直線の高速道路が開通したことだ。浜通りの縦の移動はかつて随分時間を要したが、時間的には大幅な短縮となった。常磐線も、あと少しの区間を除いて開通している。双葉町のやまあいや富岡町には新しい家屋が多く建てられつつあった。帰還者はまだ多くはないようだが、この地区に流入する事業者が多くなれば、商業地としての活性化にはつながる。それは少しずつではあっても、帰還事業につながるだろう。

教育、医療、インフラの整備は帰還事業の要となるわけだが、医療に関して、今回見学させて頂いた新設の双葉医療センターは救急疾患にも対応できるようにヘリポートを併設しコンパクトによく整備されていた。これにより、必要に応じて、基幹病院のある福島市、郡山市、いわき市とも医療用ヘリコプターで迅速な移動が図れる。

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双葉医療センターは県の付属施設として設けられ、私が長年にわたって尊敬してやまない非常に優れた医師がリーダーとして配置されていた。災害時にいち早く現地に赴いたひとりである。大変ではあろうけれども、期待を負うにこれ以上の人材はいない。彼の心意気にうたれる。

自然災害、人為災害と、起こった悲劇はどれほど嘆いても嘆き足りない。まさに痛恨の極みである。被災されたかたがたにとっては遅々たるものかも知れない。しかし、復興に向けて確かな力強い歩みが進められていることが今回の訪問で感じられ、非常に嬉しい思いであった。また再訪し、そのダイナミズムに触れていきたいと願っている。

2019年5月 5日 (日)

西郷隆盛 その32 岩倉使節団

岩倉使節団というのは、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年9月頃まで、外国船を利用してアメリカ、ヨーロッパを歴訪した使節団のことである。岩倉具視を特命全権大使として、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳が副使である。留学生も含め、日本人は総勢107人で、その中には新札の肖像に採用される当時8歳の津田梅子もいた。下掲は有名な岩倉使節団中枢の記念写真。中心にいる岩倉具視は、この洋行中に進言を受けて、断髪し洋装に改めている。

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そもそもは10ヶ月程度の予定だったようだが、大幅に延びて1年9ヶ月にもなっている。“そもそも”を言えば、そもそもは大隈重信が数人を連れて海外訪問を画策していたのが、政権中枢の思惑で我も彼もと、いつの間にかどんどん膨らんでしまい、あげく大隈重信ははずされ、準備不足のままやけに重たい使節が出立したというのが真相のようだ。

その行程は、佐賀藩出身の久米邦武によって『米欧回覧実記』として詳細かつ膨大で優れた報告書が残されている。一行は各地で歓待を受け、各国の人々と交流し実地見聞をなした。多くの留学生も同船させて派遣している。非常に意義深い使節であったことは間違いないが、これだけの人物を揃え、巨額を費やしたにしては、政治外交的な意義は少なかった。

日本は、幕府が開国をしてよりは、猛烈な勢いで西欧文明を取り入れており、使節は何度も派遣している。外国を訪問した、あるいは留学をした日本人もいて、外国の情報は既に多く日本に入っていたのである。幕末の1867年にはパリ万博にも日本から出店している。外交官以外にも、お雇い外国人なども日本に多くいた。なお、大隈重信に洋行を勧めたのは宣教師として日本に派遣されていたフルベッキである。

『異形の維新史』(野口武彦 草思社文庫)には、次のような記述がある。
  だいたい維新政府ができてまだ四年、新しい国家の青写真
 もまだ作られ切っていない多事多難な時期に、政府枢要の地
 位にある人士が内政をおっぽり出して海外へ向かうというの
 もかなりメチャクチャな話である。

これは全くその通りだ。課題山積の時期にわざわざ大物を揃えて訪問する意味は全くと言っていいほどなかったのである。

交渉期限が迫る条約改正の下準備が目的のひとつとしてあげられていたが、ワシントンでのあまりの歓待ぶりに、下準備ではなく条約改正をと欲を出して交渉しようとしたのも大きなつまずきである。その時に国書の不備を指摘され、大久保利通と伊藤博文が慌ててまたアメリカを東から西に横断し船でわざわざ帰国している。ところが、本交渉は無理だと留守政府に拒否され、形だけの書を得て立ち戻ったものの、その時には交渉の場すらなく、予定になかった3ヶ月以上を空しくして使節団はアメリカを去ることになる。全くの大失態で、大久保と伊藤はさぞかし屈辱感と徒労感を味わったことだろう。

関税の問題もあり、外国が日本で治外法権を有しているというのは確かに大きな問題ではあった。しかし、条約の締結や改正、相互に利害がからみあう外交折衝、というのは今も昔もやっかいな作業であり、当時にあってはなおさら、刑法も整備されておらず、ようやく海外と交流を持ち始めた東洋の、多分に野蛮性のある後進的な島国が諸外国と対等に外交をするというのは全く無理な相談であった。

要人たちが不在の間、政治中枢を担っていたのが西郷隆盛を事実上の首班とするいわゆる「留守政府」である。改革をやってはならないと、留守政府に念が押されていたとされているが、伊藤痴遊の『明治裏面史』には、釘を刺したことに対して、西郷隆盛が怒りをあらわにして「国家の大問題と認むることは、すみやかに処理していく責任がある」とのべたと記されている。西郷の肚は「必要なことはやる」と決まっていたのであろう。そうでなければあれほどのことができるはずはない。

あれほどのこととは何か。西郷隆盛を筆頭参議としたこの留守政府がやった盛大な改革について、次稿以降で記すことにする。

2019年4月24日 (水)

みどりの黒髪

以前から「みどりの黒髪」という表現がずっと気になっていた。『惜別の歌』には、「君がみどりの黒髪」と唄われている。「みどりの風におくれげが」と歌い出す『三百六十五夜』もある。

曲名そのままの『緑の地平線』などなど、「緑」か「みどり」か、ともかくよく用いられている。『思い出のグリーングラス』という世界的にヒットした曲もイメージとしては「緑」がモチーフになっている。本当はちょっと悲しい話のようだが。

黒髪や風を「みどり」と表現するのはすごい感性だと思っていたが、実はこの「みどり」には「若々しい」「みずみずしい」という意味が込められているそうだ。その意味で使う時は「みどり」で、色で使う時は「緑」かも知れないが、我々は感性として特に分けているわけではない。ちなみに、つい先日4月20日の読売新聞の編集手帳には、258gで生まれ3374gまで成長した緑児(みどりご)の退院を祝う一文の中で「緑の黒髪」に触れ、「黒なのに緑にしてしまう美意識には脱帽する」と綴られている。この編集手帳子は文芸に造詣が深いといつも感心している。

こう書くと、どう取り繕っても私の懐メロ好きがバレバレなのだが、実際その通りだから仕方がない。よくYouTubeでサーフィンして楽しんでいる。

そうしたら、すごくチャーミングで歌の上手な台湾の蔡幸娟(ツァイ・シンチュアン)という歌手を知った。日本の歌も多くカバーしているようで、大津美子さんの『ここに幸あり』があった。『幸福在這裡』と表現するらしい。
https://www.youtube.com/watch?v=WB7lmA8PAGE

言葉はサッパリ分からないが、若い時の姿とはいえ、“緑の黒髪”の蔡幸娟さんは実に魅力的で、見惚れ聞き惚れてしまう。他にも『愛人』があって、これはそのままなので分かる。『四個願望』は、ちあきなおみさんのヒット曲『四つのお願い』だ。日本語で歌っているものもあった。こちらも上手だ。お隣さんと違って好日的な台湾にはいっそうの親近感を抱く。

そんなこんなでずるずるサーフィンしていたら、なんと舟木一夫さんのヒット曲『修学旅行』の北朝鮮版がアップされていた。この国のことだから例の大仰な歌いっぷりで嫌気がさすかと思いきや、どうしてどうして、これがまともで上手な歌唱。
https://www.youtube.com/watch?v=WvS2Zy87NTw

他にも日本の曲が歌われていた。少しなまりはあっても上手な歌唱でカバーしているためか、全く問題なく聴ける。

北朝鮮と言えば今の時代にかくあるかというほどの人権侵害国で、この国へは嫌悪感しかないし、さすがに友好的な気分にはなれないが、庶民レベルにおいては本来異なることはない。ただし、この国には修学旅行はないだろう。

北朝鮮はそもそも飢餓の構図にある。2018年は、台風19号の、実際は下掲の予報図より少し南にずれたが、それでも、かなり被害を受けているはずだ。

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かつての段々畑政策とやらで木々の伐採で山の濃い緑が失われ、保水力がなくなり、土砂が流出し、河川の浚渫も築堤もできていないので、洪水にも、そしてその裏返しの干ばつにも脆弱である。2019年は間違いなく飢餓が悪化する。歌を聞いていっそう胸が痛む。

日本も近・現代において対外的に色々なことがあった。他国のことをとやかく言えないほどの大きな負の面もあった。それでもともかく、今は国際交流の先進国だ。

近代における国際的交流の大規模な嚆矢としてはやはり岩倉使節団のことがあげられるだろう。柔らかいのか硬いのかよくわからない話になってしまったが、今回ちょっと肩の力を抜いたところで、次回はそのことに触れてみたい。

2019年4月17日 (水)

西郷隆盛 その31 赤松小三郎2

赤松小三郎は、その構想を口上書として幕府に、また松平春嶽に、そして、それらを若干修正して島津久光にも届けている。『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(関良基 作品社)によれば、島津久光宛のものは赤松の直筆として今も残っており、引用としてはこの島津版がもっとも適切としている。

その気で見れば、原典が乏しいとはいえ意外に論考資料があり、前稿で紹介した書、上掲の書、さらには、上田市の郷土史家から『赤松小三郎先生』という冊子が大正6年に発刊されている。『「朝敵」と呼ばれようとも 維新に抗した殉国の志士』(星亮一編 現代書館)の中でも取り上げられている。古典的な労作である『大日本憲政史』(大津淳一郎)でも、幕末において憲法構想をした一人として名前が挙げられている。

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詳細な引用をして論じるのは私の力量を超え、したとしても、時間がかかり膨大な量となって誰も読みたくなくなるに違いない。端的には、『憲法構想』(江村栄一 岩波書店)で、江村栄一氏が赤松小三郎についての解説で記しているところの「イギリス立憲制にかなり似ている」「英学の理解に基づく平等性をみることができる」ということで十分だろう。ここでは、これらの資料からの私の理解として、その内容の要点を若干記すことにする。

赤松小三郎は、朝廷と幕府の合議政体を唱えており、天皇を最上位に位置付けている。そして、将軍、公家、諸大名、旗本などから、道理が明らかで、実務能力があり、情勢に通じた人を6人選任し、うち1人を大閣老とするとしている。これは天皇の補佐機関で、ひたらくは首相と各大臣である。

これに選挙で選ばれた人で構成される上下二局に分かれた議政局を設け、これを国権の最高機関だと位置づける。ここでの決め事に対して、もし天皇が反対しても、再議して議決すればそれが優先されると記している。これこそは“王に悪事をなさしめない”立憲思想の根幹にほかならない。

「門閥貴賤ニ拘わらす」「国中人才を育」「人民平等」という言葉があり、それが国を治める基礎だとのべている。軍は「国之貧富ニ応して御算定之事」「兵は数寡くして」とあるから、不相応な軍備を戒めているわけである。さらに、まずは「お雇い外国人」を勧めており、衣服や食事についても触れている。

京都では塾を持ち、分け隔てなく教え、「諸藩の士争ひて其門に就き」とあるから相当な人気だったのだろう。講義に同席というわけでもなかったようだが、会津、福井、薩摩藩士にその教え子が多くいる。日本海海戦で名を馳せた薩摩の東郷平八郎もそのひとりで、明治39年に追慕で上田に墓参しているという。余談ながら、この東郷平八郎が遺族のもとに訪れ謝意を表したのが、同じく非業の死を遂げたかの小栗忠順である。

口上書の日付は慶応3年5月とあるから、いわゆる明治維新の1年以上前、1867年6月頃で、大政奉還の4ヶ月前、鳥羽伏見の戦いの半年前である。島津久光が兵を率いて上洛し、四候会議が行われるなど、京に不穏な空気が渦まいていた頃だ。この年の11月に坂本龍馬が暗殺されている。

赤松小三郎が西郷隆盛と会ったのは慶応3年7月か8月のことだ。この時に「幕薩一和」を説き、「少しは成可申見込に候」と兄への手紙に書いている。西郷は武力討幕側になっているが、赤松小三郎の思想や構想に多分に共感していたわけである。戊辰戦争に妙に腰くだけなのは西郷の複雑な心境を表しているような気もする。西郷は少なくとも赤松に会った頃までは「幕薩一和」だったはずだ。考えが変わったとすれば、幕府と徳川慶喜への強い失望、豪胆で押し通す大久保利通への義理立てだろう。

さて、京都で名を挙げた赤松小三郎に上田藩から帰藩命令が再三出ている。幕臣への誘いもあり、薩摩の小松帯刀からも引き留められたものの、いよいよやむなく京都を離れ上田に帰郷することとなった。

老中まで出しているいわば親幕の上田藩の赤松小三郎に、薩摩の動きを幕府に知らせるのではないかとの疑念を抱き、以前からその身辺を探らせていたのが大久保利通だと言われている。

慶応3年9月3日(1867年9月30日)、赤松小三郎は白昼の京都の路上で斬殺される。実行犯は、残存していた日記や証言者の言などからほぼ確定されていて、西郷隆盛の腹心であった桐野利秋である。

赤松の暗殺が桐野の独断であったか、上からの指示であったかは定かでない。西郷隆盛はこの時は大坂にいて、京には不在であった。暗殺の前夜、送宴として赤松を誘い出したのは大久保利通のようである。なお、桐野と同じく西郷の腹心であった篠原国幹は赤松小三郎の死を知って非常に悼んでいたという。島津久光はその死を惜しみ異例とも言える莫大な弔慰金を供出している。

私は、猜疑心が強く、陰の行動を辞さない大久保利通の指示で、粗野な桐野利秋が実行した、と自分では断じている。西郷隆盛は決してこのようなことをする人ではない。当時として貴重だったはずの翻訳書も多く出している赤松小三郎が不当に埋もれてしまったのも、多分に大久保利通のなせる業であろう。

ともあれ、幕末の激動の時代に、おそらくは日本近代史上屈指の、赤松小三郎というとんでもない逸材・偉人がいた、そのことは大いに誇り、もっと語られていいのではないだろうか。機を得て、上田市を訪問してみたいと思っている。

2019年4月 4日 (木)

初めての島原

島原というと、キリシタンの乱、雲仙普賢岳の火砕流による大災害、雲仙温泉というのがおおかたの人の印象だろう。私もそうだ。

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島原半島の付け根のところ、諫早市までは行ったことがあるものの、長崎県に属するこの半島に足を踏み入れたことはなかった。ゴルフのお誘いを受けて3月末に島原を訪れ、その機に半島をグルっと一周してみた。山が多く、稲作には不向きな地である。火山灰土質のせいもあってか面積の割りに実際の石高が少なく、民衆が苛政に喘いだのも当然かも知れない。

西側をグルグル走って、まず東南部にあり断崖を隔てて海に面した原城址に向かう。ここはいわゆる天草四郎を戴く2万人とも言われる武装蜂起したキリシタン勢が立て籠もり、のべ10万を越える幕府軍が包囲し、激闘を繰り広げた地だ。時の将軍は徳川家光、1637年から1638年にかけてのことである。やや学術的だが、近刊の『島原の乱』(神田千里 講談社学術文庫)に単に宗教弾圧と割り切れないいきさつが詳説されている。写真は原城址。

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城は破壊され、立てこもった元武士を含む民衆は皆殺しにされた。天草四郎は斬首され、その首は長崎で晒されたという。海に向かって祈りを捧げるかのような像が哀愁を誘う。

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島原の乱の責任では島原藩主が斬首されている。その他にも、色々な処分がなされた。また、天草が幕府直轄領となったものの、乱の因にもなった苛政を緩和すべく石高の半減を死をもって幕府に諫言した代官もいた。

ゴルフコースからは勇壮な平成新山を間近に見ることができる。ちなみに、雲仙岳というのは島原半島の中央にある複数の峰の総称で、かつては普賢岳が最も高かったのが、平成初期の火山活動でそれよりも標高の高い外輪山ができ、平成新山と名付けられた。だから見えているのは普賢岳ではなく平成新山である。1483mということだから結構高い山だ。

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偉そうに書いてはみたものの、名前も標高も実のところ知らず、普賢岳とばかり思い込んでいた。大災害が起こっては困るが、もし今度どこかで新しい火山が形成されたら「令和新山」になるのだろうか。北海道の昭和新山の麓には一昨年に訪れた。私は昭和に生まれ、平成が働き盛りで、令和で老後を迎える身だが、もし元気だったら、きっと「令和新山」にもいくだろう。

島原の乱では島原城も攻撃されている。天守は明治9年に破却され、昭和39年に復元されている。難攻不落の名城だそうだが、城マニアならぬ身にはよく分からない。それでも何となく威厳を感じる。

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雲仙温泉には行っていないが、火山がすぐ近くにあるためか、町のそこかしこから湯気が出ているところもあった。ホテルの温泉ですら病みつきになるぐらい快適だったので、島原は温泉マニアにとってもきっといいところだろう。今度はゆっくりのんびりと、また訪れたいと思った島原行であった。

2019年3月29日 (金)

西郷隆盛 その30 赤松小三郎1

勝海舟
おまえさんは、学問の話になると、子どものように目を輝かせるねえ。少しも昔と変わっちゃいないんだ

赤松小三郎
多分、そうでしょう。私は、蘭学であれ、英学であれ、学ぶことが好きなんです。それが世のため、人のために役立つならば、いうことはありません

これは『龍馬の影』(江宮隆之 河出書房新社)の一節である。小説なのでこれは創作だろう。しかし、赤松小三郎の生涯を見ると、また、唯一残っている彼の写真を見ると、さらに勝海舟の面倒見のよさを思ってみれば、多分このような会話があったであろうと私も感じる。下掲は赤松小三郎。

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作者の江宮隆之氏はWikipediaには「主に史実に即した伝記的な歴史小説を手掛ける」と紹介されており、ノンフィクションの作品も多くあるようだ。『龍馬の影』は、龍馬よりもさらに進歩的で卓越した構想を得ていながら、龍馬の影に埋もれ、世に知られることがなかった赤松小三郎を描いた素晴らしい作品である。江宮氏は龍馬をして「埋火のような小三郎の生涯に対して、燃え盛る炎のような生涯であった」と表現している。

赤松小三郎は、武士身分ながら、いわゆる軽輩の貧しい家の二男として1831年に信州の上田に生まれている。幼少の時から和算に優れた才を発揮し、算学を活用しての凧づくりの名手だったという。後年赤松家に養子に入るまでは芦田清次郎という名前であった。

学問を志し18歳で江戸に出奔し、内田弥太郎(五観)の数学塾で学んでいる。内田弥太郎は関孝和の流れをくむ当代一流の数学者であり、「微分」「積分」の名づけ親だと記されている。高野長英を通じて間接的にシーボルトの蘭学も修めていた。日本で最初にパンを作ったという伊豆韮山の代官江川英龍に依頼されて江戸湾の測量も担ったようだ。明治5年の太陽暦への改暦も彼が手掛けている。

赤松小三郎は算学だけに飽き足らず、おそらくはその間に聞き知った砲術と蘭学を学ぶために師の紹介を得て、下曽根金三郎という洋学者の門を叩いた。ここでも猛勉強をしてオランダ語を学んでいる。数学の基礎があるだけに砲術への理解が早かったことは想像に難くない。

事実かどうかは不明だが、小説では、その間に、この頃浦賀に来航したペリーの黒船を見学に行っている。そして上田藩主で江戸幕府老中の松平忠固に謁見し黒船について報告して励ましを受けたことになっている。以前にも記したように、この松平忠固こそは開国主義者で、日米修好通商条約を結ぶにあたって朝廷の許諾が不要と主張した、先見の明のあった硬骨の人である。

小三郎はその後赤松家へ養子入りのため上田に戻り、そしてまた再度江戸にのぼる。内田弥太郎、下曽根金三郎からさらに学ぶとともに、今度は勝海舟の門下生になっている。これが縁で、長崎の海軍伝習所で非正規の形で学ぶ機会を得る。

航海術、砲術とあわせ、長崎でオランダ語にさらに磨きがかかる。その頃、英語の必要性を感じ、江戸に戻ってからイギリス騎兵大尉の知遇を得て、横浜に居住している彼の下に足しげく通い、持ち前の才と努力であっという間に英語をも習得したようだ。教科書は軍事や政治に関する原書だから、当然にしてその方面の知識も他の者の追従を許さぬぐらいに身につけたわけである。その後、翻訳も手掛けるようになり、京都で自らの塾を持ち、薩摩の島津久光からも高く評価される。

と書いてくると、「それはそうとして、西郷隆盛の話はどこに行った」とまた尋ねられそうだ。実は、西郷隆盛はこの赤松小三郎と京都で親しく懇談しているのである。福島の関連で触れておくと、NHKの大河ドラマ『八重の桜』の主人公新島八重の兄である山本覚馬とも親交を有し、おそらくは強い影響を与えたはずだ。

当時にあってオランダ語と英語を自在にあやつる異色の逸材、赤松小三郎がどのような考えを持つに至ったか、それは明確に文書として残されているので、改めて紹介したい。驚くべき内容である。

2019年3月22日 (金)

西郷隆盛その29 続戊辰戦争 西郷の不思議な動き

話が前後し以前の記述とやや重複する。江戸城が開城し、戦闘の舞台は東北に移っていた。上野での彰義隊との戦い(慶応4年5月15日:1968年7月4日)と東北戦線は同時並行的に行われている。上野は戦闘に入って1日で終結したが、函館戦争も含めれば戊辰戦争は長く続いた。

西郷はと言うと、上野で薩摩兵を率いて彰義隊と闘ったあとは、戦はまだまだというのに、京都に戻り、慶応4年6月8日(1868年7月27日)、朝廷の命という形で、在京していた藩主島津忠義(茂久:久光の実子)に同行して帰薩し、50日ばかり過ごしている。日当山(ひなたやま)温泉にもでかけていたようだ。

西郷の帰薩は応援部隊を集めるというのが名目だが、薩摩兵が血みどろの戦さをしているというのに、温泉はなかろう。彰義隊との闘いの前には西郷自らが東北に出陣すると言っていたのでひどく体調不良だったとも思えない。気分屋のためか、さすがの西郷もはずされたことへの不満があったか、それはわからない。

藩主の島津忠義も奥羽に出陣することになっていたので、それだと薩摩の私戦になってしまうと、それを阻止したという説もある。どうであれ、動きに緊張感がないことは確かだ。応援部隊の兵は、家老の島津広兼が率いて奥羽に向かい、その後に、村田新八と西郷従道が長岡からわざわざ帰薩して応援の派遣を催促している。

最初に奥羽に入った薩摩兵らは薩摩の伊地知正治が率いている。東北の入口の要衝たる白河口では、白河城の攻防(慶応4年閏4月20日-7月14日頃まで続く:1868年6月10日-8月31日)で薩摩兵を中心とした新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との激しい闘いが行われた。

この時、大久保利通は京都にいて西郷の帰薩を座視か容認したことになる。これは全くの私の推測だが、大久保利通は西郷隆盛の宥和路線には批判的で、軍の作戦能力も低いということを見抜いていたのではないだろうか。西郷よりも、戊辰戦争の総指揮は大村益次郎、そして東北征圧には伊地知正治の方がよいと。伊地知正治は目と足が不自由で、風変りな点はあったにせよ、優れた人物だったようだ。写真は伊地知正治(Wikipediaより)。

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話はそれるが、後年の西南戦争勃発の際の有名な大久保の「心中笑み」は、軍事においては、西郷おそれるに足らず、戦って負けることはない、と確信していたように思える。治外法権的地域であった鹿児島をこの機において一気に叩き潰そうとした感がある。大久保利通は西郷隆盛よりも用兵をよく知っているのではないだろうか。

権力を握った大久保利通においては、大村益次郎、伊地知正治、そして代表的には酷く抹殺された江藤新平と、天才肌の人材は、利用はしても台頭は許さない、ということで一貫しているように思える。大久保は完全に独裁者体質である。したがって陰も多く、幕末においても、どうも赤松小三郎の暗殺にからんでいる。

赤松小三郎は天才、異才の惜しんであまりある人物でありながら、全くと言っていいほど世に知られていない。かつて憲法論を色々見ていながら、本シリーズを書くまで私も知らなかった。こういう人物がいたと是非に知って欲しいと、自省を込め次稿で記したい。

西郷はようやくに兵を率いて北陸出征軍総差引として慶応4年8月10日(1968年9月25日)に船で柏崎に着くが、戦いはあらかた終わっており、ほとんど無駄足に近い。その地で実弟の吉二郎の戦死を知った時は相当に悲しみにうちひしがれたらしい。それでも、庄内藩に乗り込み、後始末をすることになる。薩摩兵や浪士の江戸での乱暴狼藉にたまりかね、小栗忠順の指示の下で薩摩藩邸を焼き討ちしたのが庄内藩兵である。しかも奥羽戦線では庄内藩は負け知らずであった。報復におそれおののく庄内藩に寛大な対応をしたということでいわゆる西郷神話ができるわけだ。

西郷隆盛という人は「戦が好きでもなければ得意でもない」と以前に書いたことがあるが、要は戦という殺し合いは苦手で、優しい人だったのではないかと思う。幕末の「禁門の変」で命からがら逃げ出して捕らえられた長州藩兵を長州に送り届け、「彼らは(禁裏方向への砲撃)も命令でやっただけのことなので、寛大な処分にして欲しい」と、毛利支藩である岩国の吉川経幹(つねまさ)にしたためた西郷の書が残っている。

西南戦争において西郷自らはほとんど指揮をとっていないのも、もともと軍人としての資質に欠けていると思えばさほど不思議なことではない。手紙では威勢のいいことを書いているが、どうも実際と乖離している。西南戦争については先で記す。

さて、いよいよ新政府の活動となった矢先、西郷は薩摩に帰っている。新政権には未練なく、本当に隠遁する気だったようだ。ところが、必ずしも一枚岩ではなかった薩摩藩の統率を島津久光の実子で藩主の忠義に請われ、藩政に復帰する。その間に、榎本武揚が五稜郭に立てこもって戦った函館戦争に、あらかた片付いた頃に船で出兵している。二度も無駄足をしているわけだ。

その後、西郷は新政府の岩倉と大久保に強く請われ、明治4年2月(1871年3月)に東京に赴き、4月には薩摩兵を率い、6月頃に薩長土の三藩の兵を新政府直轄の御親兵としてとりまとめることになる。これは多分に廃藩置県を睨んだ新政府の措置であろう。ほぼ同時的に参議に就任する。西郷の真骨頂はここからスタートしたというのが私の見解である。

西郷には不思議な動きがありながら信望がある。軍事が下手で気分屋、ただ優しいというだけでそのはずはないので、彼の根底には何か人を惹きつける価値観というか、哲学があったはずだ。

2019年3月16日 (土)

西郷隆盛その28 新政府

以前にも記したように、幕末・維新においては、同時並行的に色々なことが複雑に起こっているので、私の能力では、流れで書けば重要なことが欠落し、時系列で書こうとすれば、全体の流れがうまく書けない。情けなくもあるが、それだけややこしくもある。

 

新政府は、大政奉還を受けて、慶応3129日(196813日)、王政復古が宣言された時の政府中枢として、総裁、議定、参与がおかれた。多くは皇族と公家で、有力大名として徳川慶勝、松平春嶽、山内容堂、島津茂久、浅野茂勲が議定として入っている。これでは頭が重すぎて小回りは効かず、公家ながら行動力のあった参与の岩倉具視、数日後に参与となった大久保利通、後藤象二郎らがあれこれ采配していったのではないかと思われる。

 

このまま行けば血を多く流さずに済んだわけだが、そうはいかない。鳥羽伏見の戦いが起こったのは、慶応413日(1868127日)で、そのことについては以前に記した。

 

いわゆる「五箇条の御誓文」は慶応4314日(196846日)である。「廣ク會議ヲ興シ萬機公論」「官武一途庶民ニ至ル迄」など、立派ではあるが、現実を理想に引っ張る力としては作用しても、その内容がすぐに具現できるわけではない。まずはこの最大の意義は、プライド高き公家が、武家を見下していた悪しき因習に楔を打ち込んだことにあると私は理解している。以前の表現でいけば、朝廷の空間の解体である。

 

大久保利通の意向と思われるが、この後すぐに天皇が大坂に行幸している。本シリーズで多く参考にさせて頂いた佐々木克氏の『幕末史』(ちくま新書)には、大坂で大久保利通が初めて天皇と面会して状況を報告したとあり、これをして「無位無官の藩士が天皇と対面した未曽有の大事件である」と表現されている。

 

その後、総裁職が廃止され、輔相職が創設されて、三条実美(さねとみ)と岩倉具視(ともみ)のツートップになったと佐々木氏の書に解説されている。三条は善良な人だったようだが決断力に欠け、政治体制についてはやはり岩倉具視-大久保利通や木戸孝允のラインを中心に策定されていったのではないだろうか。政治体制についてはその後も変転している。下掲は三条実美(Wikipediaより)。
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なお、幕府の直轄領は新政府が掌中におさめたわけだが、諸藩の領地はそのままであった。タテマエとしては徳川幕府が諸藩に与えていたわけで、それを返上させたのが明治2617日(1969725日)の版籍奉還である。榎本武揚の降伏により函館戦争、いわゆる五稜郭の戦いが終結、戊辰戦争が終わったのが明治2518日(1969627日)だから、新政府の武力勝利をもって間髪入れずにこの版籍奉還をやったわけである。版籍奉還と同時に、公家と大名諸侯は華族と位置づけられた。大久保利通と木戸孝允もその後に華族となったが、公爵とか伯爵などを定めた華族令が制定されたのは明治17年であり、初期のそれは多分に懐柔とお手盛りのようなものだろう。ややこしい階級制度のあった武士を士族と一括して呼称したのもこの時である。

 

版籍奉還といっても、江戸時代は諸藩による地方分権だったから、いきなり秩序を崩壊させるわけにはいかない。とりあえず諸侯は藩知事として任命し、禄を変えてそれぞれの藩は存続させている。版籍奉還には抵抗がありそうなものだが、どこも財政難に苦しみ、藩の維持が重荷になっていた面もあったようで不思議なことにさほどのことはなかった。その後の藩の息の根を止める廃藩置県はさすがに大仕事で、これはクーデターに近い。

 

なお、以前にも書いたように、「藩」は通常に用いられた言葉ではなく、正式にはこの版籍奉還後、廃藩置県(明治4714日:1871829日)までのわずかな期間に使われただけである。「幕府」も公式に使われていたわけではないようだ。ただ、いちいち注釈をつけることはできないので、いささか居心地の悪さを感じつつ、通りのよい言葉はそのまま使っている。

 

居心地が悪いと言えば、元号もそうである。明治と改元されたのは慶応498日(19681023日)だが、溯って改元されているので、慶応411日(1968125日)が明治元年11日となる。しかも、明治元年は閏月として4月が2回、計13ヶ月あるのでややこしい。維新から150年を経過した今、まさに元号が変わろうとしているが、元号表記と西暦表記は相性が悪い。ましてや旧暦には泣かされる。

 

さてその後、明治278日(1869815日)には太政官制が改められ、右大臣三条実美、大納言岩倉具視、参議に大久保利通、前原一誠、副島種臣が就任している。さらに、粗なものは昔にあったとはいえ、民部、大蔵、兵部、刑部、宮内、外務の卿を長官とする各省がおかれて改めて形ができてきた。官僚化していた徳川政権の幕臣はここで結構雇用されている。特に、例外的に低身分からの登用も多かった実務に長けた勘定方はなくてはならない存在であった。

 

こう書いてくると、西郷隆盛はどこに行ったのか、と問われそうだ。実はこの頃は新政府と離れ、隠遁として帰薩していた。だが、本意か不本意か、隠遁ままならず、請われて薩摩藩の体制立て直しなどに携わっていた。ところが、各藩の兵を合わせて新政府直轄の御親兵とするために岩倉と大久保の説得で新政府に呼び戻され、明治42月に上京して兵の取りまとめを行っていく。そして明治4625日(1871811日)に参議に就任する。日本を中央集権国家とする廃藩置県の断行のために西郷が必要とされたのである。

 

こういった幕末・維新の一連のことを見ると、権力奪取のため、綿密な段取りをつけ、勅を活用し、最後は持ち前の胆力で大胆に実行するという大久保利通の手腕はたいしたものだと感じる。

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