2016年11月25日 (金)

夫はペット以下?

なんでも、民進党の党首の蓮舫氏がテレビの娯楽番組で家庭を紹介し、「夫はペット以下」とやったらしい。男性の政治家が「妻はペット以下」とでも言おうものなら、いくらセンスのないつまらぬ冗談であっても、真っ先に青筋立てて怒るのはこの人のような気もする。

 科学技術の予算の仕分けで、政権与党にいたこの人が「2番じゃダメなんですか?」と大真面目な顔で言っていたのを私はよく覚えている。1番を目指して必死になって努力して、結果が2番、3番ならいいほうで、実際は、選外が大半だ。それは仕方ないことだが、先進技術こそが命の日本が最初から負け犬根性で取り組んでどうする、と強く憤慨したものだ。まさか国籍問題は関係あるまいが、野党に、少しは重みがあり味のある人材はいないのかと、大仰に嘆いてみたくなる。その一方、民進党はその議論が「田舎プロレス」「茶番」と揶揄されたことに腹を立て謝罪要求とか大層な抗議をしている。誉められる言葉遣いではないかも知れないが、そこまでするほどのことかと思ってしまう。


政治はさておき、ペットにかこつけて我が家のペット、セキセイインコの話。以前にも触れたように、今のサチで
3代目だが、重さたかだか30グラム程度の小鳥であっても、それぞれに個性がある。

初代の「ハッピー」は、白を基調に少し青が混じった色で、性格は最も穏やかで、指に止まるのが好きだった。ケージからさほど出たがるふうもなかったが、扉を開けるとまずは指に止まってひとしきり。どのインコもケージの外では飼い主の肩がホームポジションで、特に初代は飛び回るよりもここを好んでいたようだ。ケージに戻すには、まずは指に止めて、開けた扉のところに連れていくとポンと戻ってくれた。

2代目の「フク」は逆さまにぶら下がるのが好きで、飛び回って部屋の一番高いところにコウモリのように逆さにぶらさがって止まるのが常だった。指に止まるのはあまり好きではなかったと見える。だから、ケージに戻すのに難渋したが、扉を開けておけば自分から勝手にケージに戻ることを発見してそれで解決した。他の2羽にはできないことなので、青が鮮やかだった2代目はかなり頭がよかったに違いない。そう思って見れば、眼光なかなかに鋭い気がする。

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以前に紹介したことのある3代目の「サチ」はケージの外に出るのをことさらに好み、足音が聴こえると、ピッピッと短く鳴いたり、ピュルルールーと奇麗な声で鳴く。そして、ケージ内をバタバタ動いたあげく直近の柵に張り付いて、“出せ”と催促のパフォーマンス。

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サチはどういうわけか指には全く止まらない。指を出しても、開けたケージの扉のところから直接飛び上がる。まずは私の肩にサンキューフライトをして、その後、部屋の中をアチコチ飛び回ったり、お気に入りのティッシュの箱をつついたりして遊んでいる。3代目はあまり器量のいい容姿とは言えないが、声は一番綺麗だ。

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掴まえようとするとギギッと鳴いて逃げる。指にも止まらず、自分で戻ることもしないので、出したはいいがケージに戻すのがやっかい。幼鳥の頃は簡単に掴まえることができたが、1歳半ともなればそうはいかない。一計を案じて、電気をパッと消して真っ暗にして、動きが止まったところを掴まえるようにしている。写真はあえなく御用となった時のもの。インコには表情筋がないのでその心情はわからないが、おそらく、「ちょっと早いんじゃないでしょうか」と不満に思っているに違いない。

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インコは人間の眼では見えない波長の光が見えるそうだが、トリ目というぐらいで、暗いところは苦手のようだ。もっとも、同じ鳥でも夜行性のフクロウは夜目が利くわけだから、鳥だからと一括りにはできないだろう。観察というほどのことをしているわけではないが、同じ種類の小鳥であっても、それぞれに個性があってなかなか面白い。いい歳をしてセキセイインコと遊んでいるというのはいささか気恥ずかしくはあるが、秋の夜長、それもまた一興にしていると、写真を御笑覧頂けたら幸いである。

なお、今回はコンパクトデジカメでちょこちょこ撮っただけだが、一眼レフの手習いをしているところなので、少し習熟したら今度はいい写真を撮ってみたい。インコは色が多彩なので、絶好の被写体になるだろう。

2016年11月15日 (火)

高齢者による自動車事故

高齢者による自動車事故の報道が絶えず、誰しもが胸を痛める悲惨な事例が相次いでいる。本稿で苦い体験を交えて少し語ってみたい。

 

相次ぐ事故…高齢ドライバーが運転を「卒業」するには

と再アップされていた記事には改めて身につまされる。
Events8827m
http://www.iza.ne.jp/topics/events/events-8827-m.html

 

私自身、当時80歳を超えていた亡父の車の運転を止めさせるのに非常に苦労した。実家の近所の人から、「どうも運転がおぼつかないようで、危ないんじゃないでしょうか」との声があり、帰省の際に「先日、自損事故を起こした」との話も母親から聞いて、「これはいけない」と、止めさせようとした。

 

何度か説得したが全く効をなさない。のらりくらりと自己正当化ばかりして耳をかさない。相当に強く言って、ついに、「わかった」という返事に安堵したのも束の間、次に帰省した時に母親が「まだ乗っている」と。私にイの一番にそれを伝えるということは、母親はとっくに自らスパッと止めていただけに、なんとかしなければと強く思っていたのだろう。当時は仕事が特にストレス多く、ようやく時間を得て遠隔地から帰省してもまた同じ話の繰り返し。暗澹たる思いで職場にトンボ帰りするというのは辛いものがあった。

 

そんなことが何度かあり、あくまで開き直りの頑なな態度についに堪忍袋の緒が切れて、車の鍵を絶対に分からないところに隠すという強硬手段に出た。私が少し暴力的な人間であれば、何らかの暴行に及んだかも知れない。その時はそのぐらいの怒りを覚えていた。そこまでしなければならなかったこと、それなりに愛しんで育ててくれたであろう父親に対して嫌悪感を覚える自分が情けなくもあった。

 

私の場合は、後味が悪かったにせよ未然で済んだ。でもそれは、たまたま幸いだったというだけのことで、危ない時期は間違いなくあった。実際に老親に他人を死傷させる事故を起こされてしまったら悪夢どころの話ではない。被害者も被害者の御家族も、たまたま暴走の場に遭遇したというだけのことで何らの落ち度もないだけに、「どうして止めなかったのか」と、筆舌に尽くせない深い悲しみ、悔しさ、怒りが起こるであろう。つい最近も、認知症が疑われる87歳が起こした事故の巻き添えで児童が亡くなり、83歳の運転する車が暴走して30代の男女2名が死亡したという報道もあった。

 

ベストセラーと言ってもいいほどによく読まれている『加害者家族』(鈴木伸元 幻冬舎新書)によれば、犯罪の中でも、自動車運転過失致死傷等に分類される犯罪は断トツに多いようだ。もちろんそれは高齢者に限らない。私自身もそうだし、車を運転する限り誰にでもその罪を犯す可能性がある。リスクゼロはできない相談であっても、ハイリスクは避けねばならない。高齢者のリスクが高いことは確かだ。認知症は論外としても、生理的現象としての心身の衰えは誰にも起こることを大前提にせねばならない。

 

運転の過誤で他人を死傷させた高齢者は刑事に問われる犯罪者になり、身内はいわゆる「加害者家族」になってしまう。『加害者家族』を読むと戒め以上に恐ろしくなる。法的責任の如何に関わらず、被害者家族から糾弾され、社会からも白眼視され、塗炭の苦しみを味わうことになる。私自身、止めさせることの難しさを身に沁みて知ったので、多くは常識人であろう家族を責める気にはなれない。恐らく家族も心配はしていたに違いないし何とかしようとしていたと思う。でも、起こってから悔やんでも遅い。

 

仮に制約を課すとして、何歳で線を引けばいいのだろうか。実のところ、高齢者の活動度、すなわち、活動への意欲、知的能力、身体能力は個人差が非常に大きい。また、生活の上で必要という場合もあるだろう。活動が制約されてしまえば衰えは進む。全ての能力が同じように低下していくわけでもない。対策の難しさはこういったところにある。

 

免許証返上の一つの目安は75歳のようだが、免許証は身分証明書になるので、運転を止めても更新はしておくという人もいる。なお、更新の際の認知症の検査は、やらないよりはましかも知れないが、あてにはならない。

 

評論家然とした言はおくとして、自分自身が何歳で運転を止めるか、ということは切実な問題だ。ヒヤッとしたことが何度もあり、運転がうまいとは自分でも思っていないので、少し早めにハンドルをおかねばならないだろう。車に乗らなくてもさほど支障のない生活の組み立てを今から想定しておく必要があり、あれこれ思案している。

 

「やめる」と積極的な判断ができる時ならいいが、正常な判断が失われているということが自覚できない状況での判断に委ねてしまうわけにはいかない。何かの時には開封するようにと身内に伝え、毎年更新しているエンディングノートには、自分で決めて身内に公言している年齢になって自ら止めない時は、「車を取り上げるように」と明記しておくつもりである。高齢者の運転というのは、大きな、そして深刻な社会問題だとつくづく思う。

2016年11月 8日 (火)

GW150914

GW150914」は、わかる人にはすぐわかるが、わからない人はいくら考えてもわからないので、タイトルにこういう言葉を使うのは快感だ。思わせぶり、恰好つけ、気取りか、いずれにしてもその程度のこと。

 

いかにも難しそうだか、この言葉自体は実に単純。Gは重力のGravitationalで、Wは波のWave15というのは2015年に発見されたということを示し、0914はそれが914日だったということを表している。アメリカのLIGOという研究施設で2015914日に初めて確認された重力波のことだ。

物理学者というのはしかめっ面をして常人にはとうてい理解できないやたら難しいことばかりやっている印象を誰しもが持つが、プロジェクト名や施設の名前は語呂あわせとしか思えないような茶目っ気を感じさせるものが多い。人物も、ローレンス・クラウスさんはチャラ男風だし、KEKの多田将さんもしかり。案外に面白い人達だ。誰でもが知っている、世界の物理学を一変させたかのアインシュタインからしてこれだから、推して知るべしかも知れない。
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命名は単純でも、その内容は全くもって難解だ。というか、サッパリわからない。ブラックホール同士が合体した際に発生した時空のさざ波である重力波が10億年以上の旅をして地球に届いたのをつかまえたという。下記がその証拠。もともとアインシュタインがその方程式から予測し、間接的な証拠はあったらしいが、変化があまりにも軽微なため直接的につかまえることができたのは今回が初めてで、物理学史上に名を刻む偉大な業績だという。

Ligo

http://www.ligo.org/science/Publication-GW150914/science-summary-japanese.pdf

我々は物を落とせば下に落ちるというのはわかりきったこととして深く考えることはない。が、重力というのは難しい。リンゴが木から落ちるのを見て、ニュートンが地球と月が引力で引き合っているのではないかと着想し、質量を持った物同士は引き合うという万有引力の法則を打ち出したというのは有名な話だ。その法則は近似としては今も正しい。そのニュートンも、はるかに離れた物同士がなぜ引き合うのかについては考察が及ばなかった。それに解を与えたのがアインシュタインで、下記の方程式がそれである。
Juryoku302
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F#mode%3Ddetail%26index%3D3%26st%3D0

 

なんだ、意外に簡単な式だ、と思いそうになるが、記号をまとめて美しくしているだけのことで、これがとんでもなく難解。仮定のおきかたで解がいくつも出てくるらしいし、テンソル微分だの何だのが必要で、一般人はサジを投げた方がいい。要は、質量があればその周囲の時空が曲がるということを示しているようだ。モノが坂を落ちるように、その曲がりが力を及ぼすと。ならリンゴが落ちるのは時空が曲がっているからか、ということになるが、それもまた常人にはわからない。

 

ブラックホールもまたアインシュタイン方程式の産物で、そこでは巨大な質量が無限小の点に収束し、物理学が破たんしているという。こういう点は規定のしようがないので、とりあえず、ここを超えたらもう二度と脱出できないブラックホールですよ、という事象の地平面というのが想定されている。方程式からこれを考え出したのがアインシュタインと同じドイツ系ユダヤ人のカール・シュヴァルツシルトで、第一次世界大戦に従軍した時の傷病で早逝している。では星がどういうふうになったらブラックホールになるのかというのを考察して導いたのがインド人のチャンドラセカールである。その時は不遇であったが、後年にノーベル賞を授与され、今もX線衛星にその名が刻まれている。

 

ブラックホールは難解な代物だ。そこでは物理学が破たんしているというのだから、どんなに優秀な物理学者でも理解できていないということだ。記事を読んでいると、ブラックホールは物質ではないという人もいるし、物体と表現しているものもある。そのあまりにも強い重力で“光さえ抜け出せない”とよく言われているが、光には質量がないのに、どうして重力が関係あるのか、という単純な疑問が生じてしまう。私もこれには随分悩まされた。とりあえず、時間と空間という概念そのものが存在しないか、空間が極端に曲がっているため直進するはずの光が身動きとれなくなる、と暫定的に受け止めておくようにしている。動かない光というか光子は決して認識できない。だから真っ暗だ。ところが、これにもホーキング輻射という素粒子のトンネル効果が現れて出てくるものもあるというからこれまたわけがわからない。ブラックホールの周囲もはなはだややこしい。

 

わからないことをいくら考えても無駄なので、重力波の観察がどうしてそんなに重要なことなのか、ということに触れておきたい。これは比較的簡単で、今までは、主として、電波やX線、可視光や紫外線などの光の仲間で宇宙を観察していくほかなかったのが、それとは全く別な手段、重力の変化を波でとらえてそこから宇宙で起こった現象を観測していく道筋ができたということである。日本にはKAGRAが稼働途中にあり世界が期待を寄せている。光や重力波以外にも、宇宙観測の手段の一つとして日本のお家芸であるニュートリノもある。多様な手段によってそれぞれの弱点を補いあい、格段に多くの宇宙の情報が得られることが期待されるようになったのである。

 

宇宙はとにかく難しい話ばかりだ。重力もまだまだ一筋縄ではいかないらしい。研究者は、宇宙のことが好きではあっても、研究は苦しいと思う。一般人も、理解しようと努力する人は苦しいだろう。でも、私のように、そんなことはサジを投げて、単なる好奇心で“お気楽”に見ている分には、宇宙というのは無茶苦茶楽しい。ちょくちょく書いていきたいと思う。

2016年11月 2日 (水)

「文化の日」にことよせて

113日は「文化の日」とされている。日本国憲法には下記の条文がある。

 

第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 

何をもって「文化的な最低限度の生活」というのかよく分からないところもあるが、とりあえずは、衣食住があり、テレビを見たり新聞を読んだりして社会との接点が持てるということだろう。

 

プロフィールに関心があることとして憲法をあげているので、時に語ってみたい気もするが、無色で論を起こす力量はないので、どうしても政治が関係してきて書きづらい。もっとも、私が調べていたのは明治初期の憲法論で、当時既に女帝の可否などが闊達に論議されるなど、非常に興味深かった。なお、改憲するかどうかはともかく、憲法に関する議論を「護憲」一本槍で思考停止にしてはならないと思っている。思考停止は文化にはそぐわない。

 

一般的に言えば、絵画、音楽、文学、映画、歴史的知識、科学、遺産や建築物の鑑賞などはやはり文化的だ。とはいえ、レオナルド・ダビンチならいざ知らず、すべてにおいて自らこなし、あるいは深い造詣を持つことはほぼ不可能である。文化は、はなはだ分化的で、概念規定も実のところ非常に曖昧だ。その意味で「文化人」という言葉はあまり用いない方がいい。広く規定すれば誰しもが何らかの文化を担っている。

 

今、この一文を下関の唐戸にほど近いホテルで書いている。唐戸はかの金子みすゞゆかりの地でもある。埋め立てがなされて昔時の面影はないようだが、「金子みすゞ詩の小径」や歌碑が記念されている。関門海峡は風光明媚なだけでなく歴史にもよく登場する。ここにいるだけで何となく文化に接したような気になる。

 

ちょっと前にコーラスグループ「フォレスタ」のコンサートに行った。初めての試みとのことだが、音楽番組でよく伴奏をしている「三原綱木とニューブリード」とのジョイントで大いに楽しんだ。ニューブリードのピアニストがフォレスタの歌う曲の編曲を多くしていることが縁だったらしい。ザ・ピーナッツの曲も取り上げて軽快な歌唱を披露していたが、その作曲は宮川泰さんで、この人も幅広い音楽活動をなしている。既に故人となられたが、音楽の楽しさを大衆に広く伝えたという点で文化的な功績が大だと思う。年齢を考えてみればフォレスタのメンバーはやはり故人となった双子のデュオのザ・ピーナッツの現役時代を知らないはずだが、音大出身の彼・彼女達は音符で歌えるので聞いたことがあるかどうかはあまり関係ないかも知れない。三原綱木さんも、バンドリーダーであることを除けば、ブルーコメッツでギタリストをやっていたらしいオジサンという程度の認識だっただろう。熟年には懐かしい「ブルーシャトー」も曲目に取り上げられていた。

 

フォレスタの歌は毎週月曜日午後9時のBS放送で聴くことができるが、ジャンルを問わず楽しそうに、どれも、「これが18番」とでも言うようにフォレスタ流に歌いこなしているのがすごくいい。コーラス文化をおしあげている。いずれオペラ文化をも大衆に近づけてくれるだろう。
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住んでいるところのすぐ近くで、有志によるドキュメンタリーの自主上映がなされるようになって、最近よく足を運ぶ。炭鉱労働者の悲哀、朝鮮人差別、足尾銅山の鉱毒被害のことなど、改めて映像で見て胸が痛む。啓発され、習性としてすぐに関連書籍を買い込む。ドキュメンタリー映像は記憶と啓発の文化だ。

 

最近は書いていないものの、また宇宙の本が増えてしまった。以前から関心を寄せている江戸時代をはじめ、歴史についての書籍もいくつか並行的に読んでいる。がんの化学療法についてもずっと関心を寄せている。そう考えてみれば、私にとって一番縁があるのはやはり活字文化だろう。買うのは安い文庫本が多いが、整理してもまた増えて積み上がり、文化は時々ドサッとなだれを起こす。

 

「よく書くネタが尽きないものですねぇ」と言われるが、うまくまとめられるかどうかはともかく、本を題材にする限りネタが尽きることはない。逆に、文化による刺激がなければ書くことなどできはしない。嗜好は個々人によって異なるだろうけど、文化が個々人を啓発してくれることだけは確かである。

2016年10月26日 (水)

医局 その4 医局の功罪

今に至るまで、医局の対立軸が事実上存在しないため、医局制度を相対化して評価するのは難しい。それだけ日本の勤務医界に深く根付いたシステムだと言える。

 

徳洲会病院などは医局派遣によらない医師の人事を志向しているが、眼科、耳鼻科、皮膚科など、いわゆる“マイナー”と称される診療科ではほとんどの医師が大学医局に所属しているため、医局に依らずに医師の体制を整備するのは不可能に近い。整備が容易でなかったということもあったのだろう、徳洲会は総合病院を標榜していない。かつては「総合病院」と称するためにはこれらの診療科が必須であった。診療科ごとの医師の業務量とストレスはさまざまで、それらを無視して全く同待遇ということにはいささか理不尽さを感じたものだが、差がつけられなかった理由の一つはここにある。病院が下手な動きをすれば引き上げられて診療科の看板を失ってしまうからである。今は総合病院という名称は公式には廃止されたものの、なごりは強く残っている。

 

なお、徳洲会病院は、他の診療科についても、大学から離れて自力でアメリカに臨床留学している日本人医師、退局を考えている医師、何らかの理由で医局関連の市中病院から退職しようとしている医師、などについて情報ネットワークを持ち、さまざまなツテでリクルート担当者や管理職医師がそれらの医師に接触を図っている。それでも十分な整備ができずマイナーだけでなく主力科についても大学医局にお願いすることも少なくないと聞く。市中病院にとってそのぐらい医師のプールたる医局の存在は重い。なお、徳洲会病院については色々言われているが、事実としてここほど離島の医療環境の整備に尽力した組織は他にない。

 

医局制度は、技術者集団としての知識や技術の継承とそのアップデート、学生教育、研究活動、人材プールと市中病院の人材についての相互交流による研鑽と医師の供給、そして各医師の就職と、一つの特異なシステムとして機能してきた。市中病院は複数の大学医局との連携を図ることで医師の供給源を安定的に確保しチームを得ることができたのである。

 

反面、市中病院の人事の主体性を損ねたこと、医局を経由しない市中病院間の人事の流動性を妨げてきたということが医局制度の問題点としてあげられる。各医師も、面倒を見てもらうということの一方で、組織の流れで動き、個人としては思考停止や行動制限に陥りやすい面があった。

 

教授が、大学あるいは大学病院において公的な職責を担いながら、医局というひとつのまとまりの中で、診療、教育、研究を主導していくのは物理的にも内容的にもほとんど不可能だ。それに、かつては論文数などで教授選が争われており、臨床力は二の次であった。こういう状況で各教授がどう采配していったかはまさに千差万別である。医局員はもとより、多くの人の尊敬と信望を得た人もいるし、強権でしか統率できなかった人もいる。巧みに組織を作りあげた人もいる。医局員に離反された人もいる。概して言えば前任教授の路線を継承する傾向がある。だからこそ大きな変革は起こりにくかった。その辺りを語っていけばきりがないのでここでは深入りはしないが、教授の力量いかんによって医局員の育ちが左右されてしまう面があったことは確かで、これは市中病院に人材を供給するというシステムとしては明らかに欠陥であろう。力量がなくトラブルをよく起こす医局員を押し付けられたのでは市中病院はたまらない。

 

これからどうなっていくのかについては私には分からない。しかし、秩序が大きく変わっていくであろうことは確かだ。力のある市中病院は研修医から採用して自前で育成していく傾向にあるし、大学医局は派遣しようにも人材のプールが思うように作れないところもでてきた。

 

マッチング結果というのは、以前にのべたように、あくまで大学病院を含め市中病院の各プログラムと新規卒業生の選択の2年間の初期臨床研修についての内定である。卒業生の過半数は市中病院を希望する傾向にある。後期研修制度というのは各病院で定めるもので公的には存在しないが、一般的には初期臨床研修後概ね3年ぐらいの研鑽を指している。後期は大学に入局する医師も多いが、大学に所属せずそのまま市中病院に留まる医師も増えてきた。したがってマッチングの結果は今後を見ていく上で重要な要素だと言える。

 

試みに、来年度の研修医について見てみよう。これはHPで公開されているので誰でもが見ることができる。なお、「大学病院」と「臨床研修病院」と記載されている理由は、大学病院は自動的に初期臨床研修が実施でき特権的に人数枠が多く、市中病院は申請と審査を経て初めて初期臨床研修が実施できる仕組みになっているからである。

http://www.jrmp.jp/koho/2016/2016all-program-kekka.pdf

 

群馬大学医学部付属病院は募集枠63人に対してマッチ者は16人で、例の事件の影響か、大幅な定員割れだ。弘前大学も46の枠に9と気の毒になるぐらいマッチ者が少なかった。東京大学は127に対して127とフルマッチである。自学出身、すなわち東大卒の割合は27.6%なので、多数は他大学出身者ということになる。東京医科歯科大学は119人の枠に対して119人とフルマッチしている。自学出身者は52.9%と報告されている。京都大学は、81の枠に81とフルマッチで、自学出身者は46.9%である。「白い巨塔」のモデルになったと言われる大阪大学はというと、募集枠61に対して35のマッチで、健闘したとは言い難い。自学出身者は28.6%である。

 

これらをどう解釈するかは人それぞれだろう。アメリカには医局制度はないが初期臨床研修は大学病院の人気が高い。私に関しては、以前に、世間が面白おかしく言うほどには学閥はなく、あえて言えば医局閥だとのべたが、医療界内部での体験に加えて、これらのデータを見てのことである。群馬県の市中病院は群馬大学の医局からの派遣が多いと思われるが、入局者が激減すれば、その派遣が維持できなくなることが懸念される。市中病院はそれでは困るので、自前での育成に励むと同時に、色々な大学の医局に泣きつくことになろうであろう。

 

昨今、「医療崩壊」という言葉がしばしば見られる。崩壊するということは自らが拠って立つ足元が崩壊するということであって、本来、医療界から発すべき言葉ではない。また、何かにつけ「医師不足」という言葉が出てくる。西欧先進諸国と比して医師の絶対数が少ないと唱道している医師もいる。本当だろうか。昨今の、流行のような週刊誌による医療バッシングにもあるように、病気の作り過ぎ、過剰医療、非効率的な医療の面はないのだろうか。そうである限り永遠に“医師不足”だ。妊娠・出産の時期は臨床医として活動しにくい女医さんが増えて見かけ上の医師不足となった面はあるが、かつてないほどに医学部の卒業生は増えており、まだ増えるようだ。贅肉を落としてスリム化すれば医師は早晩に間違いなく過剰となるというのが私の見方だ。

 

どうであれ、病院が医師の人件費を青天井で増やせるはずはないし、社会がいつまでも重い医療負担に耐えられるはずがない。世界に誇り得る日本の公的医療保険制度は今のままでは間違いなく破綻する。そうならないためにも医療界は自浄力を発揮せねばならないし、社会も、安く高質な医療をというインセンティブが働きにくい今の医療制度をもっと理解していくことが必要だ。そもそも、例えばだが、治安が悪くなったからと言って100mおきに交番を設置しパトカーをウンザリするぐらい縦横に常時走らせることなど社会の経済効率からして不可能だ。その時の「足らない」を無節操に普遍化していたのでは社会は間違いなく脆弱に肥大化し破綻してしまう。

 

異論があることも分かっているし、どこまで踏み込んで自分の意見を言っていいのかどうか、あれこれ考えていてついつい手が重くなってしまった。やはり自らが身をおいてきた業界のことは気楽には書けない。こういう内容はほどほどにして、次回は話題を変えてみたい。

2016年10月13日 (木)

医局 その3 教授

講座というか医局の主宰者は主任教授である。大体にして教授は一人だったが、昨今は診療教授や、非常勤職の特任教授や臨床教授と、講座にまつわって教授の名称がしばしば見られるので、責任者という意味で主任教授と称したりする。

 

医学部の教授と言えば、誰もが思い浮かべるのは「白い巨塔」だろう。山崎豊子さん原作でドラマ化され一世を風靡した。私も、原作も読んだし、映像の旧作も新作も観た。医療設定はやや不自然にしても、娯楽作品としては面白い。
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実際はどうかというと、いくらなんでもあれはちょっとおおげさなのではないかと思う。私の知らない昔はいざ知らず、今の医学部の臨床講座の教授で、自らを「白い巨塔」の頂点だと思っている人は、例えいたとしても少数派だろう。ただし、教授選は誰が新しい親分になるかということなので、医局員にとっては重大ではある。選考にあたる教授間の出身大学による駆け引きはドラマに似たようなところはあるかも知れない。とはいえ、最近の傾向としては自学出身にはこだわらないようだし、閥形成もあまりないように思える。

 

一般的な意味においても権力の源泉はひとえにお金と人事権だ。医局の主宰者たる教授はそれを有していると言えば有している。医師のプールからの実務の人事采配は医局長がするとしても、教授の意向は確認せねばならないし、教授から指示が飛ぶ場合もある。しかし、これは組織としては当たり前の話であって、だから「白い巨塔」だという話にはならない。会社であっても、社長、取締役、部長、課長などという秩序が構成されている。こういう序列的な秩序がなければ組織としての体をなさない。

 

医師人事に関しては、市中病院にとって医局から安定してよき派遣を維持してもらえば医師確保が楽だし有り難い。反面、機嫌を損ねて派遣を止められると非常に困ることになる。だから、病院長としては派遣を受けている教授や医局への挨拶回りが欠かせない。医局長も派遣先の病院に時々顔を出して様子を伺う。教授自ら訪れることもある。こういう異なる組織間での人事は医療界特有のものだろう。かつてはお金が動いたこともあるようで、ここに「白い巨塔」のゆえんのひとつがあった。しかし、それで逮捕された教授も逮捕されかかった教授もいる。今はもうないと思うし、双方やろうにもやれないはずだ。ただし、門戸軌道を正しくというか、明朗な形での医局への寄付は今もある。

 

教授の給料はどうかというと、少なくとも国立系の場合は医療職の手当てはつかず単に教育職なので、本給は何等級何号俸とかいうので規定される他の学部の教官と変わりはない。安月給というほどではないかも知れないが、リッチにはなれない。

 

講演や、市中病院に赴いての外来診療、手術などの副業がどのくらいあるか、多分、教授それぞれで異なっていると思う。技量や知名度にもよるだろう。こういった副業には学長や病院長の許諾が必要で、ある程度は認められているが、富を築くというほどのことはできない。学会出張などで何かと嵩張る出費をなんとかカバーする程度であろう。

 

市中病院や製薬会社、医療機器系の会社から寄付を受けることはあるが、学会開催という特定の目的か、国立系の場合は委任経理金として一旦国庫に納めて浄化し、そこからの支出も研究費などの正当な理由が必要とされるはずだ。公立系や私立系でもほぼ同じだと思う。業界も自主規制をおいている。

 

国から支給される研究費は、詳細な使途明細と領収書、研究報告書が必要である。個人使用になりかねないパソコンなどはダメだったと記憶している。政治家は白紙の領収書でも政務費の支出が許されてきたそうだが、公的なお金を相手にああいうのは医療界では考えられない。ただ単に、もう少し柔軟に遣いたいという思いであっても、流用や裏金作りをやれば刑事事件になってしまう。

 

新薬などの治験や副作用調査は、教授が受けてくれ、申請が通れば大学病院で実施でき、必要な場合は関連の市中病院などにも声かけしてくれるので製薬会社からの依頼は多い。医療界として必要なことでもある。ここでは間違いなくお金が動く。ただ、これもあくまでおおもとの組織に入ってそこから許諾範囲で使えるだけだ。かつてはこれを研究費に遣っていたが、今は、利益相反と言って、研究発表の際には特定の企業から支援を受けての研究ではないということを明示しなければ、あるいは支援を受けた場合はそのことを明言して審査を受けてからでないと、学会発表も論文報告もできないようになっている。

 

昔は過剰な接待もあったし、杜撰な面があったことは確かだが、昨今は何かと厳しく制約もある。税務署の査察に入られた医局も少なくないはずだ。教授は、やりがいもあるだろうし、自己研鑽という意味でも大きな励みになる職位だし、知名度の向上、研究、名誉、多くの医局員を従える権勢、そういったものに価値を覚える人にとっては貴重な地位だろうと思う。しかし、こと個人のお金という点においては、おそらく「白い巨塔」は遠い過去の話だ。

 

多分に不文律ではあるが、教授になれば、医局員の面倒を見なければならない。俗に3点セットと呼んでいる、専門医取得、留学経験、学位(博士号)だ。学生教育も医局員教育も担わねばならないし、研究費も捻出して研究においても臨床においても実績をあげなければならない。外国人医師や研究者を招へいする人脈作りも欠かせない。それに、医局員それぞれに相応しいポストのあてがいが面倒見の仕上げだ。これらは相当に大変な業務だ。医局員が皆、技量抜群・人格円満というわけではないし、関連病院も新臨床研修制度によって自前で育成する医師が少しずつ増えてきて、教授の言うことには全て従う、という時代でもなくなったので、さぞ頭が痛いことだろうと思う。昨今は教授を自ら辞める人も出るようになっているし、教授になる機会をあえて袖にする中堅医師も少なくない。

 

私は教授になったことはなく、同窓会費も医局費も滞納して久しいので、偉そうなことは書けない。それでも、内部から見たら大体こんな感じ、という程度には説明できたのではないかと思う。次回は医局についてまとめ的に書いてみたい。

2016年10月 5日 (水)

医局 その2 医師のプール

前回の稿で医局は医師のプールだと表現した。医局によって規模が異なるが、大体にして医局にいる人数は、主任教授1名、准教授1名、講師1名ないし2名、助教310名ぐらいだろう。診療教授というポストが割り当てられることもある。ここまでが医学部ないし大学病院の正式の常勤職員だ。医局長は大学の正式な職位としてあるわけではなく、講師クラスが務めることが多い。その下は医員と呼ばれるいわば日雇いの非常勤職員だ。大学院生とあわせて10人か20人程度だと思う。これはあくまで大学本体でということで、市中病院に派遣されている医師などを合わせると、大きなところではOBなどを除いて人事の対象となる医局員の総数は軽く100人を超える。医局員になることを入局と呼び、勤務医の半数以上はどこかの医局に所属している。札付きはさすがにはねられるが、入局に審査があるわけではなく、雰囲気としては運動部の勧誘合戦みたいなものだ。

 

研修医は新臨床研修制度によって医局に所属することができなくなった。旧来は卒後すぐに特定の診療科の医局に所属することが多かったが、それでは早くから専門に偏り過ぎるということで、新臨床研修制度として大学病院か市中病院のプログラムで複数の診療科で2年間の臨床研修が事実上義務付けられた。結果、卒業生の半数近くが市中病院を選び、研修後に入局する医師もいるが、入局しない医師も増え、制度発足時に2年間の空白ができたこともあって、大学医局の医師のプールが減少することになってしまった。ここに大学医局が新臨床研修制度を目の仇にするゆえんがある。

 

なお、どのプログラムに行くかは医学部6年生と病院がコンピューターでお見合いをするマッチングという方式で決められる。「東大強し」とか、「人気第一位は聖路加」というような報道がなされるが、記者がどのぐらい分かって書いているのか疑問に感じることもある。ちなみに、今年のマッチングの中間公表を見る限りでは、群馬大学は気の毒なぐらい希望者が少ない。

 

ともあれ、この、より正式には講座だが、教室というか、医局と呼ばれるそれぞれの集団で、臨床業務、すなわち診療、学生教育、研究などにあたるわけだ。このプールの中から、准教授や講師クラスだと市中病院の副院長や部長ポストで就職する。助教や医員は概してローテーションの派遣として市中病院の関連診療科に往復切符で赴くシステムとなっている。市中病院から准教授や講師として大学に戻ることもある。医局に所属するということは、こういった形で人事の采配を受け、研鑽と働き場所の面倒を見てもらうということだ。ただし、医局自体はあくまで任意団体で法的な位置づけはない。派遣を業務として行うわけではなく、タテマエとしては教授か医局長かが相手の病院との相談で話をまとめなければならない。医局から離れて就職先を自分で探す場合もある。これを退局と呼んでいる。開業の場合はOB扱いで同門会員として関係が続く。病気になった時は代診医の派遣など出身医局のサポートは非常に有り難いと聞く。

 

古く伝統のある大学ほど有力な市中病院を関連病院として有している傾向があるが、古かろうが新しかろうが、卒業生の数は同じで、プールを多くするためには出身大学を問わず多く入局してもらう必要がある。市中病院にとっては出身大学がどこであれ“いい医師”を多く有することが死命線なので、世間が面白おかしく言うほどの学閥はない。その意味では医局閥だろう。例えば、同じ大学であっても第一外科と第二外科では派遣先の病院が異なっている。複数の大学から派遣を受けている病院の場合は在籍する医師の出身大学も出身医局も診療科ごとにバラバラになるわけだ。バラバラだと医師相互の仲が悪いかというと、それはない。同じ大学の場合は卒業年度で先輩後輩の序列ができてしまう面もあるのでかえってやりにくいということもある。

 

医局にとってはこのような形で医局員の診療能力を涵養し、市中病院にとっては医師の供給源になることになり、いわば持ちつ持たれつの関係が構築されている。上記のように、派遣する医師のプールが減少して、いわゆる医局員の“引き揚げ”といった事態も起こった。大学病院の機能を維持しなければならないからだ。新臨床研修制度は、力のある市中病院にとって医師を自前で養成するチャンスが巡ってきたとも言える。医局にとっては既得権としての派遣先を失ってしまうリスクが生じたことになる。ただ、現実としては長く続いた慣行である医局支配がまだまだ強い。医師の就職斡旋会社も最近多くなってきたが、病院が払う手数料がとんでもなく高額で、これはこれで首を傾げたくなる。

 

ここで書いているのはあくまで概略の一般論で、それぞれの大学や病院によってしきたりが異なる点はあると思う。省略した点もあるが、大筋としては大体このようになっている。続く。

2016年9月28日 (水)

医局 その1

一般向けの記事に「医局」という言葉がしばしば使われている。こんなのが普通に分かるのかなぁ....記者だって実感はないだろうにと、いつも不思議に思いながら見ていた。以前に医局について稿を改めて書くとしていたし、本来は業界内部の者が説明しなければならない。そこで、医師によって見解が異なる面はあるかも知れないという点を前置きして、何回かに分けて私なりの解説をしておきたい。

 

まず、「医局」は、二つの意味で用いられている。

 

ひとつは市中病院の「医局」だ。市中病院というのは大学病院ではないという意味だ。これは単純にその病院の医師が集う場所、あるいは医師集団を指す。地域によって特定の大学に偏る傾向はあっても、市中病院では出身大学などは概してバラバラだ。

 

学会のポスターがペタペタ貼られ、医師それぞれの机が並び、談話室があるというのはどこの病院の医局にも共通している。診療科ごとに部屋が割り当てられることもあるが、最近の傾向としては相互のコミュニケーションのためにも総合医局として場をおく方が多い。
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単なる世話役の医局長もいて医局会も開催される。薬剤部や検査部、放射線部などから伝達も行われるが、最近は院内LANが発達しているので、詳細はそれらで行い、注意点だけに止めている。医療安全管理室や感染管理室から強い警告があることもある。非常に重要なことは別途多職種の役職者で会議が開催されるので、医局会の議論としては、ストックする茶菓子やコーヒー、カップラーメン代などをいくらずつ徴収するかというたわいもない話の方が多い。

 

院長はこの集団に対して強い指揮権というか権限があると一般には思われるかも知れないが、必ずしもそうではない。医師が一同に会した時に話をする機会は多くないため、「私からのお願い」と低姿勢で参加することがしばしばだ。もちろん、誰も逆らえないカリスマの猛者院長もいるにはいるが、雇われ院長が多い大きな病院では少数派だろう。なお、大学病院は医師の総数が多すぎて最低限のまとまりすらもなく、この意味での医局は存在しない。

 

医局のもう一つの意味は、「大学医局」だ。医局と言えば普通はこちらを指す。○○大学第一内科とか第二外科、眼科、泌尿器科とか、最近は一とか二とかは使われない傾向にあるが、典型的にはこういった名前だ。一時は生体制御なんたらかんたらとやたらややこしい名前がつけられて、わけがわからなかったが、最近では消化器内科とか、肝胆膵外科とか、分かりやすいシンプルな名前に回帰したようだ。

 

教授を頂点としたそのそれぞれを医局と呼ぶ。第1内科、第2内科あるいは第1外科、第2外科、脳神経外科、耳鼻咽喉科など、名前の数だけ医局がある。教室や研究室と称することもある。この辺りの話がややこしいのは、医学部は文部省管轄で、付属病院は厚生労働省管轄と、異なっているせいもある。管轄それぞれに定員があるが、主任教授を含め、准教授などの役職者は兼任が多く、医局としては同じと考えてよい。医局と呼ぼうがどうしようが、秩序のあるまとまりがなければ組織としての体をなさないので、こういう形はいいとか悪いとかの問題ではない。この医局が勤務医のプールの役割を果たす。医局長は手配師のような役割を担うわけだ。権限があると言えばあるが、派遣している医師への病院からのクレームを受け、対処も考えなければならないので、あまり楽な立場でもないだろう。元医局長をしていた知己の医師は“疲れ果てた”とこぼしていた。役得もないままに、内外から文句ばかりを受けるはめになりがちだ。

 

大きな病院の勤務医はこの医局からの派遣、あるいは医局の出身者が多い。だから帰属意識は大学医局にあり、病院へのそれが希薄な傾向がある。院長があまり強く出れないのは、医師のバックに医局があるからだ。ここと揉め事を起こして引き揚げという憂き目に遭うわけにはいかない。医師は労働組合には入れないが、医局が無言の圧力で派遣している医師の身分を守っているという面はある。

 

県立や市立などの公立病院に勤めていても、公務員である、という意識などまずない。若い時はいつ医局の采配で移動の指示が来るかわからない。その医局がどういう病院を関連病院として擁しているかによって異なるが、公立病院から、公的と呼ばれる済生会や日本赤十字社の病院などに移ることもあるし、民間病院に移籍することもある。私自身に関しては、それらのどれにも勤務したことがあり、国家公務員だったこともある。その時は何も思わなかったし、もう履歴書を提出するようなこともないだろうが、今にして思えば奇妙な職歴ではある。

 

母体の組織が異なるわけだから、一般的にはこういう移動は退職と新規入職で、形の上ではそうなのだが、医局所属の医師の意識としては“人事移動”である。医局所属でなくても、医師の意識としては単に“移動”である。患者さんから、医師がコロコロ変わると不興を買ったり、首を傾げられたりするゆえんはここにある。それを良しと見るか悪しきと見るか、人それぞれだろうけど、事実としてこのような慣習があったし今もある。これに一石を投じたのが新臨床研修制度で、今、病院の医師人事は旧来の秩序との間で揺れ動いている。この稿続く。

2016年9月19日 (月)

1時間で52㎜の雨

猛暑のカンカン照りが長く続いたと思ったら、今度は台風や秋雨前線とかで、ウンザリするぐらいの雨だ。天気予報やニュースで、1時間あたりの雨量が120㎜とか150㎜とか報道されている。
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http://portal.nifty.com/kiji/160919197451_1.htm

 

恥ずかしながら、秋雨前線真っ只中で定例会のゴルフに興じた。途中でもの凄い雨が降ってきて、あっという間にコースは水浸し。遠くに雷鳴が轟く。これでは“興じた”ではなく“恐じた”ではないかと自虐。私も含め、いつものヘボ仲間は命を賭けてまでやるようなスコアではないが、雷による中断があっても、不思議なことに誰も止めようと言い出さない。棄権が多く見られたものの、我が仲間はヨタヨタと、ともかく回り終えた。帰宅して、“濡れたでしょう”と言われたが、そりゃあの雨では濡れるに決まっている。

 

私がいたところのこの日の1時間あたりの最大雨量は52mmと報道されていた。水はけがいいように造ってあるグリーンには川のように雨水が流れ、パットをしてもビチャビチャっとなって球が転がらない。この場合は水が溜まっていないところに球を動かしてもいいという救済ルールはあるが、そういう場所が見つからないぐらいになっていた。52㎜でそんな状態になるのだから、150㎜というのはちょっと想像がつかない。ゴルフごときはどうでもいいことだが、この“想像がつかない”というのが危ないのだろう。避難が遅れたり、普段はどうということはない小川の急流に足を取られたりするのもここに起因しているのかも知れない。

 

災害による被害は実のところ風水害が最も多い。台風や豪雨による川の氾濫は起こる頻度が高いため、総計では莫大な被害をもたらす。日本は台風の通り道に位置しているので、その襲来を避けようがない。速度がやたら遅かったり、迷走したり出戻りをする台風もあるにはあるが、普通には、やはり南からきて九州や四国近くでスライスがかかって本島に被害をもたらす。1959年の伊勢湾台風では5000人以上の犠牲者が出ているが、この時は高潮による被害が大きかったらしい。

 

今は気象予報が発達したため、警報も早くから出されるが、それでも被害が絶えない。台風銀座の沖縄はどうかといえば、気象予報のなかった昔から、人々は台風の襲来を風で予知していたようだ。「こういう風の時は台風が来るんですよ」と教えてもらったことがある。家屋も風に強くできている。台風の時は学校は休校となり職場も休みになることが多いようだ。言い伝えられてきた長い経験による知恵なのだろう。大きな河川がないこともあって、台風の頻度のわりには人的被害は比較的少ない。

 

江戸時代にももちろん風水害が多く起こっており、利水という意味でも「治水」は藩行政において極めて重要なことだった。この時代に、用水土木技術は日本を変えてしまうぐらいの発達を遂げたという。その辺りはまた稿を改めて記してみたい。ともあれ、予報を軽視しての自業自得と笑い話で済んだからまだよかったものの、豪雨の一端を思い知った一日であった。

2016年9月14日 (水)

妙義山

軽井沢に行ったのは学生時代に同級生と長距離ドライブ旅行をした時だから、今からもう40年以上も前になる。ちょっとは雰囲気を味わおうと駅前にあったコーヒーショップに入ったのはいいが、10万円の値札に「これがいわゆる“軽井沢”なのか」と、3人で顔を見合わせて蒼くなったのを思い出す。それはあくまで高級カップを持ち帰るのであれば、という話題作りで、実際は普通より少し高いぐらいであった。

 

今回、つかぬ間のハイソというかセレブ気分で、軽井沢に行く機会があった。びっくりするようなホテル料金で、セレブは高くつく。もっとも、高いとか安いとか、そういうのが意識にないのが本当のハイソというかセレブというものだろう。今の軽井沢は私のような“おのぼりさん”相手の商売かどうか、ショッピングモールだらけだ。

 

車に同乗させてもらった軽井沢への道中で、妙義山という凄い岩肌の山を見ることができた。数百万年前の溶岩台地が侵食を受けて、標高1100mぐらいの鋭く切り立った岩峰を形成したという。全体を妙義山と称し、峰の一つ一つには別の名前がついている。群馬県の富岡市からすぐ近くにあり、東京からもさほど遠くないところにこんな山があるというのは驚きであった。
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被写体としても優れた山のようで、カメラ見習いでたまたま職場の同僚から借りた全日本山岳写真協会の山岳写真集『山稜』の2016年版に、南東側から妙義山の朝焼けを撮った作品が掲載されていた。アップするにあたって画像のサイズを落としており、色の鮮やかさは原版を参照してもらうほかないことを断った上で、ここに紹介しておく。
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標高こそ高くないが、こういう山は遭難が多いのではないかと思ってあれこれ見てみると、やはり非常に多くて問題になったようだ。切り立った岩壁や鋸歯状になった稜線は素人では全く歯が立たず、上級者でも結構難しいのではないかと思える。南東側は神社などもあり比較的開けているので一般人でも登れるそうだが、それでも鎖場が多く、また、上級者以外は決して近づけない場所もあるとのことだ。それはそうだろう。まさにミニ剱岳だ。

 

なぜ買ったのか自分でもわからなくなってしまったが、書棚にあった『霊山と日本人』(宮家準 講談社学術文庫)を参照してみると、縄文時代の天神原遺跡は妙義山の「春分の日」の日の入りを意識したものだと記されている。また、行場も多くあり、種々の現世利益に応じる霊山としてあがめられてきたという。山岳信仰は日本だけでなく世界に広く見られており、身近にありながらも近寄り難い雰囲気を醸し出している妙義山も、いにしえから人々の信仰の山だったのだろう。

 

私にはとりたてて旅を楽しむという趣向はない。しかし、ただ単に知らなかったというだけのことであっても、自分にとって思いがけない風景を目にするのは、新鮮な驚きを覚えるし、磐梯山や蔵王がそうだったように、その光景と心象を思い浮かべながら、後になってあれこれ調べてみるというのもなかなか楽しいものだ。

 

広島から青森まで本島を車で縦断した旅ははるか遠い昔の思い出になってしまった。一緒に行った一人は既に故人となった今、なんとか余力のあるうちに、もう一回、戸塚洋二さんゆかりの神岡には必ず立ち寄るとして、今度は九州から北海道の端まで愛車でゆったりと走ってみたいと思う今日この頃である。

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