2016年8月24日 (水)

病院の新築

誰が考えても分かることだと思うが、特に急性期の病院の新築には巨額を要する。だからまずは建て替えをせずに改修で何とかならないかと考えるわけだが、以前にも書いたように、多くの場合、それは難しい。

 

新病院建設にあたっては、具備すべき機能を得ながら、関係者は身を削るような思いをして、あの手この手のコストダウンを図る。新大原綜合病院もそうだ。今はかなり形が見えてきたところで、竣工まであと1年とちょっと。よくここまできたと、関係者はさぞ感慨深いものがあるだろう。私も設計に関わった一人として、案内を得て、吹き曝しの鉄骨の中を、ここはあれ、そこはこれ、と確認しながら大汗をかいて屋上まで上がってみた。やはり嬉しい。

1

それで、つい最近、思わず目を疑うような記事を目にした。それは高松市民病院のことだ。記事に下記のような記載がある。

 

高松市民病院(同市宮脇町2)が経営不振に陥っている。2015年度の経常損益は6億800万円の赤字で、過去10年間で最悪となった。

 

http://mainichi.jp/articles/20160821/k00/00m/040/021000c

 

世間には知られていないが、公立病院には、赤字補てんとは別に、「一般会計繰入れ」という表には出ない税金から巨額支援というウルトラCがある。公立病院はその数億円を手にした上で、赤字とか黒字とかと言っているわけだ。ウルトラCのない民間病院は最初から公立病院とはハンディキャップ競争を強いられている。その公立病院がこの巨額赤字だ。民間病院ならこういう経営は絶対に成り立たない。よく民間とか公立とか言うが、実のところ一般病院の収入源は、公的な医療保険、労災、交通事故などの保険からが99%以上を占めており、拠って立つ点という意味では公も私もなく全く同じである。色々な規制とルールでがんじがらめに縛られているという点も同じだ。

 

高松市民病院の赤字の原因は“医師不足”だそうだ。世間はそれで納得するかも知れないが、それは全くの言い訳に過ぎない。医師を多く擁すれば経営が成り立つというのは、競合病院がなく、それなりのマーケットがあってこその話だ。四国には各県に医学部がある。高松という大きな都市にあって医師が集まらないのは、病院に魅力がないということにほかならない。必要とされる病院でなければ赴任意欲もわきはしない。

 

その一方、

 

市は18年9月、総事業費204億5000万円を投じ、高松市仏生山町に新病棟を開院させる。

 

とある。

 

HPで見る限りでは病床数360床程度とのことだ。医師数も42人。どうしてこんなに費用がかかるのか。病院建設にも相場というものがある。計算は色々あるが、一番単純なのは1㎡あたりの建設費用だ。急性期病院の場合、安い時で25万円、今は建設費高騰で35万円以上になっている。360床であれば建設延べ面積はおよそ3万㎡ぐらいなので、単純に計算して105億円。土地代を7億円、設備費や医療機器を仮に30億円見込んだとしても、総額150億円以下が相場だ。204億円とはあまりにもかい離が大きいので、記事が不正確なのではないかとも思う。

 

赤十字病院と県立病院という大きな病院が近くにあるということは記事も指摘している。税金でこんな巨額を費やすに値する公立病院がそもそも必要なのだろうか。少なくとも、どうしても地域に足りない場合に、という公立病院の趣旨には反している。

 

あくまで一般論だが、それでもやるという理由はある。それは、通院患者は秩序が変わることを好まず、病院は政治家にとって票になり、役人もあえて泥をかぶって廃院や縮小に動くことはしないということ、職員も公務員で、技術職は今さら一般職にはなれず、場を失いたくないからだ。それに、結果が悪くても誰も責任をとらない。個々の立場はわからぬでもないが、時代の変化や需給を軽視してのこういう社会構造は不健全だ。

 

経営を移管した公立病院も多くあり、夕張や銚子など、どうにもこうにもならなくなって病院としては突然死のようになったところもある。PFIという民間からの出資で建設費用を賄った公立病院もある。自由度を高くするとして独立行政法人化と言いながら、一般会計繰入れは旧来と同じ、といういささかインチキ臭いやりかたで存続を図る公立病院もある。ハンディキャップレースであっても、一般の県立病院や市立病院などの公立病院は、少なくとも大きな民間病院のある都市部においては、民間に淘汰されつつあるのである。

 

私は高松とは縁がなく病院のことも詳細は知らない。しかし、記事で見る限り、この市民病院に役人による医療行政の相変わらずの無駄遣いの縮図を見るような気がしてならない。

 

福島市には“幸い”にして税金を多く投入しなければならない市立病院はない。その分、大原綜合病院は市民病院としての役割を担う気概で邁進している。コスト削減では随分苦しんだが、こと機能においては、現病院より格段の進化を遂げるはずだ。市民の皆様の応援で、職員が準備にも心血を注いでいる新病院を大切に育てて欲しいと心から願っている。

2016年8月17日 (水)

抒情歌が胸に沁みる

こういうのが“歳をとった”ということなのだろうか。最近、とみに日本の抒情歌が胸に沁みる。

 

抒情歌は叙情歌とも書き、特に明確な定義があるわけではないようだ。長年にわたって人々に親しまれ愛されてきた色恋の薄い優しい旋律の歌の総称と言っていいだろう。

 

先般、郷里岩国にある吉香公園を久しぶりに訪れてみた。この公園は錦帯橋河畔にあり、旧制岩国中学、後の岩国高校の校舎跡地に整備されている。そこに接して吉香神社があり、その敷地に岩国出身の田中穂積(1855-1904)の胸像と歌碑が建立されている。旧校舎最後の通学生としてここは懐かしい。
Photo
田中穂積が作曲したのが「美(うるわ)しき天然」あるいは「天然の美」と題されている曲で、このメロディは一定年齢以上の人であれば間違いなく誰でもが知っている。そう、「そ~らに~さえ~ずる と~りのこえ」と奏でるチンドン屋さんかサーカスのテーマ曲だ。喧噪な中に哀愁をおびたあの曲である。

 

なぜ抒情歌なのかと言われそうだが、そもそもは九十九島など佐世保の自然を謳った詩に、軍楽長として赴任し、教鞭をとっていた佐世保の女学校の教材のために1902年(明治35年)に田中穂積が曲にしている。以来、生徒や卒業生によって歌い継がれてきたという。

 

YouTubeでは、音大出身者によるコーラスグループのフォレスタで聴くことができる。フォレスタは多くの抒情歌をカバーしている。チケットを手配したので再びコンサートに行くのが楽しみだ。

https://www.youtube.com/watch?v=OJpPZepO8ow

 

「七里ヶ浜の哀歌」もよく知られている。外国人の曲に明治43年に起こったボート事故で12人の生徒が遭難したことを悼んで日本人が詩をつけたものだ。NHKの「うたのおねえさん」をしていたという真理ヨシコさんの歌唱が素晴らしい。童謡の定番の「みかんの花咲く丘」は川田正子さんだが、真理ヨシコさんの歌唱にも惚れ惚れする。

https://www.youtube.com/watch?v=T4d6rk2jDQk

https://www.youtube.com/watch?v=dXvEMV0MlBg

 

「ゴンドラの唄」は、映画「生きる」で志村喬がかすれ声で歌って日本だけでなく世界を泣かせた名曲だ。大正時代の作品で、「命短し恋せよおとめ」と詩をかいたのは男女のほのかな機微を描いて名が高い歌人の吉井勇である。色々な人が歌っているが、ここでは鮫島有美子さんによるものを紹介しておく。彼女の歌唱による「北上夜曲」もアップしてあり、これも名曲だとしみじみ感じる。昭和16年に作られてより昭和36年に広く知られるようになるまで長く埋もれていたという。

https://www.youtube.com/watch?v=oqm9OhuYDI8

https://www.youtube.com/watch?v=ONcUvaSRhFU

 

私に音楽の造詣はなく、オペラ歌手が朗々と歌い上げるものを特に好むということはない。それでいて聴いて心地よく感じるのは、歌唱だけではなく多分に詩と原曲のよさがあるからだ。

 

色々と危惧されたリオのオリンピックも折り返しを過ぎた。ブラジルの人々は困難と悪口にめげず頑張ったに違いない。競技もさることながら、これは爽やかなナショナリズムだろう。今の私は日本の抒情歌にささやかにそれを感じている。

2016年8月 1日 (月)

都知事選野次馬の記

一票を投じるぐらいのことはするが、選挙に特段の関わりを持ったことはない。そんな私でも、有力候補と言われていた、小池百合子、増田寛也、鳥越俊太郎の各氏が闘った今回の都知事選挙は面白かった。

 

だが、投票終了と同時に、つまり開票もしていないのに、小池さんの当確が打ち出されたのにはびっくりした。都民ならぬ身にはわからなかったが、そこまで勝負がはっきりしていたということは、小池さんひとりにみんな手もなくやられたということだ。政治家としての力量は知らないが、衆議院議員を辞職し自民党からの除名も覚悟で「私に帰る場所はない。でも目指す所はあります」とやったのはたいしたものではある。
Photo
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90

 

増田氏を応援する元都知事の石原慎太郎氏が、小池百合子さんを「大年増の厚化粧」と揶揄して、これには思わず吹き出す。あの人でなければ悶着を起こしそうな発言ではある。“美人ではあるが”というのが言外にあったような気もするが、伝説の大スターを弟に持ち、御自身も二枚目作家としてならしただけに、その人に言われては小池さんも本当のところは相当頭にきたに違いない。それをサラリと「そういうのには慣れてますから」と受け流したのは流石ではある。その後の演説の際に、「今日は薄化粧できました」と逆ネタにしている。

 

小池さんを支援した鬼の特捜検事だったはずの若狭勝衆議院議員は暴言に悔し涙を流したそうだが、これでは小池さんの方が一枚も二枚も上で、若狭さんはまだまだ青い。ネット記事にも多くあったように、結果、石原さんは小池さんの株をあげたようなものだった。

 

ひきかえ、鳥越さんは週刊誌のスキャンダル記事に、刑事告訴という物騒な手段に出て、印象を悪くしてしまった。「病みあがり」と言われて烈火のごとく怒った点もマイナスだっただろう。普通はそうであっても相手を慮って露骨には言わないけれども、ご自身が多く語っているわけで、いかに筋トレをしようとも、“病みあがり”であることは否定のしようもない。スキャンダルの真偽は私にはわからないが、およそジャーナリズムの世界に生きてきた人ならば、公人になる過程では、あるいはなったらなったで、なおさら色々書かれることぐらい知っているだろうに、と思う。石原慎太郎氏に「売国奴」と誹謗されて「私は日本人だ」という反応も能がない。私は売国奴という言葉は大嫌いだが、そもそもこれは自国の人に対する罵倒だ。

 

かつてジャーナリズムの研究にはまっていた頃、“エロいおっさんが女性をさらってハーレムを作っていた”かのようにこぞってバッシング報道されたいわゆる「イエスの方舟」事件において、事実はそうではないと断固論陣を張った『サンデー毎日』の姿勢は素晴らしいと思っていた。それが鳥越俊太郎さんだと長年思い込んでいたが、どうもおかしいのでもしや思い違いではと確認したら、ジャーナリストとして気骨を示したのは当時の編集長の鳥井守幸氏だった。鳥越さんも関わってはいたのだろうが、姓の頭に同じ鳥があったためか、私の誤認であった。

 

増田寛也さんは、キャリア官僚から岩手県知事、総務大臣などを務めた経歴があり、俗に言えば非常に筋のいい人だが、話題性の多い二人に挟まれてすっかり影が薄くなってしまった印象がある。この人の地方創生に関する著書を書店で手にとってバラパラめくったことがあるが、買うほどのことはないと判断してそのまま書棚に戻した。

 

今回名前を挙げた3人について私は詳しく調べたことはない。したがって床屋談義以上の内容は持ち合わせていない。だから、「野次馬の記」とした。

2016年7月26日 (火)

新聞の囲碁欄

普段何やらゴチャゴチャとややこしそうなことを書いているので、新聞もさぞ難しいところを読んでいると思われるかも知れない。が、決まって読むのは囲碁欄である。

 

では囲碁が強いかというと、サッパリだめ。はっきり言って才能は限りなくゼロだ。アマチュアの有段者に9子のハンディを貰っても勝てないだろう。もちろん棋譜も読めない。それでも、かつて在籍した病院の談話室で囲碁が流行していた時にちょくちょくやってはいた。楽しいのは楽しいのだけど、我がヘボさが情けない。先の20目の地よりも目の前の3子を取られたくないという打ち方をしてしまう。将棋で言えば、「ヘボ将棋、王より飛車を可愛がり」の類だ。ゴルフで言えばハンディ30ぐらいのものだろう。
Photo
インターネットで囲碁を楽しむ人も多いようだ。
http://wwwa.pandanet.co.jp/a/hokkoku/

かつて、私が同僚とやっているところを面談にきた囲碁好きの事務系の役員が見て、「先生の碁はちょっとイケませんなぁ」とあきれていた。露骨に言われるのもあまり面白くはないが、どう考えても事実だから仕方がない。若い時に、勝負事は才がないと自覚し、以来、ギャンブルなどにも手を出さないので、その点では幸いだったかも知れない。

 

そんな私がなぜ囲碁欄を見るかというと、ひとえにその文章に惹かれるからだ。面白く勝負の行方に気をもたせる書き方をして、次の稿に上手につなぐ。実にうまいものだといつも感心している。新聞は字が小さいのでいかにも字数が多いように思えるが、この欄だとせいぜい400字、原稿用紙1枚程度の字数しかない。文章を短くまとめるのは難しい。

 

試みに718日の読売新聞の山下九段と河野九段の棋聖戦の中盤は、「鋭い反発」が見出しで、あれこれの解説があり、「黒が優位に立った」としている。続く21日は、「話は終わらない」の見出しで、「黒73までフリカワリとなった。さて、勝負の振り子はどちらに振れたのか―。溝上九段によれば、『話はまだ終わらない』のだという」と結んでいる。今回の観戦記の高見亮子という人がどんな人かは知らないが、結構神経を遣って書いているに違いない。「シノギ」「ワタリ」「ノゾキ」とくれば、何やら怪しげな言葉だが、囲碁用語から転用されたものもあるかも知れない。

 

ちょっと前にトッププロの棋士がコンピューターに勝てなかったということが話題になっていた。多分それは仕方がない。暗算もそろばんも人間技とは思えないような達人がいるが、それでも、コンピューターどころか電卓に対してでも計算能力で勝ち目はない。囲碁もソフトが発達すればそうなってしまうに違いない。だからと言って囲碁がつまらなくなるかというと、そんなことはない。いくら総合格闘技のチャンピオンであっても、戦車にはどうやっても勝てはしない。100m走がいくら速いと言ってもしょせん時速40㎞ぐらいでしかもごく短時間なので、これではどんなポンコツ車にも劣る。しかし、そういうものではない。生身の人間同士が悩に、あるいは身体に汗をかいて勝負するから迫力もあるし面白いのであって、その面白さが失せることはないだろう。

 

そんなことをブツブツ考えながら、きっと明日も囲碁欄を読む。才あらばもっと楽しめるだろうと少々悔しくもある。

2016年7月20日 (水)

宇宙と江戸時代

ささやかなマンション住まいの私には書庫というほどの大層なものはないが、それでも買った本を並べておく場所が少しはある。よく書いているように、改めて見て宇宙に関する書が多いが、どういうわけか江戸時代に関する本も結構ある。脈絡はないのだけれど、自分にとってどちらも面白い。

 

近刊の『天文学者たちの江戸時代 ―暦・宇宙観の大転換』(嘉数次人 ちくま新書)は、その脈絡をつけた書で、江戸時代に生きた天文学者達のことを取りあげている。さすがに素粒子だの暗黒物質だのという話はないが、江戸時代の人たちが宇宙というか天体をどのようにとらえていたかについて記されており、これだと両方楽しめる。

 

江戸時代末期に測量と天体観測で驚くほど正確な日本地図を作製した伊能忠敬(17451818)のことは誰でも知っている。伊能忠敬については作家の故井上ひさしさんに『4千万歩の男』という小説仕立ての大著がある。読んだのは随分前のことにて詳細は覚えていないが、その中で、志を立てた伊能忠敬がまず幕府の専門家に教えを受けたことが記されており、それが天文方の高橋至時(17641804)という人であったことを今さらに知った。下に掲げるのは伊能図と呼ばれる「大日本沿海輿地全図」で、よくもまあと、ただただ驚嘆するほかない。
095b15dhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9B%B3#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0

江戸時代には地球が丸いということは知られていて、では、どのくらいの大きさか、というのが高橋至時にとって問題だったようだ。そもそもは蝦夷地測量を大義名分としてその大きさを知るために伊能忠敬を測量に派遣したという。至時は、「自然のしくみはシンプルであるはずだ」という持論を有していたというから、今に通じる斬新な思考である。

 

江戸時代であっても、変則的な動きの惑星(水星、金星、火星、木星、土星)は把握されていて、他のいわゆる恒星とは区別している。高橋至時は、天が動いているのではなく、地球が動いているといういわゆる地動説を信じていた様子があり、太陽を周回する惑星の軌道が楕円であるということも把握していたようだ。ただ、庶民にとっては天動説か地動説かというのはどうでもいいことで、天文方の力量が試されるのは、暦を正確に作成し、月食や日食を正確に予測できるかどうかということであった。高橋至時はその任をきちんとこなしている。残念ながら、この天才的天文学者は41歳で亡くなった。ちなみに、暦の作成は京都の公家の専制事項で、幕府の役人である天文方が実務を補佐する形になっていたようだ。

 

八代将軍徳川吉宗(16841751)というとテレビドラマの影響で我々一般人には“暴れん坊将軍”のイメージが強いが、実のところは理系将軍であって、自らも学び、天文台を創ったりもしたらしい。『天文学者たちの江戸時代』はそんなエピソードも交え、高橋至時を基軸に、師である麻田剛立(17341799)、さらにその先達である渋川春海(16391715)、高橋至時の盟友間重富(17561816)、長男の高橋景保(17851829)、次男の景佑(17871856)などの人々で描かれている。彼らがもしタイムマシンで今の時代に現れたとすれば、最初は科学の進歩に驚嘆するだろうが、年余を経ずしてトップクラスの天文学者になるのではなかろうか。そのぐらい頭脳明晰で当時としては可能な限りの算学や観測技術に長けていたように思われる。

 

高橋景保は、シーボルトに伊能図の写しを渡した罪に問われ結局獄死してしまうのだが、これは私利私欲ではなく、シーボルトが保有していた世界地図の情報を引き換えに得たかったからだという。そのぐらい外国の情報に飢えてきたわけだ。自然災害や飢饉に追い打ちをかけられたこともあって、安定を誇った江戸時代もこの頃から次第におかしくなっていく。

 

江戸時代というのは、随分乱暴な統治もしたわけだが、中央集権でありながら地方分権型国家社会主義とでもいうような体制で、300年近く対外戦争もせず、大きな内乱もなかった。こういうことは、知る限り日本の歴史上他に例がない。明治、大正、昭和の三代だけでも日本は内外の騒乱や戦争に明け暮れている。この70年ばかりは比較的平穏だが、それでも期間としてはまだ江戸時代の41にしかならない。この江戸時代が育んだ独自性に富む文化には興味が尽きない。

2016年7月10日 (日)

『県庁そろそろクビですか?』

著者は、仕事が目に見えて残るのは“単純に嬉しい”と表現しているので、それに倣って書けば、この書は“単純に面白い”。随分話題になったようなので、読まれたかたも多いかも知れない。『県庁そろそろクビですか?』(円城寺雄介 小学館新書)のことだ。
Photo

佐賀県の県庁職員として、救急現場を知りたいと救急車に同乗したり、救命救急センターに泊まりこみをさせてもらったりと、確かに円城寺氏は“はみ出し公務員”ではある。救急隊員はみんな公務員だし、佐賀大学医学部もそもそも国立なのでみなし公務員なのだが、専門性というか、職域の壁があって、事務職の公務員がそこまですることはあまり前例がない。

 

県民気質かどうかは知らないが、著者が書の中で紹介しているように、佐賀の人材が幕末維新期に活躍したことは間違いない。維新後、世には大隈重信がよく知られている。早稲田大学を創設したのはむしろ小野梓の力によるところが大きいが、お金がなければ何もできないわけで、創設者としてはやはり大隈重信になるだろう。外交の副島種臣、文教の大木喬任もいる。歴史の闇に葬られた江藤新平の新政府での素晴らしい事績は枚挙にいとまがない。一般にはあまり知られていないが、同じく非業の死を遂げた島義勇は、北海道開拓にあたって札幌の適地性を見抜き今の大都市札幌の礎を作った人だ。

 

それはさておき、佐賀県は医師と看護師を乗せていち早く現場に赴くドクターヘリの導入については非常に遅かった。かつて佐賀県の医療面の要職にあるかたと意見交換をした際、「佐賀は背振山で沿岸部が隔てられているし、山間部もあるから需要は多いと思うのですが、どうしてドクターヘリを導入しないのですか」と尋ねたことがある。その時は、さほどの必要性もないし佐賀県は今のところ導入予定はない、とのことであったが、そのうちあれよあれよという間に導入の運びとなった。はて、と思っていただけに、佐賀県庁にこういう人がいて旗振りをしたのだと知った。非常によかったと思う。あちこちに重装備病院を整備する発想だといつまでたっても医師不足、看護師不足と嘆くことになる。ヘリなどを駆使して基幹病院の診療域を拡げ、中小規模の医療機関と地域連携を図った方がよほど効率的だ。写真は『航空の現代』に紹介されていた佐賀県のドクターヘリのベル429
429
県庁そろそろクビですか? ということだが、クビは面白くないとしても、私はこういう人が他に場を移すのは大いに結構だと思っている。これだけの行動力があればどこでも活躍できる。そういう人材の流動性に日本社会は欠けている。枠にはめられているかのような公務員だってやる気になれば色々なことができる、というのが著者の主張で、それはその通りで大変有り難いことなのだが、公務員はやはり法律や条例で決められたことを決められたように対処するのが一面であることも確かだ。斬新な発想に溢れていて公務員より他の方面が適しているとか、実直に組織の一角を担う公務員の方が性にあっているとか、色々あるだろう。日本では転職は負にとられることがしばしばだが、欧米では転職は一つのキャリアアップとみなされると聞く。日本は公務員になれば概してずっと公務員で、人材流動性というか、社会全体で適材適所を作るシステムが欠けていると常々感じている。先に挙げた江藤新平は、人材こそが国の宝だと書き記している。

 

人は誰しも生活があるので、とりあえず安定した生活を保障してくれている場を去って転職というリスクは負えないという面は確かにある。だからこそ、能力のある人こそ先陣を切って社会の流動性を作って欲しいと思う。そして、それがうまくいかなかった時の敗者復活戦というか、さらに一歩下がって最低限のセーフティーネットのある社会であることも必要であろう。そんなことなども感じた読後であった。

2016年7月 2日 (土)

へんな星たち

宇宙の研究者は、あるいは結果的に宇宙を研究している場合も含め、理論系、実験系、観測系の3つに大別できる。宇宙についての本をよく書いている大栗博司さんや村山斉さんは理論系で、梶田隆章さんや故戸塚洋二さんは実験系だ。初期宇宙が指数関数的に膨張したという今で言うインフレーション理論を提唱し、ニュートリノトラップという現象を予測した佐藤勝彦さんも理論系と言っていいだろうが、実験系とも関連は深い。

 

この先生は何をしているのだろうと思った時、こういうふうに考えてみれば理解はしやすくなる。もちろん相互に関連しているしその領域単独の知識で済むということはあり得ないので、専門でなくてもある程度の知識はあるし、持ちつ持たれつの相互交流でトライアングルを作っている。そうは言っても、それぞれが高度に深化しているので、理論系の人は星の観測は苦手だし、観測系の人は超弦理論だとか高次元とかの話はあまり得意ではないらしい。

 

2016620日付で発刊されたばかりの『へんな星たち』(講談社ブルーバックス)の著者の鳴沢真也さんは観測系の研究者だ。多分、夜空の一部の星々をチラリと見るだけで、これは何座の何という星だ、というのをすぐに言い当ててしまうだろう。研究としての専門は星が2個か3個並んだ連星系や変光星のようだ。その研究者が、『へんな星たち』、副題を「天体物理学が挑んだ10の恒星」として、まさしく“へんな星”を10あげて紹介したのがこの書である。
Photo
理論系の研究者はひとつのシンプルな理論で全ての物理現象を説明するというのを目標に頑張っているわけだが、こういう星を見れば腰を抜かすかも知れない。“あなたたちの理論はまだまだ青い”とでも言っているかのように、バリエーションに富んでいる。どうして宇宙はこうもややこしいのかと、嘆息のひとつもつきたくなるに違いない。ま、それは冗談で、わからないことだらけだというのは研究者が最もよく知っている。

 

10光年の長い尾を引くミラ。「いったいおまえは、それでも恒星なのか?」と鳴沢先生。本当は怖い香取線香のWR104。「墨を吐いて姿をくらます、まるでタコなやつ」と表現されたかんむり座R星。などなど、面白い表現でへんな星を紹介している。

 

こういうハデハデもいる。いっかくじゅう座に属していて、明るさがコロコロ変わるV838という星らしい。しかも超デカイ。
V838_2

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=V838%E6%98%9F

爆風でなんとも奇妙な姿をしているりゅうこつ座イータ星。星本体はくびれたところにいるとみられている。
Photo_2

 

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BF%E6%98%9F

 

天体望遠鏡を覗けばこのように見えるわけではなく、はるか遠くにあるので、地上からは見えたとしても大きさのない光る点にしか見えない。そもそも人間の眼で見える光は可視光というごく限られた範囲の波長の光でしかない。そこを、地上の天体望遠鏡、X線観測衛星、宇宙望遠鏡などを駆使して合成して姿を描き出し、やってくる光の波長などを分析してそれぞれ着色して形をとらえるわけである。興味深い星が見つかった時は観測機器を一斉にその方向に向けて探査するらしい。

 

太陽系の惑星など、同じ長屋どころか3畳一間に一緒に住んでいるぐらいのものだが、かろうじて土星の輪を見つけたり、木星のシマシマを見つけたりした昔の天文学者がこういう万光年かなたの恒星の姿を見たら、これまた腰を抜かすだろう。これから、重力波やニュートリノの観測が進化すればまだまだもっと驚くような宇宙の姿が見えてくるかも知れない。なんとも楽しみではある。政治家は勘弁してもらいたいが、こと星に関しては、“へんな奴”が多く出てもらいたいものだ。

2016年6月23日 (木)

テキヤはどこからやってくるのか?

Detail_poster09

 

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88#mode%3Ddetail%26index%3D42%26st%3D1506

 

テキヤと言えば、多くの人が真っ先に「寅さん」を思い浮かべる。寅さんは全国あちこちの縁日に出かけていっては巧みな口上で少々怪しげなモノを売る商売だ。それはそれで映画の設定なのでいいのだが、改めて考えてみるに、テキヤ、露天商、香具師(やし)がどういう人達なのかというのは意外に知らない。

 

『男はつらいよ』のテーマソングの一節に、

 

どおせおいらはヤクザな兄貴 

     わかっちゃいるんだ妹よ 

 

というのがある。歌詞の意味するところは少し違うが、テキヤがその筋の人かというとそうではない。少々値段が高くはあっても、アウトローの人達にとってどうみてもコストパフォーマンスがよさそうにもない。地道な準備も後かたづけもいるだろう。そもそも額に汗してイカ焼きやタコ焼きを作って売るのは明らかに働いているわけで、アウトローと見るのは気の毒ではある。それに、そんなにコワモテというわけでもなく、全く普通に見えるオバチャンもいる。実際、多くは普通の人なのだろう。

 

夜店というか露天商はやはり縁日につきもので、祭りに彩をそえる風物詩とも言える。
Arai_yakushi_001_ennichi_20060628
故北原謙二さんが歌った懐かしの名曲『ふるさとのはなしをしよう』には下記のフレーズがある。

 

鳴る花火ならぶ夜店に ♪

縁日のまちのともしび ♪

下町の夜が匂うよ ♪

 

夜店というのはそこはかとない郷愁を思い起こさせる。そのぐらい地域に根付いているわけだ。私も、刃物を腕にあてて血を出し、秘薬なる軟膏を塗ったらスパッと血が止まって傷もなおる、とやっていたのを子供ごころに感心して見ていたかすかな記憶がある。今にして思えば、これこそ香具師で、たぶん手品の一種だろうし、軟膏というのも怪しい代物だろうけど、パフォーマンスとしてみれば、それはそれで楽しませてくれるものではある。プラスチックのお面を見たり、金魚すくいやヨーヨー釣りも子供心に楽しかった。

 

こういう疑問に応えてくれたのが『テキヤはどこからやってくるのか?』(厚香苗 光文社新書)で、筆者はフィールドワークとして色々な調査をしたようで、なかなか興味深く読んだ。

 

この書によれば、「さきに結論を述べてしまうと、大半は近所からやってくる」そうだ。確かに、寅さんのように、アチコチ遠くに移動していたのでは交通費が嵩んで商売にならないだろう。それで、店を出す場所、例えば石段の上なのか下なのかなど、どこに店を出すかというのを「ミセワリ」と言い、そのナワバリのボスたる「セワニン」が割り振るという。ではナワバリ以外のよそ者は店を出せないかというと、そうではなくて、「アイニワ」というシステムがあって、許諾を得れば店が出せるらしい。その際は、セワニンに口上という形で挨拶をするのがしきたりだという。出店の後片付けをきちんとするというのは鉄則になっている。

 

反社会的組織、つまり暴力団、もっと端的に言えばヤクザ、との関係はどうかというと、それは、関係があるようなないような、微妙なところらしい。元ヤクザだった人はいるし、揉め事の仲裁などには関わるのかも知れないが、私の理解では、通常においては密接な関係はない。仮に、あがりを掠め取られるということがあったにしても、資金源と大仰に言うほどの額にはならないだろう。同書の記載によれば、「ヤクザは極道だが、テキヤは神農道だ」だという。わかったようなわからないような話だが、神農は薬効の職能神だと解説されている。

 

とはいえ、テキヤ集団は一種独特の世界を作っていることは確かで、格付け、割り振り、親分子分の関係、などなど色々なしきたりがあるようだ。大学病院の医局はいわばインテリ集団だが、教授が親分で医局員は子分、内部の格付けがあり、アルバイトや派遣先の割り振りなどのしきたりもあり、ナワバリもある。それが何であれ、組織の秩序というのは、およそ似た形になるのだろう。違うのは業界用語ぐらいだ。

 

『テキヤはどこからやってくるのか?』は、平易な書き物を志向したのだろうが、やや論文臭もあって読みにくいところもある。でも、社会的に認知されていながら謎が多いテキヤ集団を、フィールドワークをしながら正面からとらえようとした力作として大変面白く、知らなかったことを教えてくれた書であった。

2016年6月12日 (日)

がんと闘った科学者の記録 その9 ノーベル賞

220pxnobelp2

2011
11月の『日経サイエンス』「世界を変えた日本の頭脳 ノーベル賞に近い人たち」には、戸塚洋二さんと梶田隆章さんが取り上げられている。この時点では戸塚さんは亡くなっているので、原則、現存者に贈呈されるノーベル賞の可能性はなかったわけだが、弟分の梶田隆章さんが2015年に「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」で見事ノーベル賞に輝いた。戸塚さんも草葉の陰でさぞ喜んだことだろう。

 

私が知る限りでは、戸塚さんはノーベル賞を意識していた様子はない。世界中の研究者にスタンディングオベーションで絶賛された1998年に高山市で開催されたニュートリノ国際学会の発表は戸塚さんがしても誰も何の文句もなかっただろうが、以前に記したように、「カジタ、お前がやれ」と譲っている。発表だけではノーベル賞にはならないので、その後に梶田さんが筆頭著者として論文を仕上げたのだろう。その後、戸塚さんが手がけたK2KT2Kでニュートリノに質量があることの検証がなされている。

 

20062月の欧米訪問を、ノーベル賞の下準備だったのかとの立花隆さんの問いかけにも、「いやいや、それは全く関係ないんですよ」とあっさり答えている。ベニスでの講演、ジュネーブでの会議、ミュンヘンでの打ち合わせ、パリで陳情と夕食会と、元気な人でもこういう出張は大変だ。戸塚さんは肺転移による咳に悩まされながら行程をこなしている。世界的にそれだけ重みのある人だったことは確かだ。

 

ノーベル賞にさほどこだわりがなかった理由のひとつは、生来、章典には恬淡な人だということがあげられると思う。文化勲章も含め、色々な賞を受けているのだが、自慢めいた記述や語りは全くない。

 

そして、これが最大の理由だと推測するのだが、本来ノーベル賞に輝くべき人がその栄誉に預かっていない、という思いが強くあったのではないだろうか。一人は親交のあったレイモンド・デイビスJr博士で、ニュートリノ一筋に研究を重ね、戸塚さんは「一つの研究を不器用に生涯続け最後にその真価が認められる科学者」と表現している。デイビス博士は戸塚さんの師であった小柴昌俊さんとともに2002年にノーベル賞を受けているが、この時は88歳で、アルツハイマー病を患っていて記念講演もできず誰が誰かもわからない状況だったという。もっと早く受賞すべき人だったと戸塚さんは思っていたようだ。もう一人は、ジョーン・バコール博士で、かのハッブル宇宙望遠鏡の強力な推進者で、打ち上げ当初の失敗を乗り越えるべく困難に立ち向かった人でもあり、太陽ニュートリノの研究者でもあった。戸塚氏は、「私は、彼の数多い友人の一人であったことを誇りに思います」と記している。バコール博士はノーベル賞を受けることなく2005年に70歳で亡くなっている。

 

ノーベル賞は我々一般人にはわかりやすい大きな栄誉であることは確かだが、運不運にも左右され、至上主義にする必要はないと思う。がんで言えば、山極勝三郎のウサギの耳の人工的な発がん実験の成功は間違いなくノーベル賞に値する。実際、1925年(大正14年)から何度も候補にあげられながらついに受賞することはなかった。余談ながら、ノーベル賞を受賞した益川敏英氏は、師の坂田昌一氏にノーベル賞が授与されなかったのは弟子がふがいなかったからだといささか自虐的に語っている。坂田氏はニュートリノに質量があることを理論で予言している。

 

『がんと闘った科学者の記録』をネタに駄文を連ねてきた。戸塚洋二さんのことを多く知ることができたのは本当によかったと思っている。もう少し生きたかったという思いも強くあっただろうし、惜しんであまりある人だったが、それとは別に、氏の病悩期間が今の私の年齢に重なることで特に思い入れを感じた。資料を読み、そして書いてみることで、市井の一小市民として戸塚さんに捧げるささやかなレクイエムにはなったかと思う。

 

素粒子物理学、がん、闘病記など、色々目を通してみる非常にいいきっかけともなった。これらについて書いてみたいことは多くあるのだが、本シリーズとしてはとりあえずこれでおき、また機会を改めて紹介していきたい。

2016年6月 6日 (月)

がんと闘った科学者の記録 その8 化学療法

前回の関連稿で紹介したように、戸塚さんは、がんについて「闘うのではなく、もう少しゆるやかに余命を延ばす方法を研究してほしい」とのべている。手術後や化学療法での“闘い”は相当に苦しく、それでいて次第に衰弱していくことの辛さからの言葉だと思われる。

 

つい最近に読んだのは『「がん」では死なない「がん患者」 ~栄養障害が寿命を縮める~』(東口高志 光文社新書)で、これは実にいい書だ。がんに関心のあるかたは是非読んで欲しい。「着地点を見極めて“逆算のがん治療”を」という章もおかれている。著者は外科医で、膵頭部がんで黄疸をきたした51歳の患者の膵頭十二指腸切除を3時間24分、出血量240mlで終わらせ、患者は10年後も元気にしていることを書の中で紹介している。一般の人にはピンとこないだろうが、かつて手術室の業務に携わった業界内部の者として、これができるのは卓越した技術だと断言できる。これなら近藤誠さんも文句は言うまい。もちろん著者の主張はそのことではなく、生のために極めて重要な栄養管理、特に腸管をできるだけ自然な形で使う努力がないがしろにされ、あたら寿命を縮めていることも少なくないので、それを改善すべきということである。私自身は自らが主になってのがん診療の経験は乏しいが、重症の広範囲熱傷などで、栄養管理の重要性、特に腸管を機能させることの重要性は骨身に沁みている。それだけに、本当にそうだ、と首肯しながら東口氏の本を読んだ。
41hlymy7qpl__sx303_bo1204203200_
戸塚洋二さんは、術後のイレウスが度々起こっているため、栄養摂取が思うようにできなかった。私は、無理して活動したということよりも、そちらの方が問題だったと考えている。また、化学療法の副作用でも随分苦しい思いをしたようだ。食欲不振や吐気も栄養障害の原因になる。副作用の間質性肺炎で酸素ボンベが離せなくなる時期もあった。

 

200011月に大腸がんの手術をして、20042月に左肺に転移が見つかり、手術で切除し、その後しばらく化学療法を受けている。ところが、20042月の写真を見なおせば、右肺にもかすかな影があったという。右肺の影が明らかに分かるようになったのが20059月だ。以前に記したように、20064月から療養に専念したものの、がんは全身に転移し、20087月に亡くなっている。この間、化学療法を受け、経緯をブログに詳記している。戸塚さんは腫瘍マーカーや画像などから、後顧的に2005年半ばにはがんは相当に進行していたと自己分析しており、CTなどで定期的にチェックする必要がある、と記している。しかし、だからといって転帰が変わるとは思えないので、私はその意義は乏しいと思う。それよりも、副作用で苦しんだ化学療法の当否が問題だろう。

 

非常に興味深いことに、戸塚さんへのインタビューをしている立花隆さんは、近藤誠さんと直接の対談をしており、『抗がん剤だけはやめなさい』(近藤誠 文春文庫)に収載されている。その中で比較的新しい抗がん剤である分子標的薬による治療も受けた戸塚さんの経過について語り、戸塚さんが「薬が効いた」と語っていることを引用し、「抗がん剤の全否定というのは行き過ぎじゃないか」と単刀直入に質問している。それに対して近藤氏は、個別体験ではなく、「一番頼りになるのが、結局、生き死になんです」と答え、延命効果が実証されていない、とのべている。

 

戸塚さんは治療効果や余命を予測するためにデータベースを作るべきだと繰り返し記しているが、『がんと闘った科学者の記録』で「あとがき」を書いている東大空手部の後輩で元国立がんセンター総長の垣添忠生氏は、全国レベルではまだそれが緒についていないことを率直に吐露している。その理由は色々あるにせよ、これは医学界にとって恥ずかしく残念なことではある。

 

データベースではないが、大腸がんの事例を多く紹介し、病態や標準的な治療についても丁寧に解説されているという点では、JPOP-VOICEは非常に貴重である。多くの人に参考になるのではないだろうか。ただし、比較的経過が良好な事例を中心に構成されている。
http://jpop-voice.jp/cancer/daicho/kaisetsu/09.html#p2

 

何年も前のことだが、医療統計分析を専門にしている医師でない研究者から、「色々依頼を受けて分析しているのだが、抗がん剤で延命効果の統計学的有意差は見られても、その期間が短い、本当に効いているのですかね」と尋ねられて返答に窮したことがある。知る限りでは、抗がん剤の腫瘍縮小効果は間違いなくある。しかし、戸塚さんがそうであったように、いずれ縮小効果がなくなり再び増大するようだ。患者は副作用に苦しみ、結局さほどの延命効果は見られない、あるいは副作用で命を落とすことも少なくない。

 

とはいえ、早期であれば手術で根治できる、化学療法も、副作用を可及的に抑え縮小効果を最大限に生かすということにおいて活路がある、と見るか、近藤誠さんのように固形がんについて手術はできるだけ避けるべきで、抗がん剤は有害無益と断罪するか、私にはよく分からない。ただ、今の医療界はがんについては早期発見早期治療至上主義で、“がん”なのだからと、概して命を縮めかねない侵襲が大の治療を選択しているように私は感じる。

 

おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒

と詠んだ江国滋さんは、食道がんの手術の合併症により62歳で亡くなっている。結果論で言えば、何もせずがんと酒を酌み交わしていた方が間違いなく命は長かった。中村勘三郎さんも手術により短期で不幸な転帰をとった。医師の判断や技術も極めて重要な要素だ。

 

なお、近藤誠さんの功罪を腫瘍内科の専門医が比較的冷静に語っている記事もある。立場や意見、方法論が異なっていても、「状況に応じた対応で少しでも穏やかに長く」と、両者が目的とするところは同じである。

https://yomidr.yomiuri.co.jp/archives/takano-toshimi/

 

抗がん剤による治療が厄介なのは、いかにがん細胞といえども、自らの細胞であるということだ。仮にがん細胞を他者に移植しようとしても(倫理的に人体実験はできないが)、特殊な免疫不全状態にあるマウスをのぞいては、動物実験で他の個体に移植してもはねつけられて生着すらしない。発育できるのは自らの体だけだ。がんは2万ある遺伝子のほんの一部の傷によって発症すると言われているが、そのがん細胞のふるまい、生体の免疫機構は未だ謎だらけなのである。

«『小磐梯』