2018年5月10日 (木)

西郷隆盛 その11 再度の島流し

以前の稿で記したように、3年にもわたる奄美大島での生活を経て、18623月(文久2212日)、いよいよ念願叶い、懐かしの薩摩城下に戻る。別れに際しては西郷も滂沱の涙を流し、以後も可能な支援はしたようだが、現地妻の愛加那と長男菊次郎、そしてまだお腹の中にいた子(のちの菊草)にとっては全く酷な話であった。

 

愛加那が西郷に会えたのはその後わずか2回だけである。そもそも名家の娘だったという愛加那は、西郷に引き取られた子供達と別れ、どのような思いで西郷の生きざまを見、その死を知り、どのような思いで生きたのだろうか。西南戦争から20年以上のちの1902年、愛加那は島で生涯を終える。享年66。官僚として、また京都市長として活躍した、西郷の面影を色濃く残していると思える菊次郎が支えだったのかも知れない。二人の画像はWikipediaから。
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西郷は島から戻って、国父と称され実権を有し、卒兵して東行を考えていた島津久光に拝謁する。この時に、久光に対して、“ジゴロ(地五郎)”(田舎者)だからいきなり京や江戸に行ってもうまくいかない、と言ったとか言わなかったかとの話がある。他の人に語ったのが伝わった、という話もある。嫡男であるため江戸生まれで江戸育ちの斉彬と違って、庶子の島津久光はそれまで薩摩から出たことがなかったわけで、多分西郷はそのように考えていたのであろう。かつて斉彬の命を受けて江戸と京を行き来していた自負もあったのかも知れない。

 

当然のごとく久光は相当に立腹したに違いない。隠遁しようと思っていたためか、西郷の態度も横柄だったらしい。ただ、スパッと辞するところは確かにあったにせよ、だいたいにして西郷の「隠遁」だとか「一命を賭して」という類の言葉はそのまま受け取らない方がいい。この時も一旦出仕を辞めたものの、説得にあって結局隠遁はしていない。

 

ともかく同行することになって、まず西郷が肥後の様子を伺うなどして先行し、下関で久光一行を待つという段取りであった。ところが、先着した下関で、久光の卒兵を幕府の武力打倒と誤解した薩摩藩士に不穏な動きがあるとの報せを聞き、大坂行きの船に飛び乗ってしまう。一封を書き残したと後の手紙には記しているが、大久保利通が握り潰したという話もある。実際、伏見で暴発をおさえたとも言われているが、ともあれ、ここは自制すべきところなのに、西郷にはこういう軽率さがある。そもそも久光は西郷を上洛に同行させるつもりはなく、下関から薩摩に返すつもりだったとも言われている。カンカンになった久光から命にそむいた「大咎め」として、1862522日(文久2410日)に大坂で捕縛され、今度は罪人として、まず徳之島、そして沖永良部島に島流しとなる。

 

島津久光がなぜ「御大策」として兵を率いて上洛、あるいは江戸に赴こうとしていたかだが、これは武力で幕府を打倒しようという意図では全くなかった。朝廷を奉り、公武合体を図るつもりで一橋慶喜を将軍後見職にし、福井の松平慶永を政治総裁職につけ、自らも江戸幕府への参政を意図したもので、斉彬も同様のことを考えていた。維新の原動力の一つは、対外政策で幕府が不甲斐なく見えることから芽生えた外様大名の幕政への参画意識である。

 

西郷のことを語っていると、島津久光がいかにも愚公のように感じられるが、決してそうではなく、この時も、薩摩と親しい近衛家の支持をとりつけて都合のいい勅を引き出し、公家の大原重徳(しげとみ)の護衛の大義名分で幕府の許諾を得た上で江戸に赴いている。なお、京では、薩摩藩出身者を含む過激派浪士が集結して公家や京都所司代の誅殺を計画していたことに対しては、朝廷の命を受け久光は断固たる処断を行っている。これがいわゆる寺田屋事件である。

 

久光がどこまで関与していたかはわからないが、藩主茂久の参勤猶予や久光の江戸参府の口実引き出しのために側近の堀仲左衛門や大久保利通が薩摩藩邸に意図的に火災を起こすなど、乱暴なことも含め、したたかに事前準備をしている。おそらく西郷はそういった背景は知らなかっただろう。こういう謀略的なことでは大久保利通には全く敵わない。

 

島津久光は企図した通りに慶喜と参勤交代緩和論者の松平慶永を推し上げ、長年続いた参勤交代の緩和を得ることに成功する。最も遠い距離を移動せねばならず莫大な出費を強いられる薩摩にとってこれは大きな福音になったはずだ。この時に懐刀とも言える小松帯刀も同行させている。イギリス人外交官のアーネスト・サトウはこの小松帯刀をして、最も印象に残る人物、と評している。知性と紳士的態度において、おそらく西郷は小松には適わない。だからあえて西郷を同行させる必要はなかったのである。何事につけ用意周到な大久保利通が必要と思ったのかも知れない。

 

井伊直弼亡きあとの幕府は“お人好し”的な感がある。後年、幕府は参勤交代の復旧を図るが、時既に遅し、その緩和は幕府の命取りの一つとなってしまった。江戸幕府は緻密な統治機構を発達させる一方、力の抬頭に対しては過酷とも言える抑制をかけていたわけで、その一つが参勤交代であった。島津久光は意図せずして幕府崩壊への痛打を浴びせたことになる。

 

意気ようようと江戸から引き上げる際に久光一行は横浜で大事件を起こしてしまう。行列の前を横切ったというイギリス人リチャードソンが殺害され他2人も負傷するといういわゆる生麦事件である。1862914日(文久2821日)のことであった。この事件で薩摩はあくまで開き直りを続け、幕府が尻ぬぐいをするはめとなるが、結局、薩英戦争の火種となっている。

 

さて、沖永良部島に流された西郷隆盛は罪人として狭い座敷牢に閉じ込められ、苛酷な環境で痩せ衰え、一時は生死のはざまをさまよったと言われている。上から指示があったのかも知れないが、ともかく地元にいた有力者に救われ、読書三昧の日々を送ることになる。

2018年4月27日 (金)

アートアクアリウム

旧知からどういうわけか十数年振りに連絡があり、それでは久しぶりにお会いしましょう、となった。それはいいのだが、「アートアクアリウムに行くので折角だから一緒しましょう」とお誘い。

 

「アートアクアリウムって何? コンピューターグラフィックか何かを使った仮想水族館?」と私。「いいえ、金魚のアート」。「き、きんぎょかい! 金魚には興味ないなぁ。。。」と私はいささか及び腰。そうはいっても、とにかく声かけしてくれたのでしぶしぶおつきあいしてみた。

 

そういういきさつではあったが、実際に見てみると、これがなかなかの大仕掛けでまさにアートの世界であった。ホームページで見てみると、かなりの人気らしい。

http://artaquarium.jp/

 

デンと構え趣向をこらした大きな水槽にまさに寿司づめの金魚達。ライトアップの色が変化し、なかなかの迫力だ。
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 色とりどりにライトアップされた小分けの水槽での展示もある。
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寿司づめにならぬ程度にほどよく金魚を入れた水槽もある。
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 頬っぺたが膨らんだ見たこともない金魚もいる。
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こちらは帽子をかぶった金魚。鯉だって高いのは何百万円もするのがいるらしいから、こちらもお金で買えば結構高いのかも知れない。
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和風なのか中華風なのかよく分からないが、そんな装飾に、墨絵風に黒い金魚のシルエットを活かしたものもある。下にあるのはタマテ箱をイメージしたものらしい。

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説明文を読むと、金魚のもとは鮒(フナ)で、その鮒は突然変異をきたしやすい性質を持ち、それを利用して何世代にもわたって根気強く品種改良をしながら育成してきたものらしい。鮒が元ネタだとは想像もつかないが、何もせずに飼っていると不思議なことに世代を継承するうちにいずれもとの地味な鮒に戻るそうだ。本家は中国だったが、かつて文化大革命で金持ちの嗜好品とみなされて廃絶の危機に頻し、日本から逆輸入したということもあったという。

 

そういえば、と思い出したのが金魚の飼育が趣味という変わり種の研修医。彼の話によれば、その飼育はなかなか大変で、手間暇がかかるとのこと。臨床研修センター事務局が飼っていた金魚の世話をこまめにしていた。

 

アートアクアリウムのような大規模な場合、アートにする以前に、その飼育管理はさぞ大変だろうと思う。複数の専門業者が関わっていて、必要な金魚を揃えるらしい。展示期間中の金魚の体調管理にも相当に気づかいするに違いない。その割に入場券は千円と割安で、金魚グッズも販売している。当初しぶっていた私が言うのも何だが、機会あらば是非にと皆様にお薦めしておきたい。

2018年4月20日 (金)

西郷隆盛 その10 島流し

185812月、西郷隆盛は月照との入水事件で蘇生したのち、死んだことにされ、菊池源吾と改名の上、18592月に奄美大島に流される。これはおそらくは薩摩の温情措置で、微禄を与えられての島送りである。

 

蘇生したのだから、よかったと言えばよかったわけだが、片方は亡くなっているわけで、入水というのは御法度的で武士としてはまことに不細工な失態である。しかも相方は幕府の追っ手が迫っている人であり、一橋慶喜擁立工作をしつつ反井伊直弼で義挙をも画策していた西郷自身も捕縛の可能性があり、当時のこととて、切腹を命じられても仕方のないところだ。

 

なぜ温情措置がとられたのだろうか。月照への負い目が薩摩にあったとしている書もある。島津斉彬の実父の島津斉興(なりおき)が斉彬なきあとの藩主茂久(もちひさ、後年の忠義)、の後見役として存命しており、彼の指示という話もある。斉興は江戸から帰薩の途中、大坂で西郷に会っており、禁裏の警護の名目で少し兵を残して欲しいといういささか意味不明の彼の懇願を受け入れているので、関係は悪くなかったようだ。なお、斉興は185910月に死去している。

 

『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(川道麟太郎 ちくま新書)には、江戸に向かっていた家老の新納駿河(にいろするが)が、家老首座の島津豊後に「秘密の取り計らいをして、変名の上、島送りにして、いずれその節、表向きは溺死の筋にしてはいかがか」と手紙に書いていることが紹介されている。おそらくその線で事実上のトップが判断したのであろう。

 

奄美大島というと、鹿児島空港からターボプロップ機で1時間程度、今に生きる我々はいかにも鹿児島のすぐ先のように思ってしまうが、実際は400㎞近く離れており、フェリーだと10時間以上を要する。かつてヘリコプターで鹿児島から種子島を経由して奄美方面に移動した経験では、屋久島を過ぎては高度の低いヘリだと前後に島が全く見えないところもあり、時速200㎞でも少々ウンザリする距離ではあった。その昔はこの海域で遭難も多かったのではないだろうか。温情措置と表現したが、移動は容易ではなく、実際のところ相当に厳しい措置だったとは思う。西郷が乗った船も潮待ちなどでかなりの日数を費やしている。

 

奄美大島は深い森林に覆われた随分と大きな島で、南東の海岸に面した切り立った崖からいくつもの滝が流れ出ていたことが印象に残っている。随分前のことにて委細は忘れたが、写真は奄美大島の一部だと思う。綺麗にかかった虹にあわててシャッターを切った。
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西郷が住んだのは奄美大島の北側の湾沿いにある龍郷というところである。上掲の書によれば、ここで同じ歳で知己の薩摩藩士重野安繹(しげのやすつぐ)と再会し、彼に、「まことに天下の人に対しても言い訳がつかない」と歯をかみ涙して語っていたという。重野安繹は知人の不祥事に連座して奄美大島に流されていたが、後年、その実証的な歴史研究が高く評価され、東京帝国大学教授に就いている。

 

西郷は当初は奄美大島の生活になじめず随分苦しんだものの、次第に慣れ、島妻(あんご)か島刀自(しまとじ)か、ともかく現地妻(愛加那として知られている)を娶り、菊次郎と、島を去ったあとに生まれた菊草の、一男一女をもうけている。命に未練のない人と語られることが多いし、本人も手紙でそのように書いているが、決してそうではなく、結構しぶとく生きた人ではないかと私は見ている。

 

島では、苛酷な生活を強いられている島民に同情を寄せ、代官と衝突することもあったようだ。奄美の地で、親しくしていた橋本佐内が処刑されたことに涙し、井伊直弼暗殺、しかも有村次左衛門が首級を挙げたとの報を聞き、歓喜したという。

 

届く便りなどでまた血が騒ぎ、帰還を切に待ち望んでいた様子がある一方、島での生活を愛しんでいたようにも思える。186112月に召還の報せが届いた時には、丁度新居で生活を始めようとしていた矢先のことで、嬉しさの反面、当時においては帰還時の島妻の同伴は御法度で、複雑な胸中であっただろう。結果的か意図的か、あるいは性癖なのかはわからないが、青年期以降の西郷隆盛の活動には、引っ込んだり表に出たりと、なにがしか周期性があるように思える。

 

西郷の召還は大久保利通らが島津久光に請願し、かつて斉彬のもとで主席家老を務めていた島津下総(しもうさ)の力添えによったもののようだ。そして18621月に帰還する。ほぼ3年間奄美大島で過ごしたことになる。すぐに斉彬、そして有村次左衛門に墓参したと言われている。また、大久保利通とともに、家老の小松帯刀を訪れている。これは藩主の後見役として事実上実権を擁していた島津久光への謁見の下準備だったらしいが、折角の段取りなのに、その本番でまた失態をやらかす。西郷隆盛という人は決してスマートな生き方をした人ではない。軽率なところもあり、短期間で、今度は罪人扱いでさらに遠い徳之島、沖永良部島に流されるはめとなる。

2018年4月12日 (木)

西郷隆盛 その9 僧月照との入水事件

一橋慶喜擁立派の粛清、反幕府尊皇攘夷派の捕縛など、「安政の大獄」の幕府の情報網の中で、西郷が親しく交流していた勤王僧月照の名前があがり、追っ手が迫る。島津斉彬の命を受け僧月照らと慶喜擁立を図った西郷自身も危うかったわけだが、ともかく京都にいては危ないと、僧月照を薩摩に逃がしてかくまうことを画策する。
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ここで整理しておくと、井伊直弼が大老に就いたのが、185864日、日米修好通商条約が調印されたのが同年729日、一橋慶喜擁立派の処分など「安政の大獄」が始まったのが同年813日、徳川家定が亡くなったのが同年814日である。この頃はどの年もそうだったように、安政5年も激動であった。

 

島津斉彬が鹿児島で急死したのが1858824日だ。朝廷の護衛の大義名分で大軍を率いて上洛しようとしていた矢先のことで、西郷はその準備のために京都に滞在していた。心酔していた斉彬の死に西郷は落胆し殉死しようとしたのを月照に諫められたという。

 

井伊直弼の指示で酒井忠義が京都所司代として着任し、志士の捕縛が始まったのが同年10月頃からで、1013日にはのちに獄死する梅田雲浜が捕縛される。月照が京から逃れるのが同年1016日である。まさに間一髪の逃避行であった。橋本左内や吉田松陰が捕らえられて処刑されるのは翌1859年の末頃だ。井伊直弼が暗殺されたのが1860324日で、それにより安政の大獄が収束する。

 

試験を受けるわけではないので覚える必要はないが、短期に色々なことが相前後して起こっているので、順を追うためには日付が必要となる。ところが、歴史書は旧暦表記だったり西暦表記だったりで、非常にわかりにくい。Wikipediaは概して併記されているが、そうでないこともある。以前にも書いたように、西暦、すなわち太陽暦になったのは明治6年なので、それ以前の日記などの一次資料の日付は元号の旧暦である。

 

このブログでは、できるかぎり西暦におきかえて記すようにしているが、間違いを書かないかとヒヤヒヤする。幕末は、安政、万延、文久、慶応と続くわけだが、元号表記は原資料に忠実だとしても、旧暦と西暦の月日のズレ、しかもそれは一定ではなく、時には年のズレを変換しなければならないので、混在はまずく、西暦で統一して考えた方がいいと思う。なお、安政5年は概ね1858年である。

 

さて月照だが、下関まで西郷が同行し、受け入れ準備のために西郷は先行して帰薩する。その後は「わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」の歌で有名な福岡の尊皇攘夷の過激志士である平野国臣が同行して苦労の末にようやく18581211日に月照を薩摩入りさせる。

 

しかし、斉彬なき後の薩摩は手配中の人物を匿って幕府とことを構える肚はなく、西郷の奔走も空しく、月照の隠匿を拒否し、月照を宮崎方面に送って事実上殺害する命を西郷に下す。苦悩した西郷は、18581220日、宮崎に向かう船から月照とともに竜ヶ水沖合の錦江湾に身を投げ、入水自殺を図る。同船していた平野国臣が救助にあたったが、月照は亡くなり西郷は蘇生する。

 

なんだかできすぎた話のようにも思えるが、私が見た範囲のどの書にも大同小異のことが記されている。西郷が冬の海で低体温症になっていたとしたら月照より15歳若い彼が復温によって蘇生したことは医学的に十分にあり得る。しかし、なぜ西郷はそこまでしなければならなかったのだろうか。意を同じくして親しく交流していたというだけでこんなことをしていたのでは、あの時代、命がいくつあっても足らない。

 

確たる解が私にあるわけではないが、多分そうだろう、というのが『月照』(友松圓諦 吉川弘文館)に記されている。それは、朝廷にあって事実上の最高位である左大臣の近衛忠熈からそのことでわざわざ呼び出しを受け、月照の庇護を西郷が依頼されたということだ。近衛忠熈だけでなく今上陛下の母方の曽祖父にあたる青蓮院宮(のちの中川宮)にとっても月照は大切な人だったようだ。

 

近衛忠熈の正室は薩摩藩主の島津斉宣(なりのぶ)の娘の郁姫。島津斉宣の長男が斉興(なりおき)で、斉興の長男で郁姫の甥にあたるのがかの島津斉彬(なりあきら)である。斉彬の養女篤姫の徳川家定へのお輿入れの際は、形の上で近衛忠熈の養女になっている。つまり、斉彬急死からあまり間がない時期に、斉彬自身も大恩ある彼の義理の叔父近衛忠熈から月照の保護を直々に頼まれたのである。

 

これでは月照を殺害し自らは生き残るということができようはずがない。もちろん僧職の斬殺は西郷にとって論外である。入水事件はまさに困極まってのことであったのだろう。以後、西郷の手紙には「土中の死骨」という自虐が出てくるので、 終生にわたって“死に損ない”がつきまとっていたようだ。

 

なお、月照は大阪の医家の子息として今の善通寺市に生まれたという。出家し若くして京都の清水寺の僧坊である成就院の住職となっている。歴史のある寺とはいえ、当時の清水寺はかなり荒れていて、改革を試みたものの、うまくいかず挫折している。『月照』の著者の友松圓諦師は、仏教の堕落を正そうとした僧職としても歌人としても、国を思う心でも、月照を高く評価している。

 

月照の弟信海は成就院を継いでいたものの、翌年の1859年に捕縛され獄死している。月照に仕えた近藤正慎は捕らえられ拷問を受けても一切白状せず、獄中で舌をかみ切り壁に頭を打ちつけて亡くなったという。遺族への清水寺の配慮で営業権が与えられ、「舌切茶屋」として今も営業している。近藤正慎は俳優の近藤正臣さんの曽祖父にあたるそうだ。月照に仕えその死後も長く供養した大槻重助の「忠僕茶屋」は今に続いている。ひどい時代にあって心温まる話である。

2018年4月 4日 (水)

桜吹雪

今年は少し早かったのだろうか、満開だった桜が散り始めた。桜並木を通るとピンクの小さな花びらがひらひらと舞い落ちてくる。絢爛たる満開の桜も、風靡なる桜吹雪も、一年のうちほんのわずかな期間というのが桜を桜たらしめている。
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「サクラサク」「サクラチル」というのはいささか古典的な合否電報の決まり言葉だったが、今はどうなっているのだろう。すっかりメールに置き換わっているのかも知れない。

 

50年近く前のこと、受験会場の下見に行った際、合否電報請負の小遣い稼ぎの大学生が客引きをしていた。「君は県外?」と私も声をかけられ、「そうです」と答え、「なら僕が責任をもって報せてあげるから、どう?」と。そこで、「でも、ケンガイはケンガイでも、合格“圏外”なんです」と応じたら、それまで緊張の面持ちだった周囲の受験生の空気がほぐれて大爆笑。その大学生に「君は合格する!」と妙な褒められかたをされたのを懐かしく思い出す。

 

桜吹雪と言えば、テレビの大人気ドラマだった「遠山の金さん」の代名詞のような感もある。派手な桜の彫り物を曝して、「この桜吹雪、散らせるものなら散らしてみろぃ!」と啖呵を切っての立ち回りは確かに痛快だ。実はこの人お奉行様。
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ただ、これでは今の時代、サウナにも行けないしゴルフ場の風呂にも入れない。それに、散るからこそ桜吹雪なのだけど、とチャチャのひとつも入れたくなる。とはいえ、筋書きが分かっているからこそ安心して観ることができるというのがひとつの持ち味で、あれこれ言うのはヤボというものだろう。今はもう再放送だけになったようで、いささか寂しくはある。

 

テレビは脚色としても、金さんこと、遠山金四郎景元は実在の人物で(1793-1855)、父親は人気ポストであった長崎奉行を務めた遠山景晋(かげみち)。景元は放蕩の時期があったようだが、勘定奉行、北町奉行、南町奉行などを歴任しているわけだから、今で言うエリート家系のキャリア官僚、それも次官か局長クラス、もっと上かも知れない。武家の間でも江戸時代はこういう家格、門閥によって縛られる身分社会だったわけだ。ただし、遠山家は旗本とはいえ、さほどの家格ではなかったようだし、こと勘定奉行に関しては、例外を多く出している。

 

ちなみに、この時の将軍が徳川家慶(いえよし)で、優れ者の阿部正弘を老中に就け、島津斉彬の藩主就任を図ったようだ。父親は徳川家斉で、将軍職から引退してよりも強い発言権を保持していたらしい。徳川家慶の代までは将軍職はほどよく機能していたわけだが、その家慶の嫡男である家定が全く適任でなかったことに江戸幕府の大きなつまづきのひとつがあった。家慶が将軍在位のまま亡くなったのは1853727日で、ペリー来航から1ヶ月も経っていない時であった。継嗣は家定である。阿部正弘は185786日に30代の若さで急死する。これも江戸幕府には痛手だったと思われる。

 

将軍は大体にして将軍家すなわち尾張徳川家から出る。後継のない場合は、紀州徳川家、水戸徳川家から養子を迎える。これが徳川御三家である。御三卿は、徳川家から分家した田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家で、決まった領地を支配する大名というよりも徳川家の家族としての扱いだったようで、世継ぎがない場合に御三家に養子を提供する役割も担ったという。わざわざ養子にするのは、門閥の大義名分を重視したからである。結果、原則的であろうとして変則的になった面もある。

 

将軍継嗣が、誰が賢いから、という抽象的な話になってしまうと、必ず跡目争いで揉めてしまう。だから、あくまで血筋が近い大義名分の通る者というのが原則である。以前に触れた王の継承に似ている。江戸時代には憲法も“将軍典範”もないから、多分に慣行でなされてきたようだ。およそ任に堪えそうもない家定が将軍になったのもその原則にのっとったからである。井伊直弼が家定の継嗣として聡明でなる一橋慶喜ではなく若年の慶福(家茂)としたのも同様である。

 

オーナー企業の社長人事などもそうだが、血縁主義が続くと必ずどこかで弱体化が起こる。江戸幕府がそれで長く続いたのは奇跡に思えるが、むしろ、もはや徳川吉宗のようなカリスマ将軍を必要としないほどに統治機構が発達していたと見るべきだろう。それでも、外国のノックで朝廷との二重構造の脆弱性が曝け出されたわけだ。

 

それはさておき、西郷隆盛が初めて江戸に赴いたのは1854年なので、前年のペリー来航による大騒ぎ、そしてペリーが再来しての日米和親条約締結の頃であった。まさか知己ではあるまいが、出家していた晩年の遠山の金さんと江戸で一緒だったことになる。

2018年3月29日 (木)

プロとアマ

プロとアマについて時にあれこれ考えてみることがある。手っ取り早いところでWikipediaを見るとプロについて下記のようになっている。

1.「認定プロ」のこと。統括する団体が認定した人。

プロゴルファーやプロボクサーなど。多くの団体

では賞金支給の対象になる。

2.専門家のこと。ある分野について、専門的知識・技

術を有している人。

3.そのことに対して厳しい姿勢で臨み、かつ、第三者が

それを認める行為を実行している人。

4.複数のグレードがある場合、高機能、高耐久性として

上位バージョンや装飾を廃した下位バージョンとしてつ

けられる。

 

なるほど、そういうことか、と思う。4.は機械類やソフトのことだろうか。

 

プロとアマの差が歴然としているものとして将棋と相撲がよくあげられる。

 

藤井聡太さんのように、将棋において、中学生、若干15歳がまさしくプロの高段者を打ち負かすというのはにわかには信じ難いが、疑いようもなく事実としてある。一般的には、棋院認定のプロ棋士になるだけでも半端ではなく狭き門らしい。プロになったとしてもそこから厳しい闘いを勝ち抜いていかなければトッププロにはなれない。藤井聡太さんはそういうのを超越して瞬間移動したみたいだ。

 

相撲も、アマの横綱だった人が入門してすぐに横綱になったという話は聞かないので、相当に差はあるのだろう。殴る蹴るがなく、また、血生臭さもなく、絵になり勝負がわかりやすいだけに取り組みを楽しみにしているシニアは多い。何がどうあったか私にはわからないが、ゴタゴタを早くすっきりさせて欲しいものだ。

 

ゴルフをしない人はピンとこないかも知れない。テレビのプロのトーナメントで、460ヤードのミドルホールでティーショットをスプーンで打ちセカンドは9番アイアンでベタピンにつけてバーディー、というのに驚く。こういうのはヘボには想像すらできない全く別次元の世界だ。アベレージゴルファーではまぐれにも絶対にない。彼我の差のはてなきを思い知る。
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本の世界では、「文筆だけで生活していける」というのがプロとアマの境界線だろうけれども、書物の印税だけで生活できる人というのはほんのひと握りだ。印税は概して本代の1割程度なので、11000円の本が仮に1万冊売れたとして印税は100万円ぐらい。大きな額に思えるが年収としてみればさほどのことはない。売れっ子作家でなければ1回目の印刷は3000部程度で、多くはそれで終わる。何十万部も売れるというのは夢のまた夢である。たとえそうなったとしても、税金を取られるし、継続しなければ生活のあてにはできない。『作家の収支』(森博嗣 幻冬舎)という書があって、著者は工学部助教授から小説家になったとのことだが、それぞれそれなりに売れて、280冊ぐらい出したと紹介している。作家でリッチになるにはアイデアだけでなくそのぐらいの数は必要なのだろう。

 

歴史書は研究者の学績のひとつとして書かれることが多い。疑問がなくもないが、まあプロの作品と言っていいだろう。助教や大学院生は論文が主で本を出す機会はなかなか得られない。これは推測だが、記事によっては非常に詳しかったりして玉石混交なのでWikipediaは結構そういう立場の人が書いているのではないかと思う。

 

西郷隆盛というメジャーの研究では新資料や新解釈はなかなか出せない。若手研究者はいきおいマイナーな人を対象にして原典から詳細にあたって研究結果を論文にする。幕末・維新は複雑なため、全てを深く掘り下げるのは不可能で、一般人向けに時代の全容を語るということはあまり得意ではなくなる。その意味でのプロはなかなか出ない。その分、視点を異にしたものが多くなり、これはこれで私には有難い。

 

司馬遼太郎や海音寺潮五郎、『西郷どん』の林真理子さんなどのプロの小説家は、膨大な資料を渉猟して事実を掴み、そして事実と事実の間のわからないところは創作でつないで都合よくストーリーを組み立てる。だから面白くはあるが、海音寺潮五郎は郷土研究者の面があるとしても、あくまで小説なのだからそのまま事実として受け止めぬよう注意せねばならない。もっとも、大河ドラマは篤実な研究者で“薩摩”の原口泉さんが時代考証をやっているので、大筋での嘘はないだろう。勝海舟は小柄だったが、大男の遠藤憲一さんが演じるようで、これはテレビならではの愛嬌か。迫力はありそうだ。

 

西郷隆盛は、手紙などを収載した全集もあり、大久保利通日記などの資料が製本発刊されており、原典というか一次資料にあたりやすく、研究書も多くある。公文書館などで苦労してマイクロフィルムのくずし文字を解読していく必要はない。親しみのある超有名人で、しかも謎が多いので、学績を重ねる必要のないアマチュアは取りつきやすい。だからとてもアマとは思えないぐらいに詳しく調べてよくまとめられた書もある。内容的にプロとアマの線引きは難しい。

 

西郷隆盛という人は、世間のイメージと違って決して戦争のプロではない、陰謀策謀のプロでもない、政策論のプロとも言い難い。しかし、明治4年から6年にかけて日本近代化の礎を作ったプロのリーダーだと思う。何とも不思議な人だ。

2018年3月21日 (水)

西郷隆盛 その8 安政の大獄

「安政の大獄」は、勅許なしに米修好通商条約を締結(1858729日)した責任者である井伊直弼が、1858年から1859年にかけて、それに反発する志士達を片端から捕らえ、処刑などの厳罰を下した事件である。条約締結の優れた実務者であった岩瀬忠震を罷免し井上清直を左遷しているので、正常な精神状態だったのか疑問に思えるほどだ。

 

この事件にはもう一つの面があって、それは将軍継承(継嗣)問題である。将軍家定には実子がいなかったため、井伊直弼は徳川御三家から将軍家定と血縁の近い紀州徳川家のまだ幼年の慶福を推したが、英明の誉れ高い一橋慶喜を推す勢力もあり、その闘争に勝利した井伊直弼が、一橋慶喜を推した勢力に対して粛清したことである。水戸の徳川斉昭や福井の松平春嶽などの大物大名まで処罰している。島津斉彬への処罰も考えてはいたらしいが、さすがに周囲から諫められたようだ。

 

正室を迎えるなど、一橋家と縁の深い島津斉彬は軍事も辞さずの覚悟で一橋慶喜を推す。斉彬は朝廷を通じて「慶喜擁立に有利な勅語」を得ることで慶喜擁立を図ろうとして西郷隆盛に指示し、彼もそれに従って篤姫を通じて大奥の支持を取り付け、朝廷と親しい僧月照と相談を重ねている。ようやくにして得た勅語は、井伊直弼により慶福(家茂)擁立に都合のいいように改竄されたという。その辺りのことは、近刊の『命もいらず名もいらず 西郷隆盛』(北康利 WAC)でわかりやすく解説されている。

 

そんな最中、鹿児島に滞在していた斉彬が1858824日に急死する。これは西郷隆盛にとって大きな衝撃であった。

 

幕末、といっても、これも明らかに後付けの言葉であり、「幕府は危ないのではないか」「徳川を倒さねば」と思った人は多かったろうが、当時に“幕末”と表現した人がいるはずはない。現代に生きる我々は結果を知って歴史を見るので平気でこういう言葉が使えるが、騒乱の真っただ中にいた人は、結果などわからない。反幕の人達も徳川幕府擁護の人達も、信条や忠義に基づいた“命を賭けた闘い”だった。井伊直弼もまた幕府の存続のためにそれをした人である。しかも彼自身は強い尊皇精神を有していた。だからギリギリまで勅許にこだわったのである。

 

結果的に倒幕になったのは最後の最後であって、徳川家をどうするか、外様大名をどこまで参画させるか、などの内容の異同はともかく、反幕府の人達にほぼ共通してあったのは「天皇を中心としての幕政改革」である。攘夷も、あくまで幕府が(も)攘夷をすべきという論だが、反幕府でも内心が攘夷だったわけではない人もいる。いくら尊皇でも、朝廷が政務を担え攘夷もできると思っていた人はまずいない。この点は誤解しやすいので注意が必要である。

 

今の時代から見て、「この人は優れていたのではないか」と思えるような人が殺されたり、自死に追いやられたり、日の目を見ることがないままに終わったりというのは枚挙にいとまがない。「安政の大獄」もそういう人材を多く失った、あるいは貶められた事件である。僧月照の命も狙われ、かくまおうとした西郷も危うくなる。次稿で触れる。

 

井伊直弼自身もまた、1860324日、桜田門外で水戸浪士、薩摩を脱藩して彼らに加わった有村次左衛門らの襲撃により、時期外れの降り積む雪を真紅に染めて自らの命を落とす。
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 井伊直弼の死によって「安政の大獄」は収束したものの、国内はさらなる大混乱に陥っていく。テロも頻発し、これはもう“グチャグチャ”としか表現しようがないような事態だ。一筋縄では理解できない、というよりも、どうみても一筋縄からはほど遠い。孝明天皇からして、幕府依存というか、親幕府でありながら、強硬な攘夷というのだから、矛盾している。開国を進めながら攘夷を約束するという幕府の苦し紛れの二枚舌を誘発したようなものだ。攘夷を主張しながら生き残った人達は新政府発足までのどこかで開国を受け入れているはずだ。朝廷も分裂している。グチャグチャと切り捨ててしまえば思考停止に陥るので、私でときほぐせるところは先で書いていく。

 

西郷隆盛はというと、動乱からしばし離れた生活を送っている。まず“死に損ない”の身で1859年から奄美大島送りになり、赦されて1862年に2ヶ月ばかり帰還したものの、島津久光の怒りをかい、まず徳之島、そして沖永良部島に遠島になり、1864年まで通算5年にもわたって離島生活をしていたからである。

 

そんな人がなぜ維新の英傑とされ、今なお敬慕されているのか、そういう謎解きで歴史を見ていくのも面白さのひとつである。

2018年3月13日 (火)

西郷隆盛 その7 孝明天皇

311日夜、NHK大河ドラマの『西郷どん』を初めて少し長くみた。ネタ元にしているわけではないが、ブームに便乗した気になってブログを書いているので、時には見ないと申し訳ない気もする。

 

この回の主役は篤姫で、島津斉彬の養女ながら実子として届けられ、形の上では薩摩と親しい公家近衛忠熈の養女として第13代将軍徳川家定(1824-1858)の継室(後妻で正室)となる。血筋から将軍になったものの、謁見した外交官の表現からは、家定は今でいうADHD(注意欠如多動性障害)に似た症状を呈している。天下泰平であれば老中などの幕閣による政務で問題なかったろうが、1853年、黒船来航直後に将軍の座についたわけで、朝廷との関係もあり、まさにトップの強力なリーダーシップが必要とされた時代であった。結局は実子のないまま34歳で亡くなり、その後継問題は井伊直弼による「安政の大獄」につながる大事件となっている。

 

ドラマでは、篤姫が海を見て鹿児島を懐かしむという場面があった。そういうのは史実調査からは出てこないので事実かどうかはわからないが、大規模な埋め立てがなされていない時代、江戸の薩摩藩邸は海に近く、いかにもありそうな話だ。脚本家の腕の見せ所だろう。

 

ちなみに、孝明天皇の異母妹の和宮は、幕府の攘夷実行を条件に、家定の次の第14代将軍徳川家茂(いえもち 1846-1866)に嫁いでいる。血筋が近い慶福(よしとみ のちの家茂)か、聡明でなる一橋慶喜か、の大騒動のあげくに、結局12歳かそこらの慶福が将軍となり、家茂と改名する。ところが、その家茂も20歳で亡くなった。将軍自体は2代続けて機能不全だったことになる。篤姫も和宮も若くして寡婦となったが、篤姫は家定亡きあとも薩摩には戻らず、天璋院として徳川家のために尽くしている。

 

さて、江戸期最後の天皇である孝明天皇は紛れもなく頑迷な攘夷主義者であった。といっても、1831年生まれなので、1846年に践祚、1847年に即位の礼を行なった当時にあっても、16歳ぐらいであり、少なくとも当初においては深い意味での攘夷だったわけではなく、「自分の代でこの神国日本が外国に汚されるのは認められない」という、いわば非常に単純な思いだったようだ。それでも、朝廷において長年関白を務め当初は開国主義であった鷹司政通の説得も効をなさなかったという。

 

「外国船を打ち払っておかなければ、彼らが海から京都に攻め上ってくる」というまことしやかな脅しの話も朝廷にはあったようで、恐れを抱いていたのかも知れない。ところが、この孝明天皇の「攘夷」が幕末のさらなる大混乱を引き起こす。

 

外国船など迷惑この上ないわけで、江戸幕府もできるものなら打ち払いたかった。でも、それはできない相談だというのがよく分かっていたのである。1825年に「外国船打ち払い令」を出し、それが効なしと悟ると、懐柔策として1842年に「薪水給与令」を出した。「困れば必要な支援はするからそうそうに引き取って下さい」としたわけだ。出没する外国船に右往左往させられたものの、武力衝突も起こしており、決して何もしなかったわけではない。

 

琉球を経由して黒船のペリーが来航したのが1853年である。威風堂々とした上から目線で「来年また来る」と予告したペリーに、「いよいよ逃れられなくなった」と幕府はさぞ怖れをなしたことだろう。
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「攘夷は無理な話で、開国は避けられない」として、1854年、幕府はついに日米和親条約締結に踏み切る。さらには勅許を得ることができないまま1857年に日米修好通商条約を締結し、ついでイギリス、フランスなどとも条約を締結していく。以後は猛烈な勢いで西洋文明の導入に努め、使節団を海外に派遣し、お雇い外国人をも多く擁するようになっている。外国も領事館をおき外交官が滞在した。幕府もアメリカの担保を取り複数国を相手にすることで一国による植民地化を防いだようなところがある。

 

ところが、京都に近い兵庫の開港が1863年に約束されるなど、相当に踏み込んだ内容の日米修好通商条約は孝明天皇の激に触れ、あくまで勅許を拒否し、反幕派の人たちにとって絶好の幕府攻撃の口実となっていった。天皇という存在は大きく、基本的には親幕府であった孝明天皇の思惑をはるかに越えて幕府の政体への強烈なカウンターパンチとなる。

 

光格天皇が口火を切った朝廷の復権、孝明天皇の攘夷に関する強硬姿勢、将軍のリーダーシップなき弱体化の幕府、が相乗的に作用したと言えるだろう。「安政の大獄」にも次期将軍を巡る勅語がからんでおり、幕府の弱体化のこともあわせ、稿を改める。

2018年3月 5日 (月)

宇宙の話はどこにいった

江戸時代も、明治維新も、さらには西郷隆盛もよしとして、あれだけ好きだった宇宙の話はどこに行ったのか?と尋ねられそうだ。いや、尋ねられないかも知れないが、勝手に書いている。

 

実は、宇宙も変わらず強い興味の対象である。ただ、目につく一般向けの書はかなり目を通し、私にはもう書けるようなことがなくなってしまったということがある。それに、難解な数学の壁は今さらいかんともし難い。超ミクロの素粒子の話も、高次元だと言われる超マクロの宇宙も、どうも物理学者ですらイメージでとらえることができず、数式で何とか納得を得ているようなのだ。

 

そうであれば一般人にわかるはずがない。私はと言えば、「狐が種を蒔く」とか、「盗人が盗んだ反物を山分けする」とかの、遊び心満載の江戸数学ですらまともに解けない。

 

比較的最近には『時空のからくり-時間と空間はなぜ「一体不可分」なのか-』(山田克哉 講談社)を読んだ。できるだけ親しみを持ってもらいたいという著者の配慮だろうか、落語よろしく八っつあんと熊さんの時空を巡っての対話も折り込まれている。二人の対話はべらんめえ口調というだけで、テンソルがどうのこうのと随分と難しい。長屋のお二人はこんなにインテリだったのか。

 

時間と空間は不可分の関係にあり、一体として時空と呼び、質量によって曲げられる、という。山田克哉さんの本のいいところは、「なぜ質量が空間を曲げるのか」はわかっていない、という率直な語りにある。

 

質量が空間を曲げるというのはかのアインシュタインが予測したことだが、イギリスの天文物理学者のアーサー・エディントン(1882-1944)は、日食を利用し、太陽をかすめて見える星が見かけ上で本来の位置から少しずれる、つまり太陽の質量で光が曲げられる、ということを明らかにした。この観測実験もアインシュタインが示唆したものだ。アーサー・エディントンは、ブラックホールを理論的に予測したインド生まれの若き天才物理学者チャンドラセカール(1910-1995)を罵倒して潰したことでも有名になっている。エディントンとチャンドラセカールの写真はWikipediaから。

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チャンドラセカールの正しさはのちに認められ、はるか後になってノーベル賞を受け、アメリカの衛星にも名前が刻まれた。なお、光が曲がるわけではなく、光としては直進しているのだが、空間が曲がっているため、曲がりに沿って“直進”するわけだ。わかったようなわからないような話ではある。ともあれ、数式が出るわけではないので、科学史は非常に面白く読める。

 

さて、山田克哉さんはアメリカ在住の物理学者で、『原子爆弾』(講談社)という名著がある。アメリカがマンハッタン計画としていかに困難を克服してこのおぞましい兵器を作ったか、ということを解説した書である。1945年にウラン型とプルトニウム型が人体実験的に日本に投下され、広島と長崎で瞬時に何万人にも及ぶおびただしい死者を出している。そのアレルギーから、日本では核爆弾について語ることすら憚られるような風潮があるが、冷静に、事実として、この兵器製造過程について知っておく意義はある、という趣旨の書である。

 

最近では『E=mc2のからくり-エネルギーと質量はなぜ「等しい」のか-』(山田克哉 講談社)が発刊され、枕元に積んでいる。山田氏の書だけではなく、『宇宙に「終わり」はあるのか』(吉田伸夫 講談社)も昨年末に読んだ。もちろん理解はできず、頭がおかしくなりそうなスケールの話だが、なぜか楽しい。写真はハッブル宇宙望遠鏡がとらえた、はるかかなたのはるか昔の宇宙の姿の一片で、これらは全て銀河で、しかもそれぞれは想像すらできない途方もない大きさだ。

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チリのアタカマ高地に多く設置されている壮大なアルマ望遠鏡の成果がそろそろ出てくる頃だ。平昌の冬季オリンピックでの日本人選手の活躍も嬉しい限りだったが、このアルマ望遠鏡にも日本は深く関わっている。何かわかりやすく驚くような結果が出て欲しいと、こちらも応援している。平昌も寒さと強風で大変だったようだが、日本から遠く、人里離れたところでの研究もさぞ大変だろう。頑張って新しい宇宙の姿を見せて欲しいものだ。

 

こういうのを読んでいるとボケ防止にはなるかも知れない。いや、わからないとボケを促進させてしまうか、既にボケているからわかりもしないのを読んでいるだけか、それは何とも言えない。だが、江戸時代と並行させている限りは、多分、ボケではないと自分では思っている。

2018年2月25日 (日)

西郷隆盛 その6 天皇に関する横道にそれた論考

光格天皇は生前退位をしており、継いで天皇になったのは第4子の仁孝天皇(1800-1846 在位1817-1846)である。仁孝天皇は歴史を作った親と子の間にあって影が薄い印象だが、光格天皇が腐心した朝廷の教育機関を学習所として創設(復活)することに尽力し武家伝奏(朝廷と幕府との橋渡し役)を通じて幕府の許可を得ている。この事業は孝明天皇に引き継がれ学習院として創設された。名前からわかるように、これは今の学習院大学の前身で、正式には明治10年に学習院大学として発足している。

 

仁孝天皇の第4子が、江戸時代最後の天皇である孝明天皇(1831-1867 在位1846 -1867)だ。画像はWikipediaから。
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こういうことを書いていると、「あなたは天皇家オタクなのか」と言われそうだが、それは全くそうではない。Wikipediaや複数の書を参照しながら私なりに咀嚼して書いているだけで、そもそもこの方面の知識など微々たるものだ。だが、明治維新を語る上で、天皇の存在は避けて通れないのである。もしかして、それを意外に思う人もいるかも知れない。

 

なぜあまり語られなかったかというと、明治維新以降、戦前、つまり1945年に至るまで、天皇は神聖視、いわゆる「神聖ニシテ侵スベカラズ」とされており、語ること自体が“畏れ多い”ことで、タブー視されてきたということがあげられる。不敬罪もあったし、刑罰としては死刑しかなかった大逆罪というとんでもない刑法もあった。

 

戦後、つまり1945年以降はというと、反動からか、いわゆるマルクス主義歴史学者なる人達が席捲し、ブルジョア革命だのプロレタリア革命など、彼ら独自の歴史観を構築している。その際、明治期の天皇絶対制を強調するあまり江戸期の天皇は論考の枠外になりがちで、結果、その果たした役割を閑却してきたということもあげられるであろう。比較的最近になって、1980年代ぐらいから、ようやく自由闊達な論が展開されるようになってきたように思われる。

 

ここでちょっと触れておくと、私自身は、一国民として、今上陛下を国の象徴として敬い、日本は紛れもなく立憲君主国家であり、天皇は政治に関わらない儀礼君主だと断じて憚らない、という立場だ。“日本独自”にこだわる人はどうか知らないが、世界的に見れば間違いなくそうである。英語で書けば、Constitutional Monarchyだ。

 

君主制での君主の権力や富はさまざまだが、そもそもの憲法の起こりは、継承を明確にし、君主(王)にどういう制約を課すか、ということにある。現在の日本の場合は、天皇は政治には関わらない、従って政治責任も負わない、ということで明確だ。江戸時代の朝廷が似ているというのは以前に書いた。

 

今のフランスやドイツ、アメリカは、王、いわゆる君主を持たない共和制である。イギリスは明文憲法を持たない君主制である。これらの国を対比させると非常に面白い。

 

フランスは王がいたが、革命で殺してしまった。その後一時期ナポレオンの独裁などを経て、現在の共和制に至っている。アメリカは先住民族を移民が淘汰したという国の成り立ちからしてそもそも王が出現する余地はなく、独立戦争(1775-1783)で君主国イギリスの支配を拒否している。イギリスはというと、いわゆるピューリタン革命で1649年に王を処刑したものの、結果、クロムウェルの独裁につながり、王政を廃したからといって国の運営は決してうまくいかないと悟り、短期で王を復活させたといういきさつがある。

 

海を隔てたお隣の李氏朝鮮は君主制で、明治維新の頃に実権を持っていたのが高宗の実父の興宣大院君(こうせんだいいんくん)で、頑として明治新政府を認めず在留日本人に危害を加え排斥しようとした。これが西郷隆盛自ら礼節を尽くして朝鮮に赴いて話をまとめようとしたゆえんである。後年、朝鮮の君主制を潰したのは日本だ。

 

さて、立憲君主制度の意義を明快に論じた人として、イギリスの思想家、エドマンド・バーク(1729-1797)があげられる。私の理解においては、王というのは人為的におかれたものではなく、自然発生的に長く継承されたもので、その尊重は国家としてのまとまりに大きな意義があり、国民は王個人というよりも、王がまとう荘厳な法衣に服従するというものだ。王は国民のしもべでもあるとのべている。

 

難しい話はさておいても、世界どんなところにも王がいたし、今も続いている国が多い。人間社会の習性がそうなっていると素直に受け止めていいのではないだろうか。

 

どういう体制を取るかというのはその国の人々が決めることだが、立憲君主制というのは決してゆえなき制度ではないのである。日本は立憲君主国として今は安定しているが、将来を考えるとすれば、それは血統主義で規定される皇位継承権のある範囲の人々、すなわち皇族の人権問題であろう。公務としての国事行為や天皇家の行事が多くあり、品格の維持という不文律の義務がある一方、国民が普遍的に有する自由や権利が制限されているからである。

 

話が横道にそれ過ぎてしまった。次回は孝明天皇に戻す。

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