2019年2月15日 (金)

プチじいさんの自虐

退職した団塊の世代が多いからだろうか、巷には高齢男性の自虐が溢れている。私はいわゆる団塊の世代より少し下で、まだかろうじて勤務をしているが、お役に立っているのかどうか、はなはだ怪しく、年金生活カウントダウンで、今となってはもう団塊の世代とは誤差範囲だろう。自虐、他虐を目にする度に身につまされる。

 

「高齢者」という言葉には抵抗を覚えるが、定義の上では65歳以上だそうだから、それだと私は高齢者を軽々クリアしているわけで、“爺さん”というか、“プチじいさん”として、自虐のひとつも口にしたくなる。元部下からのメールに、「今はもうゴルフに夢中の生ける屍のようなものだ」と返信しておいたら、後日会った時に大笑いしていた。

 

最近に目にしたのは「お地蔵さん現象」という表現だ。何のことやらと思ったら、パソコンの前に座ってずっとネットを見たり検索をしたりしていることを言うらしい。これにはドキッとする。「濡れ落ち葉」だとか、「夫在宅ストレス症候群」、はたまた「粗大ゴミ」だとかがあるので、それならまだ自室で引きこもりを決めこんだ方がいいと思うのだけど、それだと今度は「お地蔵さん」だと。
Photo
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190214-00193864-diamond-soci

 

そんなシニアが集う場は意外に多くある。私に関しては、サウナやゴルフ練習場、ゴルフ場、時たまに行くカラオケぐらいのものだが、碁会所や将棋会館、図書館、カメラなどの文化サークル、音楽教室、ウォーキングなども結構賑わっているのではないかと思う。パチンコやボートレースなどのギャンブルもあるかも知れない。旅行という楽しみもある。

 

シニアというか、年金世代になれば、遣えるお金も限られてくるし、その範囲で長年家計を支えてきた者が楽しむ分には大いに結構で、その権利もありそれが健全だと思う。誰しも必ず衰えるわけで、ただ長生きさせるというのは全く大きなお世話だ。働き盛りの時は思うようにできず、先も限りがあり、私は今が“ゴルフ適齢期”だと開き直っている。そういうシニアは間違いなく多くいる。

 

酒を楽しむ人もいるが、それ自体はよしとして、これは度が過ぎると周囲に大迷惑をかけてしまい、自らも階段などで転倒して大怪我をしたりする。業務のひとつとして、年間6000件を超える救急隊の傷病者搬送記録に全て目を通しているが、60歳代、70歳代での酒の害は恐ろしいほど多くある。世間にはあまり知られていないものの、全世界では酒の害で年間300万人が命を落としているようで、WHO(世界保健機構)は各国に警告を出している。私は体質的に酒を全く受けつけず、つねづね“人生損をした”と嘆いているが、こういうのを見ると少しホッとする。

 

歳を取ると小さい字が読みにくくなる。私にも十分その徴候はあるものの、幸いにまだ文庫本が読める。近くのイオンの中に結構大きな本屋さんがあり、週に二、三度新書コーナーに行くのを楽しみにしている。アマゾンでも買えるが、これだとどうしてもハズレが出る。手に取って著者や中身を確認して買った本はまずハズレはないと、これは自虐ならぬ活字好きならではのささやかな自負。もっとも、もっぱら安価な文庫本だからハズレでもあまり怪我はない。

 

先日、久しぶりに鹿児島を訪れる機会があった。城山に行く時に、西郷隆盛が最期に籠っていたといういわゆる西郷洞窟の横を通った。会食の際に超高名な鹿児島の知人が西南戦争をして、「あれほどの人がどうしてあんな馬鹿なことをしたのですかね」とつぶやくように言っておられた。私が「それは謎ですが、同時蜂起してくれる人が多くいると思っていたのでしょう」と答えると、「そんなところかも知れませんね」と。

 

西郷隆盛というか幕末維新のシリーズ、大河ドラマは終わってしまったが、折角に続けてきたので、自虐にばかり浸らず、シニアの楽しみとしてもう少し書き進めていきたい。今回の稿は息抜きまで。

2019年2月 5日 (火)

西郷隆盛 その27 江戸から東京へ 新しい空間の創設その2

『都市空間の明治維新 -江戸から東京への大転換』(松山恵 ちくま新書)という2019110日の日付で発刊された書がある。前稿で「新しい空間の創設」と“偉そうな”ことを書いたが、あまり私の頭にはなかったこのことを触発してくれたのがこの本である。

 

東京を中央集権国家の首都とすることを決めてよりは、「それに適した機能や景観をこの都市が整えるようにさまざまな政策を矢継ぎ早に投じていった」という。そして著者は、「本書は、一定の理念にもとづく政策が施される対象であるとともに、人々が生活を形成する場であり、また、それらが歴史的に共在した結果でもある都市空間を素材に、明治維新と江戸-東京との深いつながりをあらためて描き出すものである」と記している。

 

著者は明治大学文学部の日本史学専攻准教授だが、もともとは東京大学で建築学を専攻したいわゆる“理系女子(リケジョ)”のようだ。歴史は文系である歴史学者によって語られることが多い。建築については素人だけに、その視点が抜けがちなわけである。だから我々はあまり知らない。

 

この書は、ひらたくは、建築学の視点で、江戸から新しい都市東京の創設を分析すればどうなのか、ということで書かれたと言っていいだろう。理系だけに実証的だが、その分、やや読みづらいところはある。

 

大小の見出しをいくつか拾い上げてみると、「政府機関の移転実態」「新政府関係者の賜邸」「煉瓦街計画とは」「謎の新地主をめぐって」「旧幕臣屋敷の争奪」「拝借人から拝領主、そして土地所有者へ」「幹線道路形成の基盤」「社会・文化的基盤としての旧大名藩邸」などなど、いずれも大変興味をそそられる。詳しくは書を読んで頂くほかない。

 

ほぼ明治3年頃と思われるが、江戸城を皇居およびそれに付随する施設、そして太政官としている。だから宮内庁は今も皇居の中にある。皇居を中心にして中央部分を郭内、今の山手線あたりまでを郭外として、郭内に今でいう各政府機関、公家屋敷を割り当て、閣外には、旧大名の屋敷の一部を私邸として残したり、町人の経済活動の場をおいたらしい。

 

大名屋敷は広大で、今の東京大学の本郷キャンパスはもとはと言えば加賀100万石前田家の上屋敷であった。藩邸への入口の一つであった赤門は戦災を免れて今も残っている。慶応大学の三田キャンパスは島原藩の中屋敷跡だというから、とんでもない広さがあったわけである。

8619341421084a06b3fd1b1bb8c0a804

これらが一気に行われたわけではなく、没収によって空間を確保しつつ、試行錯誤を繰り返す中から十年以上をかけて形を生み出していったようだ。試行錯誤と言えば、新政府は度々火事に泣かされた江戸を、煉瓦作りの街に変えようとして、一部着手して結局断念している。江戸幕府が火事の延焼を防ぐために設けた幅広い道路はそのまま幹線道路として用いたり、商店が進出したりしたようだ。今からは信じ難いことだが、養蚕のための桑畑にする試みもなされている。

 

こういった混乱の中、商才に長けた人物が謎めいた形で頭角を現し、広大な土地を支配したということも紹介されている。西郷隆盛が土地の動きに不正が行われていないかと懸念した手紙も残されているようだ。

 

本来なら、水道や排水、建築など、インフラの整備もあわせて行っていかねばならないはずだが、それらをあまり必要としなかったのは、江戸幕府が残した遺産をうまく活用していったからであろう。それだけ質の高い整備を既に行っていたのである。

 

「このようにして、江戸幕府、幕藩体制をつき崩し、日本は東京を中心とした中央集権国家の整備に邁進していくことになるのである」

 

と結べばいかにも体裁はいいが、これでは空疎に過ぎる。そもそもグランドデザインなき新国家の創設は、そんなに生易しいものでも単純なものでもなかった。

 

ここでは、とりあえずおおざっぱに、巨大都市東京の原型が、江戸城をはじめとする江戸幕府の遺産、参勤交代の遺産である諸藩の広大な江戸藩邸、を活用しながら造られていったと受け止めておくのでよいかと思う。私自身の理解もまだその程度である。

2019年1月23日 (水)

西郷隆盛 その26 江戸から東京へ 新しい空間の創設その1

王政復古、戊辰戦争、江戸無血開城、廃藩置県などなど、それらが何年に起こった、何がどうしたこうした、というふうに年表式に簡潔に記述していけば整理しやすいし、我々が習った日本史というのは大体にしてそんなものだったと思う。ただ、それでは躍動感が失せて面白くない。今さら試験を受けるわけではないので、いささかの興奮を覚えながら、歴史を感じていきたいものだ。最近に『応仁の乱』がベストセラーになったりする現象も、覚える歴史ではなく、知る喜びで学ぶ歴史が多くの人に受け入れられてきたからだろう。

 

さて、戊辰戦争が一段落して、形として朝廷を軸とする新政府(太政官政府)は、京都から江戸、つまり新しい名前の東京に遷都する。簡略に記せばそうなのだが、これは大変複雑かつ大変な作業であった。

 

そもそも江戸という地名の発祥はあまり知られていない。江戸に限らず、例えば蝦夷地を北加伊道(太政官布告で北海道)と提案したのが今の三重県出身の松浦武四郎(1818-1888)だと知っている人は少ない。「江戸」も「北海道」も言葉が今の我々にあまりにもなじんでいるので、特に意識することがないわけだ。

 

太田道灌が江戸城築城を開始したのが1457年、徳川家康が江戸に入ったのが1590年と言われている。一般向けの冊子『大江戸の都市力』(洋泉社MOOK)によれば、地名としての江戸が確認できるのが1261年で、地名からとって名字とした江戸は1180年の資料にあると記されている。ということは、その前から「江戸」と呼称されていたわけだ。そもそもこの地域は、河川が多くあり、台地と湖沼、低地と平地の凸凹からなっていたという。居住の痕跡は縄文時代からあるらしい。今では想像もつかないが、日比谷あたりまで海から続く細い入江があった。

 

そうしてみると、水に恵まれているとはいえ、治水技術や橋梁技術、浄水の確保や下水処理方策がなければとうてい人口密集地にはなれない。鎌倉時代にもなされてはいたものの、利根川東遷など、大規模な水路変更、築堤、堰や用水路建設、埋め立てなど、それらを盛大に行って大都市にしたのが江戸時代であると言ってよいだろう。

 

ただ、それを家康が構想したかのように感じるのは多分に神話的伝説である。家康の江戸滞在はのべにして5年かそこらで、しかも当初は秀吉配下の一大名に過ぎなかった。どのみち一気にできるはずはなく、代々の将軍、特に初期の将軍達が勢いをつけ、戦乱のない時代、官僚化あるいは専門家と化した旗本などの幕臣が天下普請として地方大名を動員しながら脈々と整備を重ねてきたわけである。

 

先に掲げた『大江戸の都市力』では、筆者の一人の陣内秀信氏が、「江戸ほど自然の地形を活かした都市づくりをした例は、世界でも珍しいといえます」とのべている。一般書ながらいささか論文的だが、江戸の地形利用についてさらに詳しくは『江戸はこうして造られた』(鈴木理生 ちくま学芸文庫)という大変な労作がある。

 

幕末江戸の居住人口は100万で、その半数が武士、半数が町民だったという。ところが、400万石とも言われた徳川幕府は70万石に減らされ静岡に移封となってしまった。江戸は幕府の直轄領である。各藩の土地はあくまで幕府からあてがわれていたもので、上屋敷、中屋敷、下屋敷、倉などに分かれて広大な面積を有していた。中心部の面積の約7割が幕府や各藩の屋敷で占められていたようだ。それが、幕府の崩壊により、そっくり宙に浮いた、というか、あらかた新政府のものとなってしまったわけだ。ちなみに、残り3割は寺社地や町人地であった。
Photo

幕末は京都が政局の中心になってしまったが、旧秩序でがんじがらめの京都に政権を担う新しい空間を創設することは難しく、大久保利通は大坂に遷都することを考えていたという。ところが、大坂は町人の街で、既得権に縛られて充分な空間が得られない。建設の資金もない。

 

ここに、中心となる城郭があり、周辺に広大な武家地のある江戸が、東の京、すなわち東京と改められ、そこに遷都することが決定されたわけである。京都と東京の二都論ではあったが、遷都の提唱と、「自今江戸ヲ称シテ東京トセン」という詔書が出されるにいたった命名は東征大総督府軍監として江戸開城にも立ち会った佐賀出身の江藤新平である。遷都の最終的な決め手となったのは幕臣だった前島密の建白とも言われている。

 

江藤新平は、後年、切れ者として西郷隆盛の力強いパートナーとなっている。そのことについては先に記すとして、まずは、あまり語られてこなかった東京の新たな空間というのがどういうものであったか、次稿で紹介する。

2019年1月 9日 (水)

西郷隆盛 その25 戊辰戦争その後

戊辰戦争は函館五稜郭の旧幕府軍の敗戦でほぼ終止符が打たれた。それまで、そしてその後には当然のことながら色々ないきさつがある。

 

仙台藩は最終的には降伏したわけだが、そもそも奥羽越後諸藩の同盟は会津藩の赦免を目的としたようなところがあり、会津藩に降伏を説いた仙台藩の優れた重鎮であった但木土佐は事後に江戸で斬首されてしまう。幕府支持で開国派だったものの、当初は必ずしも全面的な反新政府ではなく比較的穏健派であった但木は不本意に反新政府の方向に追い込まれたのではないか。下参謀であった悪名高き世良修蔵の仙台藩士らによる殺害、奥州鎮撫総督を監禁下においたりしたことの報復もあったかも知れない。仙台藩士玉虫左太夫(たまむしさだゆう)も捕縛され切腹を余儀なくされた。福沢諭吉や殺害された小栗忠順と同じくして渡米経験のある貴重な人材であった。晒し首にまでされた米沢の雲井龍雄もさぞ無念であっただろう。藤沢周平の小説『雲奔る』(中公文庫)の主人公である。

 

ちなみに、世良修蔵は、2018年、幼児の不明騒動と奇跡的な無事発見、船舶による大島大橋破壊による断水で、有難いのか有難くないのかよく分からぬ形で一躍全国に有名になった周防大島(屋代島)の出身で、そもそもは武士ではなかった。以前にも記したように、ここは第二次長州戦争で激しい闘いが行われた地だ。世良は第二奇兵隊を率いて戦っている。

 

会津藩はよく知られているように、悲惨な戦いに敗れ、降伏したのち、下北半島に領地が与えられ、斗南(となみ)藩として再興を図ることになった。

Photo

農業に適さない厳寒の地での苦難は『斗南藩』(星亮一 中公新書)に詳しい。『ある明治人の記録』(石光真人編著 中公新書)にも先で陸軍大将となった柴五郎の苦闘が生々しく描かれている。また、折角の努力も廃藩置県によって藩としてはわずかな期間で途絶してしまった。多くは会津に戻ったものの、この地で頑張り、栄達を遂げた人もいる。藩候の松平容保は一命を助けられたが、引き換えに家老の首を差し出すことが求められ、重臣の萱野権兵衛があたら命を散らすこととなった。年長であったため自らかって出たようだが、潔い言葉とは裏腹に、辛かっただろう。

 

戊辰戦争で多くの命が失われたが、実は、幕府側も新政府側も、兵員の半数近くは武士ではなかった。戦争をする場合は、食料や弾薬の補給、いわゆる兵站が欠かせず、前線にこそあまり出なかったにせよ、多くの農民らが駆り出されていたからである。あまり表に出ないだけのことで、彼らも塗炭の思いをしたはずだ。

 

したがって、ことさらに重臣の死をあげつらう必要はない。しかし、ここでどうしても言及しておきたいことがある。

 

それは榎本武揚(えのもとたけあき)だ。本来なら新政府の資産になるべき貴重な軍艦をかっぱらい、北海道に自治領を造ることも企図し、失策を重ねたあげく、函館五稜郭に立てこもってあくまで抗戦した人物である。降伏してよりは、他の例にならえば、三度ぐらい打ち首になっても不思議ではない。しかし、獄から比較的早く釈放され、後年の明治政府において、なんと農商務大臣にまでなっている。黒田清隆が助命に奔走したと言われているが、この場合の最終判断はこの時政府に身をおいていた西郷隆盛であろう。自ら乗り込んだ庄内藩にも彼が寛容の態度で臨んだことはよく知られている。

 

榎本武揚は恭順の説得に耳をかさない確信犯であったが、奥羽越後諸藩は、そこまで追い込まなくとも話し合いの道はあったのではないか、と感じる。それがために多くの貴重な人材が失われたのである。

 

新政府になっても、単に権力者が交代しただけのことであって、苛酷な体質は江戸時代のそれと全く変わっていない。維新の最大の意義はこの政権交代自体にはない、と思うゆえんである。明治になって西郷隆盛の早々の帰薩は、そんな体質が嫌だったからではないだろうか。未完遂に終わったとはいえ、維新を維新たらしめた偉業はもう少し後のことである。

2018年12月30日 (日)

2018年歳末寸感

今年もあとわずかとなってしまった。私にとって2018年は特記するほどのこともなかったが、大病も事故もなく、とりあえず無事に過ごせたことは有難いとしみじみ感じる。

歳末おしつまった時に幕末維新のややこしい話でもなかろうと、今回はさっと書けるつれづれの寸感。

 

手帳

毎年、来年も無事に過ごせるだろうかと思いながら、年末に手帳を更新して予定などを書き入れている。スマホに入れておけばよさそうなものだが、私には手帳の方が使いやすい。その手帳を新幹線に置き忘れた時は蒼くなった。

大騒ぎするほどの予定があるわけではない。が、メモで安心して、頭においていないので、当面の予定の正確な日時がわからなくなってしまう。それに、隠し文字にしたパスワードの数々からゴルフのスコアまでメモしているので、誰かに見られたら大変だ。幸いに駅員が保管してくれていて、着払いで送ってもらって安堵した。

 

ゴーン氏逮捕

手帳の置き忘れは蒼くなったが、こちらは驚いた。高報酬のことはつとによく知られているわけで、何が何だか分からない。容疑があるとしても、そもそも逮捕して長期拘留をする必要があるのだろうか。村木事件の大失態の二の舞にならないか。

堀江貴文氏の時もそうだが、憶万長者の“逮捕”に快哉を叫ぶような風潮がある。これは絶対に誤っている。民間会社であれば、どれだけ高報酬であろうと、それは庶民の知ったことではない。逮捕はあくまで証拠隠滅や逃亡のおそれがある時の必要悪であって、容疑の段階で代用監獄とも言われている苛酷な扱いの留置場に入れるのは慎重にすべきだ。あれほどの有名人が逃げ隠れできるものか。逮捕が先取り刑罰化している現実には大いに異議を唱えたい。

酒に酔って夜に道に寝ていた人をはねたというほとんど不可抗力の交通事故でも運転手が逮捕されているが、逮捕ならではの情報が得られるとは思えない。痴漢容疑の人もそうだ。手が触れたとかで大騒ぎされて冤罪逮捕されたのではたまらない。満員電車で誰とも接触しないというのは不可能だ。世の淑女諸子には、男性はかなり恐怖していることを知っておいてもらいたい。ただし、本物の痴漢や犯罪的なストーカー、傷害や殺人などの容疑者は身柄を拘束してもらわないと、自らを守ることのできない者は枕を高くして眠れない。

 

日韓問題

以前にも触れたように、私はかつて日韓問題の小冊子をまとめる過程で韓国の歴史を学んだことがある。限られた時間の中で、一般にはまず知られていない朴正煕全集にまで目を通した。

その過程で、長い間独立が奪われていたにもかかわらず、また、朝鮮戦争で焦土と化した中から、見事に立ち上がり先進国となったことに深い敬意を抱いていた。その小冊子は、韓国の学者からも、在日韓国人からも高い評価を得て翻訳されて韓国で出版という栄に預かった。考えは今も変わっていないので、その意味では私は親韓派だ。

しかし、さすがに最近は、あきれ、ウンザリしている。韓国には「日本には何をやっても許される」という風潮があるそうだ。哨戒機への駆逐艦レーダーのロックオンはただただ論理のない開き直り。少女像だの徴用工だのの像をやたら立てるのが好きなようだが、あの像にどれほど芸術性があるのだろうか。少なくとも私にはそう思えない。どうであれ、あまりにもしつこく、不快だ。

前科のある日本のナショナリズムへの挑発は、また日本が誤った道に踏み出してしまわないかと、市井の一小市民として不安にかられてしまう。ヘイトで知られるように、日本にも過激グループが存在している。

悪は確かにあった。しかし、ひとつひとつのことがらへの対応はとうていできることではないので、日本は「過去の清算」として双方合意の上で既に莫大な支払いをしている。それを朴正煕元大統領が韓国の発展のために投資したことが「漢江の奇跡」の起動力のひとつになった。国民は少なくとも間接的にはその恩恵に預かったはずで、それが知らされていないとしたら、教育に大きな問題がある。これでは、日本の統治政策は他国の植民地政策とは異なった面もあったという歴史研究の深化は不可能だ。

それでも、そこを曲げて、実態にも議論のある慰安婦問題を、「もう終わりにしましょう」と改めて国家間の合意で念をおしたはずが、大統領が変わってあっさりと反故。北朝鮮という国が韓国でどのように知らされているのかも不思議だ。どちらの国も私にとってはdisgustingだ。

今をさる150年前のこと、明治新政府も、日韓問題というか日朝問題で悩まされた。小冊子で知識が増えたのち、西郷隆盛の“征韓論”なるものはいったい何だったのかと、一般書だけでなく、専門書まで漁ったことがあるので、いずれ紹介する。

 

喪中欠礼

12月になると「喪中欠礼」の挨拶状が多く届く。今年は特に多かった気がする。知己の多くが親や身内を亡くす世代だということもあるかも知れない。かく言う私もそうである。老母は97歳という天寿だったこともあって、「喪に服する」という殊勝な思いもなく、かと言って新年の挨拶というのもどうかと思案しているうちに、結局、「喪中欠礼」も「賀状」も出さないままになってしまった。ここに書いてもあまり意味ないとは思うが、非礼をお詫びしておきたい。

 

現在進行中のことがらへの批判的な論評は本ブログの趣旨ではないのであまり書かないが、今回は少し踏み込み過ぎたかも知れない。時には思いの吐露もお許し頂きたい。

来年が皆様にとってよき年になることを祈りつつ、本年最後の稿とさせて頂く。

2018年12月21日 (金)

西郷隆盛 その24 戊辰戦争

鳥羽伏見の闘いで戊辰戦争の幕が切って落とされたわけだが、戊辰と言っても、本当はピンと来ない。少なくとも私には。

 

昔の成績表や軍隊の体力評価に使われたこともあって、甲・乙・丙・丁は、「甲乙つけがたい」と、どちらも優れていることの比喩的表現で使われるし、それをもじって、どちらもヘボを、「丙丁つけがたい」と揶揄したりもする。それとこれとは関係なさそうだが、そうではない。

 

実は、戊はその甲乙丙丁の次に来る語で、庚、壬・・・と、全部で10あり、十干というらしい。これと今も年賀状で使われる、子、寅、辰・・・・と12ある十二支を組み合わせて年月を表記したようだ。正直なところ私もよく分からないが、ともかくも、戊辰の年に起こったから戊辰戦争と呼称されている。

 

戊辰戦争は、旧幕府側と新政府側の闘いをさしている。鳥羽伏見の戦いから、函館五稜郭の戦いが終結するまでを総称しているわけだ。なぜかローマ字表記だが、Wikipediaの図を拝借すると下記のようになっている。

Photo

これは内乱と言ってもいい。武力を背景とした徳川の武家政権を倒すわけだから、本来平和裡にことが進むはずはない。それでも、日本を二分するほどの大きな戦争にならなかったのは、肝心要の大親分、すなわちかつて将軍であった徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いで大敗を喫して江戸城に逃げ帰り、さらに寛永寺で蟄居の上、江戸無血開城と、早々に恭順というか白旗を掲げてしまったからである。大義名分として日本の王たる天皇に恭順するということだから、本音では戦争などしたくない大名にとって受け入れやすかったということもあるだろう。もし在りせば、新政府軍はとんでもない目に遭ったであろうという人物、小栗忠順(おぐりただまさ)は、その主戦論のために慶喜に罷免され今の倉渕に隠遁していた。その彼は戊辰戦争のさ中にそこで惨殺されてしまう。小栗忠順については先で記したい。

 

ともかく、それでも戦争は起こった。これは、旧体制の維持というか徳川幕府に忠を尽くすという面もあったし、御沙汰に不満があったり、新政府への反発だったりと、抵抗者側の状況は微妙に異なっている。江戸無血開城の前に甲府で板垣退助率いる新政府軍と近藤勇など新選組を主とする幕府軍との戦いはあったが、大規模なものとしては、上野の彰義隊の抵抗、宇都宮城での戦い、北越戦争、会津戦争、五稜郭の戦いなどがある。

 

ひとつひとつのいきさつと経緯を記していけば、膨大な分量になるので、今ここで詳しく触れることはしない。一般書としてよくまとまったものとしては、『戊辰戦争』(佐々木克 中公新書)があり、読みやすい。上野の彰義隊の戦いについては『江戸のいちばん長い日』(安藤優一郎 文春新書)に詳しくまとめられている。

 

さて、こういう戦いの中で、西郷隆盛はどういう動きをしていたか、について触れておきたい。結論的に書けば、彼は戦の中で見るべき動きというのは全くと言っていいほどない。以前に、「西郷隆盛は戦さが得意でもなければ好きでもない」と記したゆえんである。

 

鳥羽伏見の戦いでは、大久保利通に足止めされていたのに、無為に前線にのぞきに行った程度である。彰義隊との戦いでは優れた軍略家であった大村益次郎の総指揮下で前線にいたが、勇猛だったのは薩摩兵で、指揮は篠原国幹(しのはらくにもと)である。むしろこの頃の西郷は勝海舟に委ねて彰義隊を江戸の治安維持にあたらせるなど、その融和路線が批判にさらされていた。

 

彰義隊との戦いが終わったあと西郷は薩摩に帰り、軍を率いて再出動した時は、北越戦争も五稜郭の戦いも既にあらかた片付いた頃である。西郷隆盛と言えば勇壮な武人というイメージがあるが、これは全く誤った見かただと私は思っている。戊辰戦争も全体を采配していったのは大久保利通で、彼は西郷よりはるかに兵の使いかたが上手い。なお、実戦指揮が得意だったのは板垣退助である。

 

軍人としての西郷隆盛の虚飾のイメージは捨て去るべきだろう。彼の真骨頂は、大久保利通や岩倉具視らがいわゆる岩倉使節団で不在であった時の留守政府の首班としての、明治維新を明治維新たらしめた大胆な政治にある。そもそもこのことが書きたくて本シリーズを書き出したわけだが、なかなか辿りつけない。

2018年12月10日 (月)

西郷隆盛 その23 江戸無血開城

ちょっと書いてみようと思っただけのこのシリーズだが、振り返ると結構な量になってしまった。改めて思うに、これだと、西郷隆盛というよりも、『一般書から読み解く幕末維新』とでもした方がよさそうだ。大変革が短期間に凝縮されているわけで、随分ややこしい話だが、知識を仕入れながら自分で楽しんで書いている。

 

さて、今回は、有名な江戸無血開城。これは多くの書で説明されている。書名そのままの『江戸無血開城 -本当の功労者は誰か?』(岩下哲典 吉川弘文館歴史文化ライブラリー)という書もある。

 

西郷隆盛と勝海舟(1823-1899)が薩摩藩邸で談判する下記の絵はよく知られていて、江戸無血開城談判のシンボルになっている。結城素明東京美術学校教授の手によりこれが描かれたのははるか後年の昭和10年なので、あくまでイメージの描きおこしであって、よくできていても、リアリティーという意味では少々怪しい。

Photo

立役者はいかにも西郷と勝だが、この場には山岡鉄舟(1836-1888)など、複数の者が同席していたようだ。談判は313日と14日と、2回行われている。山岡は、それに先立って駿府で西郷隆盛と直談判して、いくつかの条件の下で江戸無血開城をすることの交渉を行っている。勝海舟はそれを受けて最後の詰めをしているわけだ。勝海舟は、西郷の至誠に自分も至誠で応えたと語っている。

Photo_2

少し話を戻す。鳥羽伏見の闘いに勝利した新政府側が、今度こそ武力討幕と、江戸に攻め入ろうとして中山道方面や北陸道、駿府(静岡)方面に進軍している。どうも本人は気が進まないようだったが、ともかく西郷隆盛が東征大総督府下参謀、すなわち実質上の総司令官を命ぜられる。

 

先兵的に箱根を攻略し、いよいよ江戸攻略を慶応4315日(186847日)と決めた駿府の西郷の元に、39日に山岡鉄舟が訪れる。江戸開城、徳川家存続、慶喜助命などの条件交渉をするためである。よくも敵陣ど真ん中に行ったものではあるが、江戸騒擾の罪で幕府に捕らえられ、勝海舟が預かっていた薩摩の益満休之助の同行が可能ならしめたのだろう。

 

幕府のトップは依然として徳川慶喜で、どのようないきさつで山岡鉄舟が西郷の元に派遣されたのだろうか。老中の取り計らいで陸軍総裁などに出世していた勝海舟がそのようにしたとすればなんとなく納得してしまうが、肌合いが悪かったのか、彼は慶喜には嫌われていたとのべており、どうもよくわからない。慶喜に委任されたと記している書もある。勝海舟も恭順の考えであり、知遇のあった西郷と直談判したことは不自然ではない。

 

抗戦か恭順か、江戸城に入った徳川慶喜は逡巡を重ねる。『江戸無血開城』によれば、それを、ここにいたっては朝廷に恭順して内乱を防ぐことが日本のためと強く説得したのが山岡の義兄であり、実力部隊の指揮官である遊撃隊頭の高橋泥舟(泥舟は後年の号 1835-1903)である。慶応42月頃、ついに恭順の意を固め、当初は泥舟を赴かせようと考える。ところが、頼りにしている泥舟に万一のことがあってはと不安にかられ、誰か適任者をと打診して、泥舟が義弟の山岡鉄舟を推薦したといういきさつがのべられている。寛永寺での謹慎、水戸での蟄居も泥舟の提案で、槍の名手として名をはせた彼が移動の護衛にあたったという。

 

泥舟、鉄舟ともに海舟と違ってあまり自己誇示がなく、多くを語っていないので詳細は不明である。ただし、『江戸無血開城』の著者である岩下哲典氏は相当に確信的に、勝海舟ではなく、山岡鉄舟こそが最大の功労者だと記述している。おそらくこちらが真実に近いと思われる。

 

江戸を戦乱の場としなかったという点において、徳川幕府の統率が完全に瓦解したという点において、江戸無血開城は極めて重大な意義があると思う。西郷隆盛と山岡鉄舟、勝海舟の功は大である。そして、少なくとも結果的には徳川慶喜も大功労者である。しかし、新政府に反発し、徳川に忠を尽くす人達は当然にしていたわけで、この後にまた多くの血が流されることになる。

2018年12月 1日 (土)

西郷隆盛 その22 鳥羽伏見の戦い

「鳥羽伏見の戦い」は、おとなしく京都の二条城からさらに大坂城に引っ込んだ(京から見れば)はずの慶喜が、ここでもまた中途半端で、京を支配下におく薩摩に激昂する会津藩などの幕府軍勢を抑えられず、再入洛しようとした彼らと薩摩側の軍勢が京都の鳥羽・伏見で衝突した戦いである。兵員数では断然勝っていたはずの幕府軍が敗退してしまう。

1920pxtobafushimibattle2

 ありていに書けばそうなのだが、今、ひと味違う書を読んでいて、これがなかなか面白い。いわば、博識のおじさんが歴史をわかりやすく物語ってくれているような趣がある。

 

これは、『明治裏面史』(伊藤痴遊 講談社文芸文庫)という本で、「隠れたる事実」という副題がつけられている。もともと大正13年に発刊されたものを現代仮名遣いに改め、20189月に出版されている。

 

作者の伊藤痴遊(1867~1938)は講談師であり政治家でもあったというのだから面白いはずだ。「見てきたような嘘を言い」と思いきや、さにあらず、よく調べて書いているようで、なかなか真実に迫っている。少なくとも私にはそう思える。

 

この書で伊藤痴遊は、「慶喜が政権を返上しても、なお二条城に頑張っていて、あくまでも討幕派と対抗していたら、まさか慶喜を京都から逐い出すこともできず、討幕派はどれほど苦しんだか知れぬ」と書き、「慶喜は癇癪まぎれに、大坂に引き揚げたのであろうが、それがそもそも幕府の大失策であったのだ」と指弾している。領地返納などの問題もあって、「慶喜はついに兵を率いて入京しようとした。そこで薩長二藩が主となり、朝命を威光(かさ)に入京を拒んだのである。ここにおいて慶喜は、兵力によって入京しようとする、その争いが例の伏見鳥羽の戦闘(たたかい)になったのだ」としている。これは簡潔には全くその通りだと思う。

 

さらには、「この戦闘が始まるときには、どんな者でも徳川の勝利と見ていたのである。単に兵数の上からいうても、幕兵は一万三千からあった。これに対して、伏見鳥羽の街道に関門を設け、幕兵の入京を拒んだ、薩長連合の兵はわずかに四千ぐらいのものであった」と書いている。それがなぜ惨めな敗北を喫したかというと、薩長軍は必死の闘いをし、幕府軍は、総師の竹中重固(しげかた)がその器になく、裏切りもあったりして統率を欠いていたと指摘している。岩倉具視と大久保利通らの細工である「錦の御旗」も威力を発揮したかも知れない。有名な、薩摩藩邸焼き打ちにつながる幕府挑発の江戸擾乱工作もその前に行われた(これを西郷が指示してやらせたというのが定番になっているが、私は非常に疑問に思っている)。

 

以前の稿で、これらの戦闘につながりかねない慶喜追い出しは、薩長にとって大博打だったと書いたが、実際にそういう状況だったと思う。しかし、戦況不利と見てか、パークスの進言によってか、徳川慶喜、老中の板倉勝静、会津の松平容保、桑名の松平定敬らが夜ひそかに大坂を脱出し軍艦で江戸に逃げ帰ったことがとどめをさした。これでは勝てるはずはない。激闘と言われながら、双方の戦死者は1割もなかったので、その意味ではこの逃げ帰りは幸いだったかも知れない。

 

伊藤痴遊は、「伏見鳥羽の敗報があまねく天下に知れわたると、いままで態度を曖昧にしていた、弱い大名が朝廷への恭順を申し出た。ただわずかに奥州諸州は、会津藩が頑張っていたので、堅く連盟した、あくまで官軍に抗戦すべき手順が運んだ」と説明しており、これも簡潔で的確だ。鳥羽伏見の闘いで幕が切って落とされたいわゆる戊辰戦争である。千葉の請西藩(じょうざい)のような小藩の抵抗もあったし、江戸では上野の彰義隊が死闘を繰り広げたが、これについては別稿で取り上げたい。

 

肝心の徳川慶喜は、逃げ帰っての江戸城滞在はわずかで、恭順して上野の寛永寺で謹慎し、水戸を経て、静岡に移り、晩期は東京で過ごしたというのは前稿に書いた通りである。伊藤痴遊は、西郷隆盛が慶喜を極刑に処すことを頑として拒んだがために命が救われたと記している。多分、篤姫がらみの西郷の情であろう。

 

さて、本来は徳川幕府に忠を尽くすべき諸藩がなぜかくもあっさり恭順したかというと、将軍のていたらくもさることながら、どこも財政難に苦しんでおり、とても戦ができるような状況になかったということも大きいだろう。新政府軍というか官軍はどうかというと、実はこちらも財政難にあえぎ戦費調達に非常に苦しんでいたのである。

2018年11月19日 (月)

晩秋のボナリ高原ゴルフクラブ

またその話かい、と言われそうだ。それでも書きたくなる。せっかくにまた撮ったし。

 

とあるゴルフコンペに誘われてこの週末に晩秋の「ボナリ高原ゴルフクラブ」を楽しんだ。磐梯山と安達太良山に囲まれた文字通り高原にあるため、冬季クローズ直前の11月下旬はさぞ寒かろうと覚悟して、まるでスキーにでも行くかのような出で立ちで赴いた。

 

ところが、そんな重装備がまるでアホに思えるほどの快晴。寒さというほどのことは全く感じなかった。こんな時のボナリ高原ゴルフクラブは最高で、まさに至福のひとときである。

1_2

売店のお姉さんが「お久しぶりですネ」とにこやかに応えてくれて、「こんな日は滅多にないですよ」とのこと。それはそうだろう、晴れた日でも磐梯山の頂には綿ぼうしのような雲がのっかっていることが多い。

 

磐梯山に向かってショットする名物のショートホール。

2

安達太良山が特異な山容を見せている。この場所からは磐梯山が後ろに見えるのだが、当たり前のことながら、さすがに一枚の画面では捉えられない。日本100名山の二つの山姿が同時に近くに見られる場所は多くはないだろう。ボナリの16番、ボナリはもともと母成と書くらしいが、ここはその一つである。磐梯山も安達太良山も見る方向によって山姿が随分と違う。

3

クラブハウスから見た景色。普通の山々であっても、紅葉の盛りを過ぎた晩秋は何かしら郷愁をそそられる。

4_1

私は山に行く脚力もないし、今さらその気もないが、山は大好きで、NHK衛星放送の百名山の番組は楽しんで見ている。それはそうとして、肝心のゴルフの方は、景色同様、タップリ可愛がってもらったと書くにとどめておこう。雨が、風が、寒さが、としたいところだが、何ひとつ言い訳けなし。

 

蛇足ながら、こういう実体験モノは、幕末維新モノと違って、間違いを書いてしまわないかとヒヤヒヤしなくて済む。写真も自分で撮ったものなので著作権のことも気にしなくていいし。本来が好きなのだろう、どちらを書いても自分では楽しい。

2018年11月13日 (火)

西郷隆盛 その21 王政復古2

慶応3129日(186813日)の「王政復古」はクーデターと表現されることが多い。もともとはフランス語のようだが、クーデターは暴力的な行為を背景にして行われる政変と言われている。

 

ここで、幕府制の廃止、朝廷政治の摂関制度の廃止、太政官の設置(総裁、議定、参与)と人事、岩倉具視や三条実美など、放逐・蟄居していた公家の赦免、長州の復権、慶喜の処分(辞官納地)、などが宣言される。形だけを見れば、日本近代史上に特筆される大変革である。

 

決議は128日から10日にかけて複数の会議で行われ、正式な発令は1214日である。岩倉具視は118日に蟄居していた岩倉村から京都に戻ることが赦され、この頃は大久保利通の借家のすぐ近くに居住していた。なお、坂本龍馬が会津藩配下の見廻り組によって暗殺されたのが1115日だから、まだ幕府勢力も強く、京都には殺伐とした雰囲気が漂っていたと思われる。

 

実際にはこの時に戦闘が起こったわけではない。しかし、薩摩、土佐、尾張、芸州、越前の武力を背景とした政変である。何のために武力を示威したかというと、ひとつには、幕府存続を図る会津と桑名藩の武力反発を警戒していたことと、兵によって御所の門を固めることで朝議後に退所した親徳川の公家の再参内を封じるためであった。

 

なお、慶喜は1024日(18671119日)に将軍職の辞表を提出しているが、内大臣職の官位とともに朝廷から未承認で宙に浮いたままであった。これがこの時に承認される。政変で強引に決定づけたわけだ。

 

二条城にいた慶喜が動かないようにするために、福井の松平春嶽と尾張の徳川慶勝による根回しがなされていたが、兵は慶喜の方が多く、その動きひとつでどうなるかわからず、いささか心もとない状況であった。土佐の山内容堂は間違いなく、また、春嶽や慶勝も、ここまで徹底した慶喜はずしが行われるとは思っていなかったのではないだろうか。

 

素直に従ったのかどうか、ともかく慶喜は、「王政復古」のクーデターの際には戦闘とならぬように会津の松平容保と桑名の松平定敬を京都の二条城に滞在させていたようだ。その後に数千人にものぼる兵を引き連れて大坂城に移っている。「皇居付近で騒動が起きてはとの懸念」で大坂城に退いたと語っていたという。

 

慶喜は大坂(大阪)でも外国の外交官に会っており、自らを「上様」と称し、実権は失うまいとしていた様子がある。ただ、大坂で慶喜と会ったイギリス人外交官のアーネスト・サトウは、「この五月には、気位も高く態度も立派だったのに、こんなにも変わり果てたかと思うと、同情の念を禁じ得なかった。眼前の慶喜は、やせ、疲れて、音声も哀調をおびていた」と記している。慶喜の行動はなんとも中途半端で、その後にまた上洛を試みたことが鳥羽・伏見の闘い、戊辰戦争の幕開けにつながる。

 

慶喜について結論を書けば、鳥羽・伏見の闘いの際には、戦況不利と見てとるや、いち早く小舟で軍艦に乗り移り大坂から江戸に脱出している。下図はWikipediaにあったその時の様子を描いた錦絵である。ウソかまことか、事柄を大仰に想像で描写する手法で錦絵は当時の庶民の情報源となり人気を博したという。西郷隆盛も髭面の見慣れぬ顔貌で随分と錦絵のネタにされている。

Photo

一旦江戸城に入った慶喜は、幕臣を護る動きもなきまま、その後新政府に恭順して上野の寛永寺で謹慎し、徳川宗家を譲った。完全に舞台を降りてしまったわけだ。さらに、そもそもの出身地である水戸、徳川家が移封された静岡に移り謹慎生活を送っている。謹慎が解かれた後も栄誉職程度で表舞台には出ず、長く静岡、晩期は東京で趣味に浸る安穏な余生を過ごした。大正2年(1913年)に76歳で死去している。不思議な人ではあった。

 

西郷隆盛なども「慶喜の首を取らねばすまない」と息まいていたが、『徳川家が見た西郷隆盛の真実』(徳川宗英 角川新書)には、「内心では慶喜を殺すことはできないとはじめからわかっていたのだ」と記されており、その理由として、「慶喜は歴代の将軍の中で初めて天皇家の血を引いた人だったからだ」と説明している。ただし、幕末維新期に殺害された大名はいないので、それが真の理由かどうかは定かでない。西郷隆盛の言動不一致の情ではないかという気もする。篤姫や孝明天皇の妹で徳川家定に嫁がされた和宮が助命を懇願しているのでこれも効いたのかも知れない。

 

しかしそれにしても、よくもまあこのような動乱の中心にいて内にも外にも敵だらけの状態で慶喜は生きながらえたと思う。聡明な人だったようだが、信念というか哲学に欠けていたのだろう。その分、変わり身が早い。水戸藩主徳川斉昭の嫡子でありながら、格式が高いというだけで、藩としてのまとまりも有さず自前の兵を持たない御三卿のひとつである一橋家に養子に入ったということも責任感の涵養という点で関係あるかも知れない。洋式の兵装の導入をしているが、胆力はなく、兵を上手に使えなかったようだ。

 

話がまたそれてしまったが、この「王政復古」は権力者の交代を決定づけた大事業だったと私は感じる。決して博打ではなかったとするむきもあるが、綿密な段取りはしていても最後はドンとやったわけで、私は相当に大胆な大博打だったと思う。ただ、形は派手でも、要は、どの国にもどの時代にもある単なる権力の奪取であって、明治維新の本質はここにはない。

 

西郷隆盛は策略的な裏工作はあまり得意ではないので、強力な仲間ではあったことは確かだが、やはり、土佐の坂本龍馬や後藤象二郎が走り回り、岩倉具視と大久保利通が段取りを進めたのではないだろうか。直前に坂本龍馬を失い、大久保利通にとって大きな痛手だったと思われるが、このクーデターを断行した胆力は彼の持ち味であろう。

«西郷隆盛 その20 王政復古1