2017年7月14日 (金)

見るのはいいが、入っちゃなんねえ

これは網走刑務所のキャッチコピーである。思わずふき出してしまう。といっても本物の内部を見ることはできず、「博物館網走監獄」のことだ。

 

網走というと、重罪者の刑務所があるところ、ということでよく知られている。網走番外地という意味では、最果ての薄汚いところ、というイメージかも知れない。私もそうだったのだが、聞くと見るとでは大違いで、網走は、オホーツク海と湖に囲まれた緑多き綺麗な街だ。いかにも寒そうな気もするが、意外にそうでもなく、道東では最も寒暖の差が少なく、気候的には比較的おだやかなところらしい。それと、今は重罪者だけを収監しているわけではない。

 

博物館があるというのは知っていたので、好奇心で行ってみた。話のネタにちょっと見るつもりだったのだが、さっと見るというのはとてもではないが無理で、広い敷地に、明治時代の建物が移設してあり、その歴史や獄中生活、エピソードなどなど、全部詳しく見ていけば軽く半日は費やしてしまうぐらいの本格的なものだ。刑務所を博物館として残している例は世界的にもほとんどないという。

http://www.kangoku.jp/exhibition_facility_list.html
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収容されている相部屋の様子やなかなか迫力ある入浴の様子も蝋人形でリアルに示されている。こういうところを「ムショ」と呼んでいて、私もてっきり刑務所の略語だと思い込んでいたが、そうではなく、主食が麦64の割合というのが由来らしい。
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入る時も出る時もこの橋を通ったという鏡橋もあり、裏門もそのまま移設されている。高倉健もこれを通ったのだろうか。いや、それは映画の中の話。
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展示してある資料によれば、明治の元老山縣有朋は、「堪へ難キノ労苦ヲ与へ」と記していたようで、実際、囚人に対して人権無視の苛酷な労働が課せられていたようだ。その一つが、網走と北見を結ぶ道路の建設で、労役にあたった1115名中186人が死亡したという。網走に移される前は標茶に収容されていて、そこでは硫黄山の硫黄採掘に使役され、数百人の命が失われている。この硫黄山は摩周湖の近くにあって今は観光スポットになっており、私も訪れてみたが、今でも、黄色く割れた岩肌から硫黄臭のガスが噴き出している。
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ちなみに、明治5年に公布された監獄則には、「獄ハ人ヲ仁愛スル所以ニシテ人ヲ残虐スル者ニ非ス」と緒言に記されている。謀略に近い形で殺された初代司法卿江藤新平と、ほぼ同世代ながら長く権力の座にあった山縣有朋との人権意識は大きく異なっている。

 

もちろん、そういう小難しいことを考える必要はない。昔このような監獄があり、囚人が収監され、こういう生活を送っていた、と知るだけでもいいのではないかと思う。外国人も含め、多くの人がこの博物館を訪れていた。土産店もあり、「出所せんべい」など、なかなかに面白い品揃えがある。これはこれで単純に楽しめるだろう。

2017年7月11日 (火)

お笑い種の“冒険”

あちこちジグザグに走ったり、福島に立ち寄り、また、恒例の北海道でのゴルフに興じたりして、ようやく網走まで着いた。621日に北九州を出発して、710日、宗谷岬で走行距離が丁度5000㎞になった。「思えば遠くに来たもんだ」とも思うが、愛車のスバルインプレッサG4は快調に走ってくれるし、日数をかけて楽しみながら移動している。

 

植村直己の冒険館を再訪したことを書いたが、植村直己はそれだけの能力と気力があったからできたことで、私自身は冒険などできもしないし、する気もない。ところが、桐生を発って新潟を目的地として、足尾銅山、日光、今市、鬼怒川を経由して福島の檜枝岐に抜けたまではよかったが、ナビは会津経由で新潟に行くよう指示していたのに、直線距離はこちらの方が近いと、ナビにさからって奥只見を経由して魚沼に抜ける道を選んだのが大失敗で、お笑い種のささやかな“冒険”になってしまった。

 

檜枝岐(ひのえまた)は、もはや会津とは言えないぐらいの奥地にありながら、尾瀬観光の入り口の一つで、温泉、歌舞伎などで名前をよく聞く有名地なのにまだ行ったことがなく、どんなところか一度行ってみたかった。写真では一部しか見えないが、山奥の狭隘な峡谷のわずかな平地に温泉宿が多くあった。名にしおう豪雪地帯だが、夏場はさぞ賑わうのだろう。
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檜枝岐からいわゆる“樹海ライン”に入る。国道352号線である。少々カーブがあっても、いかほどのことがあろうかと。ところが、いかほどのことがあったのである。

 

あとで調べてみて、Wikipediaには次のように記載されている。

新潟県魚沼市から福島県檜枝岐村までは枝折峠奥只見湖沿い、そして県境付近で急カーブの連続した1 - 1.5車線程度の断崖絶壁に沿った狭隘な道が続き、俗に言う「酷道」の1つに挙げられている。

 

確かにその通りで、行けども行けども、果てしなく続く上がったり下がったりのカーブカーブの連続。「この先、カーブがあります」という意味なきナビの声もかすれてしまいそうだ。人の気配も全くない。行きかう車両もなく、道の真ん中に蛇が鎮座したりしていた。「沢流れ」というらしいが、雪の残る沢からの水が道路にそのまま流れ出ているところも多い。スリップして崖に転落したら一巻の終わりで、この時ほどMモードにシフトした4輪駆動の頼もしさを感じたことはない。

 

檜枝岐に戻ろうにも、もはや深入りし過ぎて夕暮れも迫っている。昼食を摂りそこねていたため空腹にも襲われる。もちろん、自動販売機などあろうはずもない。道路脇の標識に「ようきたのし」と方言で書かれているのが、我がバカさ加減を笑われているようであった。魚沼の小出インターまでまだ44㎞もあると知ってウンザリ。闇に包まれたらどうしようかと恐怖すら覚える。
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ようやくにして奥只見シルバーラインという道に入る。これならもう大丈夫だろうと思いきや、今度はトンネルにつぐトンネル。それでも樹海ラインの最難所はバイパスしてくれているそうだが、ダム建設用だった濡れて暗いトンネルだらけというのは気持ちのいいものではない。最後のトンネルを抜けて、夜のとばりがおりる寸前、ようやくにして大湯温泉という方向指示の看板を見た時は大げさながら、心底ホッとした。福島でこの話をしたら、「えーっ、あそこを通ったんですか。あの道は地元の人は誰も通りませんよ」と。とんだお笑い種であった。

 

我がアホさを取り繕うわけではないが、ひとついい点はあった。それは、奥只見ダム湖である。1分でも惜しい中、どの方向に向いているのか把握する余裕すらなかったが、この美しい景色だけは写真に撮っておこうとシャッターを切った。素晴らしい素材を前にして、写真技術を覚えなければと痛感した。とても一度には書けないが、旅は啓発の連続である。少しずつ紹介していきたい。
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2017年7月 3日 (月)

植村直己冒険館

兵庫県豊岡市にある植村直己冒険館を再訪した。以前に訪れたのは20年も前のことだろうか。今回、冒険館前に設置してあったパネルは記憶がないので、多分その後に作られたものだろう。
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植村直己は、日本人として初めてエベレストの山頂に立ち、五大陸最高峰を登頂している人なので、登山家として超一流であったことは間違いない。アマゾン川の筏での川下りや犬ぞりを使った北極圏の走破などもあり、直前にフォークランド紛争で潰えたものの、南極にもチャレンジしようとしており、冒険家、探検家とも称されている。
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御本人は著述家だとは微塵も思っていなかっただろうが、実のところ、著作も結構ある。私は若い時から植村直己ファンで、手に取れた限りは全部読んだ。おりおりの便りにイラストをそえたものは作品としても一級品だと思う。それだけに、19842月、43歳の誕生日を迎えたばかりの日に、厳冬期のマッキンレーで登頂後に消息を絶ったという報道には長く沈鬱な思いが拭えなかった。もちろん望みはないのだけれども、生あらば、今は76歳である。

 

私流に表現すれば、植村直己は「偉大なるチャレンジャー」だ。探検しようとか、あえて危険な場所に赴こうとか、はたまた歴史を作ろうとか、そういうのは二の次で、「こういうことをやってみたい」が高じてその積み重ねがこの足跡を残したのではないかと感じる。それだけの能力があり、実現に向けての段取りは相当に周到である。エベレストの単独はさすがに無理だったし、チャレンジの費用の捻出やスポンサーの獲得には苦闘を余儀なくされているが、「孤高の人」加藤文太郎に憧れていたということもあって、自分の勝手な思いにできるだけ他の人を巻き込みたくないという思いが単独行を多くしたのではないかと思う。

 

冒険館には植村が登山の時に背負っていた重さのリュックがおいてあり、私も背負ってみた。相当に重く、私では平地ですら数百mも歩けないだろう。登山家にとっては当たり前のことであっても、その凄さの一端を感じる思いであった。

 

植村直己は3000㎞の距離を肌で知るために稚内から鹿児島までほんの小手調べで歩いている。私はと言えば、九州を発って、あちこち立ち寄りながらジグザグに走って弘前にいる今、走行距離は3500㎞になった。これは普通の人にはとても歩けるようなものではない。車で高速道路か舗装道路だから安全走行に徹すればどうということはないはずだが、それでも、事前調査不足にて、これは“悪夢”か、とでもいいたくなるようなお笑い種の“冒険”がひとつあった。次回はそれを紹介したい。

2017年6月24日 (土)

しまなみ海道

以前に「橋作りの技術」として下関と門司との間にかかる関門大橋を題材に書いたことがある。九州に住んでいて山口県と行き来することが多いだけに、この関門大橋の壮大さにはいつも感嘆してしまうのだが、今回、尾道と今治をつなぐ「しまなみ海道」をはじめて走ってみた。

 

時間があったので本当に久しぶりに尾道市街に立ち寄ってみた。街も家並みも昔とは様変わりしているけれども、当たり前のことながら、今も坂が多い。映画『東京物語』の笠智衆さんが縁側で夕涼みをしていても全く違和感がないような古い家もある。自分が瀬戸内育ちだからかも知れないが、やはり何か情緒を感じる。

 

しまなみ海道は “橋づくし”とでも言うような壮観だ。正式には西瀬戸内自動車道と言うらしい。向島は尾道からほんの川ほどの狭い海峡でしか隔てられていないが、それでも橋があるかないかで大違いではある。向島から因島、生口島、大三島、伯方島、大島、そして今治とつないでいるわけだから、すごい事業をしたものだ。(図はWikipediaより)

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写真は因島大橋
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写真は生口大橋
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この橋は姿が異なる。橋作りには色々な工法があるそうで、理由を調べてみたい気もする。ただ、そんなことをしていたら橋にはまって、橋オタクというか、橋マニアになってしまうかも知れない。

 

これは来島大橋 この来島海峡というのは潮流が速く、小島があったりして船の難所らしい。
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来島と言えば、もう若い世代は知らないだろうが、坪内寿夫という来島ドックを再建し、請われて、危機に陥った佐世保重工をも救った立志伝中の人がいる。毀誉褒貶があるにせよ、私はこの人はたいした人だったと今も思っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E5%86%85%E5%AF%BF%E5%A4%AB

 

四国に渡って、帰りは坂出と倉敷を結ぶ瀬戸大橋を通った。正式には南北で10の橋からなる備讃瀬戸大橋というらしいが、これも巨大な橋だ。
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瀬戸内海の橋のことを書いても、内海に小島がたくさん浮かんでいるようなところは東北にはないので、東北地方の人にはなじみがないかも知れない。けれども、もし機会があれば、立ち寄ってみて欲しい。その価値はあると思う。私は逆に、まだあまり知らない東北を知りたいと、これから檜枝岐や下北半島の方も予定している。

2017年6月16日 (金)

思い出のスーダン Part 2

スーダンの首都ハルツームは砂埃の街という様相だ。だが、ここはエチオピア高原から流れてくる青ナイルと、ケニアとタンザニア国境にあるビクトリア湖から流れてくる白ナイルの合流点で、ここから大きなナイル川となってエジプトの方まで途方もない距離を流れていく。日本列島の軽く倍以上の長さになるわけで、そのスケールを実感するのは難しい。

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夕暮れ前、ホテルの周辺を散策してみる。名前でしか知らなかったナイル川が眼前にあり、感慨深い。国立博物館に接した公園は緑が多く静かなところで、親子連れもいて、危険な雰囲気は微塵もない。心地よい風にあたりながら、本当にここはアフリカ、それも、欧米には悪名高きスーダンなのかと思ってしまう。

 

ホテルで見たテレビでCNNが繰り返し報道していたのが日本で起こったテロ、いわゆる地下鉄サリン事件だ。死亡者もいて何千人も負傷したらしい。遠くスーダンから母国のこんな悲惨なニュースに接するとは思いもよらなかった。これではどっちが危ない国かわからない、としみじみ感じたものだ。

 

ハルツームではイブン・シーナ病院を訪問した。出迎えてくれた細面の魅惑的なスーダン人の女医さんが、「ようこそいらっしゃいました」と流暢な日本語でにこやかに挨拶してくれたのにはびっくりした。聞けば、JICA(国際協力機構Japan International Cooperation Agency)の研修で日本に滞在していたらしい。イブン・シーナ病院もJICAの支援で建てられている。

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イブン・シーナ病院は特に泌尿器系の疾患を多く取り扱っているこじんまりとした近代的な病院なのだが、建物の外壁に回廊がある。日本ではあまり見ないが、これは、電力事情が不安定な国だとエレベーターの作動が不安定で、こういう回廊を使って患者の移動をするそうだ。

 

翌日だったか、ハルツームから400㎞離れたゲダレフというエチオピア国境に近い街に行くという。昼過ぎの出発予定が車両の手配の都合で遅れて、夕暮れになってしまった。勘弁してもらいたいと思ったが、今さら逃げ出すわけにもいかない。聞けば、4時間で着くそうだ。高速道路があるわけでもなし、いったいどうしたらそんな時間で着けるのか理解に苦しむ。出発してみると、中国が整備したという道路を猛スピードで突っ走る。確かに早いが、全く生きた心地がしなかった。ただ、途中で休憩した日本で言うドライブインから見上げた夜空には今まで見たこともないほど多くの星がきらめき、これは感動ものであった。

 

翌朝はゲダレフのUNHCR事務所を訪問。なんとここで日本人女性がスタッフとして働いているという。現地スタッフが、「彼女は難民キャンプのパトロールに出かけているので連絡を取ってみる」ということで、無線から聞こえてきたのは若い女性の声で、「せっかくいらして下さったのにお会いできずに申し訳けありません」と。我々は短期訪問だが、彼女は長く滞在するわけで、なんとも逞しい。当の彼女には後年にジュネーヴのUNHCRの本部でお会いする機会があった。国際機関には日本人女性も多いようだ。

 

そういえば、日本人医師川原尚行氏は、ロシナンテスというNPOを設立し、長くスーダンで医療を主体とした支援活動をしている。スーダンの日本大使館の医務官をしていたこともあり、スーダンとの往復回数は日本人として氏がダントツなのではないだろうか。時間のある折にホームページを参照して頂ければ幸いである。

https://www.rocinantes.org/

 

川原氏が活動をはじめたのは私のスーダン訪問よりあとのことだが、直接の知遇を得る機会があり、時にささやかな寄付もしている。それにしても、私のような軟弱な凡俗とは、その行動力、逞しさにおいて、次元が違う。

 

PKOとして自衛隊が活動したのは南スーダンの首都になっているジュバだ。当時は紛争地だったこともあって私は行く機会はなかったが、国際線のジェット機も離発着できる飛行場が整備されていると聞いた。この地には5年以上にわたってのべ3000人を超える自衛隊員が派遣されている。日本から遠く離れた地で、慣れない暑さの中、任務の困難さは半端ではなかったと思う。今年527日に無事に撤収が終了し、私も安堵する思いであった。イブン・シーナ病院がそうであるように、自衛隊が整備した道路も、長く心にとめて頂けるのではないだろうか。

 

末尾に余談を一つ。スーダンにはスーダン航空というのがあって、以前に触れたWHOのイラン人所長は、これを「インシャラー航空」と呼んでいた。インシャラーというのは「神の御心のままに」というアラビア語で、飛行機の時間がいつも遅れ、ドタキャンもあって全くあてにならないのは、誰のせいでもない、「神の御心」だそうだ。本来は敬虔な言葉のようだが、飛行機以外にもよく出てくる。最高の言い訳ではあるだろう。スーダンの人に「そんなにあてにならないのか」と尋ねると、「いや、スーダン航空は定刻だ」と言う。怪訝な顔をしていると、「よく遅れるけれども、時に早く出るから、平均したら定刻だ」と。イラン人も面白いかも知れないが、スーダン人もなかなかに面白い。

 

ゆっくりと外国旅行というのもシニアの楽しみのひとつだろうけれども、私の場合は、国内でまだ行っていない街や場所を訪れてみたいという思いを以前から抱いていた。今にしてようやく愛車での日本列島ジグザグ縦走の旅が叶いそうになった。計画通りに行けば来週に出発するので、次回からは、旅のつれづれをも写真入りで綴ってみたい。

2017年6月 8日 (木)

早起き三両、宵寝は五両

「早起きは三文の得」という諺がある。


西洋にも「The early bird catches the worm.」というのがあるから、洋の東西を問わず、早起きは好ましいことなのだろう。

 

表題の言葉もほぼ同義だが、私は桂米朝さんの落語「持参金」で初めて知った。「そのぐらいのことで三両、五両だのということはないだろうけど、まあまあ、そうしたもんや」とうまくおさめている。「昔の人の言ったことにおろかはない」そうで、時代が変わり科学技術がいかに発達したとしても、人間がそうそう変わるわけではないので、諺にそれなりの重みはあることは確かだ。

 

ちなみに、「持参金」というのはやや下ねたチックな滑稽噺で、米朝版も全編これ大爆笑だ。早起きしたがために借金の催促をされ、「ロクなことあらへん」とのボヤきが本筋の頭におかれている。以前にもちょっと触れたが、現時点でもYouTubeで楽しめる。よくも自分で笑わずに語れるものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=QpjYFJzyuIs

 

長たらしい前置きになってしまった。これはひとえにブログをアップする間隔を空けてしまった後ろめたさと、その言い訳の前フリ。いや、義務で書いているわけでもないし、誰に責められるというわけではないので、後ろめたく思う必要はないのだが、自分で、大体週110日に1つというのを目標にしてきたのが随分空いてしまった。

 

実はこの5月、完全に早寝早起きであった。心がけてということではなく、なぜか午後10時を過ぎたら眠くなり、午後11時前には就寝し、午前5時か6時に起きる、という繰り返しであった。定義上で高齢者になったからいきなり早く目が醒めるというものでもなかろうが、大体が夜更かし型だったので、いつまで続くかはともかく、ライフスタイルの大きな変革ではある。

 

夜に何か書いていると寝つけなくなる傾向があるので、それで翌日睡眠不足で辛くなるよりは早寝の方がいいかも知れない。その分、夜に筆が進まない。早起きがどうかというと、これは落語とは違って三文どころではない得をして結果的には非常によかった。

 

その得が何かと言えば、ゴルフである。ギリギリに起床してバタバタとコースに出かけ、ストレッチもそこそこにスタートしていくというのでは、初めからいいスコアを放棄しているようなものだ。午前6時前に起きればゆったりなので、レンジで50球ぐらい打って、コースではスタート前にパットの練習がしっかりできる。それにしても、早朝の練習場にあんなにたくさん人がいるとは知らなかった。

 

それで、何を得したかというと、40人ぐらいのコンペで優勝し、余勢をかって所属コースの理事長杯でも優勝してしまった。どちらもハンディ戦だったので、ハンディの多い私がさほど自慢できる筋合いでもないのだが、それでも、理事長杯と言えばコースの三大競技の一つで、私にとっては身に余る光栄であった。大きな優勝カップに名前が刻まれて長く残るというのは何とも嬉しい。

 

理事長杯では、カメラが趣味の理事長が参加者の写真を撮ってくれていた。嬉しさついでの余興で、1枚紹介しておこう。運動神経ゼロの私にしてはこの時はまずまずサマになっていたようだ。ついでに付記しておけば、優勝した翌週にネズミ捕りにつかまって長く維持したゴールド免許がパーになり、2点の罰金を払うはめになった。「好事魔多し」というが、皆様もいにしえからの諺をどうぞ大切に。
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2017年5月 8日 (月)

ごみ捨て難民

以前にも書いたように、難民というのは、そのように認定される必要があるが、そもそも内乱や政治的、宗教的迫害などの理由から国外に逃れる人達をさす言葉だ。本来あまりいい言葉ではないけれども、口に出しやすい語感もあって、色々と転用されている。買い物難民、介護難民、お寺難民などなど、枚挙にいとまがない。

 

かつて私は坂の中途にある段々型のマンションに住んでいた。静かで見晴らしはよかったものの、エレベーターもなく車が横付けできず、外にある階段の上り下りが必要。ふと、これではいずれ間違いなく“買い物難民”なってしまう、と蒼くなり、あれこれ探してようやく平地に居を移した。売り買いに肝を冷やしたものの、無事済んだ時はいたく安堵した。

 

介護も、幸いにして長くみてくれる施設に老母が入れてもらえたからよかったようなものの、当初在宅で面倒を見ていた姉が限界になり、ようやく入所できた老健も長くはおれないので、一歩間違えば、という思いは強くある。姉には「施設にお願いするのがいいのではないか」と重ね伝えてはいたのだが、感情としてそうそう簡単に割り切れなかったのかも知れない。私に介護などできそうにもないが、適切な施設がなくもし頑張ってやったとしたら生活が大きく制約されることになったであろう。“介護難民”も他人事ではない。

 

今まさに味わっているのが“ごみ捨て難民”だ。施設への訪問で月に2回程度、誰もいない実家に帰省し、その都度、1日か長ければ3日ぐらい滞在する。さしたる量ではないにせよ、その間、どうしてもごみやペットボトルなどが溜まってしまう。ごみの回収は分別して平日の朝の限られた時間帯にそれぞれ出さなければならないのだが、滞在は週末が多いので、それがなかなか難しい。

 

この難しさは私だけではないようで、コンビニや駅のごみ箱には、「家庭ごみを捨てないで下さい」と書いてあるにも関わらず、捨てる人が後を絶たない。高速道路のパーキングエリアも同様だ。
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マナー違反だ、けしからぬことだ、と切って捨てるのは易いが、一人暮らしの場合はごみ捨ては頭が痛い。山間部には「ごみの不法投棄は犯罪です」と大書されているところも多くある。悪質な産廃業者対策かも知れないが、一般人でも、人けのない場所や空き地にこっそり捨ててしまうということもあるのだろう。先般には、こともあろうに清掃課の市職員が不法投棄で逮捕されたという報道があった。

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017050100694&g=soc

 

実家にある我が隠れ家で長年使って調子が悪くなった小さい冷蔵庫の廃棄が必要になった。どうしようかとあれこれ思案し、結局、電気店に持ち込んで安くはないお金を払って処分した。それは仕方ないけれども、小さくても結構重くて、高齢者ではとても動かせない代物だ。

 

ゴミ屋敷の住人のことが巷間しばしば話題になる。思うに、捨てそびれた、面倒になって、というのがズルズル溜まって、相当な量になってしまい感覚がマヒ、あるいは自力で対処できなくなって、というケースも少なからずあるのではないだろうか。特に独居の高齢者がそうなってしまうというのは容易に想像できるような気がする。

 

行政の、分別ごみ出し、限られた時間帯のごみ出しも、正論である。しかし、不便をかこっている住民が少なくない現状、正論をかざしての実質的なサービス低下だと感じる。救いをどこかに用意してもらえないものか。

 

いっそのこと、コンビニに有料でのごみ捨ての管理を委託するというシステムはどうだろうか。家庭ごみの持ち込みに業を煮やしているコンビニにも、ひとつのビジネスと割り切ってもらう。大流行の100円コーヒーの原価が45円だそうだから、例えば可燃ごみ大袋50円とか。もちろん、コンビニでなくとも、システムがあればいい。“ごみ捨て難民”の私は必ず利用するであろう。

2017年4月23日 (日)

「ローマの休日」

「ローマの休日」といえば世界で最も多くの人に観られた映画の一つだろう。二十世紀を代表するかのような美女、美男、オードリー・ヘップバーン扮する王女と、グレゴリー・ペック扮する王女の特ダネ狙いの新聞記者がローマを舞台にしておりなすコメディタッチの淡いラブロマンス。これぞエンターティンメントという感がある。
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オードリー・ヘップバーンはこの映画で大女優への道を歩み、グレゴリー・ペックにはそれ以前に製作された「紳士協定」という映画通から高い評価を得た名画が残っている。

 

これだけ有名な「ローマの休日」は、おそらくは世界中で、そして日本でも、リメイクされたり、あれこれパロディのネタになったりもする。桂文珍さんは「老婆の休日」と題して、病院に集うヒマな老婆のやりとりを落語として面白おかしく演じている。武田鉄八さんが坂本龍馬に扮して、ローマのトレビの泉の前で「今日はおやすみなんです!」としたコマーシャルも面白かった。一瞬、「ん?」とさせて、このヘップバーンスタイルの上戸彩さんが「リョーマの休日!?」とオチをつける。

 

著作権の問題がなくなったのか、「ローマの休日」のシナリオとDVDがセットになった冊子が880円と安かったので購入した。映画で英会話を勉強しようというのが趣旨のようだが、今さらうまくなりそうにもないのでそちらはあきらめて、スクリーンと英語・日本語訳を対比させながらセリフの妙味を読み物として楽しもうと思っている。

 

同じく世界的に評価の高いハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンの映画「カサブランカ」(1942年製作のアメリカ映画)はセリフをほとんど暗記するぐらい読み込んだ。英語はさっぱり上達しなかったものの、そうしてみると、この映画には色々な隠し味があることを知った。

 

ボガード扮するリックの酒場で、リックに思いを寄せる女性が「昨夜はどこにいらしたの?」と尋ね、「そんな昔のことなんか覚えちゃいない」(That’s so long ago, I don’t remember)とそっけなく答えるリック。さらに、「今夜会える?」に対して、「そんな先のことなんか考えたこともない」(I never make plans such far ahead)という有名なセリフがある。

 

この言葉は、リックと恋人だったイルザ(イングリッド・バーグマン)のやりとり、「(ドイツ軍がパリに侵攻した日のことは)僕は全て覚えている、ドイツの軍人は灰色で、君は青い服だった」(I remember every detail. The Germans wore gray, you wore blue)と対をなしている。そして、二人でマルセイユに行って結婚しようと言った時のイルザのセリフが、「That’s too far ahead to plan」である。待ち合わせの駅に現れなかったイルザにリックは深く傷つく。

 

「カサブランカ」のシンボル的なセリフ「君の瞳に乾杯!」(Here’s looking at you, kid)は二人が恋人同士だった時にリックが口にしていた言葉だが、思いがけないイルザとの再会にも固く心を閉ざすリックからは決して出てこない。

 

最後の最後、夫が亡くなったと当時思い込んでいたという事情をのみこみ、「(夫である彼と一緒に行かなければ)君はきっと後悔する」、「今日ではないかも知れない、明日でもないかも知れない、でも、すぐに、そして生涯にわたって」(Maybe not today, maybe not tomorrow, but soon, and for the rest of your life)、続けて「この狂った世の中ではちっぽけな三人のことなんか取るに足らないことだというぐらいこんな俺にも分かる、いつか君にも分かるだろう」と言ったまさにその時に、「Here’s looking at you, kid」と出てくる。アメリカ人にはこの一連のセリフがジーンとくるらしい。

 

もちろんこんなことは私の英語力では映画からは全く分からない。30年以上も前のこと、ニューヨークで手に入れたカサブランカのシナリオ本を読みこんで初めて知ったことだ。評価が高いからこそだろう、『君の瞳に乾杯』と題された日本語での対訳の書もDVD付きの冊子も出ている。

 

「ローマの休日」の対訳本は以前から持ってはいたが、改めて見て、何か発見があるかも知れない。江戸時代から量子力学、はたまた映画と、なけなしの頭の中は何とも忙しく、本業を忘れてしまいそうだが、それもまたシニアの特権かも知れない。

2017年4月15日 (土)

楽しかった誕生日

私事ながら、414日が誕生日であった。いよいよ前期高齢者かと思うと、寂しいような、それでいて中途半端な歳とサヨナラした清々しさ。桜も綺麗に咲いてくれていた。
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今にしてこんなに咲いているというのは、ちょっと山の中というのがバレバレ。したがって、何をしていたかもバレバレだが、今まで感じたことがなかったような楽しい誕生日であった。

 

桜が華を添える快晴の澄みきった青空のもとでするゴルフの爽快感は何にもかえがたい。スコアもバックティーから80台だったので私としては上出来。いつもは情けないほどヘナヘナのドライバーショットも、心なしかよく飛んでいたような気がする。そういえば、何年違うのかはおそろしくて聞けないが、私と誕生日が同じでそのことをよく覚えてくれている、とあるゴルフ場のフロントのいつも愛想よくしてくれる熟女風の美人嬢はこの日をどう過ごしただろうか。

 

ゴルフのあとは、施設にいる老母に会い、変わらぬ笑顔に癒された。いくつになっても、少々ボケてはいても、母親は母親。「気をつけてね」と別れ際に手をふってくれた姿が心に残る。

 

Face Bookでは多くの知己のかたから、また、大原綜合病院の理事長からも、メッセージを頂き、これまた感謝感謝。懐かしい高校の同級生もメッセージをくれた。もう40年以上も会っていない。FBが動画サービスを提供してくれたのには驚く。

 

「ブログを楽しみに読んでますよ」と伝えて下さったかたもいる。自己陶酔型の趣味でつらねる駄文であっても、読んで頂ければやはり嬉しい。

 

久しぶりのカラオケも大いに楽しんだ。難聴ゆえうまく取れない音も、なんだかよく取れたような気がして、「今日はよかったよ」と有り難い言葉。何度も歌った曲は“耳タコソング”で、初めて披露する曲は“耳ハツソング”。誕生日に免じてお許し頂こうと、今回はYouTubeで聴いた曲で思いっきり耳ハツソングにしてみた。うまくやれるかどうかは別として、やはり歌は好きで、ここのところの、キナ臭く、たまらなく憂鬱な朝鮮半島問題からもしばし離れることができたような気がする。

 

救急医療に従事というかつての仕事柄、不幸を多く眼にしてきただけに、この歳の誕生日をこんなに楽しく過ごせたことをただひたすら神に感謝するほかない。皆様にも幸多かれと、珍しく殊勝な心にひたった一日であった。

2017年4月 6日 (木)

板門店

ブログを綴っていて、ここのところ、韓国や北朝鮮の問題、雪崩事故、外国籍の少女の殺人事件、シリア情勢などなど、気が滅入ることばかりで、スーダンの思い出をテーマにするつもりの手が止まってしまった。そこで、今回は朝鮮半島について少し記してみたい。

 

どこまで正確な把握ができているかはともかく、私に関してはスーダンより朝鮮半島の方がはるかに詳しいことは確かだ。以前のブログでそのことに触れた。

http://bogeytetsu.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-1770.html

 

スーダン訪問より少し前のこと、韓国政府の元大臣級のかたのエスコートを受けて南北の境界線に位置する板門店を訪れ、非常な緊張感を覚えたことが心に残っている。“思い出”という生易しいものではなく、空気で感じた冷え冷えとした恐怖の記憶である。

 

写真の青い建物が軍事停戦委員会の本会議場で、後方正面に見える北側の板門閣からは北朝鮮の兵士がしきりと双眼鏡でこちらを観察していた。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E9%96%80%E5%BA%97

 

上空から見るとここにある建物はこんな形をしている。青い建物の真ん中が軍事境界線とされている。
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国境はというと、南北双方の主張が食い違い、決めきれていない面がある。だからこの建物近辺を共同警備区域と呼称し、かつては双方が移動できたが、何度か深刻な事件が発生したため、今は南北の兵員が入り交じることは規制されている。非武装区域というのは、偶発的な衝突を避けるために国境線に沿って設けられた非武装の概ね幅2㎞の区域である。当然のことながら板門店はこの区域内にある。

 

幸いなことに長く続いているものの、現在はあくまで朝鮮戦争(19501953年)の「休戦」に過ぎない。したがって、板門店は紛れもなく戦争の最前線だ。

 

通常のルートとして板門店に行くには特定の橋を渡る必要があり、許可がない限り一般人が行けるのは橋の手前までだ。不用意な行動をしないように訪問者には事前にこまごまとした注意が与えられる。自己責任だという書類にサインし、許可証を胸にかけて橋を渡る時にはさすがに背筋が震える思いであった。なお、「帰らざる橋」というのはこの橋ではなく捕虜交換に使われた板門店の西側にある小さい橋である。

 

板門店には不思議なことに少数の一般の居住者がいる。昔から住んでいる人の既得権として認めていると聞いた。

 

同行した韓国人のかたが、帰り際に、橋の板門店側で警備をしていた米兵(正確には国連軍兵士)に「Have a nice day!」と声をかけ、米兵も屈託なく「You too!」などと返答していた。他愛もない定型の挨拶とはいえ、こんなところの職務ではどうやっても「nice day」は過ごせそうにはない。閑話休題。

 

スーダンでは、「displaced people」という言葉を多く耳にした。難民は「refugee」と表現されているが、これは通常には国境を越えた避難民を指し、内乱や飢餓などで郷里を追われ国内での避難を余儀なくされた人々はdisplaced peopleと呼ばれる。スーダンにおいて、特に南スーダンの独立前にはこの国内避難民が多くいたわけである。

 

UNHCR、すなわち国連難民高等弁務官事務所が管轄するのはrefugeeであり、displaced peopleは対象外である。そうでないとしても、とてもではないが手が回らない。displaced peopleに対しては国際NGOが支援しているが、国家規模、国連規模ではないので限界がある。

 

ここでその言葉に言及したのは、朝鮮半島でもしものことが起これば、夥しい数のdisplaced peopleを生じ、そして中朝国境や海を越えるrefugeeが発生することが確実だからである。アメリカ、中国、ロシアなどの大国が、北朝鮮への対応に苦慮し、韓国の政情不安定を苦々しく思うのは、少なくともひとつはこの点にある。

 

displaced peopleという言葉がピンとこなければ、福島の原発事故で避難せざるを得なかった人々を思い起こしてみればよい。日本も決して無縁ではないのである。そして、そう遠くない将来、強く関わらざるを得なくなることはほぼ間違いない。

 

板門店は、かつての同一民族が激しく敵対している中で、お互いが直接に接しうる唯一の貴重な場所である。そのつもりでこの場所での動向にも留意していかねばならない。このことは、決して他人事ではない。

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