2017年10月10日 (火)

感銘深いスピーチ

ネットのニュースは手軽に何が起こっているのかを知るのに便利だが、ここ最近は、大仰な見出しに乏しい内容、広告や有料購読への誘導などなど、いささかウンザリしてきた。TouTubeは面白いし便利だけど、サーフィンをしていたらきりがない。下手をすると知らぬうちに怪しいサイトに誘導されることもあるらしい。ネットはありがたいには違いないけど、何ごともほどほどにせねばならないのだろう。

 

だが、つい最近、ネットニュースと動画の組み合わせで素晴らしい記事を見ることができた。情報源を新聞と書物だけに依っていたのでは、少なくとも、こんなに早く、また、こんなに強烈な印象を持つようなことはまずなかった。

 

それは、「米コロラド州にある空軍士官学校予備校の学生寮で、黒人学生を侮蔑する人種差別的な罵倒が、学生の部屋のドアについた伝言板に書かれた問題を受け、士官学校校長のジェイ・シルベリア中将は928日、士官学校の全校生徒と教職員を集めて、このような振る舞いはまったく受け入れられないと強い調子で話した。」という報道である。イギリスのBBCが報道したことから広がったらしい。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171002-10002126-bbcv-int

 

彼は差別を厳しく糾弾した上で、「多様性の力があればこそ、我々はその分だけ強くなる」として、「もし誰かの尊厳を尊重し、敬意とともに接することができないなら、(この学校から)出ていきなさい」とのべている。「たとえどんな形でも人を侮辱するような者は、出ていきなさい」「人種が違う、あるいは、肌の色が違う相手を、尊重し敬意をもって接することができないなら、出ていきなさい」と強い口調で語り、そして「我々がみんな一丸となって、道義的な勇気を持てるように」と呼びかけた。
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私の貧弱な英語力では部分的にしか原語としてはとれないが、彼の厳しい表情と字幕からその気迫は十分に伝わってくる。素晴らしいスピーチだと率直に称賛したい。特に意識したわけではないと思うが、「need to get out」と韻を踏んでいる。

 

アメリカの人種差別の歴史は長い。日系人も差別に苦しんできた。原子爆弾という人体実験にも近い日本人大量殺戮をしたのもアメリカである。黒人に対する差別が法の上で解消されたのは1960年代になってからのことだ。今もなお人種差別は根強くある。しかし、シルベリア中将の力強い真摯な言葉に、アメリカの良心を垣間見たような気がする。教材にしてもいいのではないか、そんなことも感じた名スピーチであった。

2017年10月 3日 (火)

死の彷徨

彷徨(ほうこう)というのは難しい字だが、「(迷って)さまよい歩くさま」を簡潔かつ的確に表現した言葉だとも言える。これに死がついて「死の彷徨」となれば、恐怖をともなった切迫感を字面が醸し出す。

 

まさにこの通りのことが明治351月、青森県の八甲田山麓で起こっている。いわゆる八甲田山雪中行軍遭難事件である。当時の軍のこととて、秘されたところもあったようだが、訓練で210人中199人が死亡という事実は隠しようもなく、世間に知られることとなった。

 

生存者も、自力で麓の田茂木野の村落まで辿りついた者はおらず、多くは凍死寸前の状態で救助されている。特に、雪中で凍てつき屹立したまま仮死状態で救出された後藤房之介伍長はこの遭難事件のシンボルになり、銅像が建立されている。私が訪れた時は人の気配もなく、周りに霧が立ち込め、なんだか鬼気迫るものがあった。後藤伍長が発見されたのはこの場所から少し青森寄りである。
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この事件を題材にとった小説が『八甲田山死の彷徨』(新田次郎 新潮文庫)で、『八甲田山』として映画化もされた。こちらはフィクションではあるが、脚色や誇張はあるにせよ、ほぼ実際に起こったことを描き出しているようだ。気象の専門家でもある新田次郎さんは詳細な取材に基づいて書いているし、映画も八甲田山で過酷な長期ロケを敢行しただけに、どちらも凄い迫力で迫ってくる。

 

いくら明治時代とはいえ、どうしてこのような行軍を試みたかだが、当時、日本とロシアの間には不穏な空気が漂っていて、ロシアの侵攻により海岸沿いの鉄道が攻撃を受けた際に、青森と八戸が分断されないための補給路の確認が必要と考えられたようだ。その補給路は、青森から今の十和田市に抜ける八甲田山麓の峠越えである。また、ロシアと戦争状態になった際に、寒冷地での戦闘を想定した装備を検討しておく必要性もあったようだ。

 

訓練は弘前の第31連隊が少数で弘前から十和田湖をぐるっと回って三本木(今の十和田市)から八甲田山麓の峠越えで11日かけて青森に抜ける行程を取っている。青森の第5連隊は規模を大きくして、青森から1日か2日で八甲田山麓の田代温泉に行く距離としては10㎞足らずの行程である。ほぼ同時期に行われたにも関わらず、第31連隊は全員が生還、第5連隊はほぼ全滅である。
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八甲田山は8つの峰からなる山系で、その山麓においても、雪に加えて津軽海峡からの猛烈な強風が吹き付け、今の時代においても厳冬期の踏破は容易ならざることだと聞く。遭難事件の時は特に寒気が厳しく、数mの積雪があり、零下17度以下、強風により体感温度はさらに下回っていたという。今でこそ舗装された道路があるが、昔はこのような灌木の間に細い道があるだけだったのだろう。実感はとうていできないものの、この雪中行軍の道に迷っての彷徨がまさに“白い地獄”であったことは想像に難くない。
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この雪中行軍遭難事件に関しては、銅像近くにある銅像茶屋と、田茂木野というか幸畑にさらに本格的な資料館がある。悲惨な事件に思いを馳せるとともに、これらを訪れてみてふと感じたことは、これほど多くの犠牲を出しながら、知る限り幹部が誰も罰せられていない、ということだ。命令をする人が責任を取らない、すなわち、日本は、上からしか力が働かない二等辺暴力三角形で作られていると、とある思想家が評していたが、今に至るまでその構造は本質的に変わっていないような気がする。そんなことも感じた八甲田行であった。

2017年9月21日 (木)

旅と文学

作家の浅田次郎さんがJAL機内誌で綴っているエッセー『つばさよつばさ』は毎回楽しく読んでいる。氏は温泉とギャンブルが好きで、小説のための取材もあって、旅ネタが多い。浅田次郎さんに限らず、作家は旅が好きなようだ。旅をしながら題材を得たり構想を練るのかも知れないし、締め切りだとか次回作だとか、あるいは時には私事の、煩わしさからしばし離れて癒しの場としての旅が必要なのかも知れない。

 

『城の崎にて』は事故による傷の湯治でこの地に滞在した志賀直哉による古典的名作だと言われている。城崎温泉は知る人ぞ知る古くからの名湯のようだが、一般にはこの小説で一躍有名になった。私も一度くらいと、訪れてみた。ただ、私には温泉に対する造詣はなく、なかなかにおしゃれな駅と情緒ある街並みを見るにとどめ、資料館が好きなので、城崎文芸館に立ち寄る。ここで『城の崎にて』が収載されている『小僧の神様』(岩波文庫)を買った。短編集なのですぐに読める。

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城崎温泉には、志賀直哉はもとより、島崎藤村や武者小路実篤、司馬遼太郎など、多くの文人が訪れている。文芸館には「命短し恋せよ少女(おとめ)」とした「ゴンドラの唄」の作詞者である吉井勇の展示もあり、下記の彼の歌が紹介されていた。失意の中で城崎温泉に滞在したらしい。

曼荼羅湯の

名さえかしこしありがたき

仏の慈悲に浴むとおもえば

 

場所はかわるが、愛知県の渥美半島の先端にある伊良湖岬からフェリーで鳥羽に渡った際に、何だか妙に気になる島があった。どうみても小さい島なのだけれども、山の中腹にぽつんと灯台が佇み、海沿いの坂になった狭い地域に人家が密集している。住民のかたには大変失礼な言い方だが、「よくもこんな小さい島に住めるものだ」と感心しながら見ていると、島の裏半分には人家はなく、緑なす小高い丘と岩壁、小さくごつごつした細い岬があるのがわかった。
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この島は神島といい、周囲は3.9㎞で、住民は主として漁業を生業としている。愛知県の伊良湖岬の方がはるかに近いが、所属は鳥羽市となっている。小島だけれども、由緒ある神社もあり、伊良湖岬との間の伊良湖水道は伊勢湾の要衝でもある。軍事訓練に用いた監的哨もおかれていたようだ。

 

恥ずかしながら私は知らなかったのだが、実のところ、この島は三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった島である。いにしえには歌島とも称されていたらしく、小説では歌島となっている。デキ王子と呼ばれる場所もあるそうなので、熊野古道に多くある王子とも繋がっているのかも知れない。

 

三島由紀夫の『金閣寺』や『仮面の告白』などは若い時分に読んだことがあるが、『潮騒』は読んでいなかった。この小説は、今はもう死語となった感のある「純愛小説」で、柔らかい筆致での情景描写がふんだんになされている名作だと思った。三島由紀夫は、ギリシャの古典に着想を得て、俗気のないこの神島に滞在して作品を書いたという。『潮騒』は純愛小説なのだけれども、どこか官能的な匂いをも漂わせている、それは多分に、主人公である健康でみずみずしい肌を持った若い男女の禁欲的な情愛が逆にそれを醸し出しているのかも知れない、とまあ、柄にもない評論家的な言はこれでおいておく。

 

小説の中の一節に、心中した者に対して、「自分のことしか考えない勝手なやつらだ」と主人公の新治が思い巡らせる箇所がある。この小説を三島が書きおろしたのは1954年で、自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乱入し、バルコニーから派手な激演説を試みたあげくに割腹と斬首という形で自死したのは1970年である。当時高校3年生だった私にとっても衝撃的な事件であった。盾の会を結成したいわば右翼人三島由紀夫とこの優しく清々しい『潮騒』を結びつけるのは容易ではない。

 

ともあれ、小説の舞台となった場所を訪れる、あるいは思い起こす、というのはやはり何がしかの感慨を覚える。実は、小説を読んでどうしても訪れてみたいところがあった。それは八甲田山である。峠越えの雪中行軍で199人が遭難死するという他にほとんど例のない悲惨な事故をもとに、新田次郎が『八甲田山死の彷徨』を書いており、高倉健や三國連太郎、北大路欣也らが主演する『八甲田山』として映画化もされている。いったいどんなところなのだろう、と思いつつ、ようやくにして機会を得た。以下、次稿に。

2017年9月12日 (火)

下北半島と舞鶴

本州の最北端である下北半島と、日本海に面する若狭湾につながる舞鶴、この遠く離れた二つの地点を結びつけて考えるというのは“牽強付会”に過ぎるかも知れない。だから、以下はあくまで私感による “双六”である。

 

やはりまずあげられるのは映画『飢餓海峡』だろう。北海道で放火殺人を犯した犯人と関わり、仲間割れから彼らを殺害した疑いの男(三國連太郎)が小舟で下北半島の先端の大間近くにある仏ヶ浦に渡り、そこから恐山を経て大湊へと向かい、釜臥山のふもとの娼婦と縁を持つ。最近にここを訪れた者としては、この移動は現実には不可能だと思うが、下北半島を暗く描き出し貧困の蔓延を背景にした、殺人犯を追う刑事(伴淳三郎)との人間ドラマだ。役者の予備知識なしにこの映画を若い人が観れば、伴淳三郎がコメディアンだったとは想像もできまい。
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消息を絶った殺人犯が、篤志家の会社経営者として現れるのが舞鶴で、会いたい一心で舞鶴に訪ねてきたかつての娼婦を殺害した事件を追う東舞鶴署の刑事が若き日の高倉健である。

 

この映画で出てくる鉄道は、大畑線と呼ばれ、かつて大湊から大畑まで走っていた。1930年代に人手不足からこの鉄道建設に多くの朝鮮半島出身者が駆り出されている。日本の敗戦により、彼らの帰還のため、3000人以上とも言われる朝鮮人労働者を乗船させて浮島丸が大湊を出港し、釜山に向かおうとしている。ところが、GHQによって舞鶴への寄港を指示され、その際に、戦争中アメリカ軍が舞鶴湾内に施設した機雷に触れて沈没し、500人以上の死亡者が出ている。戦争が終わった後も多くの悲劇が起こっているが、この浮島丸事件もそのひとつである。

 

良港であることから、大湊と舞鶴には共に海上自衛隊の基地がおかれている。大湊には艦船用の専用ドックがあり、また、定期的に掃海艇が集められ、陸奥湾で機雷などの掃海訓練を行うらしい。舞鶴はイージス艦の基地がある。余談ながら、レーダーを多く装備したハイテクの塊のような米軍のイージス艦が衝突事故で船体が大きく破損し死傷者を出していることに不思議に感じた人も多いだろう。これは、高速にするために装甲を薄くして船体を軽くしているからで、上空の索敵や攻撃にはやたら強くても、水平面や水中の潜水艦などの索敵には弱い。船同士の衝突も想定しておらず見張りでやるしかない。だから、イージス艦は多くの場合艦列を組み対潜哨戒機とセットになって運用がなされている。

 

さて、若手医師の教育に熱心な病院は多くあるが、私が特に敬意を抱いているのがかつての舞鶴市民病院である。内科系疾患は全て診る、すなわち、総合診療を実践し、“大リーガー医”と称してアメリカの教育実績のある医師に指導に携わってもらうというアイデアなどで、日本の若手医師教育のメッカであった。全国から意のある若者が門を叩き、ここで学んだ。行政のお粗末な対応もあって、それを推進していた医師が病院を去った途端に全ては潰えてしまった。

 

下北半島はというと、むつ総合病院が臨床研修制度で気を吐いている。舞鶴以上に、どう考えても地理的に有利な場所ではないのに、毎年、研修医が多く集まっている。医師が集まらないことを地理的な理由に帰して怠慢をかこっている病院は、この病院を見習うべきであろう。私が見るところ、これはひとえに先代の院長の医学教育への情熱の賜物である。是非にこれからもその魂を引き継いでいって欲しい。
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地理的に不利だったからこそ舞鶴と下北半島にこのような優れた指導者が生まれたのかも知れない。今回は地理的な点を話題として取り上げたが、歴史においても、糸をタテに結びヨコに結びつけてみることで、驚くほど多角的に、また立体的に見えてくるような気がしている。その中には偶然もあるだろうし必然もある。まさか坂本龍馬の暗殺者の話を大間で聞くとは思いもよらなかったが、これは会津藩という糸から出てくる。

 

今さら試験を受けるわけではないし、論文を書くわけでもない。そういう学びと楽しみは素人の特権で、ブログで皆さまと分かちあいつつ大いに享受していきたい。

2017年8月30日 (水)

幸せの黄色いハンカチ

「幸せの黄色いハンカチ」は「男はつらいよ」の山田洋次監督で、御存知、高倉健と倍賞千恵子、武田鉄矢と桃井かおりというなかなか面白い組み合わせで作られた映画だ。暗い影を背負う高倉健に純真な倍賞千恵子、武田鉄矢のコミカルな役どころ、ちょっとすねた桃井かおり、彼、彼女達が折りなすドラマは感動的なラストシーンとあいまってまことに印象的で、高い評価を受けている。渥美清がちょい役で出演しているのも面白い。

 

この舞台となったのが夕張で、ただ単純に「どういうところなのだろう」と、財政破綻の代名詞のようになったこの街を走ってみた。ふと、「幸せの黄色いハンカチ」の案内を見て行き過ぎた車をUターンさせて、「想い出ひろば」と名付けられたその場所を訪れてみた。私の好奇心などはだいたいがつまらぬものだが、これはなかなかいい好奇心だった。

 

「想い出ひろば」にはロケに使われた長屋がそのまま保存してあり、外には映画のシーンそのままに黄色いハンカチがたなびいている。長屋の中には映画に使われた赤いファミリアが展示してあり、建物の壁には映画のポスターと色々な思いを書いた黄色い紙片がところ狭しと貼られていた。ここを訪れる人も少なくないようだ。
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そのこともあって、近刊の『倍賞千恵子の現場』(倍賞千恵子 PHP新書)を読んでみた。自叙伝的に映画の裏話を主にしたものだが、知られざるほのぼのとしたエピソードが心地よく綴られている。

 

「幸せの黄色いハンカチ」の撮影では、レジ打ちの光枝になり切るために周りの人にうるさいと怒られるぐらいレジ打ちを練習したようだ。「想い出ひろば」も訪れ、こっそり黄色い紙にメッセージを書いて貼っておいたという。高倉健は“飢えた目”になるように昼食を抜いていたそうだが、 “目のちっちゃなお兄ちゃん”といつも仕事をしていただけに、初めて共演する健さんの“眼力(めぢから)”が強く印象に残っていると記している。格好よかったとも。そりゃそうだろう。健さんの茶目っ気も書の中で紹介している。

 

倍賞さんが出演した映画の3分の1以上は山田洋次監督の作品だそうだが、山田監督は役者の引き出しを開けるのが上手だという。遅くまでセリフの練習をしていたという笠智衆さんもうまく引き出してもらったのだろう。不思議なことに、「男はつらいよ」では、歌手倍賞千恵子の引き出しは初期の頃にわずか2回使っただけだ。あまりにうま過ぎるので、あくまで、ノ~天気なお兄ちゃんにやきもきさせられる「さくら」のイメージを大切にしたのかも知れない。

 

書の中では「二兎を追ってみる」という小見出しで歌について触れている。天与の才が松竹歌劇団でさらに培われたものだろうけど、倍賞千恵子さんの歌唱力にはもの凄いものがある。かわいがってもらった森繁久弥さんの「オホーツクの舟歌」は大切にしているレパートリーだそうだ。

https://www.youtube.com/watch?v=bsNaaaQ00to


「幸せの黄色いハンカチ」は1977年の作品なので、その時に生まれた人はもう40歳だ。だから、観たことがない若い人も多いかも知れない。でも、映画を観て、『倍賞千恵子の現場』を読んでみる、その価値はあるように思う。そして、夕張の「想い出ひろば」を訪ねてみましょうと、ついでにこの街にエールを送っておこう。

2017年8月22日 (火)

「道の駅おびら鰊番屋」で目にしたもの

北海道のルートとして、留萌から稚内の一般道、通称「オロロンライン」を走って見ることにした。山が迫った沿岸道路にてさぞカーブが多いかと思いきや、さしたるカーブもなく走りやすい実に素晴らしい道路であった。

 

留萌市からしばらく走ったところに小平(おびら)町があり、ここには「道の駅おびら鰊番屋」の案内があって、鰊(にしん)、番屋、ヤン衆といった言葉は知ってはいても、詳しくは知らなかったので、休憩もかねて立ち寄ってみた。

 

番屋というのは鰊漁に携わるヤン衆が寝泊まりするところで、また、捕れた鰊を加工するところでもあった。番屋というにはあまりにもおおがかりな旧花田家の木造の建物が今も残されている。
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ここでにしんそばを食べたが、実に美味しかった。ただ、小骨が多く、本来そんなに食べやすい魚ではないので、そばや食材で消費する分には、また、移送を考えれば大量に捕っても仕方ないだろうに、という疑問があった。それが、保存されている番屋の内部を見学して疑問が氷解した。加工した鰊は肥料として極めて良質かつ高価なものであり、船で全国に送られ、元締めは御殿が建つほどに巨大な富を築いたという。

 

どういうわけか鰊は昭和30年代に忽然と姿を消し「あれから鰊はどこに行ったやら」と北原ミレイさんの『石狩挽歌』にも歌われている。その昔は海に棒が立つぐらい鰊の大群が沖合に押し寄せ浜は大賑わいだったようだ。

 

道の駅の道路を隔てた海側には、「平和への祈り」と記された記念碑が建っている。なぜどうしてここに、と不思議であった。
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これも、すぐそばにある「三船遭難慰霊之碑」に記された一文を見て氷解した。既に日本が降伏した後に、樺太からの三隻の引き揚げ船が卑怯かつ無法極まりないソ連の潜水艦に撃沈され、1700人以上もの無辜の民が犠牲になったのである。それがまさにこの沖合、1945822日のことであった。日本は自らの暴走の果てに残虐な相手に無防備をさらけ出すことになったと言ってもいい。「遭難」と表現しているのは日本人の美徳としての節度であろう。
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今回の旅では、舞鶴引揚記念館も訪れてみた。そのことは稿を改めて記したい。

2017年8月17日 (木)

灯台

岬に出かけると灯台、あるいは岬などと大層に言わずとも、単に波止場に出かけると標識灯という感じで、それらをよく眼にする。眼にはしても、「船の航行の役に立っているのだろう」という程度で、さほど意識もしない。それだけ海の風景になじんでいる。

 

ところが、世の中は広いもので、「灯台マニア」がいる。たまたま書店で手にした近刊の『灯台はそそる』(不動まゆう 光文社新書)の著者は灯台が大好きというアマチュアの“灯台女子”だ。好きな人が思いを込めて書いた本は面白いものだが、この書も例外ではなく、知らなかったことが多く、実に楽しく読めた。
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日本における近代的な灯台は幕末に初めて外国人によって作られた。これは、灯台がない日本近海は“危険な暗い海”で、諸外国から灯台の設置を要求され条約によって築かれたという。当時の日本には灯台建築の技術はなく、“お雇い外国人”に依拠するほかなかった。その一人として、横須賀製鉄所建設の指導にあたっていたフランス人技師のフランソワ・レオンス・ヴェルニーも関わったらしい。このヴェルニーこそは悲劇の人小栗忠順と共に横須賀造船所を作った人である。小栗忠順については稿を別にして記したい。

 

灯台については悲しい話も多いようだ。大正時代、積丹半島の神威(カムイ)岬の灯台守の母子が買い出しの際に危ない道を通らざるをえず、波にさらわれて亡くなったという。

 

現代でこそ全自動だが、昔は灯台守が必要とされ、気象観測もあわせ過酷な業務に従事していた。これは「喜びも悲しみも幾歳月」という映画で描かれている。中井貴一の実父で、交通事故で37歳という若さで早逝した佐田啓二が主演している。

 

「日本全国には明治、大正時代に建築した灯台が今でも100基以上現存し、なおも運用されています」と同書に記されている。ところが、海に囲まれているため明治29年に初めて作られて以後多くあったはずの沖縄には古い灯台は残っていないという。その理由はひとえに戦争である。戦禍の中でことごとく破壊されてしまったのである。著者は巻末に「私が愛する灯台10選」を挙げているが、その一つに沖縄の残波岬灯台がある。残波岬のある読谷は米軍が上陸した場所である。沖縄でドクターヘリ事業を手掛けた際に最初に基地を設置したのは残波岬の灯台に近いところで、私にとっても思い出深い。

 

旅ネタに戻して恐縮だが、1ヶ月の長旅の写真を見返してみるに、特に意識したわけでもないのに、灯台がいくつも写っていた。本稿末に一部を紹介しておく。

 

経ヶ岬灯台は丹後半島の先端の断崖絶壁にある。車で行けるところからはちょっとしか見えない。先人の苦労が偲ばれる。
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 下北半島の大間﨑には弁天島という小島があり、そこには大正10年に灯台が設置されている。

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 愛知県の渥美半島の先端にある伊良湖岬灯台と防波堤灯台。

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襟裳岬は船の難所だそうで、襟裳岬灯台は堂々たる威風である。たくましく船の安全を守ってきたのだろう。

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2017年8月 9日 (水)

斗南藩

会津の悲劇は、敗戦、落城、婦女子などの自決、また、上級藩士の子息が中心であった白虎隊の飯森山での集団自決がその象徴として語られることが多い。会津戦争で新政府軍に降伏した会津藩は、いったん廃藩となった後に、斗南(となみ)藩として下北半島などに領地が与えられた。実のところ、これもまた大きな悲劇だったのである。

 

会津藩と称したが、「藩」という呼称は江戸時代にはほとんど用いられておらず、これは明治以降に定着した表記である。また、会津藩士といっても、いわゆる土着ではなく、もとを辿れば多くは信州などからの移入だ。したがって、戦乱の中でともども悲哀を味わったことは確かでも、もともとから居住していた人々と藩士は分けて考えた方がよい。必ずしも善政が行われていたわけではなく、会津藩士に反感を抱いていた住民が多かったとも聞く。もっとも、それは会津に限ったことではなく、江戸時代には支配層レベルにおいて“お取り潰し”や移封、加増が頻繁に行われ、その一方、被支配層たる庶民はそのままで、なかなかややこしい。これは血統についても言えることで、嫡子、庶子、養子が入り乱れている。近代においても、大正天皇ですら母親は皇后ではない。ただし、こういったことは、不倫ひとつで大騒ぎのネタとなる(メディアにさほど倫理感があるとは思えず、単に面白がって報道しているだけという気もするが)現代感覚で推し量るべきではないだろう。

 

さて、それらはともかく、大原綜合病院の平子健理事長に勧められて読んだ『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著 中公新書)は私にとって衝撃的で心に残った書である。それは何かと言えば、のちに陸軍大将にまでなった会津藩士の子息柴五郎が下北半島で味わった辛酸である。火山灰の痩せた土地で農作物もろくに育たず、あばら家で飢えと酷寒に苦しみ、「まことに顧みて乞食の一家なり」「挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」と記している。

 

多くの会津藩士が移住したのは下北半島の田名部(たなぶ)、今のむつ市である。なぜ火山灰なのかちょっと不思議だったのだが、むつ市から直線距離でさほど遠くない霊地恐山に行ってみて、これはまさしく火山そのものだと、疑問が氷解した。この1万年ばかり大噴火していないだけで、恐山の宇曽利山湖は紛れもないカルデラ湖であり、むつ市のどこからでも見える釜臥山は外輪山のひとつである。会津藩士は、この山を磐梯山に見立てて心の支えとし、故郷を懐かしんだという。写真は恐山の宇曽利山湖と釜臥山の遠景。
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恐山の本坊はむつ市の円通寺で、そこには斗南藩の拠点がおかれていた。そして、円通寺から数㎞程度離れた場所(斗南ヶ丘)にかつて会津藩士が定住を図り、井戸を掘り、土塀をあつらえた居宅跡があった。今はわずかに痕跡を残すのみだ。なお、柴五郎の居住地は田名部から西北に離れた山裾である。
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斗南藩の痕跡は今の青森県に散在しているようだが、まさに本州北端の大間にもあった。それは大間在住の会津藩士の末裔たる木村重忠氏が私的に開設している会津斗南藩資料館である。たまたまその看板を目にし、入館してみた。木村氏は「よくぞ来てくれた」とばかり懇切に説明して下さった。そこには旧会津藩主松平容保が書き残した「向陽處」と大書された額がおかれている。太陽に向かう明るい大地で努力すれば必ず報われる時がくる、という意味のようだ。苦労のかいもなく廃藩置県で斗南藩は断絶させられたわけだが、北の大地で悪戦苦闘する会津藩士を鼓舞する意味があったのだろう。

 

その後の会津藩士は、下北半島に定住し、あるいは青森県で名士となった者もいるし、柴五郎のように上京して立身出世をした者もいる。が、多くは慣れない厳しい気候と開墾の困難により、悲嘆と屈辱の中で再び会津に戻らざるを得なかったようだ。

 

江戸幕府の崩壊から明治への移行期、会津藩ならずとも、悲劇は数多くあった。それでも、縁あって手にした『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』を思い起しながら、会津藩士の旧跡にその苦労を偲びなにがなしに感傷を覚えた下北半島行であった。もう少し触れるためには厳冬期に行ってみなければならないだろう。

2017年7月28日 (金)

日本の風景点描

愛車での1ヶ月の長旅を無事終えた。本島をジグザグに縦断し、北海道を一周して常磐道や東名高速を通り、紀州路も走ったので、走行距離は総計7750㎞になった。じっくり写真を撮ったわけではないし、写真技術も全くないけれども、「ああ、これは綺麗だなぁ」と感じる風景も多くあった。今回はそのいくつかを画像で紹介してみたい。

 

京丹後市という名前も知らなかったが、丹後半島をぐるっと回ってみた。道の駅に複数のいかにもそれらしい綺麗な写真とともに、「ここは北海道?沖縄? いえ、京丹後です」というようなキャッチコピーがあって、ユニークで面白い。なかなかに風光明媚な半島だ。浦島太郎伝説発祥の地らしい。
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引揚記念館に立ち寄った際に見た舞鶴湾にかかる舞鶴クレインブリッジ。
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黒部の室堂の「みくりが池」越しに見る日本アルプス。画面左奥にちょっと見えるのが剱岳と思われる。トロリーバス、ロープウェイ、ケーブルカーを乗り継いで汗のひとつもかかずに2000mの高さからの光景が楽しめるのはありがたい。昔の登山家はここまで来るだけでもさぞ大変だっただろう。大町側からではあまりにも急峻なので、多くは富山側から入山したらしい。
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定番の奥入瀬渓流。今でこそ超有名だが、大町桂月という文学者がこの渓流をこよなく愛して名を広めたようだ。恐山でも彼の名前に接した。
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下北半島のかわうちダム湖。なぜか噴水が設置されている。
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根室の春国岱越しに見る夕陽。

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摩周湖。これだけ素材がいいと下手でも綺麗に撮れる。
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襟裳岬。私のお気に入りの一枚。
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フェリーに止まっていたウミネコ。どこにでもいるのであまり有難みはないけれど、美しい鳥だと思う。知床半島にもたくさんいた。ちなみに、カモメは渡り鳥で、その仲間のウミネコは留鳥らしい。北海道の漁師は鰊漁の指標として大切にしていたようだ。
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南紀にもこんな清々しい渓流があった。
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旅には色々な楽しみかたがある。記憶を辿りながら写真を見ていくのもそのひとつだろうと実感する。

2017年7月14日 (金)

見るのはいいが、入っちゃなんねえ

これは網走刑務所のキャッチコピーである。思わずふき出してしまう。といっても本物の内部を見ることはできず、「博物館網走監獄」のことだ。

 

網走というと、重罪者の刑務所があるところ、ということでよく知られている。網走番外地という意味では、最果ての薄汚いところ、というイメージかも知れない。私もそうだったのだが、聞くと見るとでは大違いで、網走は、オホーツク海と湖に囲まれた緑多き綺麗な街だ。いかにも寒そうな気もするが、意外にそうでもなく、道東では最も寒暖の差が少なく、気候的には比較的おだやかなところらしい。それと、今は重罪者だけを収監しているわけではない。

 

博物館があるというのは知っていたので、好奇心で行ってみた。話のネタにちょっと見るつもりだったのだが、さっと見るというのはとてもではないが無理で、広い敷地に、明治時代の建物が移設してあり、その歴史や獄中生活、エピソードなどなど、全部詳しく見ていけば軽く半日は費やしてしまうぐらいの本格的なものだ。刑務所を博物館として残している例は世界的にもほとんどないという。

http://www.kangoku.jp/exhibition_facility_list.html
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収容されている相部屋の様子やなかなか迫力ある入浴の様子も蝋人形でリアルに示されている。こういうところを「ムショ」と呼んでいて、私もてっきり刑務所の略語だと思い込んでいたが、そうではなく、主食が麦64の割合というのが由来らしい。
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入る時も出る時もこの橋を通ったという鏡橋もあり、裏門もそのまま移設されている。高倉健もこれを通ったのだろうか。いや、それは映画の中の話。
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展示してある資料によれば、明治の元老山縣有朋は、「堪へ難キノ労苦ヲ与へ」と記していたようで、実際、囚人に対して人権無視の苛酷な労働が課せられていたようだ。その一つが、網走と北見を結ぶ道路の建設で、労役にあたった1115名中186人が死亡したという。網走に移される前は標茶に収容されていて、そこでは硫黄山の硫黄採掘に使役され、数百人の命が失われている。この硫黄山は摩周湖の近くにあって今は観光スポットになっており、私も訪れてみたが、今でも、黄色く割れた岩肌から硫黄臭のガスが噴き出している。
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ちなみに、明治5年に公布された監獄則には、「獄ハ人ヲ仁愛スル所以ニシテ人ヲ残虐スル者ニ非ス」と緒言に記されている。謀略に近い形で殺された初代司法卿江藤新平と、ほぼ同世代ながら長く権力の座にあった山縣有朋との人権意識は大きく異なっている。

 

もちろん、そういう小難しいことを考える必要はない。昔このような監獄があり、囚人が収監され、こういう生活を送っていた、と知るだけでもいいのではないかと思う。外国人も含め、多くの人がこの博物館を訪れていた。土産店もあり、「出所せんべい」など、なかなかに面白い品揃えがある。これはこれで単純に楽しめるだろう。

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